世界大家族制とベーシックインカム(26)補足

Published / by 飯塚弘明
投稿:2022年07月22日


【補足1】

経済学者のケインズは1930年の講演の中で、2030年には労働時間は週15時間(つまり1日3時間)になると予測し、最大の課題は余暇だと説いている。これは、人は労働をするために生きているという考えが根底にある。だから労働時間が減ったら残りの時間をどうやって生きていけばいいのか課題になってしまうわけだ。
王仁三郎的には、人は労働をするために生まれて来たのではなく、神様の御用をする(五六七の世を創る)ために生まれた来たということになる。
労働は、人が生きるために、やりたくないけどやらなくてはいけないことである。
21世紀の今でも週40時間労働の辺りで停滞しているのは、社会にはやりたくないけどやらなくてはいけないことがまだまだ沢山あるということにほかならない。それを誰かにやらすための週40時間労働である。
AIの登場によってようやくその先の時代に進めるようになった。
それと同時に、人々が余暇をどうしたらいいのか悩んで物質依存にならないように、自分の役割に目覚める教育、言うなれば「自分探しの旅」の教育が必要となる。


【補足2】

ベーシックインカムが扱われた書籍雑誌の数。
国立国会図書館のサイトで「ベーシックインカム」をキーワードに含む「図書」(本の題名や章の見出し)と「雑誌記事」(記事の題名)の数を調べた。またアマゾンでKindle(電子書籍)の題名に「ベーシックインカム」が含まれているものを調べた。(2022年7月22日現在)

20世紀にはどうやら「ベーシックインカム」の本も雑誌記事もないようである。

2008年9月のリーマンショック以降(つまり2009年以降)と、2020年のコロナ禍以降に出版点数が増えていることが分かる。

「図書」はコロナ禍前の2019年が多いが、この年の10月に消費税が8%から10%に引き上げられたことが関係しているか?

図書 雑誌
記事
Kindle 合計
2000 0 1 0 1
2001 0 1 0 1
2002 1 3 0 4
2003 0 2 0 2
2004 1 8 0 9
2005 1 2 0 3
2006 1 13 0 14
2007 1 25 0 26
2008 2 11 0 13
2009 9 41 0 50
2010 7 68 0 75
2011 7 25 0 32
2012 6 17 0 23
2013 5 11 0 16
2014 2 5 0 7
2015 4 4 1 9
2016 3 14 1 18
2017 3 22 2 27
2018 4 23 6 33
2019 10 13 3 26
2020 2 52 20 74
2021 7 32 11 50
2022 2 8 2 12
合計 78 401 46 525


世界大家族制とベーシックインカム(25)五六七の世の経済

Published / by 飯塚弘明
投稿:2022年07月19日

出口王仁三郎が提唱した皇道維新論の「皇道」とは、簡単に言うと、世界統一の道である。
「皇道維新について」の冒頭で、皇道維新とは何ぞやということが述べられている。

皇道の根本大目的は、世界大家族制度の実施実行である。畏くも天下統治の天職を惟神に具有し給う、天津日嗣天皇の御稜威に依り奉るのである。
まず我が国にその国家家族制度を実施し、以てその好成績を世界万国に示してその範を垂れ、治国安民の経綸を普及して地球上の各国を道義的に統一し、万世一系の国体の精華と皇基を発揚し、世界各国威その徳を一にするが皇道の根本目的であって、皇道維新、神政復古の方針である。
〔「皇道維新について」〕

皇道の目的は世界大家族制の実施だと書いてあった。
まず日本においてそれを実施し、模範を見せて、それを世界に普及させて行こうというのだ。

世界は一家、人類は皆兄弟である。その地球人という一族の族長が天皇である。
原始共産制社会では、族長を家長として大家族制を敷く。複数の家族が(みな親戚だ)共同生活を行う。家族であるから、動けず働けない人でも、怠けて働かない人でも、最低限の衣食住を保障する。
そういう原始共産制を高度化し世界大に拡大したものが世界大家族制である。

天皇は日本一国だけの天皇ではない。
王仁三郎は
「日本の天皇は宇宙絶対なるが故に、時到らば必ず宇宙を統一遊ばす御方である」〔霊界物語第78巻序文
と説く。
世界の天皇、宇宙の天皇なのだ。
現界(人間の世界)におけるスが天皇だ。
人類の家長なのである。

もちろん天皇陛下ご自身も、そんなふうにはほんのこれっぽっちも思っておられないことであろう。
日本国憲法で位置づけられた国民統合の象徴であり、日本の伝統的文化的存在、という程度にしか思っておられないのではないか?
ご本人の自覚と、われわれ人民の自覚が無ければ、とうてい世界大家族制など実現できるはずがない。
現実には、ほとんどの人は自覚できないかも知れない。
「世界」と口で言うのは簡単だが、実際に世界がイメージできる人は少ない。ほとんどの人は、自分のことだけしか考えない。政治家だって、自分の国のことだけしか考えない。世界をどう統治したらいいのか論じることが出来る人は少数である。
世界を征服しようという野望を持てるような人でないと、「世界」大家族制など実現できない。
そして、「世界」を支配しようという人は「悪」の烙印を押される。
だから世界の統一は、悪が九分九厘まで行うことになっている。
「…悪の力で、九分九厘までは行われるなれど、モ一厘というところになりたら手の掌が覆(かえ)るぞよ」〔大本神諭 大正六年旧十一月二十三日
というように、最後の一厘で神がひっくり返し、完成させる経綸である。

☆   ☆   ☆

御稜威紙幣は政府紙幣的な面を持っているということを第15回で書いたが、王仁三郎が考えていたのはそれ以上のことである。

政府紙幣は、もともと発行している中央銀行券の価値を下げてしまう可能性が大きい。つまりインフレの可能性が高く、だから反対する人が多い。

しかし王仁三郎が説く御稜威紙幣は、新たに富を作り出してしまうのである。
政府が原油を掘ってお金を稼ぐのと、ある意味同じである。

王仁三郎は御稜威紙幣について
「応挙(注・王仁三郎の七代前の先祖で絵師の円山応挙)が書いた絵でも、何万円の金の代わりに通用しているではないか。絵描きの描いたものでも、それだけの値打ちがあるんやから、これが皇室から出たものなら、どんなに尊いものか分からん」
と説いている〔「出口王仁三郎氏に物を訊く座談会」〕。

要するに、スタアが書いたサイン色紙に高額の値が付くのと同じだ。
あるいは政府がビジネスによって稼ぐのと同じだ。

王仁三郎が短冊に「壱万圓」と書いて信者に渡したとする。信者にとってそれは有り難い価値のあるものだから、単なる短冊でも一万円札として流通することになる。
新たに富を増やしているのである。

それに対し政府紙幣は新たに富を増やしているのではない。だからインフレになる可能性がある。
この御稜威紙幣は新たに富を増やすものなので、インフレにはならない。新しい価値を創出しているのであって、従来の価値を薄めることにならない。従来の価値、たとえば原油の場合、需要に対して供給が増えると、価値が下がって行く。しかしビットコインのようなものは、価値を創出しているのであって、従来の価値を下げているわけではない。仮想通貨が繁盛した結果インフレになったという話は聞いたことがない(実際には株式など他の金融商品に対する投資は多少減ったであろうけど)。

金属の塊に過ぎない金(ゴールド)に、経済的価値があると人々が思っているように、その一万円短冊にも経済的価値があると思えばいいだけなので、理屈で言えばそれは可能であろう。
ただ現実にはそう簡単ではない。そう思ってもらうのが大変だからだ。

ビットコインなどの仮想通貨は、経済的価値があると人々に思ってもらえるように、長い期間をかけてマーケティングを繰り広げて来た。
いろいろな学者や金持ちを動員して、将来値上がりすると言ってもらい、経済的価値があると人々に吹き込んで来たのである。
そのマーケティングの結果、単なるパソコンの中の数字に過ぎないものが、経済的価値を持つようになったのだ。
仮想通貨が実際に高額で取り引きされているのだから、王仁三郎が説く御稜威紙幣だって、マーケティングに力を入れれば経済的価値を持つようになるだろう。
しかしそのマーケティングが大変である。

おそらく創価学会のような数百万人の信者を抱える宗教団体が、信者間で使えるローカル通貨として「創価紙幣」を発行するのであれば、実現可能かも知れない。
それはもともと共通の価値観を持った人たちの集団であるから、「創価紙幣」に対する価値を共有できるのである。

天皇絶対の大日本帝国の時代であるから、天皇が発行する御稜威紙幣を尊いものと国民が崇めることも出来たかも知れない。
しかし仮に御稜威紙幣を発行しても、あまり国民の生活は楽にならなかったと思う。
それはモノが不足していた時代だからだ。大正~昭和初期は人口増加に対して食糧品の供給が追いつかなかった。資源エネルギーも足りず、だから植民や資源エネルギー獲得のために、大陸へ軍事侵攻したのである。
食糧品を始め、モノが不足している時には、お金がどんなにあっても買うことが出来ない。それどころか値上がりして、ますます生活困窮者が増えてしまう。
単に御稜威紙幣を発行するだけでなく、食糧増産技術などのテクノロジーを発達させなければ、生活の困窮から救えないのである。

☆   ☆   ☆

五六七の世は、基本的には通貨は廃止されているはずである。
王仁三郎は「貨幣制度、租税制度を根本廃絶すべき」云々と言っており〔「皇道維新について」〕、通貨制度の廃止を唱えている。

しかしその一方で、通貨制度はあるとも言っている。
「みろくの世になっても通貨はあるが、一人十万円だけしかもたせぬ」
というのだ〔『新月の光』「みろくの世の通貨」昭和19年の発言〕。
これはおそらく、五六七の世と言っても色々な段階があるのだろう。

究極的には、通貨制度は廃止されるはずだ。
通貨というものは、価値の交換である。1万円札と、1万円の価値があるモノやサービスとを交換する。
こういう財貨の交換によって営まれる経済を、経済学で「交換経済」と呼ぶ。
交換経済は私有財産制が前提となる。私が所有する1万円と、あなたが所有する1万円相当のモノを、交換するのである。
私有財産制は五六七の世では廃止されるのだから、交換経済も廃止される。
「一人十万円だけしかもたせぬ」というのは、それに至る前の段階で、まだ完全に私有財産制が廃止されていない段階であろう。

では五六七の世の経済はどのようなものなのか?
それは交換経済ではなく、与える経済である。

私たち人間は、神様からそれぞれ役割(使命)を持って現界(物質界)に生まれて来ている。
その役割を果たすための天賦の才能(天才)を与えられている。
自分の役割に目覚め、この物質界を開発・発展させ、五六七の世の建設に貢献することが人生の目的である。
その役割の総体が、五六七の世である。
人類各自の役割を花開かせ、満開となった花園が五六七の世である。

極論を言うと、人間は自分の役割だけ果たしていればいいのである。
しかし現実には、生きるためにやりたくないこともやらなくてはいけない。
そもそも人間社会の営みは、生命をつなぐための営みである。
食べて、生きて、子を産み、育て、年をとって死ぬ。
その繰り返しであった。
しかしテクノロジーの発達によって、それ以外のことが出来るようになった。
家事も今やかなり自動化され、やりたくないけどやらなくてはいけないことが少なくなっている。
洗濯も、昔は盥を持って川に洗濯に行っていたのである。
それが今は洗濯機に服を入れてボタンを押すだけでOKになった。
会社の仕事も機械化・OA化されて、ずいぶん楽になった。
そのため「誰にでも出来る簡単な仕事」となり、安い賃金の仕事が増えるという弊害が起きている。
しかしそんな仕事を、一体誰がやりたがるのだろうか?

私自身、十代の時から長年フリーアルバイターとして、「誰にでも出来る簡単な仕事」を主にして来た。
平成19年(2007年)に人材派遣会社グッドウィルの装備費が社会問題となったが、あの事件の直前くらいまで、まさにグッドウィルのようなところで日雇いのバイトを続けていた。
たいした技能を要しない「誰にでも出来る簡単な仕事」ばかりだ。
そんな仕事を自ら進んでやりたい奴などいない。
生活のために、お金を稼ぐために、仕方なく、低賃金の、何のやりがいもない仕事をしているのである。
お金の心配がなければ、そんな仕事をするはずがない。
『職業に貴賤なし。人の心に貴賤あり』とか言えばかっこいいが、やりたくない仕事を、食うために、嫌々ながらやらなくてはいけない人生など、全く惨めなものである。奴隷のような状態だ。
人は己の使命に目覚め、その使命に邁進してこそ、充実した人生を送れるのである。

低賃金にあえいでいる人は、言うまでもなく、社会の経済的「負け組」である。
しかし、今やAIの普及によって、弁護士や医師のような高度な技術を要する仕事まで、必要なくなる時代がやって来た。
平成9年(1997年)の山一證券自主廃業の時から、勝ち組の凋落が始まったとも言ってよい。
20年後には半数の人が失業する時代が訪れると予測する学者がいるが、そうなる前にベーシックインカムのような制度を導入することは急務の課題である。

ところで発想を変えて、お金を必要としない社会を想像してみよう。
先ほど書いたように、五六七の世はお金を必要としない、与える経済である。
今現在でも、私たちが他人からお金を貰うことを一切止めれば、ただちにお金のない社会が現出する。
モノやサービスを受けるたびにお金を請求されるから、そのお金を調達するために、自分も何か仕事をしてお金をお客さんに請求しているのである。
みんながお金を請求することを止めれば、たちどころにお金不要の0円社会が実現するのだ。

しかしそれが実現した途端に、仕事を辞める人が続出する。
お金を支払う必要がないなら、お金を稼ぐ必要がないからだ。
それでも仕事を続けている人は、その仕事が好きでしているのである。
お金を貰わなくても、その仕事をしたいのだ。
そういう仕事は、神がその人に授けた天職だと言える。
その人はその仕事をするためにこの世に生まれて来たのだ。
お金に関係なくその仕事をしたいのだが、交換経済の下では自分が誰かにお金を支払う必要があるから、その仕事で誰かからお金を貰っていただけである。
そういう天職に就いている人というのは、果たしてどれだけいるだろうか?
仕事が多様化した現代なら、そういう人もそれなりにいるだろう。
しかし王仁三郎の時代はそもそも仕事が今ほど多様だったわけではない。
職業選択の余地などほとんどないのである。
天職ではなく、生活のために仕方なくその仕事をしている人が圧倒的大多数だったであろう。
現代でも、そういう人の方が圧倒的に多いと思う。
だから0円社会になったら、仕事を辞める人が大量に発生する。
結果、社会は崩壊する。0円社会など成り立たない。

逆に言うと、その仕事をさせるために、交換経済にしているという側面がある。
世の中には、誰もやりたくないが、誰かがやらなくてはいけない仕事が沢山ある。
その仕事を誰かにさせるために支配者は、人々にお金が無くては何も出来ないようして、飢餓状態にして、働かせているのだ。
交換経済にはそういう側面があるのである。
家事ならば、誰がトイレ掃除をするのか、という問題だ。
誰かが掃除をしなくてはいけない。
それで親が「掃除しないとご飯食べさせないぞ」と脅して掃除させているのである。
それが交換経済だ。何かと引き換えに何かをさせるのである。

人はやりたくないことはやらず、己の天職だけに励んでいればいいのである。
しかし現実にはやりたくないけどやらなくてはいけないことが山ほどある。
だからAI化・ロボット化を推し進めることで、それらの仕事をなくして行く必要がある。
AIによって人の仕事が奪われるのではない。
AIによって、人がやりたくない仕事がなくなるのである。

しかし全くなくすのは難しいようだ。
王仁三郎は、五六七の世では1~3時間だけ働けばいいようになる、と説いているが、それは逆に言うと、五六七の世でも1~3時間は働かなくてはいけない、ということだ。
社会を動かすために、やりたくないけどやらなくてはいけない仕事を、毎日1~3時間(現在は法定8時間)労働しなくてはいけないのだ。
まあ、1時間くらいなら仕方がないか。
(ちなみに経済学者ケインズは、2030年には1日3時間労働になると予測している。→「(26)補足1」参照)

では人間は何をしたらいいのかというと、神から与えられた天職に励むのである。
お金のような対価がなくてもやりたい仕事が天職だ。
私だったら、このように王仁三郎・霊界物語の話をすることが天職だ。
お金なんか貰わなくたって、いくらでも話をしたい。
しかしそれでは生活が成り立たない。だから何らかの方法でお金を稼がなくてはいけない。
だが本当はお金なんか要らないのである。

☆   ☆   ☆

細かいことだが、王仁三郎用語としては「天職」と「職業」は別のようである。

人間の天職は人類共通のものであって、神の子神の生宮としての本分を全うすることである。しかし職業は決して神から定(き)められたものではない。自ら自己の長所、才能等を考究して、自分に最も適当とするものに従事すべきである。
〔玉鏡「天職と職業」〕

と王仁三郎は教えている。
つまり王仁三郎用語としての「天職」は人類共通のものであり、「神の子神の生宮としての本分を全うすること」つまり霊性を向上させて帰幽後は天界の住人即ち天人になることであり、また現界にいる間は「職業」を通して社会に貢献し五六七の世の建設に奉仕することである。
それに対して「職業」は各個人のものであり、「自己の長所、才能等」つまり神から与えられた天賦の才能(天才)を生かせる仕事である。

一般用語と少しズレがあるので、調整するため、ここではこの両者を包括して「天職」と呼ぶことにしよう。
この天職に励むことが、人がこの世に生まれて来た任務である。

人々が天職に専念できるようにするためには、まずベーシックインカムのような最低限の生活を保障するようなシステムが必要である。
そして、各自が己の天職は何なのか、神から授かった天賦の才能は何なのかを探究する「天才教育」が必要となる。

天才教育無しでベーシックインカムを導入すると大変なことになる。自分が何者なのか、何をしたらいいのか分からない人々はパチンコなどのギャンブルに熱中して、この世の憂さを晴らすことになる。今以上にギャンブル中毒患者が増加することになるだろう。人生でやることべきことは自分の内部にあるのであり、それを外部に求めると各種の依存症になる。

自分がこの世でやるべきこととは、先ほども書いたように、お金を貰わなくてもやりたいことだ。
それは単なる趣味ではなく、何らかの形で他人に貢献できることである。人は一人で生きるのではなく、集団で生活する存在だからだ。
五六七の世は与える経済だというのは、そういう意味である。
他人にお金を与えるのではなく、自分が持っている技術・能力で他人に貢献するという意味での「与える」である。
だから通貨が不要なのだ。

現代は五六七の世への移行期であるから、何かと問題が続出して大変である。
体主霊従から霊主体従へと立替え立直されるプロセスでは、どうしてもデトックス(解毒)が必要となる。
そのクライマックスにやって来るのが「大峠」だ。
地球的規模での自然変動である。要するに天変地異だ。
国祖隠退後の地球は地軸が傾くような天変地異が起きた(霊界物語第6巻第3篇「大峠」参照)。
国祖が再現(復権)される暁には再び地軸の傾きが元に戻るような天変地異が起きる。
本当の意味での五六七の世は、大峠の後でないと実現しない。
しかしそれまでの間に人類は、五六七の世の原理をある程度実現しておく必要がある。

今のように各自が利己的に行動し、自分だけが、自分の国だけが助かればいいというようなやり方では、大峠を人類が乗り越えることが出来なくなる。
このままでは共倒れだ。
自分の持てる技術・能力を使い、他人を助け、互いに助け合って、人類は大峠を乗り越えねばならない。
そしてそれが、人類が一つの家族となる世界大家族制の実現である。

(終わり)



(このシリーズは「霊界物語スーパーメールマガジン」令和2年(2020年)8月24日号から12月28日号にかけて25回連載した文章に加筆訂正したものです)

世界大家族制とベーシックインカム(24)幅員36メートルの道路網

Published / by 飯塚弘明
投稿:2022年07月17日

出口王仁三郎は皇道維新論の中で、日本全国に幅20間(1間1.8mとすると約36m)の道路網を張り巡らすことを提唱した。

現代の道路の基準だと、一般国道の一車線の幅員3.0~3.5m、高速道路では3.5mが標準の幅のようだ。
仮に一車線3.5mで考えてみると、20間(約36m)なら上下5車線ずつ、計10車線の道路になる。

ずいぶん広い道路である。現代日本の高速道路でも、片側5車線の道路なんて滅多にないだろう。せいぜい片側3車線だ。
ただし路肩や中央分離帯を含めれば上下で幅36mくらいの道路はけっこうあると思う。

この20間道路は産業目的だけでない。当時の時代背景として、軍事目的もあった。
王仁三郎は、
「国防及び産業発展のため全国に二十間幅の縦横大道路を急設すること」〔『惟神の道』「皇道経済我観」〕
と叫んでいる。

国防とは、兵員や物資を運ぶトラックが通るのはもちろん、飛行機や戦車も走れる道路を想定していたのかも知れない。
有事の際に飛行機が離着陸できるような構造の高速道路を「ハイウェイストリップ」とか「代替滑走路」と呼ぶ。日本には例がないが、海外ではいくつも例がある。零戦の全幅は12メートルくらいだから、36mあれば十分離発着できるであろう。
ウィキペディア:代替滑走路

高速道路網の元祖としてドイツのアウトバーンが有名だ。
アウトバーンは大正14年(1925年)頃から建設計画を始め、昭和7年(1932年)に最初の道路が開通した。
その翌年(1933年)政権を獲得したヒトラーが本格的にアウトバーン網を建設して行きました。
コトバンク:アウトバーン

それと同時期、あるいはそれより早い時期から、王仁三郎は全国高速道路網の建設を提唱していたのだ。
王仁三郎のこの提唱を参考にして田中角栄が日本列島改造論で高速道路建設を訴えた…という説がある。それが事実かどうかは別として、現代日本ではすでに道路網が建設済みであり、王仁三郎の提案が実現したことになる。
それによってモータリゼーション社会が到来し、生活が便利になった。

道路網に限らず、交通・通信網の発達は五六七の世にとって極めて重要だ。
天界が地上に写って地上天国=五六七の世が成就する。
霊界は、意志想念の世界であって、自分が思ったことがそのまま表に出る世界だ。誰かと話したいと思えば、その人と話しが出来るのであり、言葉を使わなくても、思ったことをそのまま伝えることが出来る。
しかし地上界は物質的制約があり、それが出来ない。言葉を使っても、思ったことを相手にうまく伝えることが出来ない。
それをテクノロジーを使って実現して行くことが、この地上界での私たち人類の使命だ。

また、交通・通信網は、世界の統一のためにも必要だ。
本来人類は、人類全体で一柱の神人として機能すべきものである。
これを王仁三郎は「大神人(だいしんじん)」と呼んだ。
天界はその全体が一つの大神人である。〔霊界物語 第49巻第2章「大神人」

それを地上に移写して、人類は一つの大神人となるのである。

しかし今は各細胞が我を張り、てんでバラバラに動いている状態だ。
テクノロジーがいくら発達しても、人間の精神がそれに追いつかないので、五六七の世への道のりはまだまだ遠い。

(続く)



(このシリーズは「霊界物語スーパーメールマガジン」令和2年(2020年)8月24日号から12月28日号にかけて25回連載した文章に加筆訂正したものです)

世界大家族制とベーシックインカム(23)五六七の世の住宅

Published / by 飯塚弘明
投稿:2022年07月17日

出口王仁三郎は天産自給に絡んで、住宅問題にも言及している。

宏大なる邸宅は、土毛(どもう)(注1)を妨害し、珍奇贅沢なる結構(けっこう)(注2)は、以て亡国の素因を醸成するものである。これみな天産自給の天則に違反するのみならず、国家経済の原則に矛盾するものである。
次に国民住宅の根本義は、

各人その家族の多寡(たか)に応じて造る事
気候風土に適すべき事
その職務に適すべき事

天産自給における国民住宅の根本義は、全国民一人の徒食遊民(としょく ゆうみん)(注3)の絶無なるをもって基礎となすべきものである。これ即ち国家的大家族制度の実現せらるべき所以(ゆえん)である。統一的国民の住宅は、天産自給の国家経済を充実円満ならしむるのが大主眼である。
〔「皇道維新について」第八章 住宅問題〕

(注1)土毛…「土に生えるものの意で、野菜や穀物のこと」〔漢字源〕
(注2)結構…「家屋や文章などの組みたて」〔漢字源〕
(注3)徒食…「何の仕事をもせずに遊び暮すこと」〔広辞苑〕 遊民…「職業もなく遊んで暮している人。のらくら者」〔広辞苑〕

大正~昭和初期の住宅事情が今一つ調べきれてないのでよく分からないが、当時の住宅問題の一つとして、洋風と和風の二重生活という問題があったようだ。
外では、会社だとか工場だとか、買い物に行くお店もみな、洋式の建物が増えている。しかし自宅は昔ながらの和式の建物だ。
汽車に乗るときに草履を脱いで座席の上に正座して座った…なんて笑い話があるが、服装も含めて、和式と洋式が入り交じっていると、不自由な場合がある。
一例を挙げるなら、和服を着て洋式トイレで用をたすのははなかなか難しいということだ。和服ならば、そのまましゃがんで用を出せる和式トイレが便利だろう。

私が仕事をしている部屋は和室だが、畳の部屋に車輪付きのオフィスチェアーを置いているので、少々不便だ。車輪が転がらないし、畳にせよゴザにせよ、車輪を転がすと表面が痛む。やはり洋式の椅子は洋式のフローリングが適している。
和洋混合だとこういう不自由がいろいろあるのだ。
生活がかなり洋式化された現代でも不自由があるのだから、洋物が入り出したばかりの当時はもっといろいろ問題があったと思う。

それら洋式の文物は、ヨーロッパの気候風土に適した形で発達して来たのだから、日本の気候風土に適するとは限らない。今までの日本にない珍しいものだから採り入れていったという側面も強い。一部の金持ちが栄華を誇るためレンガ造りの洋館を建てるというようなことが「珍奇贅沢なる結構」ということになるのではないだろうか。

しかしそんな金持ちはごく少数だから、「土毛を妨害」するほどのことではない。
むしろ「土毛を妨害」したのは、第二次大戦後のニュータウンブームだろう。
決して「宏大なる邸宅」ではなく猫の額のような家だが、庶民の家を建てるために山野を切り開いて開発して行ったのだ。
山を削り森や田畑を潰して大量に家を建てて行ったのである。まさに「土毛を妨害」の状態だ。
もちろんこれは人口増加に伴うもので、やむを得ない部分もある。
しかし今それらのニュータウンは人口減・高齢化によってゴーストタウンと化しつつある。
果たして何十年ものローンを組んでまで建てるほどのことだったのか?
当時はマイホームやマイカーがステータスシンボルだったので、見栄を張ってローンを組んで無理して買った、という側面も大きいと思う。
昔の金持ちが金持ちのステータスとして洋館を建てたのと似たようなものだ。
戸建ての家が欲しいという人が少しだけなら問題はないが、誰も彼もがそう思った結果、日本中どこもかしこも家だらけになってしまったのだ。
その結果、山の斜面や海辺や川辺も家だらけで、自然災害が起きやすくなっている。

王仁三郎は、五六七の世では高原地帯に人々が住むようになると言っている。
平野ではなく高原だ。高原は平地が少ないから、戸建てではなく集合住宅がメインになるのではないだろうか。

「その家族の多寡に応じて造る事」とか「その職務に適すべき事」というのは、短く言うと、身分相応の家に住めということだろう。
当時は大家族が当たり前だった。三世代同居は当たり前だし、子供が5人も10人もいるのは当たり前だ。
だが庶民の家は狭く、6畳2間に10人家族では狭すぎる。
身分相応の家に住めというより、むしろ、身分相応の家を供給せよ、ということなのかも知れない。
政府は、人々がその家族の人数に適した家に住めるように供給せよ、ということだ。

現代であれば核家族とか一人世帯が多いので、狭くてもあまり問題ないが、「その職務に適すべき事」が引っかかる。
東京のサラリーマンが通勤に往復3時間も4時間も費やすのは、あまりにも痛勤過ぎる。私も20年くらい前は埼玉から東京まで往復3時間費やして職場に通っていた。1日は24時間しかないのに、3時間も4時間も通勤に費やすのはあまりにもバカバカしい人生だ。
産業エリアと住居エリアのバランスが悪いからそんなことになってしまうのである。
政府はサラリーマンという職務に適するように、職場にもっと近いところに家を供給すべきであろう。
あるいは東京一極集中を止めて、地方に職場を分散すべきだ。
コロナ禍によりリモートワークが進み、多少は東京の人口も減ったようだが、コロナ禍が明けたらまたコロナ以前に戻ってしまうようでは、何も進歩がないことになる。

「徒食遊民」というのは、おそらく「高等遊民」を指すのだと思う。
当時、金持ちの子弟で、大学を出たにもかかわらず、働かなくても食べていけるので、働かずに遊んでいるような人たちがいた。彼らを高等遊民と呼ぶ。
高等教育を受けたのに遊んでいるのだ。

現代の大学進学率は60%くらいだが、大正時代は5%くらいだった。だから学士さんは超貴重な存在であり、それだけ社会から期待されていたのだ。
現代の大卒遊民は就職したくても求人が少なくて就職できない人だが、当時は就職口があっても働かない遊び人が多数いたのである。働くのがかったるかったんだろうか? 現代だといわゆるニートがそれだ。親のすねをかじって遊んで暮らしているような連中である。
その高等遊民が一人もいなくなることが、天産自給における住宅の根本義だと王仁三郎は言うのだが、いまいち意味がよく分からない。
遊び人の問題と住宅の問題がどう繋がるのか?

おそらく、住宅を単なる住む場所ということではなく、人生の基盤として捉えているからだと思う。
『皇道維新と経綸』収録の「皇道維新について」では削除されているが、『出口王仁三郎全集 第一巻』収録の「皇道維新について」の最後の方に、次のような文言がある。

「国民住宅の全部は職業家族及び家庭に応じ、幸福の実現を目的とし供給せらるべき事」

人生の目的もなくブラブラと生きている人は、神様から見たら死んでいるのと同じである。
自分がこの世に生まれて来た目的・使命というものを探求し、それを実行するのが人生だ。そしてそれが「幸福」である。
神様の次元で見たら、好きな人と結婚することが幸福なのではないし、美味しいものを腹一杯食べることが幸福なのでもない。人生でやるべきことをやることが本当の幸福である。

そして家というものは、その人の職業とかライフスタイルに応じた家に住むべしというのだから、つまりその人の人生によって住む家が決まって来る。
たとえば農家であれば、農業に適した家というものがあるだろうし、ピアニストであればピアノを置いても抜けない頑丈な床が必要だろう。リモートワークのサラリーマンなら通信の途切れないブロードバンド回線と、家族の声が電話の相手に聞こえない個室が必要だ。

では人生の目的もなく、金があることをいいことに働かない遊んでいる高等遊民には、一体どんな家がいいのか? ──そんな家はない。
人生の基盤となる住居問題は、人の人生とは何なのかという問題に繋がってくるのだと思う。

ステータスシンボルとしてマイホームを持っても、それは外側を整えただけである。明るい家庭を夢見ていても結局、家庭崩壊して、住んでいるのは自分一人だけという惨めな結果になるかも知れない。
真に重要なのは内面である。自分は何者なのか、今生で何を為すべきなのか、どう生きればいいのか、それが定まることで、住む家も自ずから定まって来る、ということなのではないかと思う。

(続く)



(このシリーズは「霊界物語スーパーメールマガジン」令和2年(2020年)8月24日号から12月28日号にかけて25回連載した文章に加筆訂正したものです)

世界大家族制とベーシックインカム(22)肉食の是非

Published / by 飯塚弘明
投稿:2022年07月17日

前回(第21回)は天産自給について書いた。
天産自給は、住んでいる土地で天賦に産出するものを用いて生活することである。
地球に住む生き物は、全て天産自給で生きている。
アフリカのライオンが、中国のパンダを喰おうとは思わない。
天産自給が天理天則である。
しかし人間は欲望というものがあるので、その土地で採れるものだけでは満足しない。
遠いところから持ってきたり、本来その土地にない動植物を栽培・養殖したりして欲を充たそうとする。

コーヒーでもバナナでも、今は海のはるか向こうから持って来ている。これは天産自給という観点から見ると、間違ったことである。
なるべく日本に近いところで育ったもの、できれば日本国内で育てるようにすべきだ。
フィリピンバナナよりは台湾バナナの方がいい。
最近は沖縄でもバナナを育てている人がいるようだ。
どうしても食べたければ、そうやって、なるべく近くで育てるようにすればいいのだ。

本来その土地にない外来種でも、長年そこで栽培し、土地に根付いて行けば、その土地の産物となる。
たとえばトマトはもともと日本にはなく、南米ペルー原産の植物だ。
それがヨーロッパで栽培されるようになり、明治に日本に入って来た。
一般市民も食べるようになったのは昭和に入ってからのようだ。
王仁三郎は最初は、トマトは食べていけないと言っていた。

「トマトは向こう(外国)から来たのを食べたらいかんので、こちら(日本)になじんだのは食べてよいのである。十年したら日本のトマトになる」〔『新月の光』下巻p187「トマトと肉」〕

実際に王仁三郎は、昭和17年に拘置所から出獄して亀岡に帰ってから、トマトを食べたとのことだ。〔『新月の光』上巻p220「トマト」〕

人間は欲を充たすために栽培や養殖ということをやるが、対象が植物ではなく、動物となると、また違う問題が出て来る。
2020年11月、デンマークでミンク1700万匹を殺処分したというニュースがあった。
BBCニュース「デンマーク、ミンク1700万匹を殺処分へ 新型ウイルスの変異種発見で

新型コロナウイルスの変異種がミンクから見つかり、人間に感染するのを防ぐため殺処分したというのだ。
毛皮用のミンクだ。
年々減っているようだが、今でも毎年数千万頭ものミンクが毛皮にするため殺されているらしい。
Vegan Fashion「世界中でミンクの毛皮生産量大幅な減少」(2016年)

最近はアパレルブランドも、動物愛護団体の突き上げで、動物ではなく、代替素材で毛皮風コートを作ったりしているようだ。

王仁三郎は天産自給に絡んで、服装の改革が必要だと唱えている。

古往今来、天理人道未だ明らかならずして、野生的欲望の窮極するところ、ついに弱肉強食の暴状をもあえてはばからざるに至ったのである。

ことに最もはなはだしきは西洋強国の暴状である。彼らは人生の本義を全く知らない。動植物が天賦自然の使命を有する事も知らない。弱肉強食的野獣性を発揮して、むやみに鳥獣を屠殺してその肉に舌鼓を打ち、その毛羽や皮革を服用して文明社会の常事としていささかも怪しまないのは、野蛮因習の然らしむる所であって、その残忍、酷薄なる習慣はますます増長して、ついには他人の国家を侵蝕し、併呑し、飽食暖衣を誇るをもって、世界的文明強国なりと信じているのである。仏者のいわゆる畜生道、餓鬼道、修羅は、最も適切な現代の評語であろう。

今や服装の改良は最も急務中の急務である。古諺(こげん)に『良薬は口に苦く、諫言(かんげん)は耳に逆う』と、実にもっともである。現在世界的文明の服装として、国民が競って使用せる洋帽に洋服に洋傘に、洋靴の如きは、実に実に非文明的野蛮を標榜したる獣的蛮装である。しかしてその材料として貴重されいるものほど残忍無道を敢行せる産物である。

畏くも万世一系の皇運を享有し給い、済世安民を以て天職と為し給う御国体の根本義としては、これらの蛮的獣装を禁止する事が、国家経済と人心革正の必要とまた天産物自給の法則上における最大急務である。
〔「皇道維新について」第六章 天産物自給の国家経済

当時はまだ化学繊維は出回っていなかったから、服の素材は木綿や麻、動物の皮が主流だと思う。
上流階級だと絹もあるだろう。
王仁三郎は西洋の服装を「獣的蛮装」とこき下ろしている。それは西洋の庶民の服装ではなく、おそらく鹿鳴館に代表されるような、西洋かぶれした日本の上流階級が着ていたような華美な服装を指しているのだと思う。
それこそミンクの毛皮のコートのようなものを「獣的蛮装」とこき下ろしているのだろう。
日本では明治維新まで、上流階級でも動物の皮を着たり肉食をしたりすることはなかったが、明治以降は西洋文明に毒されて、肉食や毛皮が広まった。

王仁三郎は「蛮的獣装を禁止」せよと厳しいことを言っている。
単に毛皮を着ることを禁止せよということではなく、華美な服装を禁止せよということだと思う。
「その材料として貴重されいるものほど残忍無道を敢行せる産物である」と言っているが、贅沢な服装の極にあるのが、動物の毛皮だということだと思う。
絹にしても、蚕に糸を吐かせて繭を作らせた後は、茹でて殺してしまうのだ。
虫だから動物よりはいいかも知れないが、しかしまあ、なるべくなら殺したくないものだ。

果たして、肉食が好きだとか、毛皮が好きだという人は、動物を殺すことが好きなのだろうか?
いや、決して殺すのが好きなのではなく、肉の食感や味、毛皮の肌触りや質感が好きなだけだと思う。
しかしテクノロジーの発達によって、肉のような食べ物や、毛皮のような素材を作ることが出来るようになって来たので、もはや殺さなくてもいい時代がやって来た。
もう動物を殺すのは止めて、代わりのもので満足すべきである。

しかし肉食や毛皮が本質的に悪いわけではない。
氷上や砂漠で生活している人は、そもそも植物が育たないのだから、そこに生きている動物を殺して肉を食べたり毛皮を着たりするしかない。そういう場所では、そういう生活が理に適っているのだ。
それが天産自給というものだ。
その土地で採れたものを使って生活するのが原理原則だ。
しかし人類の大多数は温暖な地域に住んでいる。肉食したり、動物から皮をはいだり必要はない。
植物で十分、食も衣服もまかなえる。
しかも人類はテクノロジーを手に入れた。
動物を殺さなくても代替の素材がいくらでもある。
五六七の世に近づいているのだ。

☆   ☆   ☆

王仁三郎は「キ」のつく動物は食べてもいいと教えている。

キの字のつく四足類は、食用とすることを許されているのである。たとえば、狸、狐、兎の如きもので、また、たまがえし(注・言霊返しのこと)してキになるものも許されるのである。かも鹿の如きがそれであって、これらは神界の方で木即ち植物に宣り直していて下さるのである。鳥類でも鴨、雉の如きみなキにかえるので、鶏をカシワと呼びならわしたのも柏の意味で木ということになる。牛馬の肉は食用としてはいけない。
〔月鏡「食用動物」〕

さきに、狐、狸、兎、雉などのキのつく動物は、食べても差し支えないと云ったことがあるが、これらは有職故実においても草木と見なしたものである。
鶏をカシワと云うのは柏の意である。
鴨の魂返しはコである。即ち木であるから食べてもかまわない。
玉鏡「キのつく動物

このように、ニワトリ(カシワ)などは食べてもいいというのだが、しかしそれは、食べても大丈夫だということであって、食べなさいと勧めているわけではない。
たとえ殺してでも食べなくてはいけないような状況であれば、食べるべきだが、食べなくてもいいのであれば、食べるべきではない。殺すべきではない。

昔の日本は多くの国民が農家であり、農家であればたいていどこでもニワトリを飼っていた。
盆や正月に自分ちのニワトリの首を絞めて食べるというようなことを王仁三郎は想定して「キのつく動物は食べてもよい」と言っているのである。

しかし現代はまるで状況が異なる。ほとんどの人は非農家だ。毎日のように肉を欲しがる人々の食欲を満たすために、工場で大量にニワトリを養殖している。身動き出来ない狭いスペースに閉じ込めて、酷い場合には口から無理矢理エサを突っ込んで太らせているのである。
王仁三郎の時代とは全く異なる。
現代に即して考えなくてはいけない。

テクノロジーによって、もはや動物を殺さなくても、動物のような素材(肉のような素材、毛皮のような素材)が開発されて来ているのだから、酷いことは止めて行くべきである。
それが愛善の精神というものだ。

(続く)



(このシリーズは「霊界物語スーパーメールマガジン」令和2年(2020年)8月24日号から12月28日号にかけて25回連載した文章に加筆訂正したものです)