●月鏡「霊止と人間」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg256人は霊止(ひと)であって、天地経綸の司宰者であるが、人間は天地の経綸を行うことはできない。人間は天地経綸の一機関である。
初出:『神の国』昭和4年(1929年)1月号
この教示は人(霊止)と人間の違いです。
まず人ですが、王仁三郎は、神の霊が止(とど)まるところがヒト(人、霊止)であると説きました。
大正15年(1926年)4月、人類愛善会の第一回総会での講演の中で、王仁三郎は次のように教えています。
…人類愛善会というのは、総ての人間を人間が愛するように聞こえております。総ての人類は同じ神の子であるから、総て愛せねばならぬという意味になっておりますが、それはそれに違いないけれども、人類という字を使ったのは、下に「愛善」がありますから、上の「人類」の意味が変わって来る。単に「人類」とだけ言えば世界一般の人類あるいは人間の事であり、色々の人種を総称して人類というのである。
しかし日本の言霊の上から言えば、「人」は「ヒト」と読みて、ヒは霊であり、トは止(とどま)るという事である。そうして「人」という字は左を上に右を下にして、霊主体従、陰と陽とが一つになっておる。神というものは無形のものであるが、しかし神様が地上に降って総ての経綸を地上の人類に伝える時には、止(とど)まるところの肉体が必要であります。それで神の直接内流を受けるところの予言者とか総てそういう機関が必要なのでありまして、この霊(ひ)(神)の止(とど)まるのが人(ヒト)である。
それは神の顕現、神の表現として釈迦とかキリストとか、そういう聖人が現われて来ておる。人間というものは、善悪混淆(こんこう)した普通のものであるが、人というと神の止(とど)まる者、神の代表者である。それに類するというのであるから、それに倣(なら)うのである。
初出:『神の国』大正15年(1926年)5月号
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121801c49
神霊が宿って、神の経綸を実行する存在が、人(ヒト、霊止)だというのです。
これは端的に言えば、王仁三郎のような特別な役割を持った人だけが「霊止」だということになります。
しかし私たち全員が、そうなれるように目指すべき方向であります。
私たち凡人は、今は霊止ではなく、人間ですが、その人間とは何かというと、霊止と動物の中間的存在です。
月鏡のもう少し後ろの方で、王仁三郎は次のように述べています。
●月鏡「人間という問題」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg299大本は、人は神の子、神の宮と唱えている。また神は万物普遍の霊にして、人は天地経綸の司宰なり、神人(しんじん)合一して、ここに無限の権力を発揮すとか、また人は天界の基礎なり、天国は昇りやすく、地獄は堕ち難しと言っておるのは、普通一般のいわゆる人間ではない。人間界を超越した神の御用に立つところの神柱(かむばしら)のヒト(霊止(ひと))を指したものである。人と獣ととの中間に彷徨しておる縦ハナ横眼の者をさして人間と称しての、この論旨であると考えてもらいたい。
なるほど。
神様の御用に立つ神柱が霊止であって、それはやはり全ての人間が目指すべき目標です。
なお、「人」と「人間」という言葉を、王仁三郎は厳密に使い分けているわけではありません。
あくまでも、サルの延長線上にある現代の人間と、神様が意図した本来あるべき姿(霊止)との違いを説明するためのレトリックとして、人(霊止)と人間という言葉を用いているのだと思って下さい。
霊界物語や三鏡などの他の箇所で「人」という言葉が出て来ても、「霊止」の意味とは限りませんので御注意を。
(この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2020年6月1日号に掲載した文章をもとに加筆訂正したものです)