三鏡解説256 霊止と人間

Published / by 飯塚弘明
投稿:2022年08月30日

●月鏡「霊止と人間」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg256

人は霊止(ひと)であって、天地経綸の司宰者であるが、人間は天地の経綸を行うことはできない。人間は天地経綸の一機関である。

初出:『神の国』昭和4年(1929年)1月号

この教示は人(霊止)と人間の違いです。

まず人ですが、王仁三郎は、神の霊が止(とど)まるところがヒト(人、霊止)であると説きました。

大正15年(1926年)4月、人類愛善会の第一回総会での講演の中で、王仁三郎は次のように教えています。

…人類愛善会というのは、総ての人間を人間が愛するように聞こえております。総ての人類は同じ神の子であるから、総て愛せねばならぬという意味になっておりますが、それはそれに違いないけれども、人類という字を使ったのは、下に「愛善」がありますから、上の「人類」の意味が変わって来る。単に「人類」とだけ言えば世界一般の人類あるいは人間の事であり、色々の人種を総称して人類というのである。

しかし日本の言霊の上から言えば、「人」は「ヒト」と読みて、ヒは霊であり、トは止(とどま)るという事である。そうして「人」という字は左を上に右を下にして、霊主体従、陰と陽とが一つになっておる。神というものは無形のものであるが、しかし神様が地上に降って総ての経綸を地上の人類に伝える時には、止(とど)まるところの肉体が必要であります。それで神の直接内流を受けるところの予言者とか総てそういう機関が必要なのでありまして、この霊(ひ)(神)の止(とど)まるのが人(ヒト)である。

それは神の顕現、神の表現として釈迦とかキリストとか、そういう聖人が現われて来ておる。人間というものは、善悪混淆(こんこう)した普通のものであるが、人というと神の止(とど)まる者、神の代表者である。それに類するというのであるから、それに倣(なら)うのである。

初出:『神の国』大正15年(1926年)5月号
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121801c49

神霊が宿って、神の経綸を実行する存在が、人(ヒト、霊止)だというのです。

これは端的に言えば、王仁三郎のような特別な役割を持った人だけが「霊止」だということになります。
しかし私たち全員が、そうなれるように目指すべき方向であります。

私たち凡人は、今は霊止ではなく、人間ですが、その人間とは何かというと、霊止と動物の中間的存在です。
月鏡のもう少し後ろの方で、王仁三郎は次のように述べています。

●月鏡「人間という問題」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg299

大本は、人は神の子、神の宮と唱えている。また神は万物普遍の霊にして、人は天地経綸の司宰なり、神人(しんじん)合一して、ここに無限の権力を発揮すとか、また人は天界の基礎なり、天国は昇りやすく、地獄は堕ち難しと言っておるのは、普通一般のいわゆる人間ではない。人間界を超越した神の御用に立つところの神柱(かむばしら)のヒト(霊止(ひと))を指したものである。人と獣ととの中間に彷徨しておる縦ハナ横眼の者をさして人間と称しての、この論旨であると考えてもらいたい。

なるほど。
神様の御用に立つ神柱が霊止であって、それはやはり全ての人間が目指すべき目標です。

なお、「人」と「人間」という言葉を、王仁三郎は厳密に使い分けているわけではありません。
あくまでも、サルの延長線上にある現代の人間と、神様が意図した本来あるべき姿(霊止)との違いを説明するためのレトリックとして、人(霊止)と人間という言葉を用いているのだと思って下さい。

霊界物語や三鏡などの他の箇所で「人」という言葉が出て来ても、「霊止」の意味とは限りませんので御注意を。


三鏡解説 目次


(この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2020年6月1日号に掲載した文章をもとに加筆訂正したものです)


三鏡解説058 霊と精霊

Published / by 飯塚弘明
投稿:2022年08月27日

●水鏡「霊と精霊」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg058

霊と精霊とを混同して考えている人があるが、それは大変な間違いである。
霊は万物に普遍しておるので、この火鉢にでも鉄瓶にでも、乃至は草花にでもある。
もし霊が脱けてしまえば物はその形を保つ事が出来ないで崩壊してしまう。非常に長い年数を経た土器などが、どうもしないのにくじゃくじゃに崩れてしまうのは、霊がぬけてしまったからである。鉱物、植物みな霊のある間は、用をなすものである。
精霊というのは動物の霊をさすのであって、即ち生魂(いくみたま)である。

初出:『神の国』昭和2年(1927年)4月号

王仁三郎が説く「霊」と「精霊」は異なるということなんですが、果たして霊界物語などでもそこまで厳密に区別して書き分けているのかどうかは不明です。

この「霊と精霊」の少し前に、「関の地蔵様と一休和尚」と題する教示があります。
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg054

そこに「石にでも木にでも霊はあるが精霊はない」と書いてあります。
それに対して信者から疑問が出たので、「霊と精霊は異なる」と教えたのではないでしょうかね。

霊という言葉は色々な意味で使われるので注意が必要ですが、ここで言う霊とは、神から発して万物に偏在する霊(教旨で説いている霊)のことで、精霊というのは動物や人間に与えられた霊のことです。

生魂(いくみたま)という言葉が出て来ましたが、これは「生魂(いくむすび)」とも呼びます。動物の霊は「生魂」で、植物は「足魂(たるむすび)」、鉱物は「玉留魂(たまつめむすび)」と呼びます。
剛柔流(ごう、じゅう、りゅう)の三元の説明のところに書いてあります。
●第6巻第1章「宇宙太元」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0601


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この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2019年8月15日号をもとに加筆訂正したものです)


五六七の世までも云々

Published / by 飯塚弘明
投稿:2022年08月26日

霊界物語に「この御恩はミロクの世迄も忘れは致しませぬ」のような「五六七の世までも云々」という言い回しがたびたび出てくる。

たとえば、

「貴方の御親切は孫子(まごこ)の時代はおろか、五六七の世まで決して忘れは致しませぬ」
第8巻第38章「華燭の典」 五月姫のセリフ
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0838#a132

「千代も八千代も変りなく 睦び親しみ永久(とこしへ)に 五六七の世迄も霊(たま)幸(ちは)ふ」
第11巻第27章「太玉松」 石凝姥命の歌
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm1127#a075

「固き心は千代八千代 五六七の世まで変らじと 心定めし益良夫の」
第30巻第18章「日暮シの河」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3018#a100

「この御恩はミロクの世迄も忘れは致しませぬ」
第68巻第17章「地の岩戸」 スバール姫のセリフ
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm6817#a230

この「五六七の世までも云々」という言い回しは霊界物語独特の言い回しだなと思っていたらそうではなかった。

宮田登・著『ミロク信仰の研究』によると、仏教の弥勒信仰において北陸地方で「五六七の世まで」云々という言い回しが使われていたそうである。

奥能登の町や村では、ちょっとした冗談口に「お前のような奴は、弥勒の世になっても借金を返すまいから貸さない」といったり(略)「こんなうまいことは、弥勒の世代にもないことじゃ」などともいったりするという。
きわめて日常的意識の中で、「ミロクの世」はなかなか実現しにくい未来のことを示している。富山県高岡市でも「弥勒様の世になっても」という場合、未来永劫望みはなしという意味を表わすといっている。
〔『ミロク信仰の研究 新訂版』p25-26〕

ミロクの世は「なかなか実現しにくい未来のこと」と書いてあったが、たしかに仏教の弥勒信仰ではそうなのだろう。何しろ釈迦滅後56億7千万年後のことなのだから。

霊界物語でもそのようなニュアンスで使われているが、それは”35万年前”の”太古の神代”の物語だからであろう。

しかし天運循環して国祖再現の時節が到来した。明治25年からミロクの世への幕が開いている。
「五六七の世までも云々」と太古の神代の人たちが言っていたその時代がやって来ているのである。

三鏡解説214 ラジオは気候を調節する

Published / by 飯塚弘明
投稿:2022年08月23日

●水鏡「ラジオは気候を調節する」

https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg214

西村さん(注・宣伝使の西村光月)がフランスから帰朝の途次、シベリアを通過して、気候が案外暖かであったと言うていたが、近来地上の気候はラジオ使用のため大気に大変化を来たしておるのである。

神諭にある「世界中を枡掛(ますか)け曳(ひ)きならす」ということを皆が小さい意味に取って、国土とか、経済とかの上とのみ思っておるようであるが、神様の枡掛け曳きならしはそんな狭義の意味のものではない。気候までも枡掛け曳きならされるのであって、ラジオもその働きの一部分を勤めているのである。

ラジオは音波を輸送する如くに、寒気、熱気をも輸送するもので、寒帯の寒気は熱帯に運ばれ、熱帯の熱気は寒帯に運ばれて世界中の温度が段々平均して来るのである。
平均すると言うても、比較的のことであって、熱帯はやはり暑く、寒帯は冷たいが、寒暑の度が今までのように激烈でないように調節されるのである。

温帯はあまり変化はない。
「北がよくなるぞよ」との神諭もまた這般の消息を伝えているのである。
また大本祝詞の「暑さ寒さも柔らかに云々」とあるもこのことである。

初出:『神の国』昭和2年(1927年)12月号

「枡掛(ますか)け曳(ひ)きならす」は大本神諭でよく使われる有名なフレーズの一つです。いくつか例をあげると、

「この大変動が治まりたなら、世界を桝掛(ますかけ)曳いた如くに致すぞよ」〔明治三十二年旧九月十九日〕
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=os161

「三千世界を桝掛(ますかけ)曳均(ひきらな)して、末代(まつだい)苦説(くぜつ)の無いように、二度目の世の建替を致して」〔明治四十三年旧八月七日〕
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=os150

「どちらの国にも口舌(くぜつ)が絶えんのであるから、世界中を枡掛(ますかけ)を引いて、世界の大本を創造(こしらえ)た、天と地との先祖の誠の王で、万古末代善一つの神国の王で、世界を治めて、口舌の無いように致すぞよ」〔大正五年旧十一月八日〕
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=os007

──のように使われています。

広辞苑によると「ますかき」(枡掻、升掻など、色々な漢字が使われる)とは、「枡に盛った穀類を縁と平らにするのに用いる短い棒」のことです。

枡にお米などを盛った時に、上面を平らにするための棒で、「斗掻(とかき)」とも呼び、次のページにある写真のようなものです。↓
https://1073shoso.jp/www/photo/detail.jsp?id=15338
https://1073shoso.jp/www/photo/detail.jsp?id=15337

大本神諭で言う「枡掛け曳きならす」とは、貧富の格差や、身分制度などを廃して、全員平等にするというような概念です。
また、山が沈んだり、海が隆起したりして、土地的な面でも、ある程度平らになって行くという意味もあります。

冒頭の水鏡の教示の中で王仁三郎は、気候までも「枡掛け曳きならす」のだと教えています。
地球上の寒暑の差が小さくなるというのです。

「ラジオ使用のため大気に大変化を来たしておる」と書いてありましたが、ここで言うラジオとは電波のことです。

玉鏡にも、似たような教示が書いてあります。

●玉鏡「気温の調節」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg696

今年(昭和七年)は本当に暖かい。今年の冬の暖かさは格別だが、大体それは最近ラジオや電信電話等を盛んに使用するからである。ラジオや電信電話等によって気温は伝わって行くものである。即ちそれらは気温を運ぶのである。

南の暖かい方から北へ暖気が運ばれ、寒い北からは暑い南方へ寒気が送られるのである。のみならず一度それらが発せられるとその波紋は地上全体に拡大するから、同時にこれに運ばれて気温も世界的に巡り巡って平均され緩和されるわけである。

昔は寒暑共にずいぶんひどかったが、この理によって大体近年非常に気候がよくなった。みろくの世が近づきこの種の使用応用が増すにつれて、次第に気温までが引き均(な)らされて良くなるのである。お筆先にも「みろくの世が来たら御陽気までも変わる」とお示しになってあるし、大本祝詞にも「暑さ寒さも和(やわ)らかに」とある如く、陽気までが次第に調(ととの)いつつあるのである。

ドエライ寒いところや暑いところはだんだんなくなる。ひとり気温ばかりでなく、何から何まで運否なく引き均(な)らされて良くなるのが神示のいわゆる立替えである。

初出:『神の国』昭和7年(1932年)3月号

21世紀に住む私たちも「今年は暖冬だ」とよく言いますが、ここに書いてあったように、昔から暖冬はよくあることだったのです。

その原因として、電波の影響を王仁三郎は指摘しているのです。

地球温暖化の原因としてCO2の排出ばかりでなく、電波の影響も研究する必要があります。

温暖化する一方では、寒冷化している地域もあります。
そのようにして、地球上、どこでも住みやすいように、気温が平均化されて行くというわけです。

しかし本格的に気候が良くなるのは、地軸の移動を伴う大峠の後になります。
気温は、太陽の照射時間や角度の影響の方がはるかに大きいです。つまり地軸移動によって地球上の気温が大きく変化するはずです。

そもそも電波は人間の体に悪い影響を与えていますので、将来的には使われないようになるはずです。

王仁三郎は神示の宇宙の中で、電波だけでなく、電気そのものについての害を教えています。

●霊界物語第4巻第50章「神示の宇宙 その五」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0450#a047

電気なるものは、前述の如く宇宙の霊素、体素より生成したものであるが、その電気の濫用(らんよう)のために、宇宙の霊妙なる精気を費消すればするだけ、反対に邪気を発生せしめて宇宙の精気を抹消し、為に人間その他一切の生物をして軟弱ならしめ、精神的に退化せしめ、邪悪の気 宇宙に充つれば満つるほど、空気は濁り悪病発生し害虫が増加する。

このように、電気自体が生き物に害なのです。
原発反対どころではなく、電気自体に反対しなくてはいけません。

しかし、今すぐ電気を廃止する必要はありません。
今はまだ電気は必要なのです。

先ほどの「神示の宇宙」の続きに、次のように書いてあります。

…されど今日の人間としては、これ以上の発明はまだ出来ていないから、五六七神世出現の過渡時代においては、もっとも有益にして必要なものとなっておる。モ一歩進んで不増不減の霊気をもって電気電話に代えるようになれば、宇宙に忌まわしき邪気の発生を防ぎ、至粋至純の精気によって、世界は完全に治まって来る。この域に達するにも、今日のような浅薄なものを捨て、神霊に目醒めねばならぬ。

電気よりももっと根源的な元素である「霊気」なるものを発見して、より高度なテクノロジーを人類は獲得する必要があるのです。

その霊気とは何なのかというのはよく分かりませんが、「不増不減の」ということで、いわゆるフリーエネルギーのようなものなんだと思います。

今はミロクの世へ至る過渡期なので、諸々の事象が、悪しきもののように見える場合もありますが、それはその先の未来を創るためのプロセスです。

現在世界中を席巻している新型コロナウイルスにしても、プロセスの一部です。
その先には必ず新しい未来が待っています。

激動の時代を生き抜くためには、信仰、信念が一番大切です。
信じるものがなければ、激動の波に右往左往し、不安と恐怖に支配されてしまいます。

「神霊に目醒めねばならぬ」と王仁三郎が言っていましたが、それはつまり神を信じ、ミロクの世が建設されることを確信することです。

信念を鍛えるためには、知ること・学ぶことも大切です。
そのものを知れば知るほど、信じる気持ちが深まります。
王仁三郎の教えを学び、信念を深めて行きましょう。


三鏡解説 目次


この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2020年4月27日号をもとに加筆訂正したものです)