●月鏡「犠牲」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg268既成宗教は、犠牲ということを推奨して最高の道義的行為なりとしておるが、犠牲即ちイケニエなるものは、実は正しいことではないのである。
身を殺して仁(じん)をなすなど、己れを捨てて人を助くることは実際でき得るものではない。教育勅語に、恭倹(きょうけん)己れを持し、博愛 衆に及ぼすと宣らせられ給うている如く、人は神の子、神の生宮(いきみや)で、言い換ゆれば人は神であるから、神を敬う如く人を敬い、また己れを敬うのが本当である。
自分を全うせずして人を助くることはできないではないか。神であっても、犠牲を喜ぶような神は正しい神ではない。日本の神様は決して犠牲を喜ばれない。
初出:『神の国』昭和4年(1929年)2月号
自分を犠牲にして他人のために働くというのは、とても美しい行為のように思えますが、実は神様から見たら正しいことではないというのです。
身を捨ててはいけない、ということで、舎身活躍(第37~48巻の輯題)の舎身も捨身(身を捨てる)ではなく舎身という造語を使っています。
ここにいう舎(しゃ)は家であって、衣食住の完備して一家の斉(ととの)うたる意義である。そこで舎身活躍とは、他の厄介にならず独立独歩して活動するということであって、身を捨てて活躍するという意味ではないのである。
なお約(つづ)めて言えば、軍人には軍人の服装があり、農家には農家の服装ある如く、軍人は軍人らしく農家は農家らしく、商人は商人らしく、労働者は労働者らしく、それぞれ、それらしき身の構えをして活動するということである。
教育勅語の「恭倹(きょうけん)己れを持し、博愛 衆に及ぼす」というのは、文語体なので難解ですが、昭和15年の文部省訳によると「へりくだって気随気儘の振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すようにし」という意味です。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E5%8B%85%E8%AA%9E
王仁三郎はこの文の「おのれを持す」つまり、身を保つ、ということを強調したいのではないかと思います。
他人を敬い、自分をも敬うのが正しい生き方であって、他人のために自分を犠牲にしてはいけないということです。
それは、そもそも自分の肉体は自分のモノではなく、神様からの借り物・預かり物だからです。
ですから、自殺ということは、神に対する大きな罪になります。
また、自分の霊魂も、神様の一霊四魂の分霊ですので、粗末にしてはいけません。
自分を犠牲にすることが問題ならば、他人に犠牲を強いることはもっと問題です。
霊界物語に、人間に生贄を要求する神が何度か出ます。
たとえば第3巻の荒河の宮のエピソード。
毎年この地方(南高山)の人々を生贄として捧げさせ、万一それを怠った時にはこの地方一帯に暴風が吹き起こり猛雨が降り注ぎ、大洪水を起こして人々を苦しめるという暴悪な神です。
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0333
大道別がそれを退治しますが「そもそも神たるもの犠牲をたてまつらざれば、怒りて神人を苦しますべき理由あるべからず。これまったく邪神の所為ならん」と大道別は語っています。
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0334
人民を脅迫して金品を出させるような神は、暴力団がみかじめ料を要求するのと一緒で、ろくな奴ではないのです。
人間に苦痛を強いさせたり、対価を要求するような神は悪神です。
「先祖の霊が祟っているから護摩を焚いて祓ってあげよう。祈祷料で100万円必要だ」なんていうのも、その一例です。
統一教会(現・世界平和統一家庭連合)の霊感商法が大きな社会問題になっていますが、霊感商法は悪神の業であることは言うまでもありません。
真の神は、人間が何もしなくても、大きな恵みを与えて下さっています。
ただ人間がそのことに気がつかないだけです。
この月鏡の教示では「犠牲」という言葉を否定的に使っていますが、必ずしも「犠牲」が悪いわけではありません。
王仁三郎は「犠牲」を肯定的にも使っています。
たとえば、
謝恩の念があって始めて犠牲心が起こり没我心が起こるのだ。(略)自分を犠牲にすること、自己を没却すること、この二つのものは神道の教義の教うるところであって、親が子を愛し子が親に孝を尽すのは、人間自然惟神の慣性であり常道である。
●月鏡「謝恩と犠牲心」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg254
なんてことも言っています。
犠牲(ぎせい)が悪いのではなく、イケニエが悪いのです。
要するに、嫌々ながら犠牲になるのか、喜んで犠牲になるのかの違いです。
親が子のために、自分を犠牲にして働く、それは子の笑顔を見たくて、喜んで働いているのなら、何も問題はないのです。
もし親が子に「おまえのために身を削ってこんなに働いているのに、どうして言うことを聞かないんだ!」などと、恩着せがましいことを言うのであれば、それは嫌々ながら働いているのです。自分をイケニエにしちゃっているのです。
宗教団体や慈善団体に寄付をする時も、「こんな大金出したくないな~」と痛みを感じるようであれば、寄付するのをやめた方がいいでしょう。
喜捨(きしゃ)、つまり喜んで捨てるということでなくてはいけません。
(この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2020年6月15日号に掲載した文章をもとに加筆訂正したものです)