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三鏡解説018 神、耶、仏すべてを信ず

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年09月15日

●水鏡「神(しん)、耶(や)、仏(ぶつ)すべてを信ず」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg018

 バイブルから、奇跡を除かんと企てた耶蘇教(やそきょう)(注・キリスト教のこと)信者がある。誤れるもはなはだしいものである。

 耶蘇教より奇跡を取り去れば、それはもう宗教でなくて倫理学である。

 私は仏教、耶蘇教、神道の総てを信ずるものである。

初出:『神の国』大正15年(1926年)6月号

聖書の奇跡とは、たとえばイエス・キリストが病人の病を癒やしたとか、嵐を静めたとか、水の上を歩いたとか、そういう超常現象です。
マリアが処女懐胎してイエスを産んだこともそうですし、何より一番大きな奇跡は、十字架に架けられて殺されたイエスが甦ったこと(復活)です。

聖書から奇跡を除くというのは、つまりそれらの奇跡を否定するということです。
そういうクリスチャンは近代科学の発達と共に増えています。聖書の内容を、科学的な知見に合わせて合理的に解釈しようという人たちです。

ここで王仁三郎が批判しているのは、誰か特定の人を指しているのか、教派を指しているのか分かりませんが、たとえば自由主義神学と呼ばれるものは、その一つのようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E7%A5%9E%E5%AD%A6

しかしここで王仁三郎が言いたいことは、聖書に書いてある奇跡を信じろということではありません。
キリスト教に限らず、宗教から奇跡(超常現象)を取り除いてしまったら、ただの倫理学になってしまう、ということです。

他のところでも似たような発言があります。そちらの方が、王仁三郎が言いたいことが、より詳しく分かります。

●出口王仁三郎全集第2巻 皇道大本は宇宙意志の表現 (初出:『神の国』昭和7年3月号)
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121802c119

 今までの既成宗教は霊界に偏し、今日の学者は現界に偏し、哲学者は不可思議力、あるいは色々なものに偏して、中庸を得たものは一つもないのであります。それで宗教家は科学を馬鹿にし、科学者は宗教を馬鹿にしている。しかるに今日の既成宗教家は、すべて自分の唯心論的宗教を幾分か軽蔑して、科学に迎合するようになって来ました。

 それで基督教などでも、聖書の中にある奇蹟などはみな云わぬ事にしている。奇蹟を云ったならば、今日の文明の世の中に馬鹿にされる、というような考えを持つようになってしまったのであります。

 基督教のみならず、仏教の坊主もそうなって来たのであります。しかし既成宗教において、経典やバイブルから奇蹟を抜いたならば、後は何ものもないのである。真理の方面から云えば、みんな勝手な理窟が並べてあるのであって、ともかく不思議でわからないと云うのは奇蹟だけである。その奇蹟もほとんど後人(こうじん)(注・後世の人)が作成したものが多い。けれども、それがなかったならば、既成宗教はすっかり零(ぜろ)になってしまう。

次の文章は、上の文章を少し書き直したものです。

●『惟神の道』「愛善道の根本義」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B123900c008

 今日までの既成宗教は霊界に偏し、現代の学説は現実界にかたより、特に哲学者は瞑想的な推理推論に走り、何れも中庸を得たものがない。そこで、宗教は科学を馬鹿にし、科学は宗教を軽蔑している。しかも今日既成宗教の総ては、自ら唯心論的宗教の根本義を幾分軽視して科学に迎合するようになって来た。

 たとえば基督教の如き、中には奇蹟なんかをなるべく口にせぬ教派もある。そうしてこの種の教派の方がいわゆる知識、大衆にうけ容れられる傾向があるので、ますますこの風潮が高まって行くのである。奇蹟を語れば、今日の文明の世の中に馬鹿にされるから、これを避けるようになってしまった。基督教のみならず、仏教の坊さん達も同様になって来た。

 しかしながら、既成宗教において、今までの奇蹟を抜いたならば残るところは何にもない。教理の方面はみんな後の人々が勝手に理屈をつけて列(なら)べ立てたのであって、深遠なる教典は主としてその奇蹟に出発しているのであるから、それが無かったならば、宗教というものはない。即ち既成宗教は零(ぜろ)になってしまうのである。この点が今日の既成宗教が通俗化して遂に低級なる倫理道徳の方便教になってしまった主因である。

新興宗教はたいてい奇跡を売り物にして人を集める場合が多いですが、既成宗教は奇跡が起きなくなり、教えを合理的に解釈し、「倫理道徳」と化してしまうのです。

しかし倫理道徳は、信仰とは異なります。
神を信じること(信仰)によって安心立命をはかるのが宗教の役目です。
倫理道徳から信仰は芽生えません。

本来、奇跡というものは、人々を神に目覚めさせるためにあります。
人々が神を信じないので、信じさせるために奇跡を起こすのです。
奇跡自体が重要なのではありません。
奇跡が起きて病気が治ったとしても、いつかは死にます。
今、奇跡が起きて病気が治るのは、その人を信仰に導くためです。

目に見えないもの(神)を信じさせるのだから、常識的なことではなく、超常的な何かが必要になります。
神という、人間を超えた存在を感じさせる何かです。
王仁三郎も、鎮魂帰神で神懸かりを体験させたり、病気治しを行ったりして、人々に超常現象を見せていました。
王仁三郎の場合は、雛形とか数運というものも超常現象です。
そういった超常的なことを否定して、科学や常識の範囲内で解釈してしまったら、それは「倫理道徳」であって、信仰とは異なるものになってしまいます。

しかし、その超常現象(奇跡)自体が重要なのではありません。
信仰の最初のうちは、偶然の一致というものに一喜一憂します。
たとえば買い物をしてレジに「567円」と出ると、
キタ━━━(゚∀゚)━━━!!
と大喜びするのです。

しかし信仰が深まり、神と共に歩み、神を近くに感じるようになると、そういうことにいちいち反応しなくなります。
「神の存在を信じる」という段階から、「神の存在を知っている」という段階になると、奇跡があろうとなかろうとどうでもよくなるのです。
今ここに生きていることが奇跡であるし、宇宙があることが奇跡です。
日常の、何気ないことに喜びを感じることが出来るようになれば、もはや特別な奇跡など必要なくなるのです。

ですが、もちろん、奇跡はないよりあった方がいいです。
宝くじが外れるより、7億円当たった方がいいに決まってます!!!
しかし宝くじが外れたからと言って、神に見放されたわけではありません。
それは『今のあなたには必要ない』という神のお告げです。

ところで冒頭の水鏡の最後に「私は仏教、耶蘇教、神道の総てを信ずるものである」と書いてありました。
これは、宗教の普遍的な原理において信ずる、という意味だと思います。
どの宗教も表面的なことはみな異なりますから。
「後の人々が勝手に理屈をつけて列(なら)べ立てた」教えを信じたって仕方がないです。
そうではなく、普遍的な信仰という点において、仏・耶・神(のみならず全ての宗教)を信ずるのだ、ということだと思います。


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