王仁文庫 第三篇「瑞能神歌(みづのしんか)」を霊界物語ネットにアップしました。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B115003
瑞能神歌には
「大本神歌」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B115003c03
「いろは歌 その一」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B115003c04
「いろは歌 その二」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B115003c05
の三つの神歌が収められていますが、実は今までも他の資料にほぼ同じものが掲載されていました。
大本神歌 → 大本史料集成 Ⅰ
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195501c22031
いろは歌 その一 → 大本史料集成 Ⅰ
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195501c22021
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195501c22022
いろは歌 その二 → 大本史料集成 Ⅰ、出口王仁三郎著作集 第一巻
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195501c2106
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195301c03
これを元に校正し、ルビや脚注を付けて「瑞能神歌」としてアップしたものです。
瑞能神歌とは主に予言が記された歌なんですが、内容の解説はまた別の機会にすることとして、外形的な情報をここに記しておきます。
瑞能神歌の「解題」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B115003c02
にも書いてありますが、三つの神歌の初出はそれぞれ次の通りです。
大本神歌
大正6年(1917年)12月1日・筆
『神霊界』大正7年2月1日号で発表
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=M192919180201c03(霊界物語ネットには未掲載)
いろは歌 その一
大正6年(1917年)11月3日・筆
『神霊界』大正6年12月1日号(「い」から「ふ」の段まで)、及び大正7年1月1日号(「こ」の段以降)で発表
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=M192919171201c03(霊界物語ネットには未掲載)
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=M192919180101c05(霊界物語ネットには未掲載)
いろは歌 その二
明治36年(1903年)9月10日・筆
『神霊界』大正6年11月1日号で発表
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=M192919171101c02(霊界物語ネットには未掲載)
これが後に一冊の本にまとめられ、王仁文庫の第三篇「瑞能神歌」として大正10年(1921年)1月に発刊されたのです。
当時の本をスキャンしたPDF復刻版が、霊界物語ネットの「書籍ダウンロード」でダウンロードすることが出来ます。(onibon_pdf_01.zip)
http://reikaimonogatari.net/dl.php
○ ○ ○
さて、最初に発表された神霊界誌上の神歌と、瑞能神歌収録の神歌とを較べてみると、細かい文字の違いはあるものの、ほとんど一緒です。
しかし、「いろは歌 その一」と「その二」の一部分に大きな相違があります。
脚注として本文中に入れておきましたが、その大きな相違点だけをここにも書いておきます。
(脚注の設定はこちらをお読み下さい。総ての脚注を開いたり、非表示にしたり出来ます)
まず「いろは歌 その一」の「な」の段です。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B115003c04&mka=a357#a353
「御稜威もたかき大和路の」が、初出の神霊界では「罪も穢れも内藤の、家に集える信者を、大本王仁が引連れて、御稜威もたかき神の森、大阪本の文雄大人、其他あまた伴なひて、大和の国に名も高き」になっています。つまり王仁文庫に収録されるにあたり、ばっさりと短く切り落とされたのです。理由は不明。
次は「も」の段です。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B115003c04&mka=a926#a918
「道の審神者は経と緯」が、初出の神霊界では「未だ日も浅野王仁の大人」になっています。浅野和三郎の名を出したくなくて修正したのか?
次は「せ」の段。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B115003c04&mka=a940-a943#a938
神 「活動く時機を松の世の、東の国に冬小森、国の鎮めと木花の」
王 「活動く時機を松の世の、国の鎮めと木花の」
神 「咲耶の姫の弥固き、千代の常磐の岩下に」
王 「咲耶の姫の活動は、千代に八千代に動きなき」
それに続いて「す」の段。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B115003c04&mka=a9764a9765a9806-a9809#a976
神 「教御祖と諸共に、神の御教を王仁が」
王 「教御祖の神教に、服ろひ尽す真人が」
神 「咲哉木の花直日嬢、御代の一の大二に、誉も竜の宮の棟、十曜の星のキラキラと」
王 「咲哉木の花春の空、時代の栄へも弥広く、誉も竜の宮の棟、十曜の紋のキラキラと」
この「せ」と「す」の段は、他にも細かい文字の相違が多いんですが、神霊界では姓名折込歌になっているため、姓名に合わせた用字・文言になっています。しかし王仁文庫では姓名折込歌ではなくふつうの神歌になっているため、字句を改めたのではないかと思われます。
最後は「いろは歌 その二」の「く」の段です。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B115003c05&mka=a248#a243
「然も大道の中心を」の前に、神霊界では「手掛足懸色々に、」という文が入っています。
大きな相違点は以上です。
○ ○ ○
余談です。
「瑞能神歌」は基本的には予言歌のようですが、回顧歌も一部含まれています。
「いろは歌 その一」の「な」の段以降は回顧歌のようです。
「む」の段ですが、ここは、大正6年(1917年)4月23日に明治天皇の遠い親戚だった鶴殿親子(大本名は大宮守子)が初めて参綾し、その翌24日に、王仁三郎・鶴殿親子ら一行11人で吉野山へ神業に出向いた時のことが記されています。
その時の模様は神霊界の大正6年6月1日号p37~40に「山吹の花」という題名で詳しく載っていますが、まだテキスト化していません。
この吉野の御神業もいろいろ謎めいています。
『新月の光』の「吉野山」という項に、
大石凝先生は吉野山に金がある。厚さ三寸、巾三里、長さ十三里のがあると言われていた。(略)
王仁は大正六年四月二十四日、大勢つれて吉野山に見に行った。金峯山や八幡山にはあるが、これは嘘やと言って帰った。確かにある。金のあるところには、黄金草が生えているから判る。シダのようなものである。(昭和十八年)
〔新月の光(八幡版)下巻 p105〕
とあるのは、この時のことです。