前回は第6巻の、北光天使と清河彦(旅人の甲)のエピソードを書きました。
清河彦はウラル教の悪党に土地を奪われ家を焼かれ女房を奪われ一家は離散し、散々な目に遇いました。清河彦は被害者であり、悪いのはウラル教の悪党です。
ところがこのエピソードでは、被害者である清河彦が、言向け和す対象になっています。
“悪を言向け和す”とは言っても、いわゆる悪党だけが言向け和す対象なのではありません。悪事を何もしていない善良な市民であっても、怒り憎しみ妬み嫉みといった悪しき想念を持っている人はみな、言向け和す対象なのです。
表面的な善悪と、内面的な善悪は一致しません。
表面的には善人でも、心の醜い人間はいくらでもいます。
言向け和す対象は人間ではなく、副守護神を言向け和すのだと考えた方がいいでしょう。
人間には3つの守護神がいます。本守護神(本霊)、正守護神(善霊)、副守護神(悪霊)です。
本守護神は、人間の霊魂の本体です。天人になるために現界に修業に来ている精霊です。
正守護神は、人間を善の方に向ける精霊です。
副守護神は、人間を悪の方に向ける精霊です。〔第47巻第12章参照〕
副守護神は決して人間を守護しているわけではないのですが、人間の心の中に悪霊が居ると言うと色々と誤解したりする人がいて問題があるので副守護神と呼ぶのだ…と王仁三郎は説明しています。
人が悪しき想念を持つのは、この副守護神がささやくからです。「悪魔のささやき」て奴ですね。
北光天使のエピソードで、ウラル教の悪党に片目をえぐられた旅人の乙が、「腹の底に悪い蟲が潜んでいまして」と語っていますが、その蟲が副守護神です。〔第6巻第35章〕
そしてその副守が乙に「仇(あだ)を討て、仇を討て、何をグズグズしている、肝腎の目玉をえぐられよって、卑怯未練にも、その敵を赦しておくような弱い心を持つな」とささやくと言うのです。
それと同時に、乙はその声を「どうしたらこれが消えるでしょうか。どうしたらこれを思わぬように綺麗に忘れる事ができましょうか」と苦悩しています。そのよう思わせているのは正守護神です。
このように正守護神と副守護神の、善と悪との声で、人の心は常に揺れています。
揺れ動くのは、副守の声も一見正しいように思えるからでしょう。
「モノを盗め」(悪)、「いや盗んじゃいけない」(善)というのは善悪の区別が比較的簡単ですが、乙の例のように「悪党に仇を討て」「いや、そこを忍耐するのだ」というのは、善と悪の区別がなかなかつきません。ややもすれば「仇を討て」というのが正義だと思えて来ます。
正義を手にした副守はやっかいです。正義の名の下に悪事を正当化するからです。中国でのいわゆる「愛国無罪」というのはとてもいい例です。「愛国」という正義の下ではどんな犯罪でも無罪になってしまうというのです。
メディアやネットで人を叩いたりするのも同様で、それをやらせているのはたいてい副守護神です。報道の自由だとか言論の自由だとかの名の下に副守護神はやりたい放題です。
悪魔狩りをするのは悪魔です。正義を掲げて副守が暴れているのです。表面の正義に惑わされずに、その奥にある霊性を見なくてはいけません。
「言向け和す」というのは、悪党(人間)を言向け和すというよりは、この副守護神を言向け和すのです。
ところで副守護神は「副守先生」というふうに、何故か「先生」とも呼ばれています。
これは、日本は言霊の幸わう国であり善言美詞で悪霊を改心させよう…というようなことで、敬称を付けているそうです。こんなところにも「言向け和す」の精神が出ていますね。
〔随筆『神霊界』大正8年10月15日号、出口王仁三郎全集第2巻「皇道大本は宇宙意志の表現」参照〕
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第16巻第18章~第17巻第6章の、丹波村の平助一家の物語には、”善人”の平助が己の心の醜さを思い知らせれるシーンが出て来ます。
平助の孫娘のお節(おせつ)がバラモン教の鬼彦・鬼虎に誘拐され、山奥の岩窟に監禁されてしまいました。
その後改心した鬼彦・鬼虎が、罪を償うためにお節を岩窟から救出し、祖父母の平助・お楢(おなら)と一年ぶりに再会。
一同は真名井ケ岳の神様(現在の比沼真奈井神社)にお礼詣りに行くんですが、雪深い山の中を進んで行く途中で、平助は悪党だった鬼彦・鬼虎たちに対する恨みがまだ晴れずに、いろいろ小言を吐きます。
そして何故か鬼彦・鬼虎たちが「羽化登仙(うかとうせん)」し、女神となって空高く飛んで行ってしまうのです。(羽化登仙とは中国の故事で、人間に羽が生え仙人になって天に登ること)
それを呆然と見送った平助は嘆きます。「ワシのような善人はこうして雪山の上で寒い風に曝されて苦労しているのに、あの悪人どもは立派な衣装を天から頂いて羽化登仙し自由自在な身になった」と。
それを聞いた妻のお楢は「人間から見て悪に見えても善の身魂もある。人間が勝手に善じゃと思って自惚れていると、いつの間にか邪道に落ちて苦しむこともある」と諭します。そして「お節を誘拐されて二人が泣きの涙で暮らしたのも、若い時から欲なことばかりして、金を貯め、人を泣かしてきた報いじゃ」と。
しかし平助は「ワシが常日頃、食う物も食わず、欲ばって金ばかり貯めたのは、お節が可愛くて一生楽に暮らさしてやりたいと思ったからじゃ。別にワシが美味いものを食ったわけではなく、身欲ということは何一つしておらぬ」と弁明します。
お楢は「それでもやはり身欲になるのじゃ。他人の子にはつらく当たり、団子一つやるわけでもなし、何もかもお節お節と身びいきばかりして、その天罰で一年もの間苦しみを受けたのじゃ。それで神様があいつらを羽化登仙させて、善と悪の鑑(かがみ)を見せて下さったのじゃ。これから綺麗さっぱりと心を入れ替えて下され」と教え諭しました。
ここでは宣伝使ではなく、神様がお楢の口を借りて平助を言向け和した、という形です。
鬼彦・鬼虎と、平助親子は、犯罪の加害者-被害者という関係であり、表面的には鬼彦・鬼虎が悪党ですが、そういう表面的な見方で読んでいると、平助が改心を迫られるという意外な結末に唖然とさせられます。
あくまでも犯罪事件の加害者-被害者という関係で見たら加害者が悪いのは当然ですが、しかし事件と関係なく、一人一人個別に見て行くと、そこに副守護神が蠢(うごめ)いているのが見えて来ます。事件というリトマス試験紙によって副守護神の存在が見えてくると言えばいいかも知れません。その副守護神こそが言向け和す対象であるのです。
なお、鬼彦・鬼虎が改心したのは、このエピソードよりももう少し前の第16巻第6章~7章です。
そこで彼らは、言向け和された時の心境を次のように語っています。
「顔の紐はさっぱり解けてしまい、今までの鬼面(おにづら)は光まばゆき女神のような顔色に堕落してしまいよった、善の道へ堕落するとコンナ腰抜けになってしまうものかなア」
「何だか拍子抜けがしたようにはござらぬか」
「左様でござる、せっかく張り詰めた今までの悪心(あくしん)は水の中で屁(へ)を放(ひ)ったようにブルブルと泡となって消え失せました。誰も彼もアルコールの脱けた甘酒のようになってしまった。亀彦(宣伝使)が説教をしてくれたが、甘いような辛(から)いような厳しいような寛(ゆるや)かなような、訳の分からぬ言葉であった。ちょうど甘酒に、生姜の汁を入れて飲むようなものだ。親爺の説教を聞きながらソッとお金をもらうような心持ちだった」
アルコールの脱けた甘酒だとか、親父の説教を聞きながらお金をもらうような気持ちだとか、なかなか微妙な表現ですね。
以上はすべて意訳・ダイジェストですので、詳しくは霊界物語を直接お読み下さい。
また、丹波村の平助一家の物語は『霊界物語コミックス2 雪山幽谷』に出て来ます。それを読むとよく分かります。
(続く)