月別アーカイブ: 2017年9月

伝記地図(2)亀岡の詳細

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年09月29日

王仁三郎の伝記によく出て来そうな主な地名を地図にプロットしてみました。
正確な位置かどうか分かりませんが、本を読むときの参考にして下さい。

亀岡の地図


この地図の一番左側「葦野山峠(あしのやまとうげ)」は、第37巻第9章「牛の糞」で、幽斎修業者の斎藤宇一が、喜楽(喜三郎)に懸かった大霜天狗に騙されて、財布だと思って牛の糞を掴まされたエピソードに出て来ます。「葦野山峠を二町(約200m)ばかり西へ下りかけた所の道端」に十万円入った財布が落ちていると騙されたのですが、その葦野山峠がある道は現在は整備されていて、どこが峠なのか分からないので、適当な位置にプロットしています。だから「?」マーク付きです。

この道は今は「湯の花温泉街」として多数の温泉旅館が建ち、栄えています。(『大地の母』では「芦の山峠」と表記)

 ○第37巻第9章「牛の糞」
 ○大地の母 第5巻 「売僧の詐術
 ○湯の花温泉公式サイト


そのずっと下(南)の方に「法貴谷(ほうきだに)」とありますが、ここは第37巻第12章「邪神憑」で喜楽が、小谷重吉という稲利下げに「サア法貴谷へ修行に行きませう」と誘われた場所です。

また、天恩郷に大安石(たいあんせき)と小安石(しょうあんせき)という病治しの岩石がありますが、『水鏡』によると、この岩石は法貴谷にあったとのこと。

ここには、明智光秀が摂津・播磨へ進軍する途中、峠を越えずにここで引き返し本能寺へ向かったという「明智戻り岩」と呼ばれる岩があり、ちょっとした観光名所になっているようです。

 ○第37巻第12章「邪神憑」
 ○水鏡「大安石と小安石」

法貴谷の地図


亀岡地図の中央あたり、高速道路が通るところに「硫黄谷(いおうだに)」とあります。その右下には「鍬山(くわやま)神社」「矢田(やだ)の滝」とあります。
ここは第37巻第10章「矢田の滝」で、松岡仙人が喜楽に懸かり「喜楽の肉体を自由自在に操つて、足早に硫黄谷を越え、大池の畔を伝うて、亀岡の産土 矢田神社の奥の谷に導き水行を命じた。そして一週間の間毎夜この滝に通ふ事を肉体に厳命した」という場所です。
「硫黄谷」は一般には「医王谷」と、「矢田神社」は一般には「鍬山神社」と呼ばれています。(霊界物語では硫黄谷、大地の母では医王谷と表記)

穴太の産土は開化天皇を祭る小幡神社ですが、鍬山神社が「亀岡の産土」というのは、当時の亀岡町の産土という意味です。昭和30年(1955年)に亀岡町と、穴太が属する曽我部村等が合併して亀岡市が発足しました(ウィキペディア)。だからそれまでは亀岡と穴太(曽我部村)は全く別の地域だったわけです。今は「亀岡の一地域としての穴太」というような認識ですけどね。

鍬山神社の奥に「矢田の滝」があります。

矢田の滝
『大本七十年史 上』p153 矢田の滝の写真

現在の滝と鍬山神社は、こちらのサイトにどなたかが撮った写真があるので参考にして下さい。→「銀鈴の滝 落差20m 2012年8月
一般には「矢田の滝」ではなく「銀鈴の滝」と呼ばれているようです。

現在の地図では、高速道路「京都縦貫自動車道」(沓掛IC~亀岡IC間は1988年開通)が出来たりして、少々地形が変わっていると思うので、昔の地図を見てみましょう。
Googleマップを使って過去の地形図や空中写真を見る」というページにある明治時代の地図です(国土地理院の地図を使用したもの)。
明治何年かは不明ですが、明治32年(1899年)に開業した亀岡駅も載っているのでそれ以降の地図です。

明治時代の亀岡の地図1

地図には山の東側に「医王谷」と地名が書いてありますが、この地形図を見ると、現在、高速道路が通っている部分全体が谷になっているので、その部分全体が「医王谷」だったのではないかと思いますよ。
霊界物語に「追々進んで硫黄谷の大池の側へ来て見ると」(第37巻第10章)と書いてあるんですが、この「硫黄谷の大池」というのは、現代の地図に「中山池」と表示してある池のことだと思います。だからこの谷になっている部分全域が硫黄谷だったのではないかと思います。
ということで、現代の地図の方にはそこ全域を医王谷として黄色マーク付けています。

追々進んで硫黄谷の大池の側へ来て見ると、周囲(まわり)一里(4キロメートルだが地図を見る限りでは1キロくらいしかない)もあると云われている山間の大池の中に二~三丈(6~9メートル!)ばかりあろうと思わる背の高い、それに恰好した太さの、赤い丸顔の男が深い池水に腰あたりまでつけて、バサリバサリと自分の方を向いて歩んで来るように見える。
第37巻第10章

と、恐ろしい化け物が出たことが書いてありますが「進撃の巨人」のような化け物でしょうか(^_^;

ちなみに池の畔(東の方)には現在、出雲大社の京都分院が建っています(公式サイトウィキペディア)。しかし平成5年(1993年)に造営されたもので明治期にはありませんでした。

硫黄谷の北側にある安行山(あんぎょうさん)は西山とも稲荷山とも呼ばれていますが、山頂には「磐栄稲荷宮(いわさかいなりぐう)」と、安倍晴明を祭る「晴明神社」があります。
晴明神社は昭和に創建されたものですが、磐栄稲荷は古い神社で、伏見の稲荷大社はここから遷座したと伝えられ、「元稲荷」とも呼ばれる神社です。
こちらのサイトに写真があるので参考にして下さい。→「丹波の神社」、「わが猫とカメラマンさん」)

この山は「平和台公園」になっており、山頂には展望台があり、亀岡の市街地が一望できます。
下の写真は2008年9月に撮影したものです。無理やり合わせてパノラマにしてみました。

亀岡市街地 安行山頂の展望台から


硫黄谷のずっと上(北)の方に「余部(あまるべ)」という地域があります。
そこには賭場があって、若者たちがバクチに引き込まれ、喜三郎のすぐ下の弟の由松(よしまつ)もそこの常連で散々金を吸い上げられました。

 ○霊界物語 第37巻第2章「葱節」
 ○大地の母 第2巻 三大学則

また、太元(たいげん)教会という新興宗教(町の神様という程度ですが)があり、高島ふみという女性にキツネが懸かり、霊能を売り物にして信者を集めていたのですが、その舞台裏を知った喜楽は、その霊能がイカサマだということを知り、「おかしいやら馬鹿らしいやら、にわかに信仰がさめてしまい、それから三十一年の二月、二十八歳になるまで、神様に手を合わすのがいやになり、極端な無神論者になってしまったのである」というエピソードが霊界物語に書いてあります。

 ○霊界物語 第37巻第16章「四郎狸」~第17章「狐の尾」
 ○大地の母 第2巻 穴太精乳館

この余部から、左(西)に真っ直ぐ延びる道があります。田畑の中を通っている道路です。
その先をずっとたどると、稗田野(ひえだの)神社の前を通ります。この神社は延喜式内の古社で、古事記の編纂者・稗田阿礼を摂社に祀っています。
実際に祀られたのは最近ですが(→「御鎮座壱千参百年を来年に迎えて(20.9.24)」)、稗田阿礼が幼少時から青年期にかけてこの地に住んでいたという伝説があるそうです。

この東西にほぼ一直線に延びる道が、古代の山陰道です。以前にブログに書きました→「王仁三郎の生地・穴太と、古代山陰道

今の山陰道は国道9号線で、大井川(桂川)沿いを北上していますが、古代はこんなところを通っていたのです。
この道は明治期は「篠山(ささやま)街道」と呼ばれていましたが、1970年代に国道372号線が、その少し南側に整備され、今はそちらが篠山街道です。この旧道は府道になっています。

下の地図は明治時代の地図ですが、この道がこの地域の幹線道路になっているのが分かります。
はるか古代は、この道が丹波国の幹線道路だったのです。
この道を通って丹後半島の比沼麻奈為神社から伊勢に豊受大神が遷座し、その途中で穴太の上田家の庭に泊まったわけです。(玉鏡「瑞穂神霊」

明治時代の亀岡の地図1

伝記地図(1)亀岡~綾部の概観

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年09月28日

出口王仁三郎の伝記によく出て来る地名がどの辺りにあるのか、地図にプロットしてみました。

霊界物語第37~38巻は王仁三郎の前半生の自叙伝になっており、現在メルマガの方に「王仁三郎の人生から教訓を得よう」ということでその第37~38巻を元に連載しているのですが、その自叙伝をよく理解するために、地図を作ってみた次第です。
前回の「西は半国 東は愛宕 南妙見 北帝釈……の帝釈とは?」も同様の意図です。

さて、まずは亀岡~綾部の間の概観です。(クリックすると大きな画像が開きます)

亀岡~綾部の概観

王仁三郎の郷里「穴太(あなお)」の北の方にある「八木(やぎ)」は、出口ナオの三女・久子が住んでいた場所で、王仁三郎と久子が邂逅した「虎天堰(とらてんいね)」と呼ぶ大きな堰(いせき)があります。(写真

 ○霊界物語 第37巻第21章「参綾」(虎天関と書いてあります)
 ○大地の母 第5巻 開祖初会(寅天堰と書いてあります)

八木の北西にある「園部(そのべ)」は、王仁三郎のいとこで獣医の井上直吉が住んでおり、王仁三郎が22~3歳の頃(明治26~7年)井上の書生となって獣医学を学んでいました。仕事をしていた牧場のすぐ隣りに南陽寺というお寺があり、そこに逗留していた国学者・岡田惟平から和歌の道や歌祭りを学んだ重要な場所です。

 ○本教創世記 第一章
 ○飯塚弘明.com 「王仁三郎の和歌の師匠・岡田惟平の略歴

ずっっと飛んで、綾部の西の福知山は、出口ナオが生まれた所です。16歳(数え年だと17歳)で綾部の叔母の養女となり移住しました。

その上(北)の元伊勢内宮皇大神社は、明治34年(1901年)に「元伊勢お水の御用」と呼ばれる御神業が行われた場所です。

 ○霊界物語 第38巻第20章「元伊勢」

丹波地方には元伊勢以外に元出雲もあります。亀岡市内の「出雲大神宮」です。
王仁三郎において出雲は重要な地ですが、しかし出雲大神宮(当時は出雲神社と称していた)の話は全く出て来ません。参拝したという記録はあるのですが。
丹波国一宮で有名な神社なはずですけど、王仁三郎の宗教思想上はそれほど重要ではないようです。

桂川と由良川

亀岡市内も綾部市内も、かなり幅の広い川が流れています。
亀岡の方は桂川(かつらがわ)、綾部の方は由良川(ゆらがわ)です。
電車(山陰線)に乗っていると、亀岡近辺でも綾部近辺でも川が見えるので、同じ川なのかなと思ってしまうのですが、全く別の川です。

上の地図ではよく見えませんが、桂川は亀岡市内から京都市内を通り、南下して、鴨川や宇治川や木津川と合流して淀川と名を変え、大阪湾(瀬戸内海)に注ぎます。

由良川は、福知山市内で向きを変え、国道175号線沿いに北上して、舞鶴湾(日本海)に注ぎます。

川は地域によって名前を変えますが、桂川は亀岡市内では「大井川(おおいがわ)」、愛宕山の麓では「保津川(ほづがわ)」、京都の嵐山を通り、「桂川」となります。
しかし名前が変わると不便な面もあるので、現在は行政上は「桂川」に統一しているようです。だから地図上も桂川です。
現在地元では何と呼ばれているのかは分かりませんが、王仁三郎の文献では亀岡市内は「大井川」とか「大堰川」と書かれています。

一方、由良川は、上流部分は(和知の辺りから)「和知川(わちがわ)」と呼びます。
これも現在行政上は「由良川」に統一しているようです。
王仁三郎文献では「由良川」と「和知川」は併用されています。どう使い分けているのかは不明です。
たとえば霊界物語第2巻序では、川沿いに建つ松雲閣(しょううんかく)での口述風景として

二十四年間心に秘めたる霊界の消息も、いよいよ開く時津風(略)夢かうつつか幻か、神のしらせか、白瀬川、下は音無瀬由良の川和知川、上林川の清流静かに流れ、その中央の小雲川、並木の老松川の辺に影を浸して立ならぶ、流れも清く、風清く、本宮山の麓なる、並松に、新に建ちし松雲閣書斎の間にて五人連れ、口から語る、筆を執る、五人が活気凛々として、神示のままを口述発表することとなつたのであります。
第2巻序

というように、由良川と和知川が別々の川のように書かれています。
和知川が由良川に流れ込んでいる…というような認識でしょうか?

さて、桂川と由良川の源流なんですが、調べてみて驚きました。
同じ所から発しているのです。
桂川の(主な)源流は佐々里峠、由良川の(主な)源流は杉尾峠なんですが、上の地図の、右の方に赤い色でプロットした場所です。

 ○桂川(国土交通省)、桂川(ウィキペディア)
 ○由良川(国土交通省)由良川(ウィキペディア)

桂川は佐々里峠から「宇津(うづ)」を通り、「園部」を通って、亀岡へ流れて行きます。
由良川は杉尾峠から「和知」を通って、綾部へ流れて行きます。

この二つの峠の間は8キロほどしか離れていません。
雨雲さんから見たら同じ場所だと言ってもいいでしょう。
この山地に降り注いだ雨は、佐々里峠という分水嶺の、南に落ちた雨水は桂川となって亀岡を通り、大阪湾(瀬戸内海、太平洋)へと流れて行き、北に落ちた雨水は由良川となって綾部を通り舞鶴湾(日本海)へと流れて行くのです。
また杉尾峠という分水嶺の南に落ちた雨水は由良川となり、北に落ちた雨水は南川(みなみがわ)という名の川となって小浜湾(日本海)へ流れて行きます。
地図にプロットして初めて気が付きました。同じ所に降った雨が、桂川と由良川になっていたのです。

西は半国 東は愛宕 南妙見 北帝釈……の帝釈とは?

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年09月25日

霊界物語第37~38巻は王仁三郎の自叙伝ですが、そこに次のような歌が出て来ます。

西は半国(はんごく)東は愛宕(あたご)
南 妙見(みょうけん)北 帝釈(たいしゃく)の
山の屏風(びょうぶ)を引きまわし
中の穴太(あなお)で牛を飼う
第37巻第2章「葱節」〕

高熊山修業で自分の使命に覚醒する以前の王仁三郎(当時の名は上田喜三郎)は、郷里の穴太(現在の亀岡市曽我部町穴太)で牛を飼い、搾乳兼牛乳販売の事業を営んでいました。
その穴太は、歌にあるように、四方を山の屏風に囲まれた村落です。

西には半国山があり、東には愛宕山があり、南には妙見山が、北には帝釈山があるというのです。

穴太に限らず亀岡は盆地なので、四方を山に囲まれています。
しかしあまりにも山だらけなので、どれがどの山なのかさっぱり分かりません。

地図で調べると、山の名前が書いてあるので、どの山なの分かるのですが、ちょっと疑問に感じることがあります

一つ目は、帝釈山はどの山?ということ。
半国山、愛宕山、妙見山は分かるのですが、帝釈山は地図に書いてないどころか、ネットで調べてもこの近辺には該当する山がありません。

二つ目は、山の位置がどうもおかしいこと。
穴太から見て、半国山はだいたい西にありますが、愛宕山は東北(艮)だし、妙見山は南西(坤)に位置しています。

四方に山があるのですから、東や南に位置する山は他にあると思うのですが・・・

ということで、Googleの地図を使って位置関係を調べてみることにしました。


●南 妙見

まずは南からです。
次の地図に、黄色い丸が三つありますが、一番左側が穴太の集落です。
つまり穴太から南方面を上空から見た地図ということになります。(クリックすると大きな画像が開きます)

穴太から南をのぞむ

穴太の少し右にある黄色い丸は、高熊山です。地図上は丁塚山(ちょうづかやま)と呼びます。
標高は357m。
穴太も含め亀岡盆地の標高はだいたい100mくらいなので、比高250mくらいの山です。
この山の中腹にある岩窟で、王仁三郎は霊的修業をしたわけです。

右上の方にある黄色い丸が、妙見山です。標高660m。

大ざっぱに言って、穴太の周囲は標高3~400m級の山に囲まれ、さらにその周りを5~600m級の山に囲まれています。

これらの山々の向こう側は大阪です。この地図で見ると近いように思えますが、実際には穴太から直線で20kmも行かないと、山越えして大阪に行けません。けっこう遠いです。

穴太のすぐ南側にも、名前がよく分からない3~400m級の山がいくつもありますが、なぜ妙見山なのでしょうか?
現地で見てみないと何とも言えませんが、地図で見るかぎりだと、南には湯谷ケ岳という、妙見山と同じ600mクラスの山があります。
なぜ妙見山なのでしょう? 穴太で住んでいる感覚だと「妙見」の方がランドマーク的なのでしょうか?

それはちょっと置いといて、次に北を見てみます。
問題の帝釈山です。

●北 帝釈

地図やネットをいくら探しても帝釈という山はこの近辺に見当たりません。
いろいろ調べたら、ほぼ真北にある諸木山(もろぎやま)が、昔は帝釈山と呼ばれていたようです。
この山の麓(西の方)に、1200年以上前に建立された帝釈天堂があり、「京都帝釈天」と呼ばれ有名みたいです。
そのため帝釈山と呼ばれていたのでしょう。
曹洞宗の福寿寺(ふくじゅじ)というお寺が管理しています。(ウィキペディア「福寿寺」)

次の地図は江戸時代の文政年間(1818~31年)に作成された「丹波国図」です。(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

丹波国図

「帝釈山」と書いてます。
現代の地図の地名と照合してみると、諸木山が帝釈山だと分かります。(国土地理院地図
右上の「千代田山」というのは、現代の「千歳山」ではないかと思います。

穴太から北をのぞむ

●西 半国山

この山はだいたい西にありますし、標高774mで高いので、手前の山の向こうに高く見えるのでしょうか。

穴太から西をのぞむ

●東 愛宕山

この山は東北(艮)にありますが、東の方(老ノ坂方面)にはそれほど高い山はないので、東北でも仕方がないと思います。
標高900m超で、さすがに高い山なので、ランドマークとしてよく目立ちます。

穴太から東をのぞむ


これは真上から見た地図です。

穴太の真上から

西に半国(はんごく)聳(そび)え立ち
東に愛宕の峰高く
南遥(はるか)に妙見の
山(やま)雲表に屹立し
帝釈山(たいしゃくざん)は北方に
コバルト色を染め出(いだ)し
若芽に萌ゆる山屏風
中の穴太に牛飼いし…
第17巻総説歌

現地からだと、この歌のように見えるのですかね?
私も亀岡には何度も行ってますが、じっくりと山を眺めたことはないので・・・そもそも山ばっかりで、どれがどの山なのかよく分かりません。(^_^;

実際にこれらの山がランドマークなのかも知れませんが、この四つの山をよく調べると、いずれも宗教の山だということに気づきます。

東の愛宕山には、京都市側に愛宕神社があります。全国に約900社ある愛宕神社の総本社です。
また亀岡市側には、その愛宕神社の勧請元だという「元愛宕」神社があります。(ウィキペディア「愛宕神社」)

南の妙見山は、日蓮宗の重要な寺院である「能勢妙見堂」があります。(ウィキペディア「能勢妙見山」)
公式サイトを見ると「北極星信仰の世界的聖地」と銘打っています。(能勢妙見山の公式サイト

西の半国山は「丹波富士」とも呼ばれる秀麗な山容です。
この山には、金輪寺という、鎌倉時代に創建された天台宗の修験道の寺院があります。(参考

そして北の帝釈山は「京都帝釈天」です。(曹洞宗の福寿寺)

少し高い山にはどこにでもたいてい神社やお寺がありますが、この四つの寺社は小さな寺社ではなく、いずれもそれなりに有名な寺社のようです。

四つの山は、見た目のランドマークとしてだけではなく、宗教的なランドマークでもあるのかも知れません。

言向和(46) 周りを「共鳴」させる

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年09月18日

「『言向け和す』というのは物理で言う『共鳴』のことだ」と、ある人が教えてくれました。

共鳴とは、共振とも言いますが、物体が振動を始めると、他の物体も振動を始めることです。
よく、二つの音叉(おんさ)を使って実験されます。片方の音叉を叩いて音を鳴らすと、もう片方の音叉も、叩いていないのに、共鳴して音を立て鳴り出すのです。
(ユーチューブに音叉を使った共鳴の実験がありました)
https://youtu.be/cVhWB3IniBo

これは物理現象ですが、心理現象でも「共鳴」という言葉を使います。「共感」という方が一般的ですね。他人の考えや行動などに同感・賛同することです。

「相手の気持ちに共鳴する」というように、たいていは、「共鳴する側」の立場で共鳴という言葉が使われますが、「言向け和す」を考える場合には、「共鳴させる側」の立場が重要であると思います。つまり「自分の気持ちに共鳴してもらう」ということです。

世の中を良くしようと思って、どんなに正しいことを主張しても、その主張に人々が共鳴してくれなくては、世の中を良くすることはできません。「世の中」とは人間の集団(社会)のことですから、他の人を共鳴させることができなくては、世の中を変えることは出来ません。

それで、「他人を共鳴させる」技術を身に付けることが、言向け和すために必要なことになって来ます。

霊界物語では、三五教は「感化力」が強い、というように、「感化力」という言葉が使われますが、この感化力とは「共鳴させる力」と言っていいと思います。

   ○   ○   ○

ネットで調べていたら、ちょっとおもしろい記事を見つけました。

「ドラえもん」の主人公のび太くんが、とある映画の中で、しずちゃんやジャイアン、スネ夫ら周りの人たちを「共鳴」させたことについて論じた記事です。

『「のび太」という生きかた:自ら動き、周りに共感してもらう』
http://www.itmedia.co.jp/bizid/articles/1502/03/news001.html

詳細は記事を直接読んでいただきたいのですが、この記事の著者は、紹介している映画に出てくる恐竜のエピソードを通して、「夢を叶えるためには、「周りの人を感動させ、巻き込むこと」が重要である」と訴えています。のび太はそれができる人物だというのです。

なるほど。
のび太と言えば、全然パッとしない、いじめられっ子というイメージですが、実は「夢を語る少年」だったのです。

そう言えばそうかも知れませんね。
のび太の「悩み事」をドラえもんが未来のツールで解決して行くのが『ドラえもん』ですが、その悩み事というのは、言い方を変えれば「夢」です。たいていは身の回りのちっぽけな話題なので「夢」と言うには少々大げさですが、たまには前述の記事に出てくるようにスケールの大きな話題も出て来ます。そうすると、のび太が「夢を語る」少年だったことが見えてきます。

この記事では、その夢を叶えるためには
「人が共感できる夢を持ち、その夢に対するあなたの熱意が周りに伝われば、自然と協力者が現れ夢は自ずと叶いやすくなる」
という答えで結んでいます。
ある意味ではありきたりな解答ですが、この「共感できる夢」というのは重要です。「共感できない夢」もあるからです。

共感する人が多くても、共感しない人もまた多かったら、社会を変えることはできません。それどころか社会は分裂し混乱するだけです。

社会を変えるには、より多くの人を共鳴させて行かなくてはいけません。
一部の人だけではなく、多数の人が共鳴するような「夢」を作り上げて行く必要があります。
反対派をも共鳴させてしまうような、強い感化力を持った夢です。

(またしばらくしたら続きを書きます)


言向け和す【目次】


この文章は過去に次のところへ掲載した文章を加筆訂正したものです。
「言向け和すメールマガジン」2016年6月1日号

霊界物語ネットで文字化けしたサーバーエラーが出た時は

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年09月17日

霊界物語ネットにアクセスした時に、文字化けしたエラーが出て表示されなくなったら、ブラウザの履歴を総て削除して、再びアクセスしてみて下さい。

【エラーの例】

エラーの例

これはサーバー側のエラーで、ブラウザ側のエラーではないんですが、Google Chromeでエラーが出たときに、試しに履歴を削除してみたら、再び表示されるようになりました。

もしものときはやってみて下さい。