三鏡解説001 火の洗礼と水の洗礼

投稿:2020年09月01日

●水鏡「火の洗礼と水の洗礼」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg001

 火をもって、バプテスマを行うという事は、人間を霊的に救済するという事である。これ大乗の教えであって、今までの誤れる総てのものを焼きつくし、真の教えを布かれる事である。水をもってバプテスマを行うという事は、人間を体的に救済する事である。

 火は霊であり、水は体(たい)である。

 瑞霊(みづのみたま)の教えは永遠の生命のため欠くべからざるの教えであって、厳霊(いづのみたま)の教えは人生に欠くべからざるの教えである。

 厳霊の教えは、道義的であり、体的であり、現在的である。

 瑞霊の教えは道義を超越して、愛のために愛し、真のために真をなす絶対境である。いわゆる三宝(さんぽう)に帰依し奉(たてまつ)る心である。火の洗礼と、水の洗礼とは、それほどの差異があるのである。

 某地の大火災を目して、火の洗礼だと人は言うけれど、それは違う。水の洗礼である。いかんとなれば、それは体的のものであるから。

初出:『神の国』大正14年(1925年)8月号

この教示はキリスト教の教えが下敷きになっています。

バプテスマとは洗礼のことです。洗礼とは原罪を浄めて新しい生命に甦る儀式であり、転じて「生き方や考え方に大きな変化をもたらすような経験」〔広辞苑〕を指す言葉としても使われます。

キリスト教の洗礼はふつうは水で行います。

その「水の洗礼」に対して「火の洗礼」というものが聖書に書いてあります。

バプテスマのヨハネと呼ばれる人が聖書に登場します。ヨハネはイエス・キリストの出現以前に、キリストの到来を人々に告げていた人で、彼がこのように言います。

「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(ルカ福音書3章16節)

つまりイエス・キリストが授ける洗礼が「火の洗礼」というわけです。

もちろんこれは実際のファイアー(fire)ではなく、「心に火を灯す」というような意味での火であろうと解釈されています。(諸説あり)

大本神業では出口直がヨハネに、王仁三郎がイエス・キリストの役割を果たしています。王仁三郎の出現の準備のため事前に出口直が現れて艮の金神の雄叫びをして待っていました。

しかし、出口直が前座で王仁三郎が真打ちだということを信者がなかなか理解できず、王仁三郎は自分が真打ちだということを少々オブラートに包み、水の洗礼と火の洗礼に喩えて説いているようです。

これは機関誌『神の国』大正14年(1925年)8月号に掲載されたものです。大正10年に書いた霊界物語第1巻の発端の中で、水の洗礼と火の洗礼について触れており、それに対する解説としてしゃべったことではないかと思われます。

霊は「ひ」とも読み、「火」が連想できます。また水は「み」とも読むので、「み=身=体」と連想できます。

それで火の洗礼とは霊的な洗礼で、水の洗礼とは体的な洗礼だと王仁三郎は唱えたのです。

霊主体従の原則により、霊の方が主です。それで自分が主で、出口直が従なんだと間接的に言っているのでしょう。

厳霊の教えとは大本神諭(国祖)の教えであり、出口直の教えです。それが道義的・体的・現在的だというのは、つまり人間社会で通用する教えであり、それに対して瑞霊の教えはそれを超越して三千世界に通用する永遠の教えなんだよ、ということです。

三宝とは仏教用語で、仏・法・僧のこと。三法に帰依するというのは、その直前に書いてあった「絶対境」の境地を言っているのでしょう。

某地の大火災とは、おそらく大正12年9月の関東大震災のことだと思います。

実際のファイアーの火災は火の洗礼(霊的洗礼)ではなく、水の洗礼(体的洗礼)だと言うのです。

結局、目に見えるものしか見えない人は、火(霊)の洗礼とは何かということが分からずに、そういう即物的・体的な解釈をしてしまうのでしょう。

よく武道系のマンガや映画で仙人のような老人が主人公に「肉の目で見るのではなく、心の目で見るのじゃ」などと説き諭しますが、火の洗礼も「心の目」で見ないと見えて来ないでしょう。

この教示は、前述の第1巻発端と一緒に読むといいです。

三鏡解説006 我はキリストの再来に非ず」 にも火の洗礼・水の洗礼の話題があります。


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この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2019年6月10日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック