王仁三郎の伝記によく出て来そうな主な地名を地図にプロットしてみました。
正確な位置かどうか分かりませんが、本を読むときの参考にして下さい。
この地図の一番左側「葦野山峠(あしのやまとうげ)」は、第37巻第9章「牛の糞」で、幽斎修業者の斎藤宇一が、喜楽(喜三郎)に懸かった大霜天狗に騙されて、財布だと思って牛の糞を掴まされたエピソードに出て来ます。「葦野山峠を二町(約200m)ばかり西へ下りかけた所の道端」に十万円入った財布が落ちていると騙されたのですが、その葦野山峠がある道は現在は整備されていて、どこが峠なのか分からないので、適当な位置にプロットしています。だから「?」マーク付きです。
この道は今は「湯の花温泉街」として多数の温泉旅館が建ち、栄えています。(『大地の母』では「芦の山峠」と表記)
○第37巻第9章「牛の糞」
○大地の母 第5巻 「売僧の詐術」
○湯の花温泉公式サイト
そのずっと下(南)の方に「法貴谷(ほうきだに)」とありますが、ここは第37巻第12章「邪神憑」で喜楽が、小谷重吉という稲利下げに「サア法貴谷へ修行に行きませう」と誘われた場所です。
また、天恩郷に大安石(たいあんせき)と小安石(しょうあんせき)という病治しの岩石がありますが、『水鏡』によると、この岩石は法貴谷にあったとのこと。
ここには、明智光秀が摂津・播磨へ進軍する途中、峠を越えずにここで引き返し本能寺へ向かったという「明智戻り岩」と呼ばれる岩があり、ちょっとした観光名所になっているようです。
亀岡地図の中央あたり、高速道路が通るところに「硫黄谷(いおうだに)」とあります。その右下には「鍬山(くわやま)神社」「矢田(やだ)の滝」とあります。
ここは第37巻第10章「矢田の滝」で、松岡仙人が喜楽に懸かり「喜楽の肉体を自由自在に操つて、足早に硫黄谷を越え、大池の畔を伝うて、亀岡の産土 矢田神社の奥の谷に導き水行を命じた。そして一週間の間毎夜この滝に通ふ事を肉体に厳命した」という場所です。
「硫黄谷」は一般には「医王谷」と、「矢田神社」は一般には「鍬山神社」と呼ばれています。(霊界物語では硫黄谷、大地の母では医王谷と表記)
穴太の産土は開化天皇を祭る小幡神社ですが、鍬山神社が「亀岡の産土」というのは、当時の亀岡町の産土という意味です。昭和30年(1955年)に亀岡町と、穴太が属する曽我部村等が合併して亀岡市が発足しました(ウィキペディア)。だからそれまでは亀岡と穴太(曽我部村)は全く別の地域だったわけです。今は「亀岡の一地域としての穴太」というような認識ですけどね。
鍬山神社の奥に「矢田の滝」があります。
『大本七十年史 上』p153 矢田の滝の写真
現在の滝と鍬山神社は、こちらのサイトにどなたかが撮った写真があるので参考にして下さい。→「銀鈴の滝 落差20m 2012年8月」
一般には「矢田の滝」ではなく「銀鈴の滝」と呼ばれているようです。
現在の地図では、高速道路「京都縦貫自動車道」(沓掛IC~亀岡IC間は1988年開通)が出来たりして、少々地形が変わっていると思うので、昔の地図を見てみましょう。
「Googleマップを使って過去の地形図や空中写真を見る」というページにある明治時代の地図です(国土地理院の地図を使用したもの)。
明治何年かは不明ですが、明治32年(1899年)に開業した亀岡駅も載っているのでそれ以降の地図です。
地図には山の東側に「医王谷」と地名が書いてありますが、この地形図を見ると、現在、高速道路が通っている部分全体が谷になっているので、その部分全体が「医王谷」だったのではないかと思いますよ。
霊界物語に「追々進んで硫黄谷の大池の側へ来て見ると」(第37巻第10章)と書いてあるんですが、この「硫黄谷の大池」というのは、現代の地図に「中山池」と表示してある池のことだと思います。だからこの谷になっている部分全域が硫黄谷だったのではないかと思います。
ということで、現代の地図の方にはそこ全域を医王谷として黄色マーク付けています。
追々進んで硫黄谷の大池の側へ来て見ると、周囲(まわり)一里(4キロメートルだが地図を見る限りでは1キロくらいしかない)もあると云われている山間の大池の中に二~三丈(6~9メートル!)ばかりあろうと思わる背の高い、それに恰好した太さの、赤い丸顔の男が深い池水に腰あたりまでつけて、バサリバサリと自分の方を向いて歩んで来るように見える。
〔第37巻第10章〕
と、恐ろしい化け物が出たことが書いてありますが「進撃の巨人」のような化け物でしょうか(^_^;
ちなみに池の畔(東の方)には現在、出雲大社の京都分院が建っています(公式サイト、ウィキペディア)。しかし平成5年(1993年)に造営されたもので明治期にはありませんでした。
硫黄谷の北側にある安行山(あんぎょうさん)は西山とも稲荷山とも呼ばれていますが、山頂には「磐栄稲荷宮(いわさかいなりぐう)」と、安倍晴明を祭る「晴明神社」があります。
晴明神社は昭和に創建されたものですが、磐栄稲荷は古い神社で、伏見の稲荷大社はここから遷座したと伝えられ、「元稲荷」とも呼ばれる神社です。
こちらのサイトに写真があるので参考にして下さい。→「丹波の神社」、「わが猫とカメラマンさん」)
この山は「平和台公園」になっており、山頂には展望台があり、亀岡の市街地が一望できます。
下の写真は2008年9月に撮影したものです。無理やり合わせてパノラマにしてみました。
硫黄谷のずっと上(北)の方に「余部(あまるべ)」という地域があります。
そこには賭場があって、若者たちがバクチに引き込まれ、喜三郎のすぐ下の弟の由松(よしまつ)もそこの常連で散々金を吸い上げられました。
○霊界物語 第37巻第2章「葱節」
○大地の母 第2巻 三大学則
また、太元(たいげん)教会という新興宗教(町の神様という程度ですが)があり、高島ふみという女性にキツネが懸かり、霊能を売り物にして信者を集めていたのですが、その舞台裏を知った喜楽は、その霊能がイカサマだということを知り、「おかしいやら馬鹿らしいやら、にわかに信仰がさめてしまい、それから三十一年の二月、二十八歳になるまで、神様に手を合わすのがいやになり、極端な無神論者になってしまったのである」というエピソードが霊界物語に書いてあります。
○霊界物語 第37巻第16章「四郎狸」~第17章「狐の尾」
○大地の母 第2巻 穴太精乳館
この余部から、左(西)に真っ直ぐ延びる道があります。田畑の中を通っている道路です。
その先をずっとたどると、稗田野(ひえだの)神社の前を通ります。この神社は延喜式内の古社で、古事記の編纂者・稗田阿礼を摂社に祀っています。
実際に祀られたのは最近ですが(→「御鎮座壱千参百年を来年に迎えて(20.9.24)」)、稗田阿礼が幼少時から青年期にかけてこの地に住んでいたという伝説があるそうです。
この東西にほぼ一直線に延びる道が、古代の山陰道です。以前にブログに書きました→「王仁三郎の生地・穴太と、古代山陰道」
今の山陰道は国道9号線で、大井川(桂川)沿いを北上していますが、古代はこんなところを通っていたのです。
この道は明治期は「篠山(ささやま)街道」と呼ばれていましたが、1970年代に国道372号線が、その少し南側に整備され、今はそちらが篠山街道です。この旧道は府道になっています。
下の地図は明治時代の地図ですが、この道がこの地域の幹線道路になっているのが分かります。
はるか古代は、この道が丹波国の幹線道路だったのです。
この道を通って丹後半島の比沼麻奈為神社から伊勢に豊受大神が遷座し、その途中で穴太の上田家の庭に泊まったわけです。(玉鏡「瑞穂神霊」)