世界大家族制とベーシックインカム(25)五六七の世の経済

投稿:2022年07月19日

出口王仁三郎が提唱した皇道維新論の「皇道」とは、簡単に言うと、世界統一の道である。
「皇道維新について」の冒頭で、皇道維新とは何ぞやということが述べられている。

皇道の根本大目的は、世界大家族制度の実施実行である。畏くも天下統治の天職を惟神に具有し給う、天津日嗣天皇の御稜威に依り奉るのである。
まず我が国にその国家家族制度を実施し、以てその好成績を世界万国に示してその範を垂れ、治国安民の経綸を普及して地球上の各国を道義的に統一し、万世一系の国体の精華と皇基を発揚し、世界各国威その徳を一にするが皇道の根本目的であって、皇道維新、神政復古の方針である。
〔「皇道維新について」〕

皇道の目的は世界大家族制の実施だと書いてあった。
まず日本においてそれを実施し、模範を見せて、それを世界に普及させて行こうというのだ。

世界は一家、人類は皆兄弟である。その地球人という一族の族長が天皇である。
原始共産制社会では、族長を家長として大家族制を敷く。複数の家族が(みな親戚だ)共同生活を行う。家族であるから、動けず働けない人でも、怠けて働かない人でも、最低限の衣食住を保障する。
そういう原始共産制を高度化し世界大に拡大したものが世界大家族制である。

天皇は日本一国だけの天皇ではない。
王仁三郎は
「日本の天皇は宇宙絶対なるが故に、時到らば必ず宇宙を統一遊ばす御方である」〔霊界物語第78巻序文
と説く。
世界の天皇、宇宙の天皇なのだ。
現界(人間の世界)におけるスが天皇だ。
人類の家長なのである。

もちろん天皇陛下ご自身も、そんなふうにはほんのこれっぽっちも思っておられないことであろう。
日本国憲法で位置づけられた国民統合の象徴であり、日本の伝統的文化的存在、という程度にしか思っておられないのではないか?
ご本人の自覚と、われわれ人民の自覚が無ければ、とうてい世界大家族制など実現できるはずがない。
現実には、ほとんどの人は自覚できないかも知れない。
「世界」と口で言うのは簡単だが、実際に世界がイメージできる人は少ない。ほとんどの人は、自分のことだけしか考えない。政治家だって、自分の国のことだけしか考えない。世界をどう統治したらいいのか論じることが出来る人は少数である。
世界を征服しようという野望を持てるような人でないと、「世界」大家族制など実現できない。
そして、「世界」を支配しようという人は「悪」の烙印を押される。
だから世界の統一は、悪が九分九厘まで行うことになっている。
「…悪の力で、九分九厘までは行われるなれど、モ一厘というところになりたら手の掌が覆(かえ)るぞよ」〔大本神諭 大正六年旧十一月二十三日
というように、最後の一厘で神がひっくり返し、完成させる経綸である。

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御稜威紙幣は政府紙幣的な面を持っているということを第15回で書いたが、王仁三郎が考えていたのはそれ以上のことである。

政府紙幣は、もともと発行している中央銀行券の価値を下げてしまう可能性が大きい。つまりインフレの可能性が高く、だから反対する人が多い。

しかし王仁三郎が説く御稜威紙幣は、新たに富を作り出してしまうのである。
政府が原油を掘ってお金を稼ぐのと、ある意味同じである。

王仁三郎は御稜威紙幣について
「応挙(注・王仁三郎の七代前の先祖で絵師の円山応挙)が書いた絵でも、何万円の金の代わりに通用しているではないか。絵描きの描いたものでも、それだけの値打ちがあるんやから、これが皇室から出たものなら、どんなに尊いものか分からん」
と説いている〔「出口王仁三郎氏に物を訊く座談会」〕。

要するに、スタアが書いたサイン色紙に高額の値が付くのと同じだ。
あるいは政府がビジネスによって稼ぐのと同じだ。

王仁三郎が短冊に「壱万圓」と書いて信者に渡したとする。信者にとってそれは有り難い価値のあるものだから、単なる短冊でも一万円札として流通することになる。
新たに富を増やしているのである。

それに対し政府紙幣は新たに富を増やしているのではない。だからインフレになる可能性がある。
この御稜威紙幣は新たに富を増やすものなので、インフレにはならない。新しい価値を創出しているのであって、従来の価値を薄めることにならない。従来の価値、たとえば原油の場合、需要に対して供給が増えると、価値が下がって行く。しかしビットコインのようなものは、価値を創出しているのであって、従来の価値を下げているわけではない。仮想通貨が繁盛した結果インフレになったという話は聞いたことがない(実際には株式など他の金融商品に対する投資は多少減ったであろうけど)。

金属の塊に過ぎない金(ゴールド)に、経済的価値があると人々が思っているように、その一万円短冊にも経済的価値があると思えばいいだけなので、理屈で言えばそれは可能であろう。
ただ現実にはそう簡単ではない。そう思ってもらうのが大変だからだ。

ビットコインなどの仮想通貨は、経済的価値があると人々に思ってもらえるように、長い期間をかけてマーケティングを繰り広げて来た。
いろいろな学者や金持ちを動員して、将来値上がりすると言ってもらい、経済的価値があると人々に吹き込んで来たのである。
そのマーケティングの結果、単なるパソコンの中の数字に過ぎないものが、経済的価値を持つようになったのだ。
仮想通貨が実際に高額で取り引きされているのだから、王仁三郎が説く御稜威紙幣だって、マーケティングに力を入れれば経済的価値を持つようになるだろう。
しかしそのマーケティングが大変である。

おそらく創価学会のような数百万人の信者を抱える宗教団体が、信者間で使えるローカル通貨として「創価紙幣」を発行するのであれば、実現可能かも知れない。
それはもともと共通の価値観を持った人たちの集団であるから、「創価紙幣」に対する価値を共有できるのである。

天皇絶対の大日本帝国の時代であるから、天皇が発行する御稜威紙幣を尊いものと国民が崇めることも出来たかも知れない。
しかし仮に御稜威紙幣を発行しても、あまり国民の生活は楽にならなかったと思う。
それはモノが不足していた時代だからだ。大正~昭和初期は人口増加に対して食糧品の供給が追いつかなかった。資源エネルギーも足りず、だから植民や資源エネルギー獲得のために、大陸へ軍事侵攻したのである。
食糧品を始め、モノが不足している時には、お金がどんなにあっても買うことが出来ない。それどころか値上がりして、ますます生活困窮者が増えてしまう。
単に御稜威紙幣を発行するだけでなく、食糧増産技術などのテクノロジーを発達させなければ、生活の困窮から救えないのである。

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五六七の世は、基本的には通貨は廃止されているはずである。
王仁三郎は「貨幣制度、租税制度を根本廃絶すべき」云々と言っており〔「皇道維新について」〕、通貨制度の廃止を唱えている。

しかしその一方で、通貨制度はあるとも言っている。
「みろくの世になっても通貨はあるが、一人十万円だけしかもたせぬ」
というのだ〔『新月の光』「みろくの世の通貨」昭和19年の発言〕。
これはおそらく、五六七の世と言っても色々な段階があるのだろう。

究極的には、通貨制度は廃止されるはずだ。
通貨というものは、価値の交換である。1万円札と、1万円の価値があるモノやサービスとを交換する。
こういう財貨の交換によって営まれる経済を、経済学で「交換経済」と呼ぶ。
交換経済は私有財産制が前提となる。私が所有する1万円と、あなたが所有する1万円相当のモノを、交換するのである。
私有財産制は五六七の世では廃止されるのだから、交換経済も廃止される。
「一人十万円だけしかもたせぬ」というのは、それに至る前の段階で、まだ完全に私有財産制が廃止されていない段階であろう。

では五六七の世の経済はどのようなものなのか?
それは交換経済ではなく、与える経済である。

私たち人間は、神様からそれぞれ役割(使命)を持って現界(物質界)に生まれて来ている。
その役割を果たすための天賦の才能(天才)を与えられている。
自分の役割に目覚め、この物質界を開発・発展させ、五六七の世の建設に貢献することが人生の目的である。
その役割の総体が、五六七の世である。
人類各自の役割を花開かせ、満開となった花園が五六七の世である。

極論を言うと、人間は自分の役割だけ果たしていればいいのである。
しかし現実には、生きるためにやりたくないこともやらなくてはいけない。
そもそも人間社会の営みは、生命をつなぐための営みである。
食べて、生きて、子を産み、育て、年をとって死ぬ。
その繰り返しであった。
しかしテクノロジーの発達によって、それ以外のことが出来るようになった。
家事も今やかなり自動化され、やりたくないけどやらなくてはいけないことが少なくなっている。
洗濯も、昔は盥を持って川に洗濯に行っていたのである。
それが今は洗濯機に服を入れてボタンを押すだけでOKになった。
会社の仕事も機械化・OA化されて、ずいぶん楽になった。
そのため「誰にでも出来る簡単な仕事」となり、安い賃金の仕事が増えるという弊害が起きている。
しかしそんな仕事を、一体誰がやりたがるのだろうか?

私自身、十代の時から長年フリーアルバイターとして、「誰にでも出来る簡単な仕事」を主にして来た。
平成19年(2007年)に人材派遣会社グッドウィルの装備費が社会問題となったが、あの事件の直前くらいまで、まさにグッドウィルのようなところで日雇いのバイトを続けていた。
たいした技能を要しない「誰にでも出来る簡単な仕事」ばかりだ。
そんな仕事を自ら進んでやりたい奴などいない。
生活のために、お金を稼ぐために、仕方なく、低賃金の、何のやりがいもない仕事をしているのである。
お金の心配がなければ、そんな仕事をするはずがない。
『職業に貴賤なし。人の心に貴賤あり』とか言えばかっこいいが、やりたくない仕事を、食うために、嫌々ながらやらなくてはいけない人生など、全く惨めなものである。奴隷のような状態だ。
人は己の使命に目覚め、その使命に邁進してこそ、充実した人生を送れるのである。

低賃金にあえいでいる人は、言うまでもなく、社会の経済的「負け組」である。
しかし、今やAIの普及によって、弁護士や医師のような高度な技術を要する仕事まで、必要なくなる時代がやって来た。
平成9年(1997年)の山一證券自主廃業の時から、勝ち組の凋落が始まったとも言ってよい。
20年後には半数の人が失業する時代が訪れると予測する学者がいるが、そうなる前にベーシックインカムのような制度を導入することは急務の課題である。

ところで発想を変えて、お金を必要としない社会を想像してみよう。
先ほど書いたように、五六七の世はお金を必要としない、与える経済である。
今現在でも、私たちが他人からお金を貰うことを一切止めれば、ただちにお金のない社会が現出する。
モノやサービスを受けるたびにお金を請求されるから、そのお金を調達するために、自分も何か仕事をしてお金をお客さんに請求しているのである。
みんながお金を請求することを止めれば、たちどころにお金不要の0円社会が実現するのだ。

しかしそれが実現した途端に、仕事を辞める人が続出する。
お金を支払う必要がないなら、お金を稼ぐ必要がないからだ。
それでも仕事を続けている人は、その仕事が好きでしているのである。
お金を貰わなくても、その仕事をしたいのだ。
そういう仕事は、神がその人に授けた天職だと言える。
その人はその仕事をするためにこの世に生まれて来たのだ。
お金に関係なくその仕事をしたいのだが、交換経済の下では自分が誰かにお金を支払う必要があるから、その仕事で誰かからお金を貰っていただけである。
そういう天職に就いている人というのは、果たしてどれだけいるだろうか?
仕事が多様化した現代なら、そういう人もそれなりにいるだろう。
しかし王仁三郎の時代はそもそも仕事が今ほど多様だったわけではない。
職業選択の余地などほとんどないのである。
天職ではなく、生活のために仕方なくその仕事をしている人が圧倒的大多数だったであろう。
現代でも、そういう人の方が圧倒的に多いと思う。
だから0円社会になったら、仕事を辞める人が大量に発生する。
結果、社会は崩壊する。0円社会など成り立たない。

逆に言うと、その仕事をさせるために、交換経済にしているという側面がある。
世の中には、誰もやりたくないが、誰かがやらなくてはいけない仕事が沢山ある。
その仕事を誰かにさせるために支配者は、人々にお金が無くては何も出来ないようして、飢餓状態にして、働かせているのだ。
交換経済にはそういう側面があるのである。
家事ならば、誰がトイレ掃除をするのか、という問題だ。
誰かが掃除をしなくてはいけない。
それで親が「掃除しないとご飯食べさせないぞ」と脅して掃除させているのである。
それが交換経済だ。何かと引き換えに何かをさせるのである。

人はやりたくないことはやらず、己の天職だけに励んでいればいいのである。
しかし現実にはやりたくないけどやらなくてはいけないことが山ほどある。
だからAI化・ロボット化を推し進めることで、それらの仕事をなくして行く必要がある。
AIによって人の仕事が奪われるのではない。
AIによって、人がやりたくない仕事がなくなるのである。

しかし全くなくすのは難しいようだ。
王仁三郎は、五六七の世では1~3時間だけ働けばいいようになる、と説いているが、それは逆に言うと、五六七の世でも1~3時間は働かなくてはいけない、ということだ。
社会を動かすために、やりたくないけどやらなくてはいけない仕事を、毎日1~3時間(現在は法定8時間)労働しなくてはいけないのだ。
まあ、1時間くらいなら仕方がないか。
(ちなみに経済学者ケインズは、2030年には1日3時間労働になると予測している。→「(26)補足1」参照)

では人間は何をしたらいいのかというと、神から与えられた天職に励むのである。
お金のような対価がなくてもやりたい仕事が天職だ。
私だったら、このように王仁三郎・霊界物語の話をすることが天職だ。
お金なんか貰わなくたって、いくらでも話をしたい。
しかしそれでは生活が成り立たない。だから何らかの方法でお金を稼がなくてはいけない。
だが本当はお金なんか要らないのである。

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細かいことだが、王仁三郎用語としては「天職」と「職業」は別のようである。

人間の天職は人類共通のものであって、神の子神の生宮としての本分を全うすることである。しかし職業は決して神から定(き)められたものではない。自ら自己の長所、才能等を考究して、自分に最も適当とするものに従事すべきである。
〔玉鏡「天職と職業」〕

と王仁三郎は教えている。
つまり王仁三郎用語としての「天職」は人類共通のものであり、「神の子神の生宮としての本分を全うすること」つまり霊性を向上させて帰幽後は天界の住人即ち天人になることであり、また現界にいる間は「職業」を通して社会に貢献し五六七の世の建設に奉仕することである。
それに対して「職業」は各個人のものであり、「自己の長所、才能等」つまり神から与えられた天賦の才能(天才)を生かせる仕事である。

一般用語と少しズレがあるので、調整するため、ここではこの両者を包括して「天職」と呼ぶことにしよう。
この天職に励むことが、人がこの世に生まれて来た任務である。

人々が天職に専念できるようにするためには、まずベーシックインカムのような最低限の生活を保障するようなシステムが必要である。
そして、各自が己の天職は何なのか、神から授かった天賦の才能は何なのかを探究する「天才教育」が必要となる。

天才教育無しでベーシックインカムを導入すると大変なことになる。自分が何者なのか、何をしたらいいのか分からない人々はパチンコなどのギャンブルに熱中して、この世の憂さを晴らすことになる。今以上にギャンブル中毒患者が増加することになるだろう。人生でやることべきことは自分の内部にあるのであり、それを外部に求めると各種の依存症になる。

自分がこの世でやるべきこととは、先ほども書いたように、お金を貰わなくてもやりたいことだ。
それは単なる趣味ではなく、何らかの形で他人に貢献できることである。人は一人で生きるのではなく、集団で生活する存在だからだ。
五六七の世は与える経済だというのは、そういう意味である。
他人にお金を与えるのではなく、自分が持っている技術・能力で他人に貢献するという意味での「与える」である。
だから通貨が不要なのだ。

現代は五六七の世への移行期であるから、何かと問題が続出して大変である。
体主霊従から霊主体従へと立替え立直されるプロセスでは、どうしてもデトックス(解毒)が必要となる。
そのクライマックスにやって来るのが「大峠」だ。
地球的規模での自然変動である。要するに天変地異だ。
国祖隠退後の地球は地軸が傾くような天変地異が起きた(霊界物語第6巻第3篇「大峠」参照)。
国祖が再現(復権)される暁には再び地軸の傾きが元に戻るような天変地異が起きる。
本当の意味での五六七の世は、大峠の後でないと実現しない。
しかしそれまでの間に人類は、五六七の世の原理をある程度実現しておく必要がある。

今のように各自が利己的に行動し、自分だけが、自分の国だけが助かればいいというようなやり方では、大峠を人類が乗り越えることが出来なくなる。
このままでは共倒れだ。
自分の持てる技術・能力を使い、他人を助け、互いに助け合って、人類は大峠を乗り越えねばならない。
そしてそれが、人類が一つの家族となる世界大家族制の実現である。

(終わり)



(このシリーズは「霊界物語スーパーメールマガジン」令和2年(2020年)8月24日号から12月28日号にかけて25回連載した文章に加筆訂正したものです)