学研『ムー』のウェブ版の『ムーPLUS』(有料)に、私が書いた記事を掲載していただきました。
『世界を統一する「奥の大勢力」とは? 令和時代に読む出口王仁三郎の大予言』
https://gakkenmu.jp/n/n61601419dc0d?creator_urlname=muplus
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『世界を統一する「奥の大勢力」とは? 令和時代に読む出口王仁三郎の大予言』
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お月見と言えば「十五夜」(中秋の名月)で、今年(2020年)は10月1日(旧8月15日)になります。
十五夜の他に「十三夜」というのがあり、こちらは10月29日(旧9月13日)です。
この二つの月見の夜には、名月を愛でながら、月見酒を呑む、月見の宴(観月の宴)を開く風習が昔からありますが、王仁三郎的には月見酒はちょっと「?」です。
お月様は月の大神で、ミロクの大神=スサノオの象徴でもあるので、「神を肴に酒を飲む」なんてとんでもない、ということです。
霊界物語にそのエピソードが出ています。
竜宮島(現代の豪州に相応)が舞台になる第25巻第11章「風声鶴唳(ふうせいかくれい)」と第12章「不意の客」です。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm2511
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm2512
地恩城(ちおんじょう)の高楼で、女王の黄竜姫(おうりょうひめ)が、母親の蜈蚣姫(むかでひめ)や宣伝使の梅子姫、左守、右守などを従えて、月見の宴を開いていました。
日本酒ではなく、「果物の酒」です。何の果物かは不明です。
ミカンやバナナ、桃、その他の木の実を美しい器に盛りつけて、一同楽しく月光を仰いでいると、突然、黄竜姫の顔が青ざめて、身体が痙攣し始めたのです。
梅子姫たちの目には、中秋の名月が美しく輝き、空は澄み渡り、涼しい風が気持ちよく吹いています。
しかし黄竜姫の目には、元・恋人の友彦を先頭に数多の鬼たちの軍勢が、空から黄竜姫を攻撃して来るのが見えました。恐ろしい幻覚を見たのです。
その恐ろしさに体が震え、黄竜姫は高楼から下の谷間に転落してしまいました。
母親の蜈蚣姫は慌てて下に階段を下りて行きますが、すべってやはり谷間に転落してしまいます。
しかし不思議なことに、他の人の目には、依然として二人とも高楼にいるように見えていたのです。
これは、二人の心の中の執着心の鬼、即ち副守護神のために幻覚を起こし、肉体は高楼の下の谷間に突き落とされ、ただ二人の本守護神だけが高楼に残っていたのでした。
二人は、谷間に転落して地獄に落ちた──と思ったら、目が覚めて、実はそれは夢でした。二人は元の高楼にいました。
ここで黄竜姫は
「もったいなくも、月の大神様をおもちゃか何かのように、酒肴を持ち出して月見の宴だと、花見か雪見のような畏れ多いことを何とも思わずに始めましたが…」
と反省します。そして、
「皆さま、ただ今より月見の宴を廃し、神様にお詫びをいたしましょう」
と言うと、一同で神言(かみごと)を奏上し、月見に使っていた全ての器を下の谷間に投げ捨てて、今後は決して月見の宴をしないことを神に誓いました。
──このエピソードを
「実際に月を鑑賞しながら酒を呑んではいけない」
と文字通りのこととして解釈するか、
「神を肴に酒を呑んではいけない」(神様の話をしながら酒を呑んではいけない)
と抽象的に解釈するか、なかなか難しいところです。
霊界物語第16巻第11章「宝庫の鍵」・同第12章「捜索隊」にも月見のシーンが出てきますが、やはり良くないことが起きています。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm1611
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm1612
ここは『霊界物語コミックス1』で描いたシーンです。
由良の秋山彦の館で、秋山彦たちが大江山の鬼雲彦退治の祝宴を開いていました。
十五夜の満月を見ながら祝杯をあげています。
このとき、高姫・青彦が来訪し、冠島・沓島の宝庫の鍵を盗んで消え去り、大騒動となるのです。
────さて、皆さんは、月見の酒をどう考えますか?
月を見る時は外に出て、酒を呑むときは部屋の中に入れば、セーフかも知れませんね。(^-^;
この記事は「霊界物語スーパーメールマガジン」2016年10月6日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック)
学研『ムー』3月号で『あらすじで読む霊界物語』を紹介していただきました。
3/38(土)にこの本の著者4人による講演会が開かれます。場所は東京・大井町きゅりあん。18時から。詳細はこちら↓のサイトをごらん下さい。
http://skagaku.com/ (超常現象情報研究センター)
十年以上前のことですが、鼠先輩の『ギロッポン』という歌が流行りました。
ギロッポンとは六本木の俗称です。
寿司をシースーと言ったり、芸能界で使う用語ですが、言葉の前後を転倒させた逆さ言葉(倒語)は昔から世界中にあります。
話の内容が他人に容易に分からないようにするために、隠語として使われ出した場合が多いようです。
たとえば「ダフ屋」の「ダフ」は「札(ふだ)」の倒語、「ショバ代」の「ショバ」は「場所」の倒語です。
古くは、日本書紀に「倒語」という言葉が出て来ます。神武即位の年の出来事です。
宇治谷孟の『全現代語訳 日本書紀 上』(講談社学術文庫)から引用してみます。
「初めて天皇が国政をはじめられる日に、大伴氏の先祖の道臣命(みちのおみのみこと)が、大来目部(おおくめべ)を率いて密命を受け、よく諷歌(そえうた)(他のことになぞらえてさとす歌)、倒語(さかしまごと)(相手に分らせず味方にだけ通じるよう定めていう言葉)をもって、わざわいを払いのぞいた。倒語の用いられるのはここに始まった。」(同書p108)
ギロッポンのような倒語の始まりは神武創業の年に溯るわけです。日本国家の誕生と共に倒語も始まったわけです。ずいぶん古いからあるんですね。
さて、霊界物語にも倒語が登場しますので一つ紹介します。
第21巻第7章「誠の宝」に、倒語だけで書かれたセリフが出ます。
雲州(うんしゅう)、三州(さんしゅう)、甲州(こうしゅう)という名前の3人が泥棒が、杢助(もくすけ)の家にお金を盗みに入ろうとします。
家に入る前に、練習をします。
リーダー格の雲州が三州に、泥棒だと思われないよう、お経を唱えよと言います。
しかしお経なんて三州は知りません。
そこで雲州が「何でもいい。そこらの物をデタラメ放題に並べればいい。逆様に言うのだ」と教えます。
テキトーに逆様にしてしゃべれば、お経のように聞こえるというのです。
雲州が試しにしゃべってみます。
「まず屏風にフスマ、鍋に釜、徳利、杉に松、門口その他われわれの名だ」と言って、
「ブベウ、マフス、ベナーマカ、チバヒ、シバヒ、
ツマ、ギス、ドカー、シウウン、シウサン、シウコウ、ケワルハー、マーター、
ケーワー、ニーク、ツター、ケワー、リヨーニクー、
スケモクノボウニヨーノー、ギスーオーサン、ダーシン、ダーシン、
ワイカワイカ、ワカイマツー、カハノー、カナーデー、クタベツナツテ、
ルオーデー、ローアー、ハンニヤハラミタシンギヨウ、
ウン、アボキヤ、スギコーノリーモーデ、
ボードロノ、シウレン、オリーヤーマーシータ、
アサ、アサ、レコラカハレカノ、ラカダヲ、ラモイ、シヨマ、
ハンニヤハラミタシンギヨー」
と逆さ言葉を並べ立てました。
さて、何を言っているのか分かりますか??
実は正解は書いていません。
私が解読したところによると、次のようになります。
「ベウブ(屏風)、フスマ(襖)、鍋、釜、火鉢、火箸、
松、杉、門、雲州、三州、甲州、玉治別(たまはるわけ)、
竜国別(たつくにわけ)、国依別(くによりわけ)、
杢助(もくすけ)の女房のお杉さん、死んだ、死んだ、
可愛い可愛い、可愛い妻、墓の、中で、クタベツナツテ、
おるで、あろう、般若波羅蜜多心経、
ウン、アボキヤ、小杉の森で、
泥棒の、練習、をやりました、
さあ、さあ、これからは彼の、体を、貰い、ましょ、
般若波羅蜜多心経」
解読不能な言葉もいくつかありました。
たぶん前後の物語をよく読めば解って来ると思います。
こんなふうに霊界物語には、逆さ言葉で「暗号」が秘められている場合があるので、皆さん、霊界物語を読んでいて何か気がついたら教えて下さい!
この記事は「霊界物語スーパーメールマガジン」2012年12月12日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック)
「大鏡」(おおかがみ)と題した如是我聞集があります。
「王仁三郎聖師が折にふれ時に応じて話された断片を書きとめたもの」で、三鏡(さんかがみ。水鏡、月鏡、玉鏡の総称)の続編のようなものです。
機関誌『神の国』に(おそら昭和10年9月号から)連載されたもので、弾圧によって12月号で終わってますから、連載回数が少ないので単行本にはなっていません。
昭和10年9月号に「御神業と御奉仕」という題で、なかなか痛いことが書いてありました。心に残ったので紹介します。
御神業とは筆先の三千世界を立替立直して、弥勒の世、即ち地上に天国を建設し、皇祖皇宗の御遺訓に奉答し奉(たてまつ)る謂(い)いである。
御奉仕とは地上天国建設の御経綸について、無条件にその御用を勤めさして頂く事であるから、私心私欲を去って神の御為(おんた)め君国(くんこく)の御為めに奉仕させて頂かねばならぬ。
奉仕の原則としては、奉仕さして頂くのであって、してあげるのではない。御用してあげるにあらずして御用さして頂くのである。奉仕には必ず感謝の念をもって当たらねばならぬ。また御用さして頂くことを無上の光栄と思惟(しい)せねばならぬ。
仮にも報酬を望むが如き心、神に恩を売るが如き心が寸毫(すんごう)あってはならぬ。全身全霊を御神業の為に捧げ誠を尽くす事である。
「仮にも報酬を望むが如き心、神に恩を売るが如き心が寸毫あってはならぬ」──これはなかなか痛い言葉です。
報酬というのはお金のことだけではありません。見返りです。代償です。
『自分はこんなに頑張っているんだから、何かいいことがあってもいいだろう』と、私もつい思ってしまいがちです。
神様に文句を言おうとは思いませんが、ため息はつい出てしまいます。
宝くじはなかなか当たらないし・・・(^_^;
ここで王仁三郎は大本信者を相手に語っているので、御神業とか御奉仕というのは、大本の御神業であり、大本の御奉仕のことですが、しかしそういう狭い意味の御神業・御奉仕のことだけが対象ではないと思います。
「世の中の一切万事の出来事は 神のよさしの経綸(しぐみ)と知らずや」
という王仁三郎の歌があります。祭典や宣教のような狭い意味での宗教活動だけが神の経綸ではなく、世の中の一切の出来事が神の経綸だというのです。
その神の経綸に従事することが御用とか御神業というものです。
つまり私たちの日常生活すべてが御神業です。仕事をしたり、家事をしたり、育児をしたり、子供なら学校へ行って勉強したり、友達と遊んだり・・・
人間の活動すべてが神様の御用です。
地上に天国(ミロクの世)をつくるためにこの世に生まれて来ているのですから。
人生が自分の思い通りにならなくても、この世に生かされ、生活をさしていただいているだけでありがたい・・・と思えるようになるのが理想です。
そういう生き方が、惟神の道です。
『まじめに頑張っているのだから、報われたっていいだろう』
なんていうのは、実は自分の我欲であって、神様から見たら決して褒められた態度ではありません。
そういう、見返りを求めているようでは、まだまだ身魂が磨けていない、ということになりますね。
続けて王仁三郎はこういうことを言っています。
・・・にもかかわらず神の目から視れば、皆が御神業ぢゃ御奉仕ぢゃというて一生懸命やってくれてはいるようでも、それが御神業のお邪魔になったり、御経綸を妨げたりしているのが多いので、実は難有迷惑である。
それらの裏面には必ず一種の野心を包蔵しているか、慢心しているか、功名心に駆られているか、我欲があるか、執着があるか、不平があるか、いずれにしても決して純で無いものが働いている結果である。感謝と報恩の念をもって不惜身命(ふしゃくしんみょう)的 神第一 信仰第一主義に誠でした仕事なれば必ずその結果は良いものである。(以下省略)
たとえば「法(教え)を守る」とか言って内紛を繰り広げる宗教団体の幹部なんかそうでしょうね。「正義の戦争」をする人です。難有迷惑です。
「国のため」とか言って戦争を始める為政者とか。
「会社のため」とか言って粉飾決算する役員とか。
「家族のために働いているだ」と言って家族を犠牲にするパパとか。
神様から見たら難有迷惑なんでしょう。
そういう人たちは、野心を包蔵しているか、慢心しているか、功名心に駆られているか、我欲があるか、執着があるか、不平があるか・・・
私もそうならないようにしなくては。
皆さんも、心当たり、ありますか??
注意して生きたいものです。
この記事は「霊界物語スーパーメールマガジン」2017年5月4日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック)