前回の続きです。正道(せいどう)と公義(こうぎ)について。
正道・・・天国での統治制度。「善」によって行われる。
公義・・・霊国での統治制度。「真」によって行われる。
天界は「愛善信真」の世界です。
愛には「善の愛」と「悪の愛」があり、信には「真の信」と「偽の信」があります。悪と偽りは地獄界です。天界は愛善と信真の世界です。
愛善の度合いが強い人は天国の天人となり、信真の度合いが強い人は霊国の天人(天使と呼ぶ)となります。
[参考]
第47巻第9章「愛と信」、「天界の住民」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm4709
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195303c215
さて、これらのことを踏まえた上で、天国・霊国の統治制度である正道と公義とはどのようなものなのか、それが分かりそうな地上界での事例を探してみました。
外国人の不法滞在に関して次のような事案がときどき起こります。(注・実話を脚色したフィクションです)
東南アジアからある夫婦が日本に出稼ぎに来ました。十年以上も滞在し、真面目に働き、子供も生まれて小学生になりました。
しかし就労ビザがとっくの昔に切れていることが入管当局に発覚し、強制送還されることになってしまいました。
ここで、子供をどうするかという問題が発生します。
子供は日本語しか話すことが出来ず、母国に帰ってもそこは彼にとっては見知らぬ外国です。生活習慣にも馴染めず苦労することでしょう。日本では学校で友達も出来て毎日楽しく通っており、「子供を母国に連れて行くのは可哀想だ」という声が周りから湧き上がります。
法に従うなら、子供も日本での滞在資格がないのですから、父母と一緒に母国に行かなくてはなりません。しかし子供に罪はないのですから、父母は強制送還で止むを得ないとしても、子供には滞在資格を認めるべきだということで、いわゆる人権派弁護士がどこからともなく現れて子供の滞在資格請願運動が始まります。ここまでならまだ賛成する人は多いでしょう。
しかしこれがさらに「子供を親から引き離すのは可哀想だ」ということで、両親の強制送還反対運動へと発展して行くのです。そうなると賛成できない人も出て来るでしょう。子供を産めば強制送還されないなんておかしいです。
実は法務大臣の決裁で、不法滞在者でも強制送還せずに滞在資格を認めることが出来るようなのです。法務大臣の考え次第でどうにかなるのです。
そうすると今度はサヨク活動家が現れて、政権批判のための政治運動へと発展して行きます。そしてサヨクを叩くためにウヨクも現れ、ネットでは賛否両論巻き上がりブログ炎上して、てんやわんやの大騒ぎになって行くのです。
──子供はいい迷惑ですね。大人たちの道具にされて。
さて、この事案で、子供や両親を母国に送還させるべきでない、という人は、子供本位(人間本位)で物事を見ているのです。
それに反対する人は、法律本位で物事を見ているのです。
その子供や両親が自分の友人であるなら、帰国させるのは「可哀想だ」と思うのではないでしょうか。日本社会で真面目に働き、生きているのに、国境というものがあるがために、無理やり今の生活を捨てさせられるのは非道いことであります。仕事があるのに労働者が不足している日本に、仕事がなくて貧しい国から働きに来て、お互いに助かっているのに、たかが法律上の問題で強制送還だなんて、あまりにもバカバカしい話です。人情というものがあるなら、このまま日本に住むことを認めるべきではないでしょうか。
それに反対する人たちは「不公平だ」と言うのです。ほとんどの人は法を守りビザが切れたら帰国します。また不法滞在で捕まった人でもみな大人しく強制送還されるのです。子供を産めば強制送還を免れるのではあまりに不公平です。ゴネ得となります。そもそも子供に母国語を教えていないという点でこの親が最初からゴネ得を狙っていた確信犯だったと言えます。許すべきではありません。悪いのは日本政府ではなくこの親です。親の転勤で外国に行く子供なんて大勢います。彼らが決して可哀想なわけではありません。それに外人でも日本で子供を産めば永住権が得られるとなったら、日本社会は大混乱です。不法滞在者は一斉に子供を産み出すことでしょう。そういう混乱を防ぐために法律があるのです。問題があるならまず法律を変えるべきでしょう。責任ある社会人なら法を遵守すべきです。
──というように、賛成派と反対派は、物事を見る価値基準が異なっているのです。
端的に言うと「可哀想」派と「不公平」派です。
賛成派は人間に対する愛情によって動いており、反対派は社会の秩序・公平性を維持しようとしているのです。
これが正道と公義の違いではないかと思います。
天国の統治制度・正道は「善」によって行われます。
霊国の統治制度・公義は「真」によって行われます。
善と言っても法に則するという意味での善ではありません。「愛善」です。
自己愛や、家族だけを愛する、自国だけを愛する閉じた愛は愛悪です。
それに対し、自分や家族はもちろん、地上のすべての国を愛する開いた愛が愛善です。人類愛・隣人愛であり、神の愛です。
それを価値基準とするのが正道ではないかと思います。
公義の真というのは「信真」(真の信仰)という意味です。
モノや動物を神として信仰したり、お金や権力に依存したりするのは、偽の信です。
真の信は、宇宙万有を統べ給う唯一絶対の神を信じることです。それは宇宙の秩序・法則を信じることだと言ってもいいでしょう。絶対神に身を委ねた惟神の生活とは、この宇宙の動きに身を委ねることであり、その動きとは宇宙の法則そのものだからです。
それは人間界では法律とか常識とか道徳ということになります。
そういう秩序を価値基準とするのが公義ではないかと思います。
前回書いたように、正道と公義について霊界物語に詳しく書かれていないので、自分で探究して推測するしかないのです。
ところで王仁三郎の教えというのは、古今東西の様々な宗教のエッセンスを一つにまとめたものになっており、天界の様子については、スエデンボルグの著書『天界と地獄』の影響を受けています。
[参考]
「宗教の統一、道義的・精神的な世界統一」(当ブログ)
「霊界物語とスエデンボルグ」(王仁三郎ドット・ジェイピー)
長島達也・訳『原典訳 天界と地獄』(1985年、アルカナ出版)を見ると、霊界物語における「正道」には「正義」という訳語が当てられ、原典のラテン語では justitia 英語では justice (ジャスティス)になっています。
また霊界物語における「公義」は「公正」という訳語で、ラテン語では judicium 英語では judgment (ジャッジメント)になっています。
王仁三郎はあえて一般的ではない「正道」「公義」という言葉を使ったのでしょうけど、一般的に使われる「正義」「公正」の語の方が理解しやすいかも知れませんね。
この正義は法による正義ではなく、愛による正義です。
公正は、法による公正です。
justice は正義、公正、公平というような意味があります。
judgment は裁判、審判、判断というような意味があります。
意味的にはどちらも混ざり合って似たようなかんじですが、天界の概念を無理やり地上界の言葉に当てはめたものなので、仕方ないです。
そういう点では、王仁三郎のように「正道」「公義」という特殊な言葉で表現した方が、混乱しないで済みますね。
正道と公義の二つが、天界での統治制度であり、価値判断の基準となります。
これは宇宙には正しいことは二つある、ということです。
そもそも宇宙は霊系(火、厳、男、陽、日)と体系(水、瑞、女、陰、月)の二大系統によって成り立っており、これが人類社会で、人々が互いに相手を理解できない原因にもなっています。
この両者の対立そして和解に至る雛型神業が出口ナオと王仁三郎によって行われたわけです。
天国・霊国とか、正道・公義というものも、この二大系統があるがゆえのことです。
どちらが正しいとか間違っているということではなく、立場・観点が異なるために、ものの見え方・価値観が異なり、互いに相手を受け入れることが出来なくなってしまうのです。
霊界は想念の世界なので、天国と霊国は入り混じることがありません。ですから天国は正道、霊国は公義と、価値基準が異なっていてもそれほど問題はありませんが、地上界は深刻です。地上界は物質界なので、両者が混在してしまうのです。
相手が何を基準に善悪正邪を述べているのか、それをしっかり理解しないと、前述のように、賛成派と反対派による理解し合えない大バトルになってしまいます。
宇宙には正しいことが二つあるのです。これは重要なことです。
もちろん前述の事案が、天国・霊国の統治の例ではありません。単に、正道・公義が分かりそうな例を示しただけです。
前述の事案では、両者とも諸々の不平不満や妬み僻みというものが存在しているので、全く天国・霊国的ではありません。しかし人は誰でも神の一霊四魂を与えられており、それは天人になる霊魂ですので、人間社会の現象に天国・霊国的な事象が多少なりとも現れているはずです。そういう事案を探してみたわけです。
他にももう少し探してみましょう。
(続く)