三鏡解説034 厳と瑞

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年10月06日

●水鏡「厳と瑞」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg034

 大本の経綸(けいりん)は、経(たて)と緯(よこ)、厳(いづ)と瑞(みづ)とによって御神業が進展しつつあるが、とかく瑞の霊(みたま)の御神業が役員や信者に分からないため、御神業進展のため、どのくらい支障を来たしているか分からぬ。

 今でも同じ事であるが、昔に比べるとよほど仕事がしよくなって来た。それは役員さんも信者さんも、だんだん向上進歩して、私の仕事について理解をもってくれるようになったからである。

 昔は、漢字で書いた本を読めばすぐ、外国の悪霊が憑いているのであると私を責めたくらいであるから、周囲におる人に漢字の読めた人は一人もない。神様はお急ぎなさるし、私は本当に困った。家(うち)の者に手伝いをしてくれるものは皆無だし、せめて角(かく)な字(注・漢字のこと)の読める人が欲しいと思い、苦しい手もとの中から、月々二十円余りも出してある人を学校にやって卒業させた。やれこれですこし読み書きの方の助手が出来たから仕事をはじめようと思うと、また皆でやかましう言うて、そばに寄せつけないようにしてしまった。

 その頃の私は目もよかったし、活字なんかも一人で拾うたが、せめて誰か一人助手が欲しいと痛切に思った。けれど漢字を読むものが私のそばによると、すぐ悪魔扱いをして退けてしまうのだから仕方がない。その頃の事を思えば今は何というても結構なものだ。

 綾部の御神苑を建設するについても妨害ばかり受けたものである。私は教祖様のお頼みで池(注・金竜海のこと)を掘ろうと思い、地所を買うておいた。そしてそれを清めるために二~三年草を生やして放っておいた。そうすると二代(注・妻の出口澄子)が怒って「もったいない、こんな荒地(あれち)にしておいては神様の御気勘に叶わない」と言うて大根や葱(ねぎ)を植え人糞肥料をかけて汚してしまう。私が抜いておくとまた植える。こんな事ばかりしてちっとも思うように行かなかった。

 「よく訳をおっしゃって、理解してお貰いになりましたら、二代様も決してそんなこと遊ばさなかったではございますまいか」と言うのか……。それを云えば神様の御経綸に邪魔が入るではないか。

 悪魔のさやる世の中、おしゃべりの多い世の中だ。その地が神苑になるのだと分かればたちまち地所の価格も騰貴(とうき)するではないか。まだまだ次へ次へと買収して行かなければならないのだから、不如意(ふにょい)(注・貧乏の意)の大本の経済としてはこの点を十分考慮せねばならぬ。それだから、妻にも子にも誰にも云えないのである。

 また今の綾部小学校(注・現在の長生殿が建っているところ)の前の敷地には小松の苗を植えておいて、神苑の出来上がった頃移植する計画を立てておいたのだが、その頃は苗一本が三厘か、四厘しかせなかった。いよいよ神苑が出来上がって、植木が必要となった頃にはかなり大きくなっていて、一本も買わずに済んだのだが、私のこの胸中を知らぬ二代はまた「猫の額ほどの所へも食物を植えよと御神諭にあるのに、こんな松苗なんか植えといてはどもならぬ」と云うて抜いて捨ててしまう。私はまた植えてやる、また抜く。こうして二代と始終暗闘を続けたものだ。

 「そういう御戦いを、教祖様はどうお扱いになりましたか」と聞くのか。教祖様はいつも「先生のなさるままにしておけ」とおっしゃるのだけれど、二代が「それでも御神諭にはこういう風に出ています」と申し上げると「なるほどそうだな」と云われて、私に向かって怒られ、松苗をみな抜いてしまうようにと云われる。私は答えて「私は神様のおおせの通りにしているのです。貴女は知られないでも貴女の神様はよく知っておられます。聞いて来なはれ」と言うと教祖様は御神前に額(ぬか)づいて伺いを立てられ「神様は先生の思う通りにさしておけとおっしゃる」と云われ、それでおしまいになる。こんな事は度々あった。

初出:『神の国』大正15年(1926年)10月号

タイトル通り、厳霊と瑞霊の御用の違いの一例を述べたもので、瑞霊である王仁三郎の御用が、厳霊である出口直開祖や澄子教主に理解されずに困難な目に遭ったことが記されています。

似たようなエピソードは他にも沢山あります。
王仁三郎が大本入りして二年ほど経った明治34年(1901年)10月、開祖が弥仙山の社に籠もってしまうという出来事がありました。王仁三郎が大本を稲荷講社傘下の法人組織に改めようとしたことに立腹したからです。当時は自由に宗教活動が行えたわけではなく、認可されていない宗教は活動するなと言って警察が干渉して来ました。王仁三郎は静岡の長沢雄楯に相談して、長沢がトップを務める稲荷講社の傘下になることで、宗教活動を続けようと考えました。しかし艮の金神さんを他の神様の下に置く形になるため、開祖は立腹したのです。
このエピソードにも、厳と瑞の違いが現れています。

厳霊系の人は小細工せず実直に物事を進めて行くのでしょうけど、いざ妨害に遭ったら、先に進めなくなる可能性もあります。
瑞霊系の人は先のことまで考え、広い視野で物事を見つめていますが、それが厳霊系の人には理解できないので、結果、”暗闘”になってしまうのです。
役割の違い、観点の違いから、そうなってしまうわけですが、互いの役割の違いを受け入れることが、ミロクの世への鍵ということになると思います。


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この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2019年7月29日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック


三鏡解説033 高姫と妖幻坊

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年10月06日

●水鏡「高姫と妖幻坊」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg033

 霊界物語中の高姫(たかひめ)は、凶党界の悪霊・妖幻坊(ようげんぼう)と長い間夫婦生活を続けておることが記されているが、どういうふうにその体的夫婦関係が持続せらるるというのか……。

 左様、簡単に言えば、精力素を奪取されているのである。そして高姫自身はそれを知らず、完全に夫婦関係が成立しているものと思っているのである。

 狐に誑(ば)かされている男が、美婦人と同棲しているつもりで暮らしていると、いつの間にか身体が弱り、虚脱に陥って、呆けてしまうという話、また蛇が若衆の姿に化けて毎夜、娘の閨(ねや)に通ったため、娘はだんだん身体(からだ)が弱り衰え、ついに死んで行くというような話がよくあるが、いずれも同じく、快感を覚えさせておいて精力素を奪取するのであるから、快楽を感じつつ弱って行って、ついには死亡してしまうことになるのである。

 人間の精力素を奪取した狐なり、狸なり、蛇なりは、それだけ人間化し、向上するわけだから喜んでいる。

初出:『神の国』大正15年(1926年)10月号

高姫と妖幻坊が夫婦になったのは、第49巻からです。

霊界物語最凶悪の高姫はいちおう人間ですが、妖幻坊は凶党界に所属する凶霊です。凶党界というのは「肉体的精霊の団体」とも呼ばれています。
●水鏡「凶党界」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg084

凶党界は中有界(精霊界)の中でも、もっとも物質界(現界)に近い領域です。
ここに居る凶霊たちが、狐狸や蛇など妖魅に化けて物質界に出現し、人間に悪さをしているのです。

●霊界物語第50巻第1章「至善至悪」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm5001#a189

(略)精霊界は霊界・現界のまた中間に介在せりと云ってもいいくらいなものである。故に精霊界には自然的即ち肉体的精霊なるものが団体を作って、現界人を邪道に導かんとするものある事を知らねばならぬ。

肉体的精霊とは、色々の種類あれども、その形は人間に似て人間にあらざるあり、あるいは天狗あり、狐狸あり、大蛇あり、一種の妖魅ありて、暗黒なる現界に跋扈跳梁(ばっこちょうりょう)しつつあり。これらは地獄界にも非ず、一種の妖魅界または凶党界と称し、人間に譬うれば、いわゆる不浪の徒である。

彼らは人間の山窩(さんか)の群の如く、山の入口や川の堤や池の畔、墓場の附近等に群居し、暗冥にして頑固なる妄想家の虚を窺い、その人間が抱持せる欲望に附け入って虚隙(きょげき)を索(もと)めて入り来るものである。

この肉体的精霊=凶霊である妖幻坊は、「獅子・虎両性の妖怪」とも呼ばれています。
●第50巻第6章「玉茸」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm5006&mky=a080-a081#a080

そんな恐ろしい化け物と、高姫は夫婦になってしまったのです。
高姫は相手が化け物とは知りませんでした。妖幻坊が杢助(もくすけ)という人に化けて現れたのです。

杢助は時置師神(ときおかしのかみ)とも呼ばれています。三五教の宣伝使で、もともとはオノコロ島の「生田の森」の神館で活動していましたが、第49巻の時点では、フサの国の斎苑館(いそやかた)(スサノオの拠点)で総務(役員のこと)を務めています。初稚姫(はつわかひめ)(三五教の宣伝使)の父親です。

高姫は、フサの国の「祠(ほこら)の森」の聖場を訪れた時、杢助(に化けた妖幻坊)と出会い、そこで意気投合して夫婦となり、祠の森の聖場を乗っ取ろうとたくらみます。
●第49巻第12章「お客さん」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm4912

一体どうやって人間の高姫と凶霊の妖幻坊とが夫婦生活を営むのか?という疑問を持った信者が王仁三郎に質問し、それに対する回答が、冒頭の教示です。
「精力素を奪取されている」と言うのですが、「精力素」とは「精力」とは少々異なるようです。

他のところでは、「精力素」の後ろに括弧して「エクトプラズム」と書いています。それは「精液の変形した」ものだと説明しています。

●玉鏡「霊媒は短命」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg723

 霊媒の物理的現象を起こす精力素(エクトプラズム)は精液の変形したるものである。そして外気にふるれば九分(くぶ)までは汚れてその精気を失うものであるから、再び身体にかえっても駄目である。ああした実験をたびたびやるのはよくない。生命(いのち)が短くなる。私はみな一通りやったが、この原理が分かったからやめたのだ。

エクトプラズムのことや、「ああした実験」のことは、シルバーバーチの人が書いた解説がこちら↓にあるので読んでください。写真も載っています。
●「エクトプラズムとは」(スピリチュアリズム普及会)
http://sp-phenomena.in.coocan.jp/part3/p3chapter1/p3c1-0B.htm


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三鏡解説032 御手代と国替

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年10月04日

●水鏡「御手代と国替」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg032

 国替(くにがえ)をすると、御手代(みてしろ)や、楽焼(らくやき)のお茶碗お盃などをその人の所有として埋(うず)めてやれと聖師様がおっしゃったという怪宣伝があるそうだが、そんなことは決してない。それではせっかく私が霊を篭めて造ったものが、みな地中に埋(うず)もれてしまうことになる。

 そんなつまらぬことをしてはならぬ。後に取っておいてお祭りのたびに供えるようにしたらよいのである。

初出:『神の国』大正15年(1926年)9月号

国替とは、帰幽と同じ意味です。死んで、現界から霊界へ、住む世界(国)を替えること、つまり死ぬことです。
御手代とは、王仁三郎が宣伝使に下付した神器です。竹製のおしゃもじに王仁三郎が歌を書きスの拇印を押したもので、病気平癒祈願などに用いられます。

人が死んだらワシが作った御手代や茶碗を棺桶に一緒に入れてやれと聖師様が言った…というデマが大本内に流布されていたのでしょう。それで、それはデマだと否定したわけです。

現代ではデマという言葉よりフェイクという言葉がよく使われます。
ネット社会では、フェイクが広まりやすく、王仁三郎に関する情報も、ネットで調べると、フェイクがたくさんあります。
しかし王仁三郎に関することは、王仁三郎が書いたものを調べれば、その真偽がはっきりします。
そういう理由もあって、私は霊界物語ネットや王仁DBを運営しています。
わけのわからん輩の言説を聞かなくても、各自が直接、王仁三郎の教えを調べることが出来るようにしているのです。


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三鏡解説031 太陽を招び返した清盛

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年10月03日

●水鏡「太陽を招(よ)び返した清盛」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg031

 天地万物、総て進展するばかりであって後戻り、仕直しということはない。花がまずく咲いたから、咲き直しをやるということはない。

 それだのに人間は物を造っても気に入らぬとすぐに壊してやり直しをする。

 字が下手に書けたと言うては書き直しをするが、そうした場合、前に使った時間は全く無駄になってしまう。即ち太陽を招(よ)び返したと同じわけになる。

 昔、平の清盛は太陽を招び返した罪によりて、大変な熱病を煩って死んだと言われている。清盛の真似をやっていて物事思うように行こうはずがない。

 私は字を書いても、絵を描いても、文章を作っても、楽焼(らくやき)をやっても、仕直しということをしたことがない。天地自然の運行に逆ってやった仕事に、ろくなことはない。

初出:『神の国』大正15年(1926年)9月号

ここでは四大(しだい)主義の一つ、進展主義を教えています。

他のところで王仁三郎は、次のように説いています。

●出口王仁三郎著作集第3巻 天地の運行に並行して進め
初出:『瑞祥新聞』昭和9年(1934年)10月1日号
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195303c234

 皇道大本の四大主義の一つに進展主義というのがあるが、この進展主義は何事にかかわらず、着手した場合は一歩も半歩も後へはしりぞかぬ、ただ前進あるのみである。吾人は入教以後三十余年間、進展主義で一貫してきたのである。漢聖(注・中国の聖人の意か?)の教えのごとく、三歩進めば一歩しりぞいて考えよというような退嬰主義をとることは、皇道の一大禁物である。

 ゆえに私は旅行するときでも、いったん家の敷居を越した以上は、なにほど必要な大切な品を忘れたことに気がついても、けっして一足たりとも、後へもどって持っていくということはしないのである。

 たとえば、原稿を書いても、けっして後で筆を入れたり書き改めたりしない。また一字も直さないという主義である。ゆえに私の原稿にかぎって、訂正の箇所はこしらえてないのである。文章が少々拙劣でも卑近でも、いったん筆に出したものを没にするのは進展主義の神則にもとり、時間の損害となるのを惜しむからである。光陰は矢のごとく、一度去りてはふたたび帰らず、一日ふたたび晨(あした)なり難しということがあるから、たとえ一秒時間といえども、無益につかっては天地の神へ申しわけないからである。

 こうして時々刻々を貴重に働いてゆけば、いかなる遠路といえども少しの疲労もなく、天地の運行循環とともに並行して、比較的容易に大事業を遂行しうるものである。かくして油断なく活動するときは、世間の人が十年の日子を要して成功することも、一年または二年の短日月にて成功することができるのである。なにほど急速力で事業を進めても、中途にやすみ後もどりしては、なんにもならないのである。

たしかに、やったことのやり直しをしなければ時間を有効に使えますね。忘れ物を取りに家に帰るなんて、全く時間の無駄です。

しかし王仁三郎が言いたいことは、単に、時間を有効に使えということではないと思います。
天地自然の運行に従うということは、つまり惟神のまにまに進んで行く、ということです。

自分がミスをしたと思っても、そのまま進んで行けば、そこに新たな展開が広がります。
たとえば外出時に忘れ物をしても、その大切な何かを持って行くことを忘れたことによって、その先の未来が変化するわけです。忘れ物をしたことで、誰かが代わりの物を貸してくれて、その借り物の方が自分の物より良かった、なんてこともあり得ます。それが結果的には、惟神ということになるのです。

大本の歴史で言うと、次のような例があります。明治32年(1899年)7月に、祭典を行うため業者に提灯を注文しました。九曜紋(綾部藩主の九鬼家の家紋と同じ)で注文したところ、なぜか十曜紋で作られ納品されました。この時、「九曜の紋を一つふやしたのは都合のあることざぞよ」と筆先(神示)が出て、これによって大本の神紋が十曜紋に決まりました。
●大本七十年史 上巻「十曜の神紋」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195401c1522

もし、ミスに気づいて作り直していたら、この時、十曜の神紋は生まれなかったかも知れません。
人間心で考えて間違いだと思っても、神様から見たら、それが正しい場合もあるのです。

だからと言って、やり直しをしてはいけないとは、私は思いません。
それは、神と人間は違うからです。
神には失敗はないかも知れませんが、人間に失敗はあるのです。
このブログの文章だって、何度も何度も書き直しています。推敲を重ねることで、より良いものに仕上げているのです。

冒頭の水鏡「太陽を招び返した清盛」の話に戻ります。
平清盛が「太陽を招び返した」というのは、「日招(ひまね)き」伝説と呼ばれています。

広島県呉市に「音戸(おんど)の瀬戸」と呼ばれる海峡があります。本州と倉橋島という島の間にある、幅が80~200メートルの狭い海峡です。
この島はもともと陸続きだったが、平清盛の命令により人力で開削して海峡が造られた、という言い伝えがあります。
工事完成間際で日が暮れようとしたが、平清盛は山の岩の上に立ち、金扇を広げて「かえせ、もどせ」と叫ぶと、沈もうとしていた日が再び昇り、工事が完成した…というのです。

後に清盛は大病で亡くなりましたが、それは日を招いたことが報いたのだ、という伝説もあります。
自然の法則に逆行することを行った罪です。
(参考)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E6%88%B8%E3%81%AE%E7%80%AC%E6%88%B8
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B8%85%E7%9B%9B
https://wiki.suikawiki.org/n/%E6%97%A5%E6%8B%9B%E3%81%8D%E4%BC%9D%E8%AA%AC
https://mrs.living.jp/hiroshima/event_leisure/reporter/3779668

王仁三郎は、この清盛の日招き伝説を例に出し、「天地自然の運行に逆ってやった仕事に、ろくなことはない」と言うのですが……
さすがに私たちは清盛のように太陽を逆行させるようなことは出来ませんが、文字を書き直したり、ミスった仕事をやり直したりすることは、日常的によくありますね。
それを、天地自然の運行に逆らっている、などと言われてもちょっと困ります。

やり直しはするな、というのですが、しかしその一方で、宣り直せというのがあります。

基本宣伝歌で「ただ何事も人の世は直日に見直せ聞直せ 身の過ちは宣り直せ」と歌われているように、
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm010002
過ちを宣り直すことは勧められています。

この、宣り直せ、ということと、やり直しをするな、ということとは矛盾しているように感じるのですが……。

それは先ほど書いたように、神と人間は違う、と解すればいいと思います。

「花がまずく咲いたから、咲き直しをやるということはない」というのは、それは神様の仕事だからです。
神がやることだから、完全無欠であり、やり直しがないのです。
しかし人間は、神とは違います。不完全であり、未熟です。やることなすこと失敗だらけでも、仕方ありません。
だから、直日に見直し聞き直し、身の過ちは宣り直す必要があるのです。

しかし目指すところは、やり直しをしなくてもいいように、惟神に生きることです。
王仁三郎クラスになると、神レベルですので、文章を書いても絵を描いても、やり直しをしなくていいのでしょう。
私たちも、そのようなレベルを目指すべきです。

「天地自然の運行に逆ってやった仕事に、ろくなことはない」というのは、私も実感しています。
私は若い頃は小説を書いたり作詞作曲をしたり、芸術系の人間だったんですが、ウンウンうなりながら作ったものは、たいしたものは出来ません。素晴らしいものは、あるときふと、天から下りて来るのです。小説にせよ音楽にせよ、良いものはスラスラと書けるのです。湧いて出て来るのです。
芸術系の人は、そういう体験をしたことがある人は多いと思います。

王仁三郎は絵を描く時も、和歌を詠む時も、天から下りて来るまま、つまり惟神のまにまにスラスラと書いて行ったのでしょう。
だから、やり直しをしなくてもいいのです。
私たちもそういう神レベルを目指すべきですが、しかし今現在は失敗だらけの人間レベルです。
ミスがあったら、やり直すことも必要です。

やり直さないという王仁三郎ですが、しかし大正期に書いた霊界物語を、昭和9~10年に校正しています。
「原稿を書いても、けっして後で筆を入れたり書き改めたりしない。また一字も直さないという主義である。ゆえに私の原稿にかぎって、訂正の箇所はこしらえてないのである」な~んてことを言っているクセに、実際には書き直しているのです。

これは一体どういうことかというと、王仁三郎が霊界物語を「書いた」とは言っても、実際には、自分の手で書いたわけではありません。
王仁三郎は口述するだけで、弟子の筆録者がそれを原稿用紙に書き留め、次々と出版して行ったのです。
つまりこの段階では王仁三郎は原稿に目を通していないのです。
筆録者は神ではなく、ただの人間ですから、聞き間違いや書き間違いがあって当然です。
王仁三郎はそれを昭和9~10年に校正したのです。弟子がミスった箇所を宣り直したのです。

やり直しをしない、ということと、身の過ちは宣り直せ、ということの違いは、このように、神レベルと人間レベルの違いだと考えればいいと思います。


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三鏡解説030 世の終末と立替え

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年10月02日

●水鏡「世の終末と立替え」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg030

 キリストの本当の教えが伝わらぬようになったとき。仏法においては釈迦の誠の教えが伝わらないようになったとき、それが世の終わりである。即ちキリスト精神の滅亡、仏法精神の滅亡を意味する。この時にあたって、本当の耶蘇教(やそきょう)、誠の仏法を起こすのが世の立替えである。

初出:『神の国』大正15年(1926年)9月号

本当のキリスト教、誠の仏法が、自分の教えである…と王仁三郎は言いたいのだと思います。

本当のキリスト教とは何か? 誠の仏法とは何か?
王仁三郎に言わせれば、その本質はみな同じです。
霊界物語第24巻総説で次のように説いています。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm240002

「(略)すべての宗教の信者たるもの、本巻を一読されて大神の大御心を覚り、かつ信者たるものの軌範となし、真の日本魂(やまとだましい)を発揮されん事を希望する。キリスト教というも、仏教というも、神道というも、その真髄を窮(きわ)めてみれば、いずれも日本魂の別名にほかならぬのである」

では、その日本魂とは何か、ということになりますが、それはまた別のところで書きます。

たぶん、月鏡の255「現代の日本人」か
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg255

329「三摩地」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg329

で書くことになると思います。


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