王仁文庫第九篇の「道の大本」と単行本の「道の大本」

Published / by 飯塚弘明
投稿:2018年11月05日

霊界物語ネットに『王仁文庫 第九篇 道の大本』(大正10年)と『道之大本』(昭和2年、単行本)を掲載しました。

題名は同じ「道の大本」ですけど、内容は異なります。混同しないように霊界物語ネットでは単行本の方を「道之大本」と表記することにしました。(両書とも表紙には「道之大本」と記されていますが奥付などは「道の大本」です)

似たような題名で『大本の道』という本がありますが、そちらは昭和20年代に『愛善の道』という題名で発刊された歌集です(後に増補して『大本の道』に改題)。

さて、二冊の「道の大本」ですが、何が違うのかというと、もともとは明治38年(1905年)に王仁三郎が執筆したもので、そのうちの一部分が機関誌『神霊界』大正9年(1920年)8月11日号~9月11日号の4号にて発表されました。それをまとめて翌10年8月に王仁文庫第9篇として刊行されました(同書「凡例」参照)。

これは「裏の神諭」とも呼ばれています。(表の神諭は大本神諭)

それとは重複しない別の一部分が、昭和2年(1927年)8月に単行本『道の大本』として発刊されました(同書「はしがき」参照)。

昭和47年(1972年)に刊行された『出口王仁三郎著作集 第1巻』に「道之大本 七」という文書が収録されていますが、そちらは王仁三郎の自筆本(漢字交じりの平仮名文)を底本としたもので、内容的には単行本の『道の大本』と重複しています。

昭和57年(1982年)刊の『大本史料集成 Ⅰ』に収録されている「道の大本」は、王仁文庫第9篇と同じです。

執筆した明治38年というのは王仁三郎がまだ30代半ばの青年で、大本の幹部たちから排斥され、出口直開祖に対する不満も溜まり、悶々としていた時期です。
出口和明著『大地の母 第8巻』「大橋越えて」にその執筆のエピソードが書いてあります。少々引用します。王仁三郎は「道の大本」の中で出口直や大本のことをかなり非難しています。

 臥竜亭に帰った王仁三郎は、役員たちのいないのを確かめて、『道の大本』八巻の執筆にかかる。第一章、第二章と教えについて書き進め、筆を置いて読み返す。苦労をして書きためた多くの書を役員たちに燃やされた悔しさがよみがえる。感情の激するままに、一気に筆を走らせた。

  第三章
一、丹波のある所に曲津神の集まる巣窟ありて、あまたの悪魔あらわれ、偽救世主をあらはして、世界を乱し破らんとす。王仁、天津神の命もてこの曲津神を国家のために打ち滅ぼさんと日夜心を砕きたり。
二、曲津日神は常識を缺きたる頑迷固陋のしかも朴直なる婦人の心にひそみ、常に偽善をもちて人をたぶらかすをもって、唯一の方法手段となしつつあり。
三、その婦人は年老いたるものにして、事の理非曲直を深く考え察するの明なければ、自ら妖神の言を固信し、世人みな濁れり我一人清めりとなして、偽救世の説をとなうるなり。
四、その説一として国家社会に害毒を流さざるはなし。曰く財産家は天の罪人なり、曰く漢字は国害なり、学校は害物なり、商工業は小にせよ、外国人は排斥せよ、服は和服にせよ、洋服は神意に反す、種痘は汚穢なり神慮にかなわず、桑を造るな、蚕を飼うな云々、一として生成化育の神意に反せざるはなし。これ妖魅の言辞にして社会の破滅を好むものたること言をまたずして明なるところなりとす。
五、曲津神は老いたる婦人の口を借り手を借りて世の中の多くの人をあざむかんとするなり。
六、曲津の曰く、三千世界を一つにまるめて神国にするぞよ、戦いがあるぞよ、東京へつめかけるぞよ、外国は地震雷火の雨降らし人を絶やして神国にいたすぞよ、世界の人民三分になるぞよ、この神にすがらぬ者は谷底へほかしてみせしめにするぞよ、神には勝てぬ往生いたされよ、はよ改心いたした者は早く助けてやるぞよなどと毒舌をふるうて、人を迷わせんとはするなり。
七、王仁その曲津を愛さんと思いて、浄心の本たる霊学をもってこれに対するや、かれ曲津神大いに恐れ忌みて、またもや口と筆もて王仁を傷つけんとはせり。
八、曲津神に心の根城を奪われて、山口あか(著者注・出口直を指す)といへる女、曲津狂祖となり、たかむらたかぞう(中村竹吉を指す)たかす迷ぞう(四方平蔵を指す)などその手足となりて、この豊葦原の瑞穂の国を汚し破らんとつとむ。
九、されどもはや瑞の霊の大神の宮居たる審神(者)の王仁、ここにいよいよ正義の矛をとりて現はれきたれば、いかでかかる曲津神をこの世にはびこらせおかんや。
十 すなわちここに直霊の霊の剣もて天の八重雲を吹きはらい、日月の光ここに現われたれば、いまや曲津は苦しみもだへつつあるなり。

ずいぶん派手に罵っていますね (^_^;
出口直を曲津呼ばわりです。

これはちょっと善言美詞とは言えないのでは??
「感情の激するままに」とありますが、自分の役割を全く理解してもらえない苛立ちが爆発したのでしょうね。
50歳以降に書いた霊界物語と比較すると、王仁三郎もまだまだ青かったんだなと言わざるを得ません。

さすがにこの罵りの部分は、王仁文庫の「道の大本」にも単行本の「道の大本」にも収録しなかったようです。
若き日の王仁三郎の副守先生の叫びではないでしょうか。

縁起譚 御巫(巫女)の起源

Published / by 飯塚弘明
投稿:2018年10月23日

霊界物語には、事物の起源・由来を説明した、いわゆる縁起譚(えんぎたん)がいくつか記されています。その一つ「御巫(みかんこ)」の起源です。

御巫(みかんこ、みかんのこ)とは、古代において、神に仕えた未婚の女性のことで、現代の巫女(みこ)のことです。

第78巻第2章「波上の追懐」より

ここに湯結比女の神(ゆむすびひめのかみ)は朝夕「火の若宮」に仕えまし、主の神(すのかみ)を始め、火の神と称えまつりし朝香比女の神の生魂(いくたま)に、白湯を沸かして笹葉に浸し、左右左(さゆうさ)に打ち振り、朝々の身魂(みたま)を清め、御湯(みゆ)を御前(みまえ)に奉りて忠実に仕え給いける。これより今の世に到るまで何れの神社にも御巫(みかんのこ)なるものありて、御湯(みゆ)を沸かせ、神明に奉る事とはなりたるなり。

舞台は「紫微天界(しびてんかい)」と呼ばれる原初の宇宙で、神々がまだ言霊だった時代の話です。万里ケ島(までがしま)の田族比女の神(たからひめのかみ)に、朝香比女の神が火打ち石を贈り、火食の道が開けたので、朝香比女の神を「火の神」と奉称するようになりました。その朝香比女の神を祭る「火の若宮」に仕える湯結比女の神(ゆむすびひめのかみ)が、火で水を沸かしてお湯にして神前に供えるようになった……というところから、御巫が始まったというのです。

ちなみに「御巫(みかんこ)」という言葉の語源は霊界物語には書かれていませんが、広辞苑によると「御神子(みかみこ)」が転訛したそうです。

(ご注意:全体の一部分を抜き書きしているだけですので、前後の文脈を知りたいときは原文を直接読んで下さい。また、意味は一つだけはありません。行間を読むことで違った意味が見えて来ます。いろいろな角度から考えてみて下さい。)

ビクトリアとビクトリヤ

Published / by 飯塚弘明
投稿:2018年09月23日

霊界物語第53巻から第56巻にかけて、「ビクトリヤ城」とか「ビクトリヤ王」など、「ビクトリヤ」を冠する地名・人名が登場するが、愛善世界社版では「ビクトリア」になっている。初版も校定版もみな「ビクトリヤ」なので、「ビクトリア」は誤字だと思われる。オーストラリヤ、マリヤなど、現代では「~リア」と表記するものは、昔は「~リヤ」と表記していた。霊界物語ネットでは愛善世界社版を主たる底本としたため、現在は「ビクトリア」になっている。

王仁三郎の子供たち

Published / by 飯塚弘明
投稿:2018年02月13日

出口王仁三郎は妻・澄子(大本二代教主)との間に8人の子供が生まれた。
男子2人、女子6人。
ただし男子2人と女子1人は夭折しており、成人したのは女子5人なので、子供は「娘5人」とされる場合が多い。

  • 長女/直日(なおひ)/明治35年(1902年)3月7日(旧1月28日)生まれ/大本三代教主/戸籍上の名は「あさの」
  • 二女/梅野(うめの)/明治37年(1904年)5月30日(旧4月16日)生まれ
  • 三女/八重野(やえの)/明治42年(1909年)5月5日(旧3月16日)生まれ
  • 四女/一二三(ひふみ)/明治44年(1911年)8月8日生まれ、昭和2年(1927年)3月24日帰幽(満15歳)
  • 長男/六合大(くにひろ)/大正2年(1913年)8月29日生まれ、翌3年4月10日帰幽(満7ヶ月)
  • 五女/尚江(ひさえ)/大正4年(1915年)3月5日生まれ
  • 二男/相生(すけなり)/大正7年(1918年)4月3日生まれ(住之江と双子)、同年8月25日帰幽(満4ヶ月)
  • 六女/住之江(すみのえ)/大正7年(1918年)4月3日生まれ(相生と双子)

●出生年月日は『大本年表』による。
●相生の帰幽は『大地の母』第12巻「七十五日の行」では8月25日だが、『大本年表』では8月26日になっている。

大本開祖・出口ナオの子供たち

Published / by 飯塚弘明
投稿:2018年02月11日

出口ナオ(出口直子)には夫・政五郎との間に3男5女、計8人の子供がいる。

  • 長女/米子(よねこ、大槻米子)/安政3年(1856)~大正4年(1915)59歳/侠客で焼肉屋の大槻鹿造と結婚
  • 二女/琴子(ことこ、栗山琴子)/文久2年(1862)~昭和6年(1931)69歳/栗山庄三郎と結婚
  • 長男/竹造(たけぞう、出口竹造)/文久4年(1864)~昭和7年(1932)68歳/大本は末子の澄子が継ぎ、政五郎の跡は竹造が継いだ。(資料によっては「竹蔵」と書いている場合もある)
  • 三女/久子(ひさこ、福島久子)/明治元年(1868)~昭和21年(1946)78歳/人力車夫をしていた福島寅之助と結婚。亀岡の隣町の八木(やぎ)に住み、王仁三郎に反対する言動をとった。久子は筆先『日の出神諭』を書き、丑年生まれの寅之助は丑寅の金神を名乗った。彼らを信奉するグループは八木派と呼ばれる。
  • 二男/清吉(せいきち、出口清吉)/明治5年(1872)~没年不明/明治25年、二十歳で近衛師団に入隊。日清戦争に出征し、28年台湾で戦死したとの通知が来る。しかし実際には軍事探偵(諜報員)として大陸に派遣されたのではないかという説がある。33年の北清事変(義和団事件)で偉功を立てた「王文泰」が実は清吉で、王仁三郎が入蒙の際に出会った女馬賊・蘿龍(らりょう)は清吉の娘ではないかと言われる。(入蒙記巻末の歌集「蒙古建国」、出口和明『入蒙秘話』を参照)
  • 三男/伝吉(でんきち、大槻伝吉)/明治10年(1877)~昭和14年(1939)62歳/姉の大槻米子・鹿蔵夫妻の養子となる。
  • 四女/龍子(りょうこ)/明治13年(1880)~大正11年(1922)42歳/木下慶太郎と結婚。出口姓を継ぐ。
  • 五女/澄子(すみこ、出口澄子)/明治16年(1883)2月3日~昭和27年(1952)3月31日、69歳/王仁三郎と結婚。大本二代教主。