言向和(4) 皇祖の大命と、憲法九条

投稿:2017年07月18日

古事記によると──皇祖アマテラス(天照大御神)は天孫ニニギ(邇邇芸命)を地上に降し、荒ぶる神々を言向け和して統一せよと命じました。
──なんていう話は、おそらく初耳だという人も多いと思います。

実はアマテラスのセリフとして、ニニギに「言向け和せ」なんて語っているシーンは古事記に登場しません。
だから初耳なのも当然です。

それが今日まで千数百年間、「言向け和す」が皇祖の大命として認識されて来なかった理由の一つだと思います。
古事記にはっきり書いてあればいいのですが、はっきり書いていないのです。
「言向け和す」が書いてあるいくつかのシーンから、皇祖の大命を推測し、その結果、「地上を言向け和して統治せよ」ということが大命であったと判断できるのです。

まずは古事記で「言向け和す」がどのように使われているのか説明して行きます。

古事記で「言向け和す」という言葉は一番最初に、天孫降臨の場面に出てきます。地上を言向け和して統一国家を創ることを使命として天孫は高天原から降ってきたのです。

天孫とはアマテラスの孫のニニギ(邇邇芸命)のことです。
アマテラスは最初、自分の長男のオシホミミ(天忍穂耳命)に対して、降臨の使命を下しました。高天原から地上に降り「豊葦原の水穂の国(とよあしはらのみずほのくに、日本列島のこと)」を統治せよ…というミッションを、アマテラスはオシホミミに与えたのです。

しかし豊葦原の水穂の国は、荒ぶる(反逆する意)神々が多く、各地で騒いでおり、とうてい統治できる状態ではありませんでした。──天から地に降ると言っても、そこに住んでいる国津神たちにしてみれば、天津神による侵略と感じるでしょうから、そりゃ騒ぐはずです。

そこで高天原では、天の安河原(あまのやすかわら)に八百万の神々が集まって協議し、国津神を鎮撫するためにアマテラスの二男のホヒ(天菩卑命)を使者として派遣することにしました。

しかしホヒは、国津神の代表格である出雲のオオクニヌシ(大国主命)に扈従(こじゅう、付き従うこと)してしまい、三年経っても高天原に帰って来ません。

次にアメノワカヒコ(天若日子)が高天原から派遣されました。しかし今度はオオクニヌシの娘のシタテルヒメ(下照比売)に惚れ込んでしまい、八年経っても帰って来ません。

そこで三番目にキギシナナキメ(雉子名鳴女)という女神を派遣することになりました。そのときアマテラスは彼女にこのように命じるのです。

「アメノワカヒコに会って問いなさい。『あなたを遣わしたのは、荒ぶる神たちを言向け和すためです。なぜ八年経っても帰って来ないのですか?』と」

これが古事記に「言向け和す」という言葉が出てくる最初のシーンです。天孫降臨の前に地上に使者を派遣し「荒ぶる神たちを言向け和せ」というミッションを与えたことが明確に書かれています。
ただしあくまでも、天孫降臨の「前」に、その準備として派遣した使者に対して与えたミッションです。
天孫に与えたミッションではありません。

古事記の原典は漢文で書いてあり、ここでは「言趣和」(言趣け和す)という文字が使われています(真福寺本による)。

書き下し文を角川文庫の『新訂 古事記』(武田祐吉・訳注、中村啓信・補訂・解説)から引用してみます。少々長いですが、アマテラスが長男ホヒに命じるシーンから引用します。
(注・青空文庫のものを流用しています。ルビは《 》の中です。また、文字を多少変えています)

 天照大御神の命もちて、「豊葦原の千秋《ちあき》の長五百秋《ながいほあき》の水穂《みづほ》の国は、我が御子《みこ》正勝吾勝勝速日《まさかあかつかちはやひ》天忍穂耳《あめのおしほみみ》の命の知らさむ国」と、言依《ことよ》さしたまひて、天降《あまくだ》したまひき。ここに天忍穂耳の命、天の浮橋に立たして詔りたまひしく、「豊葦原の千秋の長五百秋の水穂の国は、いたくさやぎてありなり」と告《の》りたまひて、更に還り上りて、天照大御神にまをしたまひき。ここに高御産巣日《たかみむすび》の神、天照大御神の命もちて、天の安の河の河原に八百万の神を神集《かむつど》へに集へて、思金の神に思はしめて詔りたまひしく、「この葦原の中つ国は、我が御子の知らさむ国と、言依さしたまへる国なり。かれこの国にちはやぶる荒ぶる国つ神どもの多《さは》なると思ほすは、いづれの神を使はしてか言趣《ことむ》けなむ」とのりたまひき。ここに思金の神また八百万の神たち議りて白さく、「天菩比《あめのほひ》の神、これ遣はすべし」とまをしき。かれ天菩比の神を遣はししかば、大国主の神に媚びつきて、三年に至るまで復奏《かへりごと》まをさざりき。
 ここを以ちて高御産巣日の神、天照大御神、また諸の神たちに問ひたまはく、「葦原の中つ国に遣はせる天菩比の神、久しく復奏《かへりごと》まをさず、またいづれの神を使はしてば吉《え》けむ」と告りたまひき。ここに思金の神答へて白さく、「天津国玉《あまつくにだま》の神の子 天若日子《あめわかひこ》を遣はすべし」とまをしき。かれここに天《あめ》の麻迦古弓《まかこゆみ》天の波波矢《ははや》を天若日子に賜ひて遣はしき。ここに天若日子、その国に降り到りて、すなはち大国主の神の女 下照比売《したてるひめ》に娶《あ》ひ、またその国を獲むと慮《おも》ひて、八年に至るまで復奏《かへりごと》まをさざりき。
 かれここに天照大御神、高御産巣日の神、また諸の神たちに問ひたまはく、「天若日子久しく復奏《かへりごと》まをさず、またいづれの神を遣はして、天若日子が久しく留まれるよしを問はむ」とのりたまひき。ここに諸の神たちまた思金の神答へて白さく、「雉子名鳴女《きぎしななきめ》を遣はさむ」とまをす時に、詔りたまはく、「汝《いまし》行きて天若日子に問はむ状は、汝を葦原の中つ国に遣はせるゆゑは、その国の荒ぶる神たちを言趣《ことむ》け平《やは》せとなり。何ぞ八年になるまで、復奏《かへりごと》まをさざると問へ」とのりたまひき。

これ以降も古事記の随所に「言向け和す」という言葉が出てきます。

次に出てくるのはオオクニヌシの国譲りの場面です。タケミカヅチ(建御雷)の神が高天原から使者として派遣されます。そしてオオクニヌシが、国を天津神に献上することを約束した後、タケミカヅチは高天原に帰還して、葦原の中津国(日本の国土)を言向け和したことを報告するのです。
ここの原文は「言向和」です。

かれ建御雷の神 返りまゐ上りて、葦原の中つ国を言向け和しし状《さま》をかへりごとまをしき。

他にどういう場面で使われているか、いくつか見てみましょう。

【初代 神武天皇】
…かれかくのごと、荒ぶる神どもを言向け和し、伏《まつろ》はぬ人どもを退《そ》けはらひて、畝火《うねび》の白檮原《かしはら》の宮にましまして、天《あめ》の下 治《し》らしめしき。

【第7代 孝霊天皇】
…吉備の国を言向け和したまひき。

【第10代 崇神天皇】
 またこの御世に、大毘古《おほびこ》の命(注・孝元天皇の皇子)を高志《こし》の道に遣し、その子 建沼河別《たけぬなかはわけ》の命を東《ひむがし》の方 十二《とをまりふた》道に遣して、その服《まつろ》はぬ人どもを言向け和さしめ、また日子坐《ひこいます》の王《みこ》をば、旦波《たには》の国に遣して、玖賀耳《くがみみ》の御笠《みかさ》(こは人の名なり。)を殺《と》らしめたまひき。

【ヤマトタケル(倭建)の西征】
…山の神 河の神また穴戸《あなと》の神をみな言向け和してまゐ上りたまひき。

【ヤマトタケル(倭建)の東征】
…ここに天皇《すめらみこと》、また頻《し》きて倭建《やまとたける》の命に、「東の方十二道《とをまりふたみち》の荒ぶる神、また伏《まつろ》はぬ人どもを、言向け和せ」と詔《の》りたまひて…
…東の国にいでまして、山河《やまかは》の荒ぶる神または伏はぬ人どもを、ことごとに言向け平和《やは》したまひき。
…そこより入りいでまして、ことごとに荒ぶる蝦夷《えみし》どもを言向け、また山河の荒ぶる神どもを平《ことむ》け和《やは》して

──とまあ、このような感じで使われています。
天皇を首班とする渡来民族(天津神)が、日本列島を征服し、先住民族(国津神)を支配下に置いて行くプロセスで、「言向け和す」という言葉が使われています。

和す(やわらかにする)というのですから、天津神と国津神、双方共に一致和合して円満解決……というイメージがします。しかし現実には、神武天皇もヤマトタケルノミコトも、武力によって先住民族を強圧的に征服して行った、という側面を持っています。

たとえば、先述した国譲りの立役者であるタケミカヅチの神は、出雲の国の浜辺に降り立つと──十掬の剣(長い剣)を逆様に突き立てて、オオクニヌシに国譲りを迫るのです。
剣を突き立てて国を譲れと言うのですよ。まるで床にドスを突き立てて「土地を明け渡さんかい」とすごむ地上げ屋の暴力団のようなかんじですね。
果たしてそんなやり方で「言向け和した」と言えるでしょうか? ……それでは「脅迫」ですよね。そんなやり方では、オオクニヌシは和されなかったことでしょう。脅されて渋々国譲りした、というかんじですね。

「言向け和す」が天孫民族に与えられたミッションだとはいえ、現実には言向け和すのはとても難しくて、それで暴力に頼ってしまい、いつしか「言向け和す」なんて忘れ去り、長い年月が経って今日にまで至るのではないでしょうか?
現代の私たちだって、人を言向け和そうと思ってもなかなか和せません。意見の対立を乗り越えられなくて、何か批判されたら悔しいから言い返して、それでお互いに相手を斬って、傷つけ合っています。
大日本帝国も、軍事力で周辺諸国を従わせてアジアの盟主になろうとしたのだし、現在の日本だって、軍備放棄の憲法を高く掲げたのはいいものの、好戦的な国を言向け和すことができずに、結局は軍事力で紛争を解決しようとしています。
言向け和すことはとても難しいことです。
しかし、争いに満ちた地上を言向け和すことを使命として日本が建国されたのです。私はこの素晴らしい崇高な使命を何とかして達成したいと思うのです。

さて、話がずれましたが、古事記には、アマテラスがニニギに、地上を言向け和せと命じたことは、明確には書いてありません。

古事記にはっきり書いてあることは、

①アマテラスが孫のニニギに、地上に降臨して統治せよ、と命じた。

②アマテラスは、降臨に先立って地上に使者を遣わし、荒ぶる神々を「言向け和せ」と命じた。

③ニニギの曾孫である神武天皇(初代天皇)、その子孫である孝霊天皇(第7代)、そして日本武尊(第12代・景行天皇の皇子)が、荒ぶる神々を言向け和して行った。

ということだけです。
アマテラスが直接、ニニギ(及びその子孫である天皇)に対して「地上を言向け和せ」と命じたシーンは出て来ないのです。

しかし③ニニギの子孫である天皇が「言向け和す」を実行しているので、アマテラスは②使者に対してだけではなく、①ニニギに対しても「言向け和す」を命じたのであろうと推測できるのです。
これが、「皇祖は天孫に地上を言向け和せと命じた」と私が主張する根拠です。

ただし、古事記に「言向け和した」と書いてあるからと言って、実際に国津神が言向け和されたのかどうかは別問題です。前述したように、武器で脅されて嫌々ながら…というのが実情だったのではないでしょうか。しかしそれは大和朝廷側が「言向け和す」とはいかなることかよく分かっていなかったからであり、大和朝廷の主観では「言向け和した」と思ったから、そのように古事記に書いたのでしょう。

いずれにせよ、古事記を朝廷以外の者が読むようになったのは江戸時代の国学者たちからで、一般市民でも読めるようになったのは明治以降のことです。帝国主義全盛の時代に古事記を読んでも、「言向け和す」の崇高さに気がつく人はいなかったのでないかと思います。
だから今日でも、それが皇祖の大命であるとは認識されておらず、相も変わらず日本人は、他人を力でねじ伏るようなことばかりしているのです。

日本民族は世界を言向け和すために神が準備しておかれた民族であるということを自覚せねばなりません。

古事記に「言向け和すが日本の使命」と明記されてはいませんが、

●古事記編纂(西暦712年)よりおよそ百年前(604年)に聖徳太子が制定した十七条憲法の筆頭に「和を以て貴しとなす」と規定されている。

●日本の別名を「和」と呼ぶ。(西暦750年頃から使われるようになった。それ以前は「倭」)

という事実を合わせて考えてみると、「言向け和す」が日本の使命だとか国是だとか断言してもいいと思います。

   ○   ○   ○

ここでこういう疑問が浮かんだ方もいるかも知れません。「そもそも古事記に書いてあることは真実なの?」と。

当然ながら古事記は支配者(勝者)から見た歴史の書であり、前半部分は神話です。歴史的事実がそのまま書いてあるとは言えません。しかしこれは天皇が編纂を命じたものであって「日本はこういう国です」ということを規定した書物なのです。

たとえば自伝を書くとします。当然、自分に都合のいいことしか書きません。自伝に書いてあることがすべて事実かどうかはあやしいものです。ですが「私はこういう人生を歩んできた人間です」と知ってもらうために自伝を書くのです。それは著者が自分自身を「自己規定した」のだと言ってよいでしょう。

古事記は1300年前に天皇が「日本はこういう国だ」と自己規定した書物なのです。日本は「言向け和す」を使命として建国されたのだと、当時の天皇が自己規定したのです。神武天皇や聖徳太子が仮に実在していなかったとしても何の問題もありません。「言向け和す」が、日本国家が掲げた国是だということには変わりがないのです。

そして、古事記編纂から1234年が経った昭和21年(1946年)に、戦争放棄を宣言した日本国憲法が公布されました。
私はそこに、人智を超えた神の壮大な意志というものを感じます。
そこには「言向け和す」という言葉こそ使われていませんが、紛争解決の手段として戦争することを放棄することが謳われています。これこそまさしく「言向け和す」の精神です。日本の使命は「言向け和す」だということが再規定されたのです。これはとても重要なことです。

憲法九条をよく知らない方のために掲載しておきます。

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

戦争放棄を定めた第九条はマッカーサーの発案だとも、幣原首相の発案だとも、あるいは昭和天皇の発案だとも言われています。しかし誰が発案したのかはここではどうでもいい問題です。

「言向け和す」を使命として建国された日本に、戦争放棄の憲法が制定されたという事実は、日本人に「言向け和す」が使命だということを思い出させるために、神様が仕向けた天意ではないのかと思うのです。暴力は使うなと皇祖から命じられていながら、暴力を使い続ける日本人を目覚めさせるために、憲法九条が生まれたのではないかと強く感じるのです。

しかし、暴力を使わずに、いったいどうやって、紛争を解決すればいいのでしょうか?
新憲法制定から70年が経つのに、未だにそれが探究されていません。
日本が戦争を放棄したからと言って、世界は平和にはならないのです。

自民党では憲法九条改正に向けて着々と事が進んでいるようですが、他の国々のように軍隊(自衛隊)を憲法で規定しようというのは、世界的に見たら当たり前のことです。
しかし百年前と同じことの繰り返しです。軍拡競争して、ドカ~ン、です。
何の進歩発展もありません。

それに対して憲法九条を守ろうと、怒声を上げている人たちがいます。戦争をなくしたいという気持ちは大切ですが・・・しかし憲法九条を守っても世界は平和にならないということが、まだ分からないのですね。今現在でも世界では戦争でどんどん人が死んでいっているというのに。
こちらもまた進歩発展がありません。

戦ってはダメ。戦わなくてもダメ。

この禅問答のような命題を、神は日本に突きつけているのです。

武力を使わずに、紛争を解決する。

それが出来なくては人類は次の時代──ミロクの世へ進むことは出来ません。

この命題を解かせるために、神は天孫を下し、日本を建国したのです。
そしてその命題を解く鍵として、神は王仁三郎を世に下し、霊界物語を書いたのです。

(続く)