月別アーカイブ: 2020年9月

三鏡解説029 惟神

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年09月30日

●水鏡「惟神(かんながら)」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg029

 惟神(かんながら)ということは、天地の真象に倣(なら)うということである。また、大自然、あるいは真理のままということである。

初出:『神の国』大正15年(1926年)9月号

霊界物語や三鏡で一番多く使われている宗教用語は、おそらく「惟神」だと思います。

祈りの言葉として「惟神霊幸倍坐世(かんながら たま ちはえませ)」と唱えますが、これについて王仁三郎は、次のように教えています。
●玉鏡「惟神霊幸倍坐世」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg568
「神様の御心(みこころ)のまにまに霊(みたま)の善くなるようお願いしますというので、神様に対する祈りの言葉である」

他に「惟神」について、三鏡の中で次のように教えています。

●水鏡「魂は外へ出さねばならぬ」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg078
「魂を自由の境地において活動するのが、惟神である」

●月鏡「謝恩と犠牲心」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg254
「自分を犠牲にすること、自己を没却すること、この二つのものは神道の教義の教うる所であって、親が子を愛し子が親に孝を尽くすのは、人間自然惟神の慣性であり常道である」

●月鏡「神と倶(とも)にある人」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg295
「人生はいかなる難事に逢ふうも恨まず、嘆かず、哀別も離苦も総てが花を撲(う)つ風雨と思えば良い。富貴(ふうき)も、栄達も、貧窮(ひんきゅう)も、総てがゆったりとした春の気分で世に処するのが惟神の大道である」

●月鏡「惟神の心」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg297
「すべて人間は常に心を平静に持ち、愛善の誠を以て人の幸運を祈り、悲しかったことや、くやしかったことは全然忘れてしまい、楽しかりしことをのみ思い出し、世界人類に対して、誠をさえつくしておればそれで良いのである。これが惟神の心である、人生の努めである」


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三鏡解説028 霊体不二

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年09月29日

●水鏡「霊体不二」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg028

 肉体を通して精神状態を見る事が出来る。

 心が狭く、気が小さいうちは人間は肥(ふと)れぬものであって、心が広くゆったりとして来ると、だんだん肥(こ)えて来る、

 細(ほっ)そりすらりの美人のお嫁さんよりも、お多福のぼってり肥えたお嫁さんの方が、家運が開け、家が繁昌するものである。

初出:『神の国』大正15年(1926年)9月号

これは太っている方には嬉しい話ですね。
太っている人は心が広い人だ…とも受け取れる教示です。

王仁三郎も、澄子夫人も、若い時はほっそりとしていましたが、中年以降は太っていました。
心が広くゆったりとしてきた…ということなんでしょうか?

しかし、これは百年前の発言です。時代背景というものを考えなくてはいけません。
食生活が豊かではなかった時代の話です。
現代のように食生活が豊かだと、太っている人も多く、厚労省の調査だと、現代日本人はここ10年ほどは、成人男性は30%前後、成人女性は20%前後が肥満だという結果になっています。
https://www.jili.or.jp/lifeplan/rich/health/2.html

アメリカだと、成人男女の4割が肥満です。
しかし心が広い寛容な国民性には、ちょっと思えませんが(~_~;)

太る理由にもいろいろあって、遺伝でもともと太っているとか、体質の問題で少し食べただけで太ってしまう人もいます。出産後に太るとか、中年太りというのは体質の変化によるものでしょう。
しかし現代だと、食べ過ぎで太っている人が多いのではないでしょうか。

精神が肉体に影響を与えるのは事実です。
王仁三郎が言うように「心が広くゆったりとして来ると、だんだん肥えて来る」のだとしても、逆に「肥えている人は心が広い」という方程式は成り立ちません。
お相撲さんのように、どっぷり太っている人は包容力があるように見えますが、そう見えるだけで、実際には、太っているからと言って心が広いわけではありません。
また、「痩せている人は心が狭い」というわけでもありません。

王仁三郎は百年前の人ですので、その教示を読むときには、時代背景だとか、どういう状況で誰に対して発言したのか、ということを常に注意する必要があります。


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この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2019年7月22日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック


三鏡解説027 見直し聞き直しと嗅ぎ直し

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年09月28日

●水鏡「見直し聞き直しと嗅ぎ直し」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg027

 三五教(あなないきょう)の宣伝歌にも、見直し聞き直し、ということは出ているが、嗅ぎ直しということは出ておらぬ。元来、鼻は素盞嗚尊(すさのおのみこと)であるから詔(の)り直しがないのである。

 匂いで嫌になったのは取り返しがつかぬもので、どんな美人でも嫌な臭いを嗅がされたが最後、再び逢う気はしないものである。容貌(きりょう)が悪いのや、声の悪いのはだんだんと見慣れ、聞き慣れて来ると、またよくなって来るものである。

 即ち、見直し聞き直しはあるが、嗅ぎ直しということはない所以(ゆえん)である。

 だから各自が人中(ひとなか)に出るときはこの点十分注意を要する。

初出:『神の国』大正15年(1926年)9月号

最初に「三五教の宣伝歌にも、見直し聞き直し」云々とありましたが、それは「基本宣伝歌」の歌詞のことです。
霊界物語第1巻の冒頭に掲げられています。
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm010002

その最後の方に
「ただ何事も人の世は直日に見直せ聞直せ 身の過ちは宣り直せ」
という文言があります。

見直したり聞直したりすることはあっても、嗅ぎ直しをすることはないというわけです。

「鼻は素盞嗚尊であるから」というのは、記紀神話でスサノオが鼻から成った神だということを指しています。
イザナギが黄泉の国から地上に戻り、禊をした時に諸々の神が誕生しましたが、その最後に生まれた三貴神のうち、アマテラスはイザナギが左目を洗った時に生まれ、ツキヨミは右目を洗った時に生まれ、スサノオは鼻を洗った時に誕生しました。だからスサノオは鼻だ、というわけです。

スサノオと鼻については、次のような教示もあります。

●水鏡「素盞嗚尊と鼻」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg042

 素盞嗚尊は鼻になりませる神様である。鼻は言霊学上、「始めて成る」の意である。

 物の端(はし)をハナという。初発(しょっぱつ)のことをハナという。植物に咲く花も木のハナに咲くからハナと言うのである。

 私は鼻がよく利く。臭い香(にお)いのするものは好かない。宣り直し、見直しはあっても嗅ぎ直しということはない。

●玉鏡「鼻の世の中」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg600

 今までは口と筆の世の中であったが、もはや鼻の世の中になった。神素盞嗚の大神様の御活動期に入ったのである。

 尖端を行くという言葉が流行するが、尖端は即ち顔の中で一番高いハナの意味であって、素尊(すそん)(注・素盞嗚尊のこと)は鼻に成りませる神様である。

 おしゃべりを止めて、よく嗅ぎわける世の中、先方の鼻息を考える世の中、鼻高が鼻を低うする世の中、高い鼻が削られて目がつく世の中になるのである。

 昔から「目鼻がつく」ということわざがあるが、これから鼻がつく世の中になるのである。目がつくというのは人々の心の目があく世の中を言うので、目鼻がついた世、即ちミロクの世の中である。鼻はまた進歩発展の意を表す。

スサノオは物事の先端を行く神であり、物事を進歩発展させて行く神であるのです。

スサノオがミロクの世を創るミロクの大神だということも納得できます。


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三鏡解説026 物忘れと無我の境地

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年09月23日

●水鏡「物忘れと無我の境地」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg026

 物を聞いてすぐ忘れてしまうとて、心配する人があるけれど、それはかえって結構な事である。善き事はみな血管に吸収されて霊の糧(かて)となるのであるから、これが真智となって必要な場合に現れて来るのである。

 覚えているような事はカスであって、それは神経系統の中に吸収されるのである。人間が浄化すれば浄化するほど、聞いたよい事は、ずんずん血液の中に吸収されて、意識の中に沈んで行く。

 かくて血液中に吸収されたるものは、必要の場合には現れて来るが、平素は出て来ない。これが無我の状態である。

初出:『神の国』大正15年(1926年)9月号

これはなかなか理解しがたいことを言っています。
聞いたことを忘れてしまっても、潜在意識(無意識)が覚えている…というのであれば、一般的に理解可能でしょう。
しかし、善きことは血管に吸収されて霊の糧になる…というのです! なんだか意味がよくわかりません。

これは「赤血球は霊である」ということと関係があると思われます。
血に関することをいくつかピックアップしてみました。

●水鏡「白血球と赤血球」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg225
 白血球は体(たい)の養(よう)を司るものであり、赤血球には霊が充満している。また霊の交通運輸の役目もする。赤血球百に対して、白血球一の割合が普通である。二千対一くらいになると体が弱い。

●玉鏡「霊と血」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg738
 霊は血液を機関としている事は毎度言う通りである。水死者などが死後数十時間を経過したる後、父母兄弟など身寄りの者の来る時は、鼻孔等より血液の流れ出づるものである。これは霊と霊との感応作用が起こるからである。

●玉鏡「血」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg740
 血の色は心の色である。赤き心などと昔からいうが、赤血球は霊そのものであるというてもよい。
 心の変化はすぐ血の色に影響するもので、羞耻(しゅうち)の念が起こると一遍に顔色が赤くなり、心配事に遭遇すると蒼白色になる。そのたびごとに血液は色を変ずるのである。
 ふとした出来事より悪漢が善心に立ち帰るという事があるが、その時はパッと一度に血液が色を変ずるので、面(おもて)が輝いて来るのである。

このように、赤血球は霊そのものだというのです。
王仁三郎は「霊」を「ち」とも読ませていますが、それは赤血球が霊だからです。
これまた意味がよくわからないかも知れませんが、そういうものだと思って下さい。

「善き事はみな血管に吸収されて霊の糧になる」と一番最初に書いてありましたが、それはこの赤血球に吸収されるという意味だと思います。
科学的には「脳が記憶する」のですが、王仁三郎的には霊が記憶することになります。
ただしそれは外分的な知識ではなく、内分的なことだと思います。
外分の知識は、やはり脳が記憶するのではないかと思います。
内分とは、霊徳というか、智慧証覚というか、霊格を高めるようなものです。
脳ではなく、霊が吸収して覚えているので、死んで肉体が滅びても、そのまま霊が覚え続けているわけです。


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この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2019年7月18日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック


三鏡解説025 悲劇と喜劇

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年09月22日

●水鏡「悲劇と喜劇」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg025

 私は悲劇は嫌いである。さなきだに(注1)人生は苦しみが多いのであるに、わざわざ銭(ぜに)まで出して暇をつぶし、泣きに行く必要がどこにある。喜劇は心を晴らす。時々見ると気分が転換する。

 私は子供の時に定九郎(さだくろう)が与市兵衛(よいちべえ)を殺すところの芝居(注2)を見せられてから、すっかり劇というものが嫌いになった。

(注1)「さなきだに」は「そうでなくてさえ」〔広辞苑〕の意。
(注2)仮名手本忠臣蔵の五段目で、斧定九郎が与市兵衛を殺して50両を奪うシーン。

初出:『神の国』大正15年(1926年)9月号

王仁三郎は悲劇が嫌いということなので、「ハムレット」なんて全く嫌いなんでしょうね。

しかし悲劇が嫌いだということは、べつに宗教的にどうのこうのということではありません。

ただ単に、明るい人は暗いものを好み、暗い人は明るいものを好む傾向がある、ということのようです。

王仁三郎は次のようなことも言っています。

●月鏡「日本人と悲劇」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg258

 日本人は概して悲劇を好む。故に浄瑠璃などはほとんど悲劇的である。日本人は本来性情(せいじょう)が極めて陽気であるにより、かえって反対に悲劇を好むのである。

 昔は花見、紅葉見(もみじみ)と同じように、枯野見(かれのみ)、虫聞き、鹿聞きなどの行事があって、淋しい枯野を見て限りなき感興を覚えるなども、日本人が極めて陽気なる反映である。

 西洋人などは反対に性質が陰気であるから、陽気な音楽や、ダンスなどを好むのである。

ということは、悲劇が嫌いな王仁三郎は性質が陰気だった??

というよりは、苦しいことが多い人は楽しいことを好み、楽しいことが多い人は悲しいことを好みやすい、ということではないでしょうか?
人生に苦難が多い人は、お化け屋敷に行ったりホラー映画を見たりしないと思います。日頃苦しい目に遭っているのに、お金を払ってレジャーで苦しい目に遭おうなんて思わないでしょうね。たいていは「楽しい所に行きたい」と思うことでしょう。

最初の水鏡に「人生は苦しみが多いのである」と書いてありましたが、王仁三郎の人生もまた苦労の連続でした。
それで「悲劇は嫌いだ」という発言が出たのではないかと思います。

ところで霊界物語は喜劇でしょうか? 悲劇でしょうか?
それは、両方の側面があると思います。
全体としてはミロクの世に向かっているのでしょうから、喜劇なんでしょうけど、個々のエピソードで見ると、悲劇な場面も多々登場します。

しかし高姫を始めとする悪党がコミカルに描かれていたり、ダジャレ・言葉遊びの要素が多数あったりと、なるべく笑える物語に仕上げているのだと思います。
ゲラゲラ腹を抱えて笑うような場面はありませんが、読めば陽気になれる物語だと思います。


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この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2019年7月15日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック