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三鏡解説039 人間の霊魂

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年10月10日

●水鏡「人間の霊魂」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg039

人間には元はよい魂(みたま)が授かってあったがだんだん悪くなった。

黄金(おうごん)時代は元の美しい霊であったが、世がだんだん悪くなって、白銀(はくぎん)、赤銅(しゃくどう)、黒鉄(こくてつ)時代と成り下がり、今は早や泥海時代となっておるから、今の世の中に生まれておるものは、魂(みたま)が既に外部的状態を混じた善悪混合のものとなっている。

初出:『神の国』大正15年(1926年)11月号

黄金時代、白銀時代、赤銅時代、黒鉄時代、泥海時代という時代区分は、王仁三郎のオリジナルなものではなく、もともとはギリシャ神話に出てくる言葉です。
○ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%87%91%E6%99%82%E4%BB%A3
○コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E9%BB%84%E9%87%91%E6%99%82%E4%BB%A3-448892

スエデンボルグもこの言葉を使っています。

霊界物語にもこの言葉がときどき出て来ます。次の箇所で詳しく説明されています。

●第47巻第21章「跋文」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm4721#a113

地上における最太古の人間は即ち天的人間であって、相応そのものによって思索し、彼らの眼前に横たわれる世間の自然的事物は、彼ら天的人間が思索をなす所の方便に過ぎなかったのである。

太古の人間は天人と互いに相交わり相語り、天界と世間との和合は彼らを通して成就したのである。これの時代を黄金時代というのである。

次に天界の住民は地上の人間と共におり、人間と交わること朋侶(ほうりょ)の如くであった。されど最早この時代の人間は相応そのものより思索せずして、相応の知識よりせるによって、なお天と人との和合はあったけれども、以前のようには親密でなかった。この時代を白銀時代という。

またこの白銀時代を継いだものは相応は知らぬにはあらざれども、その思索は相応の知識によらなかった。故に彼らがおる所の善徳なるものは自然的のものであって、前時代の人の如く霊的たることを得なかった。これを赤銅時代といったのである。

この時代以後は人間は次第々々に外的となり、遂に肉体的となりおえ、従って相応の知識なるもの全く地に墜ちて天界の知識ことごとく亡び、霊界に関する数多の事項もおいおいと会得し難くなったのである。

また黄金は相応によって天国の善を表わし、最太古の人のおりし境遇である。また白銀は霊国の善を表わし中古の人のおりし境遇であった。赤銅は自然界の善を表わし古(いにしえ)の人のおりし境遇である。

さらに下って、黒鉄時代を現出した。黒鉄なるものは冷酷なる真(しん)を表わし、善はこれにおらない時代である。これを思うに現今の時代は全く黒鉄時代を過ぎて泥土(でいど)世界と堕落し、善も真もその影を没してしまった暗黒無明の地獄である。

国祖の神はかくの如き惨澹たる世界をして松の代、三五(あなない)の代、天国の代に復活せしめんとして不断的愛善と信真のために御活動を遊ばし給いつつあることを思えば、吾々は安閑としてこの現代を看過することは出来ないのである。天下国家を憂うるの士は、一日も早く神の教えに眼を醒まし、善のために善を励み、真のために真を光(てら)して、空前絶後の大神業に参加されんことを希望する次第であります。

黄金時代というのは、人間が天人と互いに交わり、語り合い、つまり神人合一していた時代のようです。

“相応によって思索する”というのは、どういうことなのか私にはよく分かりません。何しろ私も泥海時代の人間ですから(^_^;
皆さん、いろいろ考えてみて下さい。


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三鏡解説038 裁、制、断、割

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年10月10日

●水鏡「裁(さい)、制(せい)、断(だん)、割(かつ)」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg038

「裁」は奇魂(くしみたま)の働き即ち「智」、「制」は和魂(にぎみたま)の働き即ち「親(しん)」、「断」は荒魂(あらみたま)の働き即ち「勇」、「割(かつ)」は幸魂(さちみたま)の働き即ち「愛」である。

初出:『神の国』大正15年(1926年)11月号

これは四魂の働きを説明しています。

裁・制・断・割は四魂の「義(ぎ)」、智・親・勇・愛は四魂の「体(たい)」です。

王仁三郎は一霊四魂について霊界物語の各所で色々詳しく説明していますが、主に次のところに書いてあります。

●第13巻総説の(二)霊力体
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm130003#a176

●第10巻第29章「言霊解三」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm1029

●第6巻第26章「体五霊五」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0626


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三鏡解説037 論語読みの論語知らず

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年10月09日

●水鏡「論語読みの論語知らず」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg037

女が男より先にお湯に入ったという小さな出来事のため、やかましい問題を惹き起こすことが度々あるという事を聞くが、宣伝使たち、霊界物語をどう読んでおるのか。男女同権は神の定め給うた規則である。女が先にお湯に入っては悪いという理由がどこにあるか。そういう事を言う人たちは、男が女よりも特別優れて生まれているというような迷信に陥っておるからである。

こういう旧(ふる)いこびりついた頭を持っていて、いつの日か神書霊界物語に盛られたる天地の真理を実現することが出来ようか。事柄はいと小さいけれど、神書に示さるる道理を無視し、旧来の道徳を標準として人を裁くという事は間違いのはなはだしいものである。
こういう見易い道理さえ分からぬ人が宣伝使の中にも多いのは困ったものである。

無論、夫婦となった男女は針と糸との道理、すべてに夫を先にすべきは申すまでもない。
また女が月経中入浴を慎むべきは当然である。

初出:『神の国』大正15年(1926年)10月号

まずタイトルの「論語読みの論語知らず」ですが、これは諺です。
広辞苑によるとその意味は「書物の上のことを理解するばかりで、これを実行できない者にいう」ということです。
この水鏡の教示の中では、論語ではなく、霊界物語を読んでいても何も実行できていない、と戒めています。

「女が男より先に○○をした」ということで揉めることは、さすがに現代日本ではあまりないでしょうけど、当時は男尊女卑社会ですから、そういうことで揉めることもたびたびあったのでしょう。
男女同権が神の定めた規則である、と王仁三郎は言っています。
しかしその一方で、夫婦になったら夫を先にすべし、とも言っています。
何だか矛盾しているように感じるかも知れませんが、それはおそらく次のような意味だと思います。友人のようなフラットな関係であれば男女は平等だが、夫婦というのは最小の社会であり組織である。組織であれば順序は必要である…と。

神は順序であり、順序を破れば秩序が乱れる、ということが霊界物語で教えられています。
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm6525&mka=a110-a123#a110

天と地、火と水、日と月、厳と瑞などのように、夫婦というものも、どちらが偉いということではなく、対等であり、それぞれ役割を持っていますが、しかし順序は必要です。順序とは秩序であり、宇宙は秩序によって正しく運行しているからです。
そういう観点から、夫婦になったら夫を先にすべしと言っているのではないかと思います。
ただしどちらが先に入浴するかなどというのは、今となってはどうでもいいようなことです。しかし当時は水は貴重ですし、薪を焚いて湯を沸かしていたので、一番風呂に誰が入るかということはどても重要だったのだと思います。ですが現代では蛇口を捻ればいくらでもお湯が出る時代ですので、一番でも二番でもそんな重要なことではなくなっています。
最後の、女が月経中入浴を慎むべき云々というのは、ただの一般論で、何か宗教的意味があるわけではないと思います。

ところで世の中にはレディーファーストという言葉があります。
たいていの人はあまり気にしないでしょうけど、うるさい人に言わせれば、あれは女性差別の裏返しです。
先に入るな、ではなく、先に入れ、です。
レディーファーストだと、女性は『大切にされている』と感じるかも知れませんが、うるさい人に言わせると、女性が『大切にされている』ということに喜びを感じること自体が男性優位社会の産物だ、そのように男性に感じさせられているのだ、ということになります。
まあ、世の中にはいろいろなものの見方があるものです。


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三鏡解説036 三千年に一度実る桃の実

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年10月07日

●水鏡「三千年に一度実る桃の実」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg036

「三千年に一度実る桃の実」というのは、無花果(いちじく)の事である。桃の事ではない。

「優曇華(うどんげ)の花咲く春」というのも同じ意味である。優曇華は印度語であって、無花果の事である。

大本神諭の「煎豆(いりまめ)にも花が咲く」というのと同じ意味であって、希有(けう)の出来事の謂(い)いである。

初出:『神の国』大正15年(1926年)10月号

「三千年に一度実る桃の実」というフレーズは大本神諭には出て来ません。霊界物語に何度か出て来ます。
たとえば、

●第6巻第24章「富士鳴戸」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0624

三十三魂(みづのみたま)は瑞霊(ずいれい)の意なり。また天地人、智仁勇、霊力体、顕神幽とも云い、西王母(せいおうぼ)が三千年の園(その)の桃の開き初めたるも三月三日であり、三十三は女の中の女という意味ともなるを知るべし。

西王母(せいおうぼ)は中国の古い信仰で、女神や仙人のような存在です。
漢の武帝(紀元前1世紀頃の皇帝)が西王母から不老長寿の桃をもらったという故事があります。この桃は三千年に一度、花を咲かして実を結ぶという桃です。
https://kotobank.jp/word/-391318
https://kotobank.jp/word/-619549

「三千年に一度実る桃の実」とは、その桃を指しています。西王母の桃です。

霊界物語では西王母は坤の金神の別名ということになっています。治国別(はるくにわけ)宣伝使の天国巡覧の物語に西王母が出て来ます。霊国の桃園のシーンです。
●第48巻第12章「西王母」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm4812

冒頭の水鏡の中で王仁三郎は、この西王母の桃は、実は桃のことではなく、無花果(いちじく)だと言っています。

仏教では、優曇華(うどんげ)が三千年に一度咲くと言われています。
優曇華は想像上の植物ですが、この優曇華の花が咲く時に、転輪聖王(てんりんじょうおう)という理想の王が世に現れると言われています。
そのインドの仏教の優曇華の話が中国に伝わり、中国では桃だと言われるようになったようです。

冒頭の水鏡の中で、優曇華もまた無花果のことだと王仁三郎は言っています。

調べてみると優曇華は無花果そのものではないようですが、無花果の親戚の植物だと言われているようです。
https://kotobank.jp/word/-441041
https://kotobank.jp/word/-102884

「優曇華(うどんげ)の花咲く春」というフレーズも大本神諭は出て来ません。霊界物語に何度か出ます。
たとえば「ここに会うたは優曇華の 花咲く春の引合せ」〔第13巻第2章〕というように、滅多に起きない稀有な出来事を指す譬喩として使われています。

「煎豆(いりまめ)にも花が咲く」というのは、大本神諭に出る有名なフレーズです。
火で煎った豆には花が咲くことはありません。そのあり得ないことが起きるという、稀有の出来事を指す表現です。

ところで無花果というのは、果実ではないそうです。
何とあれは花なんだそうです。
果実のように見えますが、あの中に入っている赤いツブツブが、花なんだそうです。
とても変わった、稀有な植物ですね。
一見、花が咲かないように見えるので「無花果」という文字が当てられたようです。
(参考)
https://foodslink.jp/syokuzaihyakka/syun/fruit/figue.htm
http://www.ja-gp-fukuoka.jp/education/akiba-hakase/002/003.html


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三鏡解説035 天国霊国と花壇

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年10月07日

●水鏡「天国霊国と花壇」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg035

 天国にも霊国にも花園(はなぞの)が無ければならぬのだ。それで私が昔、花を植えると、訳の分からぬ役員達が抜いて捨ててしまう。だから綾部になかなか天国が建設せられなかった。幸い亀岡の役員達は、私を比較的よく理解していてくれるので、霊国の一大要素たる花苑(かえん)や花壇が段々に出来て来て結構である。

 今私は温室を造っておるが、冬になって花が無くなると霊国の資格が欠けるから、それで私がこしらえておると、今に訳の分からぬ人達が「この経費多端の秋(とき)に当たって、贅沢な温室などをこしらえて、聖師様はどうするおつもりであろうか」などと言う。今も昔も忠義ぶって神の経綸(しぐみ)の妨害ばかりする守護神が多いのは困ったものである。

 神諭に「九つ花(ばな)が咲きかけたぞよ、九つ花が十(と)ようになって咲く時は、万古末代(まんごまつだい)萎(しお)れぬ生花(いきばな)であるぞよ」とある。

 一未信者の設計になった天恩郷の花壇の形が、十曜の神紋であった時に、私はいよいよ時節進展と喜んだ。綾部の神苑にも花壇が出来るようにならねば天国は開けぬのである。

初出:『神の国』大正15年(1926年)10月号

直前の034「厳と瑞」と同じように王仁三郎は、瑞の御霊の神業を役員・信者が理解しない…と歎いています。しかし綾部より亀岡の方がまだ少しマシだというのです。そもそも亀岡の神苑は瑞霊の神業の聖地として造営したので、王仁三郎を慕う人が多いのでしょう。

綾部の神苑は明治40年代から少しずつ買収し、造営して行きました。亀岡の神苑(亀山城址)は大正8年に買収し、大正14年2月以降、本格的に造営が開始され、「天恩郷」と命名されています。詳しくはオニペディアを見て下さい。
○梅松苑
https://onipedia.info/wiki/%E6%A2%85%E6%9D%BE%E8%8B%91
○天恩郷
https://onipedia.info/wiki/%E5%A4%A9%E6%81%A9%E9%83%B7

水鏡「天国霊国と花壇」は『神の国』の大正15年(1926年)10月号に掲載されたものなので、天恩郷の造営が始まって1年ちょっと経った頃の発言です。

綾部の聖地は天国を、亀岡の聖地は霊国を地上に移写したものとして造営されました。
「花園が無ければならぬのだ」と言っているのは、王仁三郎が花好きだったからではなく、天界(天国と霊国)は百花爛漫(ひゃっからんまん)芳香馥郁(ほうこうふくいく)の世界だからです。

温室云々と書いてありましたが、この時は温室で花を育てていたようです。しかし後にそれを止めています。その理由も三鏡に書いてあります。

●玉鏡「温室をやめた理由」(昭和8年8月)
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg735

 大分長い間温室において花を育てていた。それは天国の移写たる聖場には、冬といえども花がなくてはならぬからであった。だがガラスで囲って温湯(おんとう)で暖めてやらねばならぬような花、外へ持ち出すとすぐ萎(しお)れるような花はとうてい駄目である。雪霜(せっそう)を凌いでその中に凛(りん)として咲くような花でなくては物の役に立たぬと思うて、断然温室栽培をやめる事にしたのである。

なるほど。
冬に咲く花というと、サザンカとか椿、葉ボタンなどを栽培していたのでしょうか?

「九つ花(ここのつばな)が咲きかけた」というのは大本神諭に何度か出る表現で、九曜紋が十曜紋になったことを、ミロクの世の表徴として言っているようです。
明治32年(1899年)に遷座祭を行うため、祭典用に注文した提灯が、九曜紋を指定したのに、何故か十曜紋で作られました。
九曜紋は綾部のお殿様である九鬼家の紋章で、当時の大本はそれを使っていたようですが、業者が何故か間違って十曜紋で作ってしまったのです。
十曜紋の方が複雑なので作り間違うとは思えませんが…これが神の仕組だったのです。これによって大本の神紋が十曜紋に定められました。
○大本七十年史 上巻「十曜の神紋」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195401c1522

「一未信者の設計になった天恩郷の花壇」とありますが、未信者とは信者ではない者という意味です。信者ではない人が花壇を設計したのに、たまたま十曜の形で設計した、ということのようです。
王仁三郎はそれを神の意志と受け止めて、「いよいよ時節進展」と喜んだのだと思います。


三鏡解説 目次


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