三鏡解説004 恋愛と、恋と、愛

投稿:2020年09月04日

●水鏡「恋愛と、恋と、愛」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg004

 恋というのは子が親を慕う如き、または夫婦が互いに慕い合う如き情動をいうのであって、愛とは親が子を愛するが如き、人類が互いに相愛するが如き、情動の謂(い)いである。信者が神を愛するという事はない。神様を恋い慕うのである。神様の方からは、これを愛したまうのである。故に信仰は恋愛の心というのである。

 恋愛となると全く違う。善悪 正邪 美醜などを超越しての絶対境である。お互いが全くの無条件で恋し合い、愛し合うので、義理も人情も、利害得失も何もかも忘れ果てた境地である。だから恋愛は神聖であるといい得るのである。

 今の若い人達が、顔が美しいとか技量が優秀であるとかいう条件のもとに惚れ合うておいて、神聖なる恋愛だなどというのは、恋愛を冒涜するものである。そんなものは神聖でも何でもない。人に見せて誇らんが為めに、若い美貌の妻を娶(めと)りて熱愛する夫に至っては、全く外分(がいぶん)にのみ生きるものであって下劣なものである。

 真の恋愛には美もなく、醜もなく、年齢もなく、利害得失もなく、世間体もなく、義理もなく、人情もなく、道徳もなく、善もなく、悪もなく、親もなく子もない、全く天消地減の境地である。人として真の恋愛を味わい得るものが、果たして幾人あるであろうか。

 どんな熱烈な恋といえども大概は、相対的なものである。神聖呼ばわりは片腹痛い。現代の不良青年などが、恋愛神聖を叫んでかれこれと異性を求めて蠢動(しゅんどう)するのは、恋愛でも何でもない、ただ情欲の奴隷である。

初出:『神の国』大正14年(1925年)9月号

題名通り、恋愛と恋と愛の違いを説いています。なかなか微妙な違いです。

「信仰は恋愛の心」と書いてありましたが、別のところでは、恋愛を拡大したのが信仰だ、と説いています。

●『出口王仁三郎全集 第二巻』「信仰は異なるとも」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121802c131

変愛と信仰とは人生に欠くべからざる真実の果実である。神仏やその他の宗教を信仰するというのも、要するに恋愛を拡大したものであって、宇宙の元霊(げんれい)たる独一真神(どくいつしんしん)を親愛するのを信仰と云い、個人を愛するを恋愛と云う。ゆえに、恋愛と信仰とはその根底を同じうし、ただ大小の区別があるのみである。

●座談会
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B108500c04

親鸞上人が「仏を信ずるには恋慕の心を持つべし」と言うている。総て恋慕の心から始まって来なければいかん。恋慕の心というのは、恋い慕うたりする事で、この恋を宇宙大に拡めたのが信仰や。

仏さんが恋しいから手を合わすので、どれほど好きな女でも眼の中に入ってもいいような女にでも手など合わせへん。恋愛は男でも女でも手を合わしはしない。信仰はそれ以上の恋愛なんだから自然と手が合うのや。つまり拝むという気になって来るのや

信仰と恋愛が同じものだとすると…たしかに共通するパターンがありそうです。

神社で賽銭投げて願いごとして、願いが叶わなかったら『役立たずだな』と他の神様に乗り換える人がいます。宗教団体を次々変えていくタイプです。

変な宗教にはまってしまい、言われるがままにお布施を貢いでしまうタイプもいます。

たいして信じてもいないのに、教会を建てるのに大金を寄付したりして敬虔ぶって、世間体ばかり気にするタイプもいます。

…なるほど。男女の恋愛でも似たタイプがいますね。相手を次々乗り換える人とか、変な人を好きになって大金を貢いでしまう人とか、特に好きでもないのに自分の世間体で結婚する人とか。

恋愛でも信仰でも、利己的な心では、うまく行かないでしょう。信仰に大切なことは、まず感謝です。何か頼みごとするなら、まず感謝して、その後に頼むべきです。それはきっと恋愛でも同じなんだと思います。


三鏡解説 目次


この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2019年6月17日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック