世界大家族制とベーシックインカム(5)和光同塵の神策は明治天皇で終了

投稿:2022年07月13日

前回(第5回)は、崇神天皇(第10代天皇)が和光同塵の政策として、同殿同床の廃止と、租税制度の導入という、二つの改革を実施したことを書いた。
今回は、その二つの改革がなぜ和光同塵の政策なのかについて書く。

その二つが和光同塵の政策だというのは王仁三郎の見解であって、一般的な見解ではない。
一般的にも、記紀に記された崇神天皇の事跡から、この天皇が大和朝廷の基礎を築いた天皇なのではないかと解されているが、この二つが特別にクローズアップされているわけではない。
崇神天皇の事跡は他に「四道将軍を派遣して北陸道、東海道、西海道、丹波を平定した」とか「疫病が流行って民の半分が死んでしまい、神託によって大物主神を祭った」などがある。
コトバンク:「崇神天皇
ウィキペディア「崇神天皇

第二代・綏靖天皇から第九代・開化天皇までの八代は、記紀に事跡が記されておらず、「闕史八代(けっしはちだい)」と呼ばれている。(闕史は欠史とも書く)
王仁三郎的には、穴太の小幡神社の祭神である開化天皇が一番重要だ。──開化天皇の名前「稚日本根子彦大日日命(わかやまとねこひこおおひひのみこと)」は「若き日本の根本の神様」という意味で、「世界を統一される神様」である。自分は開化天皇の御神業をやっているのだ──と王仁三郎は語っていたほどだ。〔『新月の光』「開化天皇の御神業」〕
しかし事跡が不明なため、記紀の物語の上では重要な存在ではない。
記紀の物語上は、初代・神武天皇の次に重要な天皇となるのが、この第十代・崇神天皇である。

崇神天皇の名前は古事記によると「御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)」だ。
王仁三郎は、この「ミマキイリヒコイニエ」を言霊学で解釈すると「国体の精華を隠伏して、和光同塵の政策を始め給う」という意義になり、「これによりてこの御代(みよ)に、八咫(やあた)の神鏡を別殿に祭らせられたのである」と説いている。「皇道維新について」第11章

天照大神の御神体である八咫鏡を皇居の外に出したのは、「国体の精華を隠伏して、和光同塵の政策を始め」ることを意味していたのだ。「国体の精華」とは、つまり天皇の御神徳・御威光ということだ。本来あるべき光を隠して、塵と同化する(俗世間に交わる)ことが和光同塵である。神から与えられた天皇の本来の姿、本来の使命を隠すために、天皇の証である八咫鏡を皇居の外に出したのだと王仁三郎は説いているのだ。

天皇の証とされる三種の神器は、天孫降臨の際に天照大神が天孫ニニギに授けたものだ。
八咫鏡(やたのかがみ)、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、別名・草薙剣)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の三つあり、歴代の天皇がこれを代々継承して来た。
しかし現在、皇居内で祭っているのは八尺瓊勾玉だけで、八咫鏡は伊勢神宮で、天叢雲剣は熱田神宮で祭っている。

一体いつから皇居の外で祭るようになったのか? 「古語拾遺(こごしゅうい)」(807年に編纂された歴史書)によると、鏡も剣も第10代・崇神天皇の御代からだ。

このことは記紀には書いてない。
鏡は、日本書紀には天照大神を笠縫邑(かさぬいむら)に祭ったと書いてあるだけで、鏡を祭ったとは書いていない。
古事記には、そもそも笠縫邑の話が書いてない。
剣の方は、第12代・景行天皇の皇子である日本武尊が東征の際に、伊勢神宮で倭姫命(第11代・垂仁天皇の皇女。日本武尊の叔母に当たる)から草薙剣を授けられたと、記紀両方に記されている。つまり、この時点では剣はすでに伊勢にあったことになるが、いつ皇居の外に出されたのかは書いていない。

次の文は加藤玄智・校訂『古語拾遺』(昭和4年、岩波文庫、p40)からの引用である。〔国立国会図書館デジタルコレクション

「倭の国 笠縫の邑に、殊に磯城(しき)神籬(ひもろぎ)を立て、天照大神御像の鏡と草薙宝剣とを遷しまいらせて、皇女 豊鍬入姫命をして、斎き祭らしめられた」

このように、八咫鏡と草薙剣を皇居から出して笠縫邑に祭ったことが記されている。
王仁三郎は鏡にしか言及していないが、剣も天照大神の御神体とされているので、鏡と同様に「国体の精華を隠伏」するという意味で宮中の外に出されたと考えていいのではないかと思う。

では勾玉だけは何故宮中に残されたのかという疑問が残るが、本題とは関係ないので深く考えないことにする。

余談だが、日本武尊は東征の帰途、尾張で宮簀媛(みやすひめ)を娶り、その家にしばらく滞在した後、草薙剣をそこに置いたまま、伊吹山の荒ぶる神を征しに向かった。そこで傷ついた日本武尊は、伊勢の「能褒野(のぼの)」という地で亡くなった。宮簀媛(みやすひめ)のもとに残された草薙剣を祭ったのが、熱田神宮の起源だ。

☆   ☆   ☆

さて、同殿同床の廃止が、なぜ和光同塵の政策なのかを、ここまで説明して来た。
次に、租税制度の導入がなぜ和光同塵の政策なのか、だ。

王仁三郎は崇神天皇が和光同塵の政策を導入した理由について、次のように述べている。

 畏くも崇神天皇が、和光同塵の政策を施し給いたる御神慮は、実に実に高遠甚深(じんしん)なる御理想に由(よ)らせられたのである。
そもそもこの時代には人文未だ幼稚なりしゆえに、生欲の発達のみ最も隆盛を極め、弱肉強食の蛮風(ばんふう)を以て人生自然の常事となし、いわゆる日本書紀の、
『ついに邑(いふ)に君(きみ)有り、村に長(をさ)あらしめ、おのおの自ら疆(さかひ)を分(わか)ち以て相(あい)凌轢(りょうれき)す』(注・日本書紀の巻第三(神武天皇)の最初の方に書いてある。村々にはそれぞれ長がいて境界を作って互いに争っている、という意味)
実に生存競争の激烈を極めた世態であった。
しかるに御国体(おんこくたい)(注・天皇のこと)の天職として、この世界を平和ならしめんとするには、ぜひとも彼ら外人(ぐわいじん)に相接触して以てその人文の開発を移入せしめ、その窮極(きゅうきょく)せる時機において根本より変革し、神聖なる皇国経綸の精華を発揚せしめ給わんとの宏遠なる御神策によれる事は、畏(かしこ)くも天皇の御名の意義(注・前出の「ミマキイリヒコイニエ」の言霊解が「国体の精華を隠伏して、和光同塵の政策を始め給う」という意義)によりて、明らかな事実である。
然り而(しこ)うしてその政策として、第一に世界の人文的大勢に応ずべき用意として、この御代から調貢(ちょうこう)の制(注・弭調と手末調のこと)を布かせ給うた。これぞ我が国における租税制度の初めである。
〔「皇道維新について」第11章〕

分かりやすくまとめると──当時の日本列島に住む人々の社会は未発達で、生存競争が激しく、弱肉強食で、領地を争っている状態であった。それは皇国の本来のやり方ではなく、外国のやり方である。なのでやむを得ず外国の諸制度を導入して社会を治め、時節を待つことになった──というようなことだ。

租税の導入だけでなく、儒教や仏教の導入などもその一環だと説いている。〔「皇道維新について」第12章〕

その和光同塵が「窮極(注・極まったの意)せる時機」が到来したら、日本社会を「根本より変革し、神聖なる皇国経綸の精華を発揚せしめ」ようという神の計画である。
その時期が到来したので、神の使命を受けた王仁三郎は、皇道維新(大正維新)を唱えたのだ。

和光同塵の神策は明治天皇において完了したと王仁三郎は説いている。

 要するに二千有余年以前、御皇宗 崇神天皇が御計画あらせられし和光同塵摂取の御神策の目的は明治天皇の御一代の鴻業(こうぎょう)(注・大きな事業の意)において全くその御計画の本旨を達し給えるなり。(略)
国光発揚、国運発展の時期は現代今上陛下の昭代(注・御代の美称)なり。(略)
そもそも神聖なる皇祖の御遺訓を闡顕(せんけん?)し奉り御国体の精華を発揚する事は世界平和の根本基礎なり。しかして世界平和の第一着たるべき事業は財政経済の根本変革をもって第一の要件と為すにあり。
〔「世界の経綸」第5章〕

「現代今上陛下」という言葉は、大正7年(1918年)に機関誌上で「世界の経綸」を最初に発表した時には「現代大正天皇陛下」になっている。〔『神霊界』大正7年10月1日号p14〕
しかし大正天皇はずっと病弱で、大正10年(1921年)11月には皇太子の裕仁親王(昭和天皇)が摂政に就任している。だから和光同塵の神策を廃して皇国の精華を発揚するのは実質的に昭和天皇以降ということになる。

その第一着が「財政経済の根本変革」だ。これは租税や金本位制を廃止することである。

(続く)



(このシリーズは「霊界物語スーパーメールマガジン」令和2年(2020年)8月24日号から12月28日号にかけて25回連載した文章に加筆訂正したものです)