前回、二人の天使長が国祖の「敵を言向け和せ」という厳命を破り、「破軍の剣」を使って魔軍を撃滅し、その罪で更迭されたことを書きました。〔第3巻第43~44章〕
これは「言向け和す」に挫折した失敗例と言えます。「言向け和す」というテーマに対して、「そんなの無理」とアンチテーゼを立てたとも言えるでしょう。
「言向け和せ」と言っても、武器を使わずに一体どうすればいいのか?
その疑問に対する回答は得られずにドラマはどんどん進んで行きます。
次の第4巻前半で描かれる常世会議のエピソードでも、「言向け和せ」という国祖の命令に違反する部下が登場することで、アンチテーゼが提起されています。
常世会議は邪神の常世彦が、常世国で世界中の神々を集めて開いた世界平和会議です。常世彦は武装撤廃と民主化を提案しますが、実は常世彦が世界を征服するための陰謀が秘められていたのです。
それを事前に察知した国祖は、数人の部下に特命を与え、常世会議に潜入させました。常世彦の陰謀を阻止せよというミッションです。
潜入した部下(大道別や鬼武彦ら)は幻覚を見せたり、姿を変えたりして常世会議を混乱させ、最後には常世彦の偽者(大道別が変装)を登壇させて、常世彦の当初の思惑とは異なる方向へ会議を誘導し、陰謀を打破したのでした。
しかしこのやり方は、国祖の御心に反していました。
…大道別、森鷹彦、鬼武彦らの神策鬼謀は、国祖の直命にあらず、国祖は至仁至直の言霊をもつて邪神らを悔い改めしめ、言向和さむとの御聖意より外なかつた。
〔第5巻総説嵐の跡〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm050003&mky=a033-a038&mkp=a039-a045#a033
国祖は、常世彦ら邪神を言向け和して態度を改めさせよと命じたのであって、権謀術数(人をあざむく策略)を使って会議を阻止せよと命じたわけではないのです。
しかるに血気に逸(はや)り、忠義に厚き聖地の神々は、律法の如何(いかん)を顧みるに遑(いとま)なく、暴に対するに暴を以てし、逆に対するに逆を以てし、不知不識(しらずしらず)のあひだに各自の神格を損ひ、国祖の大御心を忖度(そんたく)し得なかつたためである。
〔同〕
例の森友学園問題で有名になった「忖度」という言葉が出て来ましたが、部下の神々は、国祖の命令が「言向け和す」だと推しはかることが出来なかった、ということです。
しかし、そもそも「言向け和す」が何なのか分かっていなければ、そのように忖度することは不可能です。
この常世会議の後、国祖が「言向け和す」の実例を見せています。
第4巻第33章で、「言向け和す」の実例が初めて示されています。
何をもって「言向け和す」とするのか、見方によって違って来ますが、私の見方では、その章が初めてです。
常世会議で権謀術数を使った責任を取り第四代天使長の広宗彦は辞職し、第五代天使長に桃上彦(広宗彦の末弟)が就任しました。
その就任披露兼退職慰労パーティーの場に突如、国祖が現れて、一同に宣示します。
『神の慈愛は敵味方の区別なく、正邪理非を問はず広く愛護す。汝ら桃上彦をはじめ諸神人(しょしん)一同、これを見よ』
と上座の帳(とばり)を、手づから捲(まく)り上げたまへば、六合(りくがふ)も照りわたる「真澄の大鏡」懸りあり。
諸神人は国祖大神の宣示にしたがひ、真澄の大鏡の安置されたる正座に、一斉に面(おもて)をむけ思はず低頭平身、得も言はれぬ威厳に打たれ、落涙しつつ頭を恐るおそるもたげ、鏡面を拝すれば、こはそもいかに(中略)滅亡したる諸々の悪人は、いづれも生々(いきいき)としてその肉体を保ち、国祖の身辺にまめまめしく、楽し気に仕へ居ることを明瞭に覚り得たりける。
〔第4巻第33章「至仁至愛」〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0433#a074
「真澄の大鏡」と呼ばれる鏡に、今までの戦闘で死んだはずの悪神たちが、甦り、国祖のそばで生き生きと働いている姿が写っていたのです。
国祖が悪神たちを救ったのでした。
それだけでも驚きですが、さらに国祖は驚くべき衝撃の事実を神々に見せつけます。
国祖は満座にむかひ、
『汝らは神の真(まこと)の愛を、これにて覚りしならむ』
と言ひ終りて、背部を諸神の前にむけ、
『わが後頭部を熟視せよ』
と仰せられたれば、諸神人(しょしん)はハツト驚き見上ぐれば国祖の後頭部は、その毛髪は全部抜き取られ、血は流れて見るも無残に爛(ただ)れ果て、御痛(おんいた)はしく拝されにけり。神司(かみがみ)らは一度にその慈愛に感激し、この御有様をながめて、涙の両袖を湿し、空に知られぬ村時雨、心も赤き紅葉を朽ちも果てよと吹く風に、大地を染めなす如き光景なり。神人(かみがみ)のうち一柱も面(おもて)を得上ぐるものなく畳に頭を摺りつけて、各自の今まで大神の御心の慈愛深きを知らざりし罪を感謝したり。
国祖の後頭部の毛髪は、全部抜き取られて、見るも無惨な姿でした。
それは一体どういうことなのか?
大神の神諭に、
『この神はたれ一人つつぼ(注・後述)に致さぬ。敵でも、悪魔でも、鬼でも、蛇(じゃ)でも、虫けらまでも、救ける神であるぞよ』
と示されたる神諭を思ひ出すたびごとに、王仁は何時も落涙を禁じ得ざる次第なり。
悪神の天則違反により厳罰に処せられ、その身魂(みたま)の滅びむとするや、国祖はその贖(あがな)ひとして、我が生毛を一本づつ抜きとりたまひしなり。この国祖の慈愛無限の御所業を覚りたまひし教祖は、常に罪深き信者にたいし、自ら頭髪を引き抜き、一本あるひは二本三本または数十本を抜き取り、
『守りにせよ』
と与へられたるも、この大御心を奉体されたるが故なり。
「つつぼ」という言葉は大本神諭にたびたび出て来るんですが、「土壺」(つちつぼ)のことのようです。さらに言えば昔、畑にまく肥溜めを入れておいた野壺のことだと思います。
大本神諭では、「不遇」とか「破滅」とか「不運者」などの漢字に「つつぼ」とルビが振られ、「つつぼには落とさぬ」とか「つつぼには致さん」というフレーズで出て来ます。
肥溜めに落とすような悲惨な境遇にせず、悪魔でも虫けらでも救い出す神だと言うのです。
悪神たちを救うために、その贖いとして、国祖は自分の髪の毛を一本ずつ抜いていたというのです。
出口ナオ開祖が、罪深い信者に自分の頭髪を抜いてお守りとして与えていたというエピソードと重ね合わせて書かれていますが、実に凄まじい愛です。
出来の良い者だけを救うのではなく、出来の悪い者も含めて、総てを救うのだという、この徹底的に肚が座った態度に、全く圧倒されてしまいます。中途半端に「このくらいでいいや」とあきらめてしまうのではなく「一人も残らず」というところに、言葉では言い表せない凄まじい気迫を感じます。
この、神の真の慈愛に初めて気が付いた神々は、落涙して感謝しました。
これによって今まで悪業を重ねて来た常世彦たち悪神も、心を改めて、神政に奉仕することとなったのです。〔次の第34章参照〕
この章には「言向け和す」という言葉が使われていませんが、しかし私は、これが「言向け和す」の実例であると思います。
悪神の暴力に対して暴力で返すのではなく、愛で返すのです。
以前に書いた「笑うて返すは神心」(返報返しの話)もお読み下さい。
(続く)