月別アーカイブ: 2022年8月

三鏡解説268 犠牲

Published / by 飯塚弘明
投稿:2022年08月31日

●月鏡「犠牲」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg268

既成宗教は、犠牲ということを推奨して最高の道義的行為なりとしておるが、犠牲即ちイケニエなるものは、実は正しいことではないのである。
身を殺して仁(じん)をなすなど、己れを捨てて人を助くることは実際でき得るものではない。

教育勅語に、恭倹(きょうけん)己れを持し、博愛 衆に及ぼすと宣らせられ給うている如く、人は神の子、神の生宮(いきみや)で、言い換ゆれば人は神であるから、神を敬う如く人を敬い、また己れを敬うのが本当である。
自分を全うせずして人を助くることはできないではないか。

神であっても、犠牲を喜ぶような神は正しい神ではない。日本の神様は決して犠牲を喜ばれない。

初出:『神の国』昭和4年(1929年)2月号

自分を犠牲にして他人のために働くというのは、とても美しい行為のように思えますが、実は神様から見たら正しいことではないというのです。

身を捨ててはいけない、ということで、舎身活躍(第37~48巻の輯題)の舎身も捨身(身を捨てる)ではなく舎身という造語を使っています。

 ここにいう舎(しゃ)は家であって、衣食住の完備して一家の斉(ととの)うたる意義である。そこで舎身活躍とは、他の厄介にならず独立独歩して活動するということであって、身を捨てて活躍するという意味ではないのである。

なお約(つづ)めて言えば、軍人には軍人の服装があり、農家には農家の服装ある如く、軍人は軍人らしく農家は農家らしく、商人は商人らしく、労働者は労働者らしく、それぞれ、それらしき身の構えをして活動するということである。

●月鏡「舎身活躍」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg272

教育勅語の「恭倹(きょうけん)己れを持し、博愛 衆に及ぼす」というのは、文語体なので難解ですが、昭和15年の文部省訳によると「へりくだって気随気儘の振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すようにし」という意味です。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E5%8B%85%E8%AA%9E

王仁三郎はこの文の「おのれを持す」つまり、身を保つ、ということを強調したいのではないかと思います。
他人を敬い、自分をも敬うのが正しい生き方であって、他人のために自分を犠牲にしてはいけないということです。

それは、そもそも自分の肉体は自分のモノではなく、神様からの借り物・預かり物だからです。
ですから、自殺ということは、神に対する大きな罪になります。
また、自分の霊魂も、神様の一霊四魂の分霊ですので、粗末にしてはいけません。

自分を犠牲にすることが問題ならば、他人に犠牲を強いることはもっと問題です。
霊界物語に、人間に生贄を要求する神が何度か出ます。
たとえば第3巻の荒河の宮のエピソード。
毎年この地方(南高山)の人々を生贄として捧げさせ、万一それを怠った時にはこの地方一帯に暴風が吹き起こり猛雨が降り注ぎ、大洪水を起こして人々を苦しめるという暴悪な神です。
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0333

大道別がそれを退治しますが「そもそも神たるもの犠牲をたてまつらざれば、怒りて神人を苦しますべき理由あるべからず。これまったく邪神の所為ならん」と大道別は語っています。
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0334

人民を脅迫して金品を出させるような神は、暴力団がみかじめ料を要求するのと一緒で、ろくな奴ではないのです。
人間に苦痛を強いさせたり、対価を要求するような神は悪神です。
「先祖の霊が祟っているから護摩を焚いて祓ってあげよう。祈祷料で100万円必要だ」なんていうのも、その一例です。
統一教会(現・世界平和統一家庭連合)の霊感商法が大きな社会問題になっていますが、霊感商法は悪神の業であることは言うまでもありません。

真の神は、人間が何もしなくても、大きな恵みを与えて下さっています。
ただ人間がそのことに気がつかないだけです。

この月鏡の教示では「犠牲」という言葉を否定的に使っていますが、必ずしも「犠牲」が悪いわけではありません。
王仁三郎は「犠牲」を肯定的にも使っています。
たとえば、

謝恩の念があって始めて犠牲心が起こり没我心が起こるのだ。(略)自分を犠牲にすること、自己を没却すること、この二つのものは神道の教義の教うるところであって、親が子を愛し子が親に孝を尽すのは、人間自然惟神の慣性であり常道である。
●月鏡「謝恩と犠牲心」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg254

なんてことも言っています。
犠牲(ぎせい)が悪いのではなく、イケニエが悪いのです。
要するに、嫌々ながら犠牲になるのか、喜んで犠牲になるのかの違いです。

親が子のために、自分を犠牲にして働く、それは子の笑顔を見たくて、喜んで働いているのなら、何も問題はないのです。
もし親が子に「おまえのために身を削ってこんなに働いているのに、どうして言うことを聞かないんだ!」などと、恩着せがましいことを言うのであれば、それは嫌々ながら働いているのです。自分をイケニエにしちゃっているのです。

宗教団体や慈善団体に寄付をする時も、「こんな大金出したくないな~」と痛みを感じるようであれば、寄付するのをやめた方がいいでしょう。
喜捨(きしゃ)、つまり喜んで捨てるということでなくてはいけません。


三鏡解説 目次


(この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2020年6月15日号に掲載した文章をもとに加筆訂正したものです)


三鏡解説256 霊止と人間

Published / by 飯塚弘明
投稿:2022年08月30日

●月鏡「霊止と人間」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg256

人は霊止(ひと)であって、天地経綸の司宰者であるが、人間は天地の経綸を行うことはできない。人間は天地経綸の一機関である。

初出:『神の国』昭和4年(1929年)1月号

この教示は人(霊止)と人間の違いです。

まず人ですが、王仁三郎は、神の霊が止(とど)まるところがヒト(人、霊止)であると説きました。

大正15年(1926年)4月、人類愛善会の第一回総会での講演の中で、王仁三郎は次のように教えています。

…人類愛善会というのは、総ての人間を人間が愛するように聞こえております。総ての人類は同じ神の子であるから、総て愛せねばならぬという意味になっておりますが、それはそれに違いないけれども、人類という字を使ったのは、下に「愛善」がありますから、上の「人類」の意味が変わって来る。単に「人類」とだけ言えば世界一般の人類あるいは人間の事であり、色々の人種を総称して人類というのである。

しかし日本の言霊の上から言えば、「人」は「ヒト」と読みて、ヒは霊であり、トは止(とどま)るという事である。そうして「人」という字は左を上に右を下にして、霊主体従、陰と陽とが一つになっておる。神というものは無形のものであるが、しかし神様が地上に降って総ての経綸を地上の人類に伝える時には、止(とど)まるところの肉体が必要であります。それで神の直接内流を受けるところの予言者とか総てそういう機関が必要なのでありまして、この霊(ひ)(神)の止(とど)まるのが人(ヒト)である。

それは神の顕現、神の表現として釈迦とかキリストとか、そういう聖人が現われて来ておる。人間というものは、善悪混淆(こんこう)した普通のものであるが、人というと神の止(とど)まる者、神の代表者である。それに類するというのであるから、それに倣(なら)うのである。

初出:『神の国』大正15年(1926年)5月号
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121801c49

神霊が宿って、神の経綸を実行する存在が、人(ヒト、霊止)だというのです。

これは端的に言えば、王仁三郎のような特別な役割を持った人だけが「霊止」だということになります。
しかし私たち全員が、そうなれるように目指すべき方向であります。

私たち凡人は、今は霊止ではなく、人間ですが、その人間とは何かというと、霊止と動物の中間的存在です。
月鏡のもう少し後ろの方で、王仁三郎は次のように述べています。

●月鏡「人間という問題」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg299

大本は、人は神の子、神の宮と唱えている。また神は万物普遍の霊にして、人は天地経綸の司宰なり、神人(しんじん)合一して、ここに無限の権力を発揮すとか、また人は天界の基礎なり、天国は昇りやすく、地獄は堕ち難しと言っておるのは、普通一般のいわゆる人間ではない。人間界を超越した神の御用に立つところの神柱(かむばしら)のヒト(霊止(ひと))を指したものである。人と獣ととの中間に彷徨しておる縦ハナ横眼の者をさして人間と称しての、この論旨であると考えてもらいたい。

なるほど。
神様の御用に立つ神柱が霊止であって、それはやはり全ての人間が目指すべき目標です。

なお、「人」と「人間」という言葉を、王仁三郎は厳密に使い分けているわけではありません。
あくまでも、サルの延長線上にある現代の人間と、神様が意図した本来あるべき姿(霊止)との違いを説明するためのレトリックとして、人(霊止)と人間という言葉を用いているのだと思って下さい。

霊界物語や三鏡などの他の箇所で「人」という言葉が出て来ても、「霊止」の意味とは限りませんので御注意を。


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(この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2020年6月1日号に掲載した文章をもとに加筆訂正したものです)


三鏡解説058 霊と精霊

Published / by 飯塚弘明
投稿:2022年08月27日

●水鏡「霊と精霊」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg058

霊と精霊とを混同して考えている人があるが、それは大変な間違いである。
霊は万物に普遍しておるので、この火鉢にでも鉄瓶にでも、乃至は草花にでもある。
もし霊が脱けてしまえば物はその形を保つ事が出来ないで崩壊してしまう。非常に長い年数を経た土器などが、どうもしないのにくじゃくじゃに崩れてしまうのは、霊がぬけてしまったからである。鉱物、植物みな霊のある間は、用をなすものである。
精霊というのは動物の霊をさすのであって、即ち生魂(いくみたま)である。

初出:『神の国』昭和2年(1927年)4月号

王仁三郎が説く「霊」と「精霊」は異なるということなんですが、果たして霊界物語などでもそこまで厳密に区別して書き分けているのかどうかは不明です。

この「霊と精霊」の少し前に、「関の地蔵様と一休和尚」と題する教示があります。
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg054

そこに「石にでも木にでも霊はあるが精霊はない」と書いてあります。
それに対して信者から疑問が出たので、「霊と精霊は異なる」と教えたのではないでしょうかね。

霊という言葉は色々な意味で使われるので注意が必要ですが、ここで言う霊とは、神から発して万物に偏在する霊(教旨で説いている霊)のことで、精霊というのは動物や人間に与えられた霊のことです。

生魂(いくみたま)という言葉が出て来ましたが、これは「生魂(いくむすび)」とも呼びます。動物の霊は「生魂」で、植物は「足魂(たるむすび)」、鉱物は「玉留魂(たまつめむすび)」と呼びます。
剛柔流(ごう、じゅう、りゅう)の三元の説明のところに書いてあります。
●第6巻第1章「宇宙太元」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0601


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この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2019年8月15日号をもとに加筆訂正したものです)


五六七の世までも云々

Published / by 飯塚弘明
投稿:2022年08月26日

霊界物語に「この御恩はミロクの世迄も忘れは致しませぬ」のような「五六七の世までも云々」という言い回しがたびたび出てくる。

たとえば、

「貴方の御親切は孫子(まごこ)の時代はおろか、五六七の世まで決して忘れは致しませぬ」
第8巻第38章「華燭の典」 五月姫のセリフ
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0838#a132

「千代も八千代も変りなく 睦び親しみ永久(とこしへ)に 五六七の世迄も霊(たま)幸(ちは)ふ」
第11巻第27章「太玉松」 石凝姥命の歌
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm1127#a075

「固き心は千代八千代 五六七の世まで変らじと 心定めし益良夫の」
第30巻第18章「日暮シの河」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3018#a100

「この御恩はミロクの世迄も忘れは致しませぬ」
第68巻第17章「地の岩戸」 スバール姫のセリフ
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm6817#a230

この「五六七の世までも云々」という言い回しは霊界物語独特の言い回しだなと思っていたらそうではなかった。

宮田登・著『ミロク信仰の研究』によると、仏教の弥勒信仰において北陸地方で「五六七の世まで」云々という言い回しが使われていたそうである。

奥能登の町や村では、ちょっとした冗談口に「お前のような奴は、弥勒の世になっても借金を返すまいから貸さない」といったり(略)「こんなうまいことは、弥勒の世代にもないことじゃ」などともいったりするという。
きわめて日常的意識の中で、「ミロクの世」はなかなか実現しにくい未来のことを示している。富山県高岡市でも「弥勒様の世になっても」という場合、未来永劫望みはなしという意味を表わすといっている。
〔『ミロク信仰の研究 新訂版』p25-26〕

ミロクの世は「なかなか実現しにくい未来のこと」と書いてあったが、たしかに仏教の弥勒信仰ではそうなのだろう。何しろ釈迦滅後56億7千万年後のことなのだから。

霊界物語でもそのようなニュアンスで使われているが、それは”35万年前”の”太古の神代”の物語だからであろう。

しかし天運循環して国祖再現の時節が到来した。明治25年からミロクの世への幕が開いている。
「五六七の世までも云々」と太古の神代の人たちが言っていたその時代がやって来ているのである。