下の地図はグーグルマップの、亀岡市曽我部町穴太(あなお)の王仁三郎の生家周辺です。
「宗教法人大本 瑞泉苑(ずいせんえん)」とあるのが、生家跡です。
東西に延びる水色の池みたいのがありますが、これが「久兵衛池(きゅうべえいけ)」です。
いわゆる久兵衛池事件(明治20年)の舞台です。池に落ちて危険なので埋めようとしたら、農業の潅漑に使っているため村人たちが反対し、まだ17歳(数え年)だった喜三郎は父の代理として村人たちの嫌がらせと戦ったという、あの事件の久兵衛池です。
ご存じない方は「本教創世記 第一章」を読んで下さい。真ん中以降に書いてあります。王仁DBで「久兵衛池」を検索すると他にも出て来ます。
この久兵衛池より北側が瑞泉苑です。
「余の宅地の西南隅に清水の湧き出る池が一か所あるが」と本教創世記に書いてありますが、この地図で見ると、敷地面積に対して池が大きすぎますね。それに西南でなくて、南だし。
調べてみると、もともとはもっと小さな池だったものを、後に拡張したようです。
〔大本七十年史 下巻 p235〕
一九三三(昭和八)年夏、穴太の久兵衛池(玉の井)を整備するため周囲に石垣をめぐらし、従来の約六倍のひろさに池を拡大した。そして一一月二日に玉水殿の斧始式をおこなった。建坪六五坪余の神殿造りである。このときより穴太の玉の井の名称を、瑞泉苑と改めることになった。玉水殿はその後工事をいそぎ、昭和九年四月二〇日完成祭をかね大神の鎮座祭が執行され、さらに八月一六日には玉水殿の社務所が完成した。この社務所は水上館ともよけれ、王の井池の一端にまたがった建物である。
一九三五(昭和一〇)年二月七日には、石の宮の神聖神社が完成し鎮座祭が挙行された。ご神体は璽と鏡と剣である(五編三章)。なお同年三月三〇日には長久館の遷座祭がおこなわれた。
久兵衛池を6倍に広げたわけですね。
玉水殿とか神聖神社とかいうのは、当時この瑞泉苑の中に建てた建物です。
第二次大本事件で全部破壊され、今は残っていません。
この辺りは穴太の中でも「宮垣内(みやがいち)」という地名で、産土の小幡神社の住所が「宮垣内1番地」になっています。
「金剛寺(こんごうじ)」も王仁三郎の伝記にたびたび出て来ます。喜三郎は金剛寺で開かれていた夜学に通い、久兵衛池事件で村の寄り合いが開かれた場所も金剛寺です。
臨済宗のお寺で、江戸時代の絵師・円山応挙(王仁三郎の先祖)と縁が深いことから応挙寺とも呼ばれています。(金剛寺の公式サイト)
「郷(ごう)神社」は「神明社」とも呼ばれており、この神社の前の広場にあった小屋を喜三郎が借りて「喜楽亭(きらくてい)」と命名し、自分の住み家にしていました。
穴太の地名の由来として──比沼真奈井神社から豊受大神が伊勢外宮に遷座する道中、上田家の敷地に宿泊し、そのとき神霊に供えていた稲の種が老木の穴に落ち、その稲を四方に植え広めたというのが穴穂の地名が起きた──という逸話があります。
○玉鏡 「瑞穂神霊」
郷神社の創建はこの逸話に関係しています。
〔出口王仁三郎著作集 第5巻 「生いたちの記」(故郷乃二十八年)〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195305c103当時の祖先は家門の光栄として、この祥瑞を末世に伝えんが為に、私財を投げ出して、朱欄青瓦(しゅらんせいが)の荘厳なる社殿を造営し、皇祖天照大御神・豊受姫大神を奉祀し、神明社と奉称し、親しく奉仕したのである。
其の聖跡は、現在上田家の屋敷なる、宮垣内(みやがいち)である。宮垣内の名称は神明社建造の時より起こったのである。同社は文禄年間(注・1593~96年)、川原条(注・現在地)に移遷され、今なお老樹鬱蒼として昔の面影を止め玉うのである。
(略)
神明社が宮垣内から川原条へ遷座されてから、後神明社(ごうしんめいしゃ)と改称されたが、いつの間にやら、後神社(ごうじんじゃ)と里人が唱え出し、今では郷神社(ごうじんじゃ)と曰うように成って、穴太の産土なる延喜式内・小幡神社の附属となり、無格社に列せられ玉うに到ったのである。
つまり、もともと郷神社は、遷座途中の豊受大神の宿地となったことを記念して、上田家の敷地に建てられた、ということになります。
↑明治時代の穴太(「Googleマップを使って過去の地形図や空中写真を見る」より)