出口王仁三郎は皇道維新論の中で租税の撤廃を唱えている。
古事記の解釈を通して、租税制度の始まりと、それを撤廃すべきことを説明している。
一般には、日本に租税制度が始まったのは7世紀とされている。
日本書紀の「改新の詔(みことのり)」つまり大化の改新(645年)の際に発せられた詔の中に、「調(ちょう)」と呼ぶ、物納の租税制度の記載がある。
田の面積ごと、また、一戸ごとに、農産物や海産物、鉱産物などを徴収したのだ。
参考:国税庁「日本古代7世紀の税」、「税の歴史」
これが文献に記されたものとしては日本最古の租税制度だと一般には言われている。
しかし王仁三郎は、「皇道維新(大正維新)について」や「世界の経綸」の中で、租税制度の始まりはもっと古く、崇神天皇(第10代天皇)の時代にそのルーツを求めている。
崇神天皇の在位は、大化の改新より700年も昔の、西暦紀元前97年から前30年までの68年間である。
もちろんこの時代は、神話の時代と史実の時代の境目の時代だから、西暦に当てはめたその年代そのものだと考えるわけにはいかない。あくまでも便宜上の年代である。
王仁三郎は古事記の崇神天皇の御代の記述から次のように解説している。(現代語に翻訳・意訳した)
崇神天皇は天地開闢以来の世界の情勢を洞察し、未だ天皇の天職を発揮する時運ではないことを考慮し、天運循環して時節到来するまでは、和光同塵(わこうどうじん)のやり方を採用し、世界の文物を吸収して世界を日本に引き寄せるための方便とする広遠深大な御神策を立てた。その御神策を行うために、二つの根本的な変革を実行した──と王仁三郎は言うのだ。
和光同塵とは、本来持っている光を隠して俗世間に同化して交わることで、つまり五六七の世が訪れるまでの一時的な措置として、という意味だ。
その和光同塵の神策として行った二つの変革とは、(原文のまま)
(一)神器を別殿に祭り給ひ御皇女 豊鉏入日売命(とよすきりひめのみこと)に専ら其の拝察を掌らしめ給ひし御事(おんこと)、
及び、
(二)租税徴収の端を啓き給ひし御事なり。
〔「世界の経綸」〕
この二つだ。
(一)は、宮中で祭っていた天照大神を宮中の外で祭るようになったことを指している。これは同殿同床(どうでんどうしょう)を廃止したということだ。伊勢の内宮の起源である。
(二)は、男子には弓弭調(ゆはずのみつぎ)、女子には手末調(たなすえのみつぎ)と呼ばれる一種の課税を行ったことを指している。これが租税の起源である。
どちらも古事記には簡潔に書いてあるだけで、日本書紀の方に詳しいことが書いてある。
(一)同殿同床の廃止
それまでは皇居の中に天照大神を祭っていた。それと同時に、倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)という神様も皇居内に祭っていた。
ところが崇神天皇は、両神の神威を畏れ、同じところに住むのを止めて、両神を皇居の外に祭るようになった──ということが、日本書紀の崇神天皇6年の項に書いてある。
崇神天皇の都は「磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)」というところにあった。今の奈良県の三輪山の南西麓にある。
皇居外で祭られるようになった天照大神は、最初はトヨスキイリヒメノミコト(崇神天皇の皇女。古事記では「豊鉏入日売命」、日本書紀では「豊鍬入姫命」と表記)によって笠縫邑(かさぬいむら)に祭られた。
笠縫邑の比定地は何ヶ所もあるが、三輪山を御神体山とする「大神(おおみわ)神社」境内の摂社「檜原神社」もその一つだ。
ウィキペディア:豊鉏入日売命
ウィキペディア:笠縫邑
ウィキペディア:大神神社
天照大神はその後、ヤマトヒメノミコト(崇神天皇の皇子である垂仁天皇の皇女。つまりトヨスキイリヒメの姪。古事記では「倭比売命」、日本書紀では「倭姫命」と表記)に託され、近畿各地を転々として、最後に伊勢の地に鎮座した。それが今の伊勢神宮の内宮だ。
ウィキペディア:倭姫命
ウィキペディア:元伊勢
一方、倭大国魂神が鎮座したのは、磯城瑞籬宮から北へ4キロほど離れたところにある「大和(おおやまと)神社」(天理市新泉町星山)だ。崇神天皇陵はこの宮と大和神社の真ん中くらいにある「山邊道勾岡上陵」が比定されている。
ウィキペディア:倭大国魂神
ウィキペディア:大和神社
神を家の中に祭り、神と人とが共に起居することを同殿同床(どうでんどうしょう)とか、同殿共床、同床共殿などと呼ぶ。
天照大神と倭大国魂神の二柱を皇居の外で祭るようになったというのは、同殿同床を廃したということだ。
同殿同床の廃止は、王仁三郎の教えによれば、良いことではない。
その昔、御神殿というものは、同殿同床(どうでんどうしょう)の本義に則って、屋内に設けられたもので、今日の如く別殿とするのは唐制(注・中国の制度)を模倣してから以後のことである。
このたび開祖様の御像を本宮山上、穹天閣(きゅうてんかく)の私の室(しつ)にお祭りして、私はそこで寝る。これで古来の通り、同殿同床となってはなはだ愉快である。二代(注・二代教主の澄子)の室は次の間にある。
〔月鏡「同殿同床の儀」〕
神様を別殿に祭るのは、外国のやり方(唐制の模倣)だということになる
崇神天皇が採用した二つの和光同塵の政策の一つ目が、この同殿同床の廃止である。
これを王仁三郎は「別人別処(べつじんべっしょ)の制」と表現している。
第十代の崇神天皇はまた格別に神祇を崇敬あらせられ、従来のように神人同床では神祇を冒涜するの恐れありとて、別人別処の制を起こし給い(略)
〔出口王仁三郎全集 第2巻 「歴朝の施政方針」〕
霊界物語を見ても、国祖神政時代は同殿同床だったが、国祖隠退後は別人別処になっている。
聖地はすでに神霊を宮殿より分離し、橄欖山(かんらんざん)に形ばかりの神殿を建てたるに倣い、各地の八王八頭(やつおう やつがしら)もその宮殿より国魂を分離して、山上または渓間に形ばかりの神殿を造り、祭祀の道を怠った。
〔霊界物語第5巻第1章「栄華の夢」〕
同殿同床の廃止の話が長くなってしまった。
これは崇神天皇の和光同塵の政策を理解するには必要なことだが、世界大家族制には直接関係はない。
次は本題の租税の話だ。
(二)租税制度の開始
日本書紀の崇神天皇12年に租税制度が始まったことが記されている。
秋九月十六日、始めて人民の戸口を調べ、課役を仰せつけられた。これが男の弭調(ゆはずのみつぎ)・女の手末調(たなすえのみつぎ)である。これによって天神地祇ともに和やかに、風雨も時を得て百穀もよく実り、家々には人や物が充足され、天下は平穏になった。そこで天皇を誉めたたえて「御肇国天皇(はつくにしらす すめらみこと)」という。
〔宇治谷孟『日本書紀(上)全現代語訳』講談社学術文庫、p130〕
御肇国天皇(はつくにしらす すめらみこと)とは、「はじめて造った国を統治される天皇の意」〔広辞苑〕で、神武天皇も同じような「始馭天下之天皇(はつくにしらす すめらみこと)」という美称を持っている。
男子に課せられた弭調(ゆはずのみつぎ)(弓弭調とも書く)とは、「大和朝廷時代の伝説上の男子人頭税。弓矢で獲た鳥獣などが主な貢納物だったからいう」〔広辞苑〕。
女子に課せられた手末調(たなすえのみつぎ)とは、「女子が布帛(ふはく)を織って献じたもの」〔広辞苑〕。
布帛とは織物のことだ。
つまりこの二つの調(みつぎ)は、鳥獣や織物という物品で納める税金である。
王仁三郎はこれが、日本で最初の租税制度だと言うのだが、調べてみると、世間一般ではそのようには言われていないようだ。
冒頭の国税庁のサイトにも書いてあるように、記紀など日本の古文書に基づくのなら、7世紀の大化の改新が日本の租税の始まりだということになっている。
外国の古文書も含めて考えるのなら、3世紀末に成立した中国の魏志倭人伝に、卑弥呼が支配する邪馬台国で税が徴収されていたという記述があり、これが日本の税の始まりだということになる。
ネットで調べた限りだが、どのサイトも口を揃えて、この魏志倭人伝と大化の改新のこと書いてある。
それが税金業界の常識になっているようだ。
崇神天皇の弭調(ゆはずのみつぎ)・手末調(たなすえのみつぎ)のことは全く触れられていない。
広辞苑の弭調の説明に「伝説上の」男子人頭税と書いてあった。崇神天皇は実在したのかどうかはっきりしていないので、その事跡についても、事実ではない伝説と捉えられているのだと思う。
しかしそれならば、邪馬台国の税金だって裏付けは何もないのある。
7世紀の税金については、発掘物によって考古学上の裏付けが取れているようだが、邪馬台国などというものは、そもそも九州にあったのか近畿にあったのか所在地すら分かっていない「伝説上の」国に過ぎない。
中国の古文書は信用できるが、日本の古文書は信用できないということなのだろうか?
税金業界というか、古代史業界というものは、ずいぶんねじ曲がった歴史の見方をするものだ。
ともかく、記紀に基づくなら、崇神天皇の御代に行われたこの弭調(ゆはずのみつぎ)・手末調(たなすえのみつぎ)が、日本の税金の始まりということになる。
この租税制度というものも、本来やるべきことではない、和光同塵の政策なのだ。
(続く)
(このシリーズは「霊界物語スーパーメールマガジン」令和2年(2020年)8月24日号から12月28日号にかけて25回連載した文章に加筆訂正したものです)