霊界物語ネットに『王仁文庫 第九篇 道の大本』(大正10年)と『道之大本』(昭和2年、単行本)を掲載しました。
題名は同じ「道の大本」ですけど、内容は異なります。混同しないように霊界物語ネットでは単行本の方を「道之大本」と表記することにしました。(両書とも表紙には「道之大本」と記されていますが奥付などは「道の大本」です)
似たような題名で『大本の道』という本がありますが、そちらは昭和20年代に『愛善の道』という題名で発刊された歌集です(後に増補して『大本の道』に改題)。
さて、二冊の「道の大本」ですが、何が違うのかというと、もともとは明治38年(1905年)に王仁三郎が執筆したもので、そのうちの一部分が機関誌『神霊界』大正9年(1920年)8月11日号~9月11日号の4号にて発表されました。それをまとめて翌10年8月に王仁文庫第9篇として刊行されました(同書「凡例」参照)。
これは「裏の神諭」とも呼ばれています。(表の神諭は大本神諭)
それとは重複しない別の一部分が、昭和2年(1927年)8月に単行本『道の大本』として発刊されました(同書「はしがき」参照)。
昭和47年(1972年)に刊行された『出口王仁三郎著作集 第1巻』に「道之大本 七」という文書が収録されていますが、そちらは王仁三郎の自筆本(漢字交じりの平仮名文)を底本としたもので、内容的には単行本の『道の大本』と重複しています。
昭和57年(1982年)刊の『大本史料集成 Ⅰ』に収録されている「道の大本」は、王仁文庫第9篇と同じです。
執筆した明治38年というのは王仁三郎がまだ30代半ばの青年で、大本の幹部たちから排斥され、出口直開祖に対する不満も溜まり、悶々としていた時期です。
出口和明著『大地の母 第8巻』「大橋越えて」にその執筆のエピソードが書いてあります。少々引用します。王仁三郎は「道の大本」の中で出口直や大本のことをかなり非難しています。
臥竜亭に帰った王仁三郎は、役員たちのいないのを確かめて、『道の大本』八巻の執筆にかかる。第一章、第二章と教えについて書き進め、筆を置いて読み返す。苦労をして書きためた多くの書を役員たちに燃やされた悔しさがよみがえる。感情の激するままに、一気に筆を走らせた。
第三章
一、丹波のある所に曲津神の集まる巣窟ありて、あまたの悪魔あらわれ、偽救世主をあらはして、世界を乱し破らんとす。王仁、天津神の命もてこの曲津神を国家のために打ち滅ぼさんと日夜心を砕きたり。
二、曲津日神は常識を缺きたる頑迷固陋のしかも朴直なる婦人の心にひそみ、常に偽善をもちて人をたぶらかすをもって、唯一の方法手段となしつつあり。
三、その婦人は年老いたるものにして、事の理非曲直を深く考え察するの明なければ、自ら妖神の言を固信し、世人みな濁れり我一人清めりとなして、偽救世の説をとなうるなり。
四、その説一として国家社会に害毒を流さざるはなし。曰く財産家は天の罪人なり、曰く漢字は国害なり、学校は害物なり、商工業は小にせよ、外国人は排斥せよ、服は和服にせよ、洋服は神意に反す、種痘は汚穢なり神慮にかなわず、桑を造るな、蚕を飼うな云々、一として生成化育の神意に反せざるはなし。これ妖魅の言辞にして社会の破滅を好むものたること言をまたずして明なるところなりとす。
五、曲津神は老いたる婦人の口を借り手を借りて世の中の多くの人をあざむかんとするなり。
六、曲津の曰く、三千世界を一つにまるめて神国にするぞよ、戦いがあるぞよ、東京へつめかけるぞよ、外国は地震雷火の雨降らし人を絶やして神国にいたすぞよ、世界の人民三分になるぞよ、この神にすがらぬ者は谷底へほかしてみせしめにするぞよ、神には勝てぬ往生いたされよ、はよ改心いたした者は早く助けてやるぞよなどと毒舌をふるうて、人を迷わせんとはするなり。
七、王仁その曲津を愛さんと思いて、浄心の本たる霊学をもってこれに対するや、かれ曲津神大いに恐れ忌みて、またもや口と筆もて王仁を傷つけんとはせり。
八、曲津神に心の根城を奪われて、山口あか(著者注・出口直を指す)といへる女、曲津狂祖となり、たかむらたかぞう(中村竹吉を指す)たかす迷ぞう(四方平蔵を指す)などその手足となりて、この豊葦原の瑞穂の国を汚し破らんとつとむ。
九、されどもはや瑞の霊の大神の宮居たる審神(者)の王仁、ここにいよいよ正義の矛をとりて現はれきたれば、いかでかかる曲津神をこの世にはびこらせおかんや。
十 すなわちここに直霊の霊の剣もて天の八重雲を吹きはらい、日月の光ここに現われたれば、いまや曲津は苦しみもだへつつあるなり。
ずいぶん派手に罵っていますね (^_^;
出口直を曲津呼ばわりです。
これはちょっと善言美詞とは言えないのでは??
「感情の激するままに」とありますが、自分の役割を全く理解してもらえない苛立ちが爆発したのでしょうね。
50歳以降に書いた霊界物語と比較すると、王仁三郎もまだまだ青かったんだなと言わざるを得ません。
さすがにこの罵りの部分は、王仁文庫の「道の大本」にも単行本の「道の大本」にも収録しなかったようです。
若き日の王仁三郎の副守先生の叫びではないでしょうか。