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言向和(15) 身魂相応の解釈

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年07月31日

霊界物語は、ある意味では、とても殺伐とした雰囲気を持つ物語です。
最初の方は「玉」の争奪戦であり、天の鳥船が飛び交い、火の雨が降りまくる戦争シーンがえんえんと続きます。
後の方になり、宣伝使が活躍するようになっても、「悪魔に対し言霊戦(ことたません)を開始する」とか「三五(あななひ)の 神の軍(いくさ)はことごとく 寄せ来る敵を打ち払ふ」とか、殺伐とした文言が飛び交っており、戦記調です。
平和な宗教書だと思って読み出すと、少々面食らうかも知れません。
これは、書いた当時(大正時代)の時代背景として富国強兵の軍国主義全盛の時代だったということもあるでしょうし、また「言向け和す」というのは実は軍人訓・戦陣訓であるという見方も出来ます。
ともかく、霊界物語は戦記調を帯びているので、読み方によっては、いろいろな取り違いをしてしまう場合もあると思います。

たとえば、宣伝使の初稚姫が詠んだ次の歌があります。〔第49巻第6章「梅の初花」〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm4906#a202

八十曲津(やそまがつ)如何に伊猛(いたけ)り狂ふとも 誠の剣に斬り屠(ほふ)らなむ

大神の依(よ)さし玉ひし言霊(ことたま)を 力と頼み行くぞ嬉しき

「曲津(悪党)を誠の剣で斬り屠ってやる」という歌だけを見て、この「剣」という言葉に反応して、『やはり悪党は剣で退治しなくてはいけないのだ。北朝鮮と戦うために日本もICBMを装備しよう』な~んて思ってしまう人もいるわけですよ。

後の歌を見れば、この「誠の剣」とは「言霊」だということが分かるのですが、一度思い込んでしまうと、それ以外の考えが浮かばなくなって、都合の悪いところは目に入らなくなってしまうのです。
宗教とか政治の世界というのは、そういう人が多々います。独善的・偏執狂的な解釈をする人です。オカルトや陰謀論にはまったり、過激な暴力路線に走ったりするような人たちです。一部のイスラム原理主義者のイスラム教解釈なんかもそうとう歪んでいますしね。レイプ被害に遭った女性を「姦淫の罪を犯した」として石打ち刑で処刑するなんていうのは、そうとう歪んでいます、というか病んでいます。それに較べたら「灯火(ともしび)が消えてこの世は真っ暗がり」と筆先に出たといって昼間から提灯ぶら下げて歩いていた明治時代の大本の信者さんなんて、とてもかわいいもんです。

そこまで歪んではいませんが、取り違いの例がエピソードとして霊界物語に描かれていますので、その一つを紹介します。
第8巻第28章「玉詩異」です。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0828

高砂島(南米)のハル(ブラジル)の都の入り口の森林において、宣伝使の淤縢山津見(おどやまづみ)、蚊々虎(かがとら)、高彦の会話で、「玉」について語られています。(意訳)

淤縢山津見は「ここは大自在天の一派の領分だ。十分注意しなくてはいけない。奴らは兵器をたくさん用意して、併呑することのみを唯一の主義とする体主霊従、弱肉強食の連中だ。われわれは奴ら悪逆無道の悪党を懲らさなくてはならない。しかしわれわれの武器は、ただ一つの玉しか持っていない。その玉で言向け和すのだから、大変骨が折れる。この戦いに勝つには、忍耐のほかにはない。ご一同の宣伝使、この重大な使命が勤まりますか?」

蚊々虎は「もちろん。武器もなければ爆弾もない。天から貰ったのはこの玉一つだけだ」
と握り拳(こぶし)を固めて、一同の前に突き出しました。
そして肩を怒らしながら、「鉄より固いこの拳骨で、寄せ来る敵を片っ端から打ちのめして、一泡吹かしてやる」

淤縢山津見「こらこら、そんな乱暴なことをやってはいかん。ミロクの教えを行うわれわれは、一切の武器を持つことが出来ない。ただ玉のみだ」

「その玉はこれだ」
と蚊々虎は握り拳を丸めて突き出します。

高彦が「バカだなあ。違う玉だよ」と否定しますが、では淤縢山津見が言う「玉」とは一体何でしょうか?

それは(霊魂)であり、また、そこから発せられる言霊(ことたま)のことです。

蚊々虎は「これが違うと言うなら…オレは二つの玉を持っている。立派な金の玉だ」と下ネタに脱線した後、高彦が「貴様のをもって敵に当たれということだよ」と正解を言うんですが、しかし最初の淤縢山津見のセリフの文脈上では、「玉」とは、たしかに握り拳の玉だと解釈することも可能でしょう。

このあたりは受け手のセンスの問題です。
センスとは、つまり感性です。

今は夏です。セミやカエルが鳴くシーズンです。そのセミやカエルの合唱を聴いて、心地よい自然の声と感じるか、うるさい騒音と感じるか、そういう感性の違いによって、霊界物語も全く解釈が異なって来ます。

「霊界物語は身魂相応に解釈できる」ということを王仁三郎は言っていますが、そういうことなんだと思います。

「玉」を拳骨と解釈するか、魂や言霊と解釈するか。

「言向け和す」もそうです。どう解釈するか、いろいろあるのではないでしょうか。
たとえば「言論によって一致点を見出す」というような解釈をした人もいましたし、「言葉で説得すること」という解釈をした人もいました。

私の研究では、もっと深い密義が込められていると考えており、それをこれから少しずつ書いて行きますが、しかし私が思っている「言向け和す」が本当に王仁三郎が言いたい「言向け和す」なのかは分かりません。
恋愛をしたことのない子供が恋愛の歌を歌うことが出来てもその真意を知ることは出来ないように、私が思っている「言向け和す」は、神様から見たら、ませガキが得意げに歌っているラブソング程度のものなのかも知れません。

しかし、それでも「言向け和す」の先陣を切って行く覚悟です。

王仁三郎が霊界物語で開示した「言向け和す」の探究は、21世紀の今日においてようやく始まったばかりです。
古事記に記された、皇祖の大命・日本建国の使命である「言向け和す」は、世界を統一するために絶対不可欠なキーワードであると確信しております。
多くの人がこの「言向け和す」の重要性に気づき、探究・実践に取り組むようになることを期待しています。

(続く)

言向和(14) これは「言向け和す」ではないだろう、というエピソード

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年07月30日

霊界物語ではスサノオの手足となる宣伝使たちが、悪を言向け和して行きます。
しかし、「言向け和す」ではないケースもあります。

宣伝使も新米の駆け出しのうちは、「言向け和す」ということがよく分からずに、力で押して行くケースがあります。
そういう場合はたいてい、悪党たちは言向け和されずに逃げ出してしまうようです。
その一例を紹介します。

第15巻の最初の方に、スサノオの8人の娘が出てきます。
彼女たちを「八人乙女(やたりおとめ)」と呼びます。

彼女たちは、スサノオの指令を受けてメソポタミヤの顕恩郷(けんおんきょう)に潜入。
そこは邪教のバラモン教が占領し、アジトになっています。そこを三五教に帰順させて、解放することがミッションです。
八人乙女はバラモン教の大将の鬼雲彦(おにくもひこ)の部下となり、秘かに時をうかがっていました。
また、そこで働いていた8人のバラモン信者の女性は、八人乙女に感化されて三五教に改宗し、八人乙女の侍女となっていました。

そして、三五教の宣伝使・太玉命(ふとたまのみこと)が顕恩郷に現れたの機に、16人の女性たちは自分たちの正体を告白して、鬼雲彦に改心を迫ります。

その時16人の女性軍は、鬼雲彦夫婦の回りを取り囲み、手に手に懐剣(短刀)を握って改心を迫るのです。「すみやかに前非を悔いて三五教に従えよ」と。〔第15巻第3章「十六花」〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm1503

──このようなやり方をどう思いますか?

これは古事記で、タケミカヅチがオオクニヌシに国譲りを迫る場面と同じです。地面に十掬(とつか)の剣を突き刺して国を譲れと迫るのです。(第4回参照)
こういうやり方はとうてい「言向け和す」とは言えません。脅迫です。

霊界物語を何も考えずにボケーと読んでると、スサノオ=救世主=善だからその娘たちも善だろう、という短絡的な方程式によって、こういう暴力的なやり方も「あり」なんだな、と肯定してしまう人もいるのではないかと思います。

よく審神(さにわ)しながら読まねばなりません。その基準が真の神の大御心です。
国祖やスサノオの大御心は「言向け和す」です。
「言向け和す」を基準に判断すると、八人乙女たちのやり方はちょっとおかしいんじゃないのと突っ込まざるを得ません。

懐剣を手にした八人乙女たちに取り囲まれた鬼雲彦夫妻は、窓の外から飛び降り、空の彼方に飛び去ってしまいました。
言向け和せずに、逃げられてしまったのです。

そういう脅迫的・暴力的なやり方ではダメだ、ということです。

第12回で『霊界物語コミックス1 深遠微妙』を紹介しましたが、そこにも失敗例が出て来ます。

ウラナイ教の高姫が、五六七神政に必要とされる大切な「如意宝珠の玉」を奪い、口から呑み込んでしまいました。
三五教の宣伝使・亀彦は激怒して「腹を割いてでも取り戻してやらねばならぬ」「両刃の剣を御馳走してやる!」と、刀を引き抜いて高姫を斬りつけようとするのです。
すると高姫は「ギャッハハハ、ギョッホホホ、短気は損気、マアマア静まれ」と挑発した挙げ句、白煙と化し、窓の外から飛び去って姿を隠してしまいました。

刀で斬り殺そうとするなんて、三五教の宣伝使としてあるまじき行為です。そんなやり方をしたので、逃げられてしまったのです。〔第16巻第14章「鵜呑鷹」〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm1614

このように霊界物語には、「言向け和す」の成功例だけでなく、失敗例も多数出て来るのです。


次に紹介するのは、「言向け和す」に失敗した、というわけではないのですが、「言向け和す」ではない方法で、副守護神を帰順させた例です。

それは第7巻第20章「副守飛出」に出て来ます。
前回、副守護神を言向け和すのだ、ということを書きましたが、この章では、副守護神が「焼け石」(焼けた石)となって口から飛び出すというシーンが描かれています。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0720

舞台は竜宮島(オーストラリア大陸)の「酒(クシ)の滝壷」です。
登場人物は宣伝使の日の出神(ひのでのかみ)と、その弟子の田依彦(たよりひこ)、そして酒好きの時彦(ときひこ)と芳彦(よしひこ)の四人です。

酒の滝壷にはお酒がまるで温泉のように自然に湧き出ています。
酒好きの人にはまるで極楽のような場所ですね (^_^;)
しかし日の出神と田依彦は、二人の酒好きを改めさせるためここに連れて来たのです。

田依彦は「酒を呑みたい呑みたいという副守護神の魂(たま)を綺麗サッパリお供えせい」と言います。

二人は「いつも酒を見るとクウクウと言ってヘソの下あたりから上がって来(き)よる、あの魂(たま)が副守護神と言うのか?」

「そうだ。その副守の魂(たま)が酒を喰らってお前の魂や体をヤワにするのだ。綺麗サッパリお供えしてしまえ」
と言うと、日の出神と田依彦は、酒豪の二人を後ろ手に縛り上げてしまいました。

そして田依彦は大きな柄杓で滝壺から酒を汲み上げると、二人の口先に代わる代わるに突きつけ・・・縛られている二人は舌を出してその酒を呑もうとしますが・・・「そうはいかぬ」と言って柄杓をサッと引っ込めてしまいます。

そしてまた柄杓を前に出し・・・二人は呑もうと舌を出し・・・柄杓がサッと後ろに引っ込み・・・また柄杓が前に出て・・・舌を出し・・・柄杓が引っ込み・・・そんなことを何度も何度も繰り返しているうちに、やがて二人の喉から卵のような焼け石が何個か飛び出してきて、滝壺の中に「ジュン」と音を立てて落ち込みました。

すると二人とも「もう酒の匂いを嗅ぐのも嫌になったよ。俺は酒は嫌いだ、嫌い」と首を振ります。

こうして二人の酒好きは治ったのです。
酒好きの人には耳の痛い話ですね (^_^;)

ここでは副守護神が「焼け石」という形で表現されています。
酒を鼻先に近づけて欲望(執着)をそそり、それで焼け石(副守)を外に吐き出させたわけです。

同じ巻の第45章「酒魂」でも似たようなシーンが描かれており、そちらでは蚊取別(かとりわけ)が口から三個の焼け石を吐き出して、酒好きが治っています。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0745

このやり方は少々手荒ですね。「言向け和す」とは言い難いですが、結果として執着心が解消され、副守護神が鎮定されています。
このような方法を何と呼べばいいでしょうか。

このような現象は現実にもたしかにあります。
欲望をどんなにつのらせ執着してもそれが叶うことが出来ない場合に、執着心が消滅する場合があるのです。それは「あきらめ」の境地と言えばいいでしょうか。
金持ちになりたいとどんなに思っても、そう簡単にはなれませんし、好きになった人と付き合いたいと思っても、振られてしまう場合もあります。
欲望が成就できずに、挫折して、あきらめてしまい、その結果、お金が嫌いになったり、恋愛自体に抵抗が生じてしまったりする場合があります。
そういうことで「酒嫌い」になったのではないかと思います。

怒りを他人にぶつける場合もそうです。
どんなに厳しく言っても、怒鳴っても、全然理解せず、応えてくれない人っていますよね。
そういう時、ある程度まで激しく言って、それで言うことをきかなければ、もうバカバカしくなって言うのをやめてしまいます。言っても無駄だからです。
こういうのは「あきらめ」です。
焼け石を吐き出させるエピソードは、執着をあきらめさせる方法の一例を示していたのでしょうか?
それとも、もっと何か、深い密意が籠められているのでしょうか?
よく分かりません。
皆さんも色々考えてみて下さい。

(続く)

言向和(13) 副守護神を言向け和す

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年07月29日

前回は第6巻の、北光天使と清河彦(旅人の甲)のエピソードを書きました。
清河彦はウラル教の悪党に土地を奪われ家を焼かれ女房を奪われ一家は離散し、散々な目に遇いました。清河彦は被害者であり、悪いのはウラル教の悪党です。
ところがこのエピソードでは、被害者である清河彦が、言向け和す対象になっています。
“悪を言向け和す”とは言っても、いわゆる悪党だけが言向け和す対象なのではありません。悪事を何もしていない善良な市民であっても、怒り憎しみ妬み嫉みといった悪しき想念を持っている人はみな、言向け和す対象なのです。

表面的な善悪と、内面的な善悪は一致しません。
表面的には善人でも、心の醜い人間はいくらでもいます。

言向け和す対象は人間ではなく、副守護神を言向け和すのだと考えた方がいいでしょう。
人間には3つの守護神がいます。本守護神(本霊)、正守護神(善霊)、副守護神(悪霊)です。
本守護神は、人間の霊魂の本体です。天人になるために現界に修業に来ている精霊です。
正守護神は、人間を善の方に向ける精霊です。
副守護神は、人間を悪の方に向ける精霊です。〔第47巻第12章参照〕

副守護神は決して人間を守護しているわけではないのですが、人間の心の中に悪霊が居ると言うと色々と誤解したりする人がいて問題があるので副守護神と呼ぶのだ…と王仁三郎は説明しています。

人が悪しき想念を持つのは、この副守護神がささやくからです。「悪魔のささやき」て奴ですね。
北光天使のエピソードで、ウラル教の悪党に片目をえぐられた旅人の乙が、「腹の底に悪い蟲が潜んでいまして」と語っていますが、その蟲が副守護神です。〔第6巻第35章

そしてその副守が乙に「仇(あだ)を討て、仇を討て、何をグズグズしている、肝腎の目玉をえぐられよって、卑怯未練にも、その敵を赦しておくような弱い心を持つな」とささやくと言うのです。
それと同時に、乙はその声を「どうしたらこれが消えるでしょうか。どうしたらこれを思わぬように綺麗に忘れる事ができましょうか」と苦悩しています。そのよう思わせているのは正守護神です。
このように正守護神と副守護神の、善と悪との声で、人の心は常に揺れています。

揺れ動くのは、副守の声も一見正しいように思えるからでしょう。
「モノを盗め」(悪)、「いや盗んじゃいけない」(善)というのは善悪の区別が比較的簡単ですが、乙の例のように「悪党に仇を討て」「いや、そこを忍耐するのだ」というのは、善と悪の区別がなかなかつきません。ややもすれば「仇を討て」というのが正義だと思えて来ます。

正義を手にした副守はやっかいです。正義の名の下に悪事を正当化するからです。中国でのいわゆる「愛国無罪」というのはとてもいい例です。「愛国」という正義の下ではどんな犯罪でも無罪になってしまうというのです。
メディアやネットで人を叩いたりするのも同様で、それをやらせているのはたいてい副守護神です。報道の自由だとか言論の自由だとかの名の下に副守護神はやりたい放題です。
悪魔狩りをするのは悪魔です。正義を掲げて副守が暴れているのです。表面の正義に惑わされずに、その奥にある霊性を見なくてはいけません。

「言向け和す」というのは、悪党(人間)を言向け和すというよりは、この副守護神を言向け和すのです。

ところで副守護神は「副守先生」というふうに、何故か「先生」とも呼ばれています。
これは、日本は言霊の幸わう国であり善言美詞で悪霊を改心させよう…というようなことで、敬称を付けているそうです。こんなところにも「言向け和す」の精神が出ていますね。
随筆『神霊界』大正8年10月15日号出口王仁三郎全集第2巻「皇道大本は宇宙意志の表現」参照〕

   ○   ○   ○

第16巻第18章~第17巻第6章の、丹波村の平助一家の物語には、”善人”の平助が己の心の醜さを思い知らせれるシーンが出て来ます。
平助の孫娘のお節(おせつ)がバラモン教の鬼彦・鬼虎に誘拐され、山奥の岩窟に監禁されてしまいました。
その後改心した鬼彦・鬼虎が、罪を償うためにお節を岩窟から救出し、祖父母の平助・お楢(おなら)と一年ぶりに再会。
一同は真名井ケ岳の神様(現在の比沼真奈井神社)にお礼詣りに行くんですが、雪深い山の中を進んで行く途中で、平助は悪党だった鬼彦・鬼虎たちに対する恨みがまだ晴れずに、いろいろ小言を吐きます。
そして何故か鬼彦・鬼虎たちが「羽化登仙(うかとうせん)」し、女神となって空高く飛んで行ってしまうのです。(羽化登仙とは中国の故事で、人間に羽が生え仙人になって天に登ること)

それを呆然と見送った平助は嘆きます。「ワシのような善人はこうして雪山の上で寒い風に曝されて苦労しているのに、あの悪人どもは立派な衣装を天から頂いて羽化登仙し自由自在な身になった」と。

それを聞いた妻のお楢は「人間から見て悪に見えても善の身魂もある。人間が勝手に善じゃと思って自惚れていると、いつの間にか邪道に落ちて苦しむこともある」と諭します。そして「お節を誘拐されて二人が泣きの涙で暮らしたのも、若い時から欲なことばかりして、金を貯め、人を泣かしてきた報いじゃ」と。

しかし平助は「ワシが常日頃、食う物も食わず、欲ばって金ばかり貯めたのは、お節が可愛くて一生楽に暮らさしてやりたいと思ったからじゃ。別にワシが美味いものを食ったわけではなく、身欲ということは何一つしておらぬ」と弁明します。

お楢は「それでもやはり身欲になるのじゃ。他人の子にはつらく当たり、団子一つやるわけでもなし、何もかもお節お節と身びいきばかりして、その天罰で一年もの間苦しみを受けたのじゃ。それで神様があいつらを羽化登仙させて、善と悪の鑑(かがみ)を見せて下さったのじゃ。これから綺麗さっぱりと心を入れ替えて下され」と教え諭しました。
ここでは宣伝使ではなく、神様がお楢の口を借りて平助を言向け和した、という形です。

鬼彦・鬼虎と、平助親子は、犯罪の加害者-被害者という関係であり、表面的には鬼彦・鬼虎が悪党ですが、そういう表面的な見方で読んでいると、平助が改心を迫られるという意外な結末に唖然とさせられます。
あくまでも犯罪事件の加害者-被害者という関係で見たら加害者が悪いのは当然ですが、しかし事件と関係なく、一人一人個別に見て行くと、そこに副守護神が蠢(うごめ)いているのが見えて来ます。事件というリトマス試験紙によって副守護神の存在が見えてくると言えばいいかも知れません。その副守護神こそが言向け和す対象であるのです。

なお、鬼彦・鬼虎が改心したのは、このエピソードよりももう少し前の第16巻第6章~7章です。
そこで彼らは、言向け和された時の心境を次のように語っています。

「顔の紐はさっぱり解けてしまい、今までの鬼面(おにづら)は光まばゆき女神のような顔色に堕落してしまいよった、善の道へ堕落するとコンナ腰抜けになってしまうものかなア」
「何だか拍子抜けがしたようにはござらぬか」
「左様でござる、せっかく張り詰めた今までの悪心(あくしん)は水の中で屁(へ)を放(ひ)ったようにブルブルと泡となって消え失せました。誰も彼もアルコールの脱けた甘酒のようになってしまった。亀彦(宣伝使)が説教をしてくれたが、甘いような辛(から)いような厳しいような寛(ゆるや)かなような、訳の分からぬ言葉であった。ちょうど甘酒に、生姜の汁を入れて飲むようなものだ。親爺の説教を聞きながらソッとお金をもらうような心持ちだった」

アルコールの脱けた甘酒だとか、親父の説教を聞きながらお金をもらうような気持ちだとか、なかなか微妙な表現ですね。

以上はすべて意訳・ダイジェストですので、詳しくは霊界物語を直接お読み下さい。
また、丹波村の平助一家の物語は『霊界物語コミックス2 雪山幽谷』に出て来ます。それを読むとよく分かります。

(続く)

言向和(12) 態度で言向け和す

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年07月28日

今回紹介するエピソードは、言葉で言向け和すのではなく、態度で言向け和すという事例です。

第6巻の、三五教が誕生する場面(第33~36章)に出て来ます。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0633
五大教の宣伝使・東彦天使(あずまひこのかみ)と、三大教の宣伝使・北光天使(きたてるのかみ)がエデン川の川岸で邂逅しますが、この時、北光天使と旅人との間に神の教えに関して激論が交わされています。
それは三五教の重要な教えである「無抵抗主義」に関わることことです。無抵抗主義も「言向け和す」に密接に関連しているのですが、拙著『超訳 霊界物語2 出口王仁三郎の[身魂磨き]実践書 ~ 一人旅するスサノオの宣伝使たち』p58~に詳しく書いておいたので、そちらをお読み下さい。とりあえずここではその場面の概略だけ書きます。

北光天使が神の教えを宣伝しているのを聞いて、一人の旅人の男(甲)が質問をします。

自分たちはウラル教の悪党に田畑や山林を奪われ、家を焼かれ、女房を奪われ、一家は離散し、食う物もなく、乞食となって四方を歩き巡り、憎き悪党に仇を討つために探し回っている。実に悲惨な人生だ。もし神様がこの世にいるのならば、どうしてこんな不公平なことを黙って見ているのだろうか。自分は神の存在を疑っている──と。

それに対して北光天使は答えます。

悔しい気持ちはよく分かるが、そこを人間は忍耐して、敵を赦してやらねばならないのだ。そこが人間の尊いところであって、神様の大御心に叶うというものだ──。

すると男は激怒して「バカ!」と叫ぶと、「お前はこれでも怒らないのか!」と、北光天使の頭の上から小便をジャアジャアと垂らすのです。

悪党に惨いことをされたのだから、怒って復讐したいと思うのは当然でしょう。それを「赦しなさい」というのはとうてい納得出来ないことでしょう。「泣き寝入りをしなさい」というのと一緒で、人間としての尊厳を否定されるような気持ちでしょう。それで男は、オレの悔しい気持ちを分からせてやる、と北光天使の頭に小便をひっかけたのです。

しかし北光天使は平然としています。

今度は別の男(乙)が質問します。

自分は悪党に片目を抉(えぐ)られてしまった。非常に癪(しゃく)に障るが、あなたのように忍耐強く、美しい心になりたい。しかし腹の虫が、仇を討て、仇を討てと囁いて仕方がない。どうしたらこれを消すことが出来るだろうか──。

北光天使は答えます。

そこを忍耐しなくてはいけないのだ。何事も惟神に任せなさい──。

すると先ほどの男(甲)が激昂して、「そんなのは強い者勝ちの教えだ。貴様もウラル教の一味だろう。オレたちのような弱い者を舌の先でちょろまかしているのだ。貴様もえらい目に遇わしてやる」と、竹の棒で北光天使の右目をグサリと突いたのです。

すると北光天使は目に刺さった竹を抜き取り、右手で目を押さえ、神様に感謝の祈願を捧げ出しました。
「一つの目を与えて下さり、ありがとうございます」と。

男は「そんなに目を突かれて嬉しいのなら、も一つ突いてやろうか」と、またもや竹の棒で、左目を突き刺そうとしました。

その時、近くにいた東彦天使は、その竹の棒を手でグッと握って押すと、男はよろめき、岸辺から河の中にドボンと転落したのです。

北光天使は驚いて、裸になると河に飛び込んで、男を救い出しました。

男は北光天使の慈悲の心に感じ入り、悔い改めて弟子となり、宣伝に従事することとなりました。〔第6巻第34~35章〕

──という話です。

最後に男(甲)は心を改めるのですが、これは北光天使の態度によって言向け和された、ということだと思います。

何か特別なことを言ったのではありません。むしろ北光天使が言った言葉に対して男は激怒するばかりでした。
それが、北光天使が川から救い出した、その態度によって、男の心境に変化が起きたのです。

これは「敵に救われた」ということでもあります。
悪党に酷い目に遇わされたのに、敵を赦しなさい、だなんて言う奴はやはり悪党の仲間です。だから男は、北光天使が敵(ウラル教)の一味だと思ったのです。
その敵だと思っていた奴が、自分を救ってくれたのです。
本当に敵ならば、救ってくれるはずがないでしょう。
その北光天使の態度に、敵味方を超えた、真の神の慈愛を感じ取ったのではないでしょうか。

態度によって言向け和されるという事例は他にも出て来ます。
たとえば、丹波が舞台の第16巻で、ウラナイ教の高姫の子分の青彦が、三五教の宣伝使・亀彦と英子姫に言向け和され改心します。
蜂の大群に刺されて生死の境を彷徨っていた青彦は、自分を救うために、敵だと思っていた三五教の二人が一心不乱に祈願している姿を見て、心を改めるのです。〔第16巻第15~16章〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm1615
このシーンは私がシナリオを書かせていただいた『霊界物語コミックス1 深遠微妙』にも出て来ます。

言向け和すのに必ずしも言葉は必要ないのです。


「言向け和す」の「こと」は言葉の「言」と書きますが、これは「事」でもあると思います。
人間が行うあらゆるアクション(言動)です。

手元の古語辞典(旺文社)によると、「事」とは

1 人のするわざ。仕事。動作。
2 事務。政務。
3 行事。儀式。
4 世の中に起こる事柄。現象。
5 特にとり立てて言うような事件。
6 意味。内容。
7 わけ。事情。
8 ことのようす。さま。
9 唯一の事業。ただ一つのこと。
10 僧侶の夜食。
11 (文末にあって)感動を表す。…ことよ。

と書いてあります。
10番の意味はかなり特殊ですが(^_^; 1番や4番にあるように、人間のアクションや、自然界の現象が「事」です。

言葉が無くても「目と目で通じ合う」ということがあるように、非言語コミュニケーションによって人を言向け和すことも出来ると思います。

しかし人間が行うアクションのうち、他の動物が持たない、人間ならではのコミュニケーション手段が「言葉」です。

言葉を使えば時間・空間を飛び越えて、遠い場所、遠い未来にいる人に対しても、言向け和すことができます。

私は二十代初めの頃、まだ出口王仁三郎と出会う前に、キリスト教に没頭していた時期がありました。
聖書に書いてあるイエス・キリストの言葉が、当時の私の気持ちを言向け和したのです。
2千年という長い時間を飛び越えて、イエス・キリストが私を言向け和したのです。
これはとてもすごいことです。
言葉を使えば、地球の裏側にいる人をも、言向け和すことが出来るのです。

人間の「事」のうち、もっとも効果的で偉大なものが「言葉」であるから、「事」を代表して「言」向け和すなのだと思います。
しかし言葉に限定されるのではなく、他の方法もあるということが重要です。

また、ある人が「言向け和すの『こと』は『まこと』の『こと』でもあると思う」と言っていました。
なるほど。これは新しい発見です。

古語辞典で「まこと」を引いてみると、「まこと」とは「真・実・誠」で、原義は「真事(まこと)」と書いてあります。
意味は、

1 真実。真理。事実。
2 まごころ。真情。誠意。

とあります。

私たちがよく「あの人はまことの人だ」と言う場合、迷いがなく真っすぐに道を進んでいるような人を指して言うのだと思います。
和されていない人というのは、物事の表面に捉われているのであって、真実の自分に気づいていないのかも知れません。

人の迷妄を覚まさして、本来の自分に立ち返らせることが「言向け和す」というになるでしょうか。

態度で言向け和すと言っても、その態度の中に「まこと」が含まれていないといけません。その「まこと」に触れることで、人は言向け和されるのではないでしょうか。

前述した霊界物語の二つの事例で言うと、敵だと思っていた三五教の宣伝使が、自分を救ってくれる姿の中に、敵味方を超えた真(まこと)の神の慈愛を感じ取ったのだと思います。

単に敵を救えばいいという問題ではなく、その行動の中に、「まこと」が含まれているかどうかが肝心です。

(続く)

言向和(11) 宣伝歌で言向け和す

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年07月26日

前回は、「言向け和す」の実例として、国祖の「真澄の大鏡」のエピソードを紹介しました。
死んだはずの悪神が甦り、改心して国祖の近辺にまめまめしく仕えている姿を神々に見せ、そして悪神の贖いとして自分の頭髪を抜いていた、その後頭部を見せたことで、神々は真の神の慈愛に深く感じ入り、心を改めることとなったのでした。

そのエピソードには「言向け和す」という言葉が出て来ませんが、私の長年の?研究で、これは「言向け和す」だと思ったのです。

次に紹介するのは、「言向け和す」という言葉が使われているエピソードです。
国祖隠退後、天変地異が続発して、大洪水が間近に迫っている地上で、宣伝使が邪神を言向け和したエピソードです。第6巻第2~7章に出て来ます。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0602

その最後の第7章に次のように書いてあります。場所は常世国の鬼城山(きじょうざん)です。

…四人の神司(かみ)は仁慈の鞭(むち)を揮(ふる)ひ、美山彦(みやまひこ)一派の邪悪を言向け和し、意気揚々として谷間を下り、音に名高きナイヤガラの大瀑布に禊を修し、ホツと一息つく間もなくなく涙の袖の生き別れ、我が天職を重ンじて、東西南北に袂(たもと)を別ちたるなり。
〔第6巻第7章「旭光照波」〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0607#a056

「言向け和し…」と書いてあるので、このエピソードは「言向け和す」なんだと思います。

4人というのは、足真彦(だるまひこ)、月照彦(つきてるひこ)、春日姫(かすがひめ)、春姫(はるひめ)の4人の宣伝使です。
邪神の美山彦は鬼城山をアジトにしていました。
月照彦、春日姫、春姫の3人は美山彦一派に囚われ監禁状態でしたが、そこへ足真彦が訪れたのを機に4人で力をあわせて美山彦一派を言向け和します。

どうやって言向け和したのかと言うと──美山彦たちが酒に酔い潰れて泥酔してしまったすきに、手足を紐で縛り、そして酔いが醒めて目覚めると、宣伝歌を歌って言向け和したのです。〔第6巻第6章〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0606

宣伝歌を歌って言向け和す、というシーンが霊界物語にたびたび出て来ます。
しかし・・・歌を歌って悪党を言向け和すなんて、少々おとぎ話的ですよね。
たしかに歌には心を和ませたり癒やしたりする効果はありますが・・・それにしても歌って悪党が改心してしまうなんて、それは現実にはどうでしょうか?
宣伝歌で言向け和すというのは、あまりにも超能力的な感じなので、現界人が真似をするのは無理ではないかと思います。そもそも王仁三郎にまつわる逸話にも、歌って言向け和したなんて話は聞いたことがありません。

三五教の宣伝歌を聞くと、悪党はみな苦しみ出します。宣伝歌の高尚な波動に耐えられないのでしょう。
地獄の住人は神の光を浴びると苦しむのです。それで、光のない世界へと自ら進んで行くのです。
暗闇に住んでいた人がいきなり眩しい光を浴びるのですから、そりゃ苦しむはずです。
次のような感じです。

春日姫は声をはげまし(略)謡ひ始めけるに、美山彦は頭上を鉄槌にて打ち叩かるるごとく、胸を引き裂かるるごとき心地して、苦しみ悶えだしたり。春日姫は声もさわやかに、又もや流暢なる声調にてしきりに謡ふ。美山彦は七転八倒(しちてんはつたう)目をむき、泡を吹き、洟(はな)を垂らし、冷汗を滝のごとく流して苦しみもだえける。(略)

三人は大広間に現はれ見れば、いづれの奴原(やつばら)も、足真彦、春日姫の二人に手足を縛られたることを覚り、おのおの声を放つて泣き叫ぶなりける。三人は又もや宣伝歌を高唱したるに、いづれも激しき頭痛胸痛を感じ、縛られたるまま前後左右にコロコロと回転し始めたり。(略)

ここに三人は、いよいよ天地の大道を説き宣伝歌を謡ひ、遂に彼らに憑依せる邪神を退去せしめ、各自の縛(いましめ)を解きやりければ、一斉に両手を合はせて跪(ひざまづ)き、その神恩に感謝し声を揃へて天津祝詞を、足真彦の導師の言葉につれて、恭(うやうや)しく奏上したり。
〔第6巻第6章〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0606

一見、宣伝使が悪党を暴力で苦しめているようにも見えますが、そうではなく、悪党は宣伝歌を聞いて、勝手に苦しんでいるのです。地獄から生還する時に通るべきイニシエーションとも言えます。
ある意味では、デトックスの時に起きる離脱症状です。

こんなふうに宣伝歌を歌って言向け和す業(わざ)が使えるならいいのですが、現界的にはまずあり得ないことでしょう。
これをどうやって解したらいいでしょうか。
歌、ということではなく、単に、善言美詞の言霊で言向け和す、というのであれば理解可能ですが。。。
宣伝歌で言向け和す、というのはどういうことなのか、もっと深く色々考えて行く必要があるようです。

ところで、「言向け和す」というのとは少々違うかも知れませんが、常世会議の時に、弁論ではなく、歌で、自分の意見を表明している場面があります。
第4巻第15~16章です。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0415

それまでは、現代の国会やマスコミのように、怒号罵声誹謗中傷何でもありの弁舌でしたが、出雲姫(正神側の神司)は演壇に立つと、手をうち、面白い節で歌を歌い出しました。

出雲姫は口演(こうえん)に代へ優雅と、皮肉との混交歌を歌つて、自己の憤怒と、所信とを遺憾なく、諸神司(しよしん)の前に訴へたるにぞ(略)

凡て歌は天地神明の聖慮を和げ、万有に陽気を与へ、神人(しんじん)の心魂を照り明かす言霊の精華なり。(略)

現代の人間同士の会議は、すべて言論のみを用ゐ、決して歌なぞの風雅の声に耳をかすものはなく、かへつてこれを禁止するにいたれり。それゆゑに現代の会議は何事にも口角(こうかく)泡を飛ばし、眼を釣り争論の花を散らせ、鎬(しのぎ)をけづりて快哉(くわいさい)を叫び、如何なる問題に関しても言葉冷たく尖どく不平不満の間に優勝劣敗的多数決てふ、衆愚本位の議決に甘ンじ居らざるべからず(注・甘んじなくてはならない、の意)。

秋津嶋浦安国の神国の遠き昔は言霊の幸ひ、助け、天照り渡り生ける国にして、善言美詞をもつて相終始したりしに、最早この時代は、天地神明の大道なる言霊の応用も乱れ乱れてつひにはその跡を絶つに至れり。
今日にては神人が優雅にして高潔なる歌をもつて、その意志を述ぶるものはなはだすくなく、ただ上位の神人の間にわづかに行はれ居たりける。
ゆゑに今回の常世の会議においても、神人の自由にまかせ、直接の言辞によるものと、単に歌のみによつて意志を表白するものと、言辞と歌とを混合して口演するものとありしなり。言霊の清く朗かなる神人は、凡て和歌によりて難問題を解決せむと努力したりける。
〔第4巻第16章「善言美辞」〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0416

なるほど。
神代は歌によって会議が行われていたのですね。

歌と言うのは、情に働きかける作用があります。
理屈を捏ねて相手をねじ伏せるのではなく、感情で伝える、ということでしょうか。

現代の国会議員の先生方も、頭に血を上らせて罵声を飛ばしてばかりいないで、会議の前に歌を詠むといいのでは?
しかし結局は罵声や誹謗の文言だらけの歌になってしまうのがオチかも知れませんね。

宣伝歌と言っても、三五教だけでなく、邪教のウラル教やバラモン教も宣伝歌を歌います。
ですから、歌の奥には「善言美詞で言向け和そう」という精神が必要であり、「宣伝歌で」言向け和すというよりは、やはり「善言美詞の言霊で」言向け和すと言うのが正解でしょうね。

歌を歌えばいいというものではないわけです。
どういう精神で歌うかが重要です。
それが、前回出て来た、国祖の慈愛です。ああいう精神で善言美詞の言霊を使った時に、人は言向け和されるのでしょう。

(続く)