王仁三郎が有栖川宮熾仁親王の落胤(落とし子)だという話はかなり知れ渡って来ましたが(出口恒著『誰も知らなかった日本史』参照)、その王仁三郎にも落胤がいたという説があります。
女性で、名前は大石ヨシエと言います。衆議院議員です。
第二次大戦後に日本で女性の参政権が認められ、昭和21年(1946年)4月の衆議院選挙で39名の女性の国会議員が誕生しました。
そのうちの一人が大石ヨシエ(1897~71年)です。京都府から無所属で出馬し、当選後は日本社会党に入り、昭和30年(1955年)2月の選挙で落選するまで連続5選、約9年間、国会議員として活躍しました。
この大石ヨシエが出口王仁三郎の”隠し子”だというウワサが、その当時からささやかれていたようです。
大石ヨシエは落選した翌年に『あほかいな』という随筆を出版していますが(1956年、鱒書房)、その序から少々引用してみます。
…この凄まじい世の荒波の中で、ヨッちゃん(注・自分で自分のことを「ヨッちゃん」と書いている)は全く身寄り一人なく、ただ足手まどいの八十何才になるつんぼの義母をかかえ、代議士として、
「男なんかクソくらえ。」
と、頑張って来たんや。
勿論、代議士も大事な仕事や。しかし、これとても、ウチの人生のすべてではない。
ウチを政治”ノイローゼ”だという奴がいる。しかし、「ヘソ曲り」のヨッちゃんや、今に、みんどぎもなの度胆(どぎも)をぬくような事をしてやろうか、と思っとる。
そこに、ウチの人生があるんや。
まあ、みな見とってんか? やったるさかい。…
この序からもこの人の性格をうかがい知ることが出来ますが、彼女は「女野次将軍」と呼ばれていた猛女です。武闘派で、国会で乱闘も繰り広げました。今でも韓国や台湾の国会では議場内で武力闘争が行われるようですが、日本の国会も昔は荒れていたのです。
この性格は、高熊山修業以前の、ヤクザ者とケンカを繰り広げていた上田喜三郎(王仁三郎の幼名)を髣髴させるものがあります。ケンカと言っても、個人的なケンカではなく、他人を助けるための”正義”のケンカです。良く言えば反骨精神が強い、義侠心がある、ということです。
『あほかいな』と、岩尾光代著『新しき明日の来るを信ず-はじめての女性代議士たち』(1999年、日本放送出版協会)P247-253をもとに略歴を紹介します。メモも兼ねて、少し細かいことも書いて行きます。(ウィキペディアに書いてあることはほとんど『新しき明日の来るを信ず』が元です)
大石ヨシエは明治30年(1897年)2月12日、舞鶴生まれ。仮に王仁三郎の娘だったとしても、大本入りして出口澄子と結婚するよりずっと前、高熊山修業(明治31年2月)よりもずっと前のことです。
しかしこの生年月日や出生地は本当かどうかは分かりません。というのは、捨て子として拾われた、あるいは養女として貰われたらしいのです。
養父は大石熊吉。家は貧しく、ヨシエが小学校を出て間もなく養父が亡くなりました。
この養父は結婚前にヨシエを長女として入籍したようです。そしてその後、養母(名は千代)が、亀岡から舞鶴に嫁いで来たとのこと。かなりワケありですね。
しかも養母は「一人の娘を丹波亀岡に残して再縁」したと書いてあります(『あほかいな』p198、この部分は『政界ジープ』昭和22年10月号の記事の転載)。
娘を亀岡に残して再縁、とはどういう意味? 謎は深まるばかりですが考えても分からないので先に進みます。
養父の死後は養母との二人暮らしでドン底の生活を送りました。
最初に引用した「序」に「ヨッちゃんは全く身寄り一人なく、ただ足手まどいの八十何才になるつんぼの義母をかかえ」と出て来ましたが、かなり苦労したようです。
ヨシエは米も食えないような貧乏でしたが、どうしても勉強がしたくて、19歳で大阪の信愛高等女学校(現・大阪信愛女学院)の編入試験を受けて入学しました。
卒業後は舞鶴に戻り、婦人会を結成して婦人参政権問題をやかましく主唱します。それが原因で、とんでもない女だということで特高警察のブラックリストに載せられたとのこと。
食って行けないので、婦人会の会員に竹細工をやらせたり、消費組合のようなものを作って生活の糧を探し続けました。
そんな時に舞鶴に武藤山治(むとう・さんじ)が遊説に来ました。武藤は実業家で、衆議院議員。実業同志会(後に国民同志会に改称)という政党の会長です。
ヨシエは武藤に見出され、実業同志会に入って、婦人部の常務理事となり、26歳の時(1923年?)、大阪に出て政治活動に身を投じます。
しかしうまく行かずに解散することになりますが、ヨシエは武藤の援助でアメリカに行くことになりました。昭和3年(1928年)32歳から昭和6年(1931年)35歳の時まで3年間、シアトルを振り出しにアメリカに滞在し、社会事業や婦人問題を研究しました。(実業同志会は昭和4年に国民同志会と改称した、昭和7年に解散)
このように若い時代はずっと政治に身を捧げ、浮ついた恋愛話も一切なかったようです。
帰国すると、出口王仁三郎と面会をすることになります。王仁三郎の方から会いたいと申し込んで来たとのこと。
ここは『あほかいな』p201(政界ジープの記事の転載)から引用します。
内地に帰った彼女は、すぐさま全国各地で講演をやった。
ここらにも、抜けめなく働く心臓の強さがあった。
この当時としては珍らしい婦人問題を口にする洋行帰りの婦人である。
反響は大きく全国に拡がり始めた。
時も時、大本教の出口王仁三郎が一度会いたいと申込んで来たので、舞鶴の旅館霞月で会見することになった。
満洲国が誕生した昭和七年の頃で、出口は早速満洲に行く事をすすめた。
彼女も大本教の宣伝には困った。
しかし出口も相当な野心があっただけに、そんなことを口にもしない。
「好きなことをしてくれ。」との條件で、彼女は渡満することになった。
満洲に渡ると、当時奉天の浪速区にあった大本教奉天支部に身を落ちつけ、婦人身の上相談所をつくったり、奉天新聞に寄稿して婦人問題を論じたりした。
しかし満洲は当時、軍国調の最も華やかなころで、彼女の仕事もうまくゆかない。
心臓と政治力ではどうしても面白くゆかなくなった時、昭和九年の夏に内地に舞いもどった。
昭和10年には第二次大本事件が起きていますので、王仁三郎との直接の関わりは、この時だけのようです。
大石ヨシエは王仁三郎をどのように見ていたか? 人物評が『あほかいな』p84-86に書いてあるので引用します。
相手が女であろうと何であろうと、いつもエロ話ばかりしていた。しかし、そのエロ話の中に味のある処世訓を説くという、一風変った教祖であった。
凡人の如くして非凡、如何なる相手にも差別をつけず、子供の如く天真爛漫で一つも威張らないという、大した傑物であり、一世の英雄であった。
(中略)
ところで、大本教は、不思議なことに、世継ぎは代々女ばかりで、男の子が生れないというのである。
初代、出口なお、二代、出口すみ、三代、直日といって、女ばかりである。王仁三郎の子供はその他、梅野、八重野、尚江、澄野江といって、これまた女ばかりである。
どういう加減か知らぬが面白い系譜である。”三千世界一度に開く梅の花”とうたい、霊界物語を書いた凄いエネルギッシュの王仁三郎が死んだ時には、亀岡から綾部まで延々二十五里、三万の信者が、タイマツをかかげて、夜通し、牛のひく霊枢車のあとに続いたというのだから、如何に徳の高い人だったかが偲ばれよう。
大石ヨシエの王仁三郎評は、「エロ教祖」だけど傑物・英雄──彼女が王仁三郎を尊敬していたことが、この文章からうかがえます。
大本の世継ぎ(歴代教主)は女ばかりで、王仁三郎の5人の子はみんな女ばかり(澄子との間に2人男子が生まれているがいずれも夭折している)と力説していているのは、もう一人の娘である自分の存在を暗にアピールしているようにも思えます。
ヨシエが王仁三郎に依頼され満洲に渡った理由は何でしょうか?
王仁三郎も「好きなことをしてくれ」だなんて、そんな理由で満洲に行かせるわけはないでしょう。
「実は王仁三郎の密命を帯びて満洲に渡った」と勘ぐってみましょう。
それは満洲でヨシエが、大本史にも登場する川島芳子や愛新覚羅溥儀と交際していたからです。(ウィキペディア:川島芳子・愛新覚羅溥儀)
「男装の麗人」「東洋のマタハリ」こと川島芳子と親しく交際していた思い出が『あほかいな』p91-94に書いてあります。一緒に奉天や新京(満洲の首都。現・長春)のダンス・ホールで踊ったとか、恋の悩みを打ち明けられたとか、かなり親しかったようです。
そして、満洲帝国の溥儀皇帝やその皇后とも親交があり、二人は日本を恨んでいたと記されています。
川島芳子や愛新覚羅溥儀(宣統帝)は、大本史にも登場します。出口京太郎著『巨人 出口王仁三郎』(1967年、講談社)p348-351から引用します。
昭和六年九月二十八日、大陸浪人の川島浪速(なにわ)と東洋のマタハリこと芳子(粛親王の娘)が亀岡へ王仁三郎を尋ねてきた。王仁三郎は人ばらいのうえ面会する。会談は川島浪速がツンボのため筆談でおこなわれた。いまも残されているそのときの用紙に、当時のもようの一部をのぞいてみるとつぎのようになる。
「神示によれば、宣統帝(注・溥儀)、日本へひとまずご来朝ある方、完成するとのことです。今度へたをすると宣統帝の没落になりますから十分考えてやってください」
「うっかり話すと、つまらぬ者に利用さるるおそれあり、大本はすべて神示によりて動いております。東京にゆきご面会したのも神示によりてしたのです。わたし一個人の考えでは動いていません。……まず日本ヘ宣帝をかくし、ときをみて……」
「いよいよこちらへお迎えすることに確定すれば、さらに準備をするつもりですから速報を……」
なにやら興味しんしんの場面である。
王仁三郎が川島浪速や川島芳子と面会したの昭和6年9月28日なので、満洲事変が勃発した十日後のことです。
大石ヨシエが満洲に渡った(昭和7~9年)のはその翌年になります。
満州帝国が建国宣言をしたのは昭和7年3月1日なので、ちょうど満洲帝国が誕生した頃に大陸に渡ったことになります。
王仁三郎の考えとしては、あくまでも満洲人民の支持を得た上で、溥儀を皇帝にして建国しようとしていたようです。しかし結局は日本軍部の影響下で、大日本帝国の傀儡国家として建国されてしまいました。溥儀夫妻が日本を恨んでいたというのも、こんな傀儡国家では操り人形だからでしょう。
引用文に「神示によれば、宣統帝(溥儀)、日本へひとまずご来朝…」と出てきましたが、実際に溥儀が来日したのは満洲建国後の昭和10年4月6日であり、軍部に利用されないように一時的に天恩郷に匿おうという王仁三郎の経綸は頓挫したことになります。
この後をもう少し引用します。
(中略)
王仁三郎のこの問題に対する考えは、「満州民衆の総意にこたえて溥儀が皇帝の位につくというかたちで、第三者の策謀的な介入はいっさい排除しなくてはならぬ。そのためには、しばらく亀岡天恩郷にかくれて、溥儀をとりまく策謀の渦から離脱していなくてはならぬ」とするもので、そのため、「大正十五年(一九二六)十一月、栗原白嶺(注・大本幹部)を天津(テンシン)に派遣し、同地に蟄居(ちっきょ)していた宣統帝に会見させて、その意をつたえ」(『七十年史』)というものである。
こういったことが川島浪速との筆談などにつながるのだが、軍部に溥儀をよこどりされ、業をにやしてこの問題から手を引くにいたるのだ。なんのかのと利用だけするが、つごうしだいできたないやり口をつかう彼らにあいそをつかしてしまったのだろう。
(中略)王仁三郎は、溥儀問題に関する力ずくの軍部のやりかたや策謀的な手段を強く非難した。それで、大本や提携団体である大陸の各勢力が、親分の怒りに影響されてどんな動きにでるかもしれない。そうなったら困るので親玉のワニを消してしまえ、というのである。これは権力の正体とかいうどこにでもある話だ。宣統帝問題について、王仁三郎をめぐるさわぎの生じるのは一面むりもない点がある。王仁三郎の力は大きく、大陸での大本系の勢力も絶大であるし、なにより現地人の信奉ぶりがすごかった。だからあらゆる問題に王仁三郎の影響を利用するのは得策で、この点がいろいろな動きのでる原因でもある。軍部もその例にもれずというところだ。それから、満州に「中和国」とか「明光国」とかいう独立国建設の運動がうずまいていて、道院、紅卍字会の連中もこれにかかわりあいがあった。それでこのうずが王仁三郎のところへも流れてくるわけだし、政府や当局がこれを危険視するという段どりにもなっていく。
(中略)
王仁三郎のいうように、大陸問題は野心家たちの策謀や力ずくで失敗し、また、彼の指摘どおり、満州事変を契機として、日本は国際連盟脱退などで孤立し、世界を敵にまわしていった。そして、これらを導火線に中国との本格的な、戦いに突入し、やがてあの太平洋戦争の惨劇をひきおこすにいたるのだ。日米戦、世界戦などに関する彼の予言がかくして的中していくのである。
ついでながら、「つまらぬ者に利用され、へたすると宣統帝の没落になる」といった王仁三郎の警告もそのとおりとなってしまった。王仁三郎の計画が成功して、もし溥儀が亀岡の天恩郷に潜入し雌伏していたら、彼の一生もずいぶんちがうものになっていたことだろう。いや、溥儀の運命だけではない。アジアの歴史、日本の運命、そして世界史の一ページさえもちがったものになっていたかもしれないのだ。
これを読むと、満洲帝国が軍部の影響下で建国されてしまったので王仁三郎はこの問題から手を引いた…という見解が記されています。しかし表向きは手を引いたのかも知れませんが、実は完全に手を引いたわけではなく、満洲で秘かに何らかの経綸を行うために大石ヨシエを派遣した…と考えることも出来るのではないでしょうか。つまり王仁三郎のエージェントとして、川島芳子や溥儀と接触させたわけです。
少なくとも、「好きなことを」させるために満洲に派遣するはずはないでしょう。王仁三郎は何らかのミッションを授けたのだと思います。
さて大石ヨシエは昭和9年(1934年)に日本に帰国した後、政治への道は忘れて心機一転し、商売に熱中します。化粧品の製造卸です。
東京・銀座に店を構え、十年間、空襲で焼けるまで続けました。
戦後は再び政治の世界に入り、初の女性議員として活躍することになります。
社会党の右派に所属していましたが、時には同僚の社会党議員をも批判するような野次将軍で、毒舌家でした。
『あほかいな』p206(政界ジープの記事の転載)には男性議員の言葉として「大石ヨシエに教養の衣をつけさしたら、あの姿さえ男にも稀にみる政治家だぜ」「ありゃ全く正体の分らん怪物みたいな女や」と載っています。そういう豪傑な女だったわけです。
落選して政界を引退(58歳)した後は、恵まれた人生ではなかったようです。郷里の舞鶴には戻らず埼玉県深谷市でひっそりと暮らし、亡くなる4~5年前から脳軟化症になり、身体が不自由になってしまいました。結婚はしておらず、子供もいないので、一人暮らしです。
昭和46年(1971年)5月、ガス中毒事故が起こり自殺かと騒がれます。そんなことはしないと本人は否定しましたが、あまりにも孤独な生活を送っていたので、自殺と間違われたのです。
そこで愛知県師勝町(現・北名古屋市)に住む姪夫婦が「一人暮らしは危ない」とヨシエを引き取るのですが、その翌月、6月7日に亡くなりました。享年74歳。
ウィキペディアに大石ヨシエの写真が載っていたので転載します。
なるほど。王仁三郎に似ていると言えば似ていますね。ぽっちゃりした感じが。
痩せている時の写真が岩尾光代著『新しき明日の来るを信ず』p249に載っています。
こちらは、どうでしょうかね? 似てますかね?
もちろん、親子だからと言って必ず似るわけではないし、親子でなくても似てる人もいます。
『新しき明日の来るを信ず』p251に
「スケールの大きな行動がそう思わせたのだろうか、代議士になってから「出口王仁三郎の落とし胤」だというウワサもあった」
と書いてあります。どうしてそういうウワサが立ったのかは不明です。スケールの大きな行動をしただけでは、そういうウワサは立たないでしょう。誰が言い出したのか? それとも本人がリークした??
仮に王仁三郎の娘だったとしたら、産んだ母親は誰でしょう?
王仁三郎が澄子夫人と結婚する前に、判明しているだけで2回、王仁三郎は事実婚をしています。
一度目は明治30年の春、25~26歳の頃です。
ある家の一人娘と結婚して、婿養子になりました。
斎藤亀次郎の長女・斎藤しげの です。
彼女も養女なんですが、他に子供がいないので、跡取り娘です。喜三郎も長男で跡取りのため、上田家では婿には出せないということで、結婚は難航しました。しかし「喜三郎は上田家は継がぬ。大きくなったら養子にやれ」という祖父の遺言の言葉あり、それで喜三郎の両親は婿養子に出すことを決断したのです。
ただし入籍はしていません。
しかしこの結婚はわずか百日で破綻し離縁しました。
その後、侠客の親分の娘と内縁関係になっています。多田亀吉の娘・多田琴です。
しかしこれもしばらくして別れました。
(次を参照)
大地の母 第二巻:百日養子
王仁三郎の短歌:養子、百日、親子、髪梳、野送
この年の7月に寝たきりがちだった父親が病死しますが、死ぬ前に結婚して父親を安心させようと、喜三郎はあせっていたのかも知れませんね。
大石ヨシエは戸籍上は明治30年2月生まれですが、実際には31年生まれとするならば、この2人のいずれかが母親である可能性があります。
しかしそうではなく、八木弁という女性の娘だという説もあります。八木弁はもっと若い時に出会った女性です。
王仁三郎の恋愛エピソードは、2件の事実婚以外に、判明しているものだけで次の4件あります。
明治24年 20歳 初恋の斉藤蘭が結婚してしまい、失恋
明治26年 22歳 八木弁と恋愛
明治28年 24歳 安達志津江と恋愛
明治29年 25歳 斉藤いの と恋愛
しかし・・・恋多き男子ですね。私の20代とは大違いですよ (^_^;
八木弁の父親は八木清之助と言う武士です。皇女・和宮が将軍・家斉と結婚することになり、江戸に降嫁するときに、和宮の供として一緒に江戸に下っています。
度変窟烏峰(度偏屈烏峰、どへんくつうほう)というペンネームを持ち、喜三郎の冠句の師匠でした。
大石ヨシエはこの八木弁と喜三郎の間に出来た娘だという説もありますが、定かではありません。
そもそもこれは、王仁三郎が仕組んだ偽隠し子騒動の可能性もあります。
『巨人 出口王仁三郎』p213-214、p285に次のような偽隠し子騒動のエピソードが書いてあります。王仁三郎が労働活動家の三田村四郎(ウィキペディア)という男の娘を、自分の子供だと偽って養育していたというのです。
…三田村四郎が、あるとき、官憲に追われ国外ヘ高とびした。三田村には乳飲み子があり、王仁三郎はその子を託されるはめになる。
引き受けたからにはなんとしても赤児をたいせつに育てねばならない。しかも、三田村の子であることをあくまで伏せて。
こんないきさつがあってからまもなく、大本の内外に妙なうわさが流れはじめた。「聖師さんにかくし子があるそうや」、「ワニさん女子に手をつけて、子生ましよったそうや」。うわさはだんだん高くなり、やがて、すみ夫人の耳にもはいる。すみ夫人が当否を問いただしたところ、意外にも王仁三郎はこれを認めてしまった。さあ、それからがたいへんだった。
(中略)いかに太っ腹とはいえ、夫人は猛烈におこりだす。王仁三郎は、とみれば、「すまん」「かんにんしてくれ」と平身低頭の一本槍である。娘の直日の思い出によると、すみ夫人は第二次大本事件前まで三田村の子とは知らなかったそうだ。
かくし子うんぬんで世間がなにかととりざたをする状態が十何年とつづくのであるが、終戦後、三田村が地下から顔を出すと、事態はガラッと変わってしまった。というのは、いままで、王仁三郎のかくし子だとばかり思っていた問題の娘と三田村が、名のりをあげて父娘の対面をおこなったからである。しかも、あのときあずかった赤児はもうすっかり娘に成長しているではないか。
ことの仔細は、赤児の素性の秘密を守るためと、養育の万全を期するため、王仁三郎がうった芝居だったのだ。王仁三郎はさる信徒に、「わしが失敗してもたんや」、と赤児をあずけ、「ないしょにしといてや」と頼んだ。熱烈なワニ・ファンの信徒は、「聖師さんの子や」とこの娘を育てあげたわけだが、「ないしょ」のほうはそうはいかなかった。それで、「自分は聖師さんの子や」と、当の子ども自身が大きくなるまで信じこんでいたのである。これでは周囲が真(ま)に受けてワイワイいうのもむりはない。
ついでながら、この娘は結婚して、いまはもうすっかり立派なお母さんになっている。
なるほど。こういうことを、王仁三郎はしていたのですね。
大石ヨシエも、これと同じかも知れません。訳あって育てられない誰かの子供を王仁三郎が預かり、舞鶴の大石熊吉(ヨシエの養父)に託したのかも知れません。「ワシの子や」と言って。
果たして真に王仁三郎の子なのかどうかは知るすべもありませんが、王仁三郎にミッションを与えられて満洲で神業奉仕されたことは事実だと思います。
その顕彰の意味を込めて、一筆記しました。