霊界物語は、ある意味では、とても殺伐とした雰囲気を持つ物語です。
最初の方は「玉」の争奪戦であり、天の鳥船が飛び交い、火の雨が降りまくる戦争シーンがえんえんと続きます。
後の方になり、宣伝使が活躍するようになっても、「悪魔に対し言霊戦(ことたません)を開始する」とか「三五(あななひ)の 神の軍(いくさ)はことごとく 寄せ来る敵を打ち払ふ」とか、殺伐とした文言が飛び交っており、戦記調です。
平和な宗教書だと思って読み出すと、少々面食らうかも知れません。
これは、書いた当時(大正時代)の時代背景として富国強兵の軍国主義全盛の時代だったということもあるでしょうし、また「言向け和す」というのは実は軍人訓・戦陣訓であるという見方も出来ます。
ともかく、霊界物語は戦記調を帯びているので、読み方によっては、いろいろな取り違いをしてしまう場合もあると思います。
たとえば、宣伝使の初稚姫が詠んだ次の歌があります。〔第49巻第6章「梅の初花」〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm4906#a202
八十曲津(やそまがつ)如何に伊猛(いたけ)り狂ふとも 誠の剣に斬り屠(ほふ)らなむ
大神の依(よ)さし玉ひし言霊(ことたま)を 力と頼み行くぞ嬉しき
「曲津(悪党)を誠の剣で斬り屠ってやる」という歌だけを見て、この「剣」という言葉に反応して、『やはり悪党は剣で退治しなくてはいけないのだ。北朝鮮と戦うために日本もICBMを装備しよう』な~んて思ってしまう人もいるわけですよ。
後の歌を見れば、この「誠の剣」とは「言霊」だということが分かるのですが、一度思い込んでしまうと、それ以外の考えが浮かばなくなって、都合の悪いところは目に入らなくなってしまうのです。
宗教とか政治の世界というのは、そういう人が多々います。独善的・偏執狂的な解釈をする人です。オカルトや陰謀論にはまったり、過激な暴力路線に走ったりするような人たちです。一部のイスラム原理主義者のイスラム教解釈なんかもそうとう歪んでいますしね。レイプ被害に遭った女性を「姦淫の罪を犯した」として石打ち刑で処刑するなんていうのは、そうとう歪んでいます、というか病んでいます。それに較べたら「灯火(ともしび)が消えてこの世は真っ暗がり」と筆先に出たといって昼間から提灯ぶら下げて歩いていた明治時代の大本の信者さんなんて、とてもかわいいもんです。
そこまで歪んではいませんが、取り違いの例がエピソードとして霊界物語に描かれていますので、その一つを紹介します。
第8巻第28章「玉詩異」です。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0828
高砂島(南米)のハル(ブラジル)の都の入り口の森林において、宣伝使の淤縢山津見(おどやまづみ)、蚊々虎(かがとら)、高彦の会話で、「玉」について語られています。(意訳)
淤縢山津見は「ここは大自在天の一派の領分だ。十分注意しなくてはいけない。奴らは兵器をたくさん用意して、併呑することのみを唯一の主義とする体主霊従、弱肉強食の連中だ。われわれは奴ら悪逆無道の悪党を懲らさなくてはならない。しかしわれわれの武器は、ただ一つの玉しか持っていない。その玉で言向け和すのだから、大変骨が折れる。この戦いに勝つには、忍耐のほかにはない。ご一同の宣伝使、この重大な使命が勤まりますか?」
蚊々虎は「もちろん。武器もなければ爆弾もない。天から貰ったのはこの玉一つだけだ」
と握り拳(こぶし)を固めて、一同の前に突き出しました。
そして肩を怒らしながら、「鉄より固いこの拳骨で、寄せ来る敵を片っ端から打ちのめして、一泡吹かしてやる」
淤縢山津見「こらこら、そんな乱暴なことをやってはいかん。ミロクの教えを行うわれわれは、一切の武器を持つことが出来ない。ただ玉のみだ」
「その玉はこれだ」
と蚊々虎は握り拳を丸めて突き出します。
高彦が「バカだなあ。違う玉だよ」と否定しますが、では淤縢山津見が言う「玉」とは一体何でしょうか?
それは魂(霊魂)であり、また、そこから発せられる言霊(ことたま)のことです。
蚊々虎は「これが違うと言うなら…オレは二つの玉を持っている。立派な金の玉だ」と下ネタに脱線した後、高彦が「貴様の魂をもって敵に当たれということだよ」と正解を言うんですが、しかし最初の淤縢山津見のセリフの文脈上では、「玉」とは、たしかに握り拳の玉だと解釈することも可能でしょう。
このあたりは受け手のセンスの問題です。
センスとは、つまり感性です。
今は夏です。セミやカエルが鳴くシーズンです。そのセミやカエルの合唱を聴いて、心地よい自然の声と感じるか、うるさい騒音と感じるか、そういう感性の違いによって、霊界物語も全く解釈が異なって来ます。
「霊界物語は身魂相応に解釈できる」ということを王仁三郎は言っていますが、そういうことなんだと思います。
「玉」を拳骨と解釈するか、魂や言霊と解釈するか。
「言向け和す」もそうです。どう解釈するか、いろいろあるのではないでしょうか。
たとえば「言論によって一致点を見出す」というような解釈をした人もいましたし、「言葉で説得すること」という解釈をした人もいました。
私の研究では、もっと深い密義が込められていると考えており、それをこれから少しずつ書いて行きますが、しかし私が思っている「言向け和す」が本当に王仁三郎が言いたい「言向け和す」なのかは分かりません。
恋愛をしたことのない子供が恋愛の歌を歌うことが出来てもその真意を知ることは出来ないように、私が思っている「言向け和す」は、神様から見たら、ませガキが得意げに歌っているラブソング程度のものなのかも知れません。
しかし、それでも「言向け和す」の先陣を切って行く覚悟です。
王仁三郎が霊界物語で開示した「言向け和す」の探究は、21世紀の今日においてようやく始まったばかりです。
古事記に記された、皇祖の大命・日本建国の使命である「言向け和す」は、世界を統一するために絶対不可欠なキーワードであると確信しております。
多くの人がこの「言向け和す」の重要性に気づき、探究・実践に取り組むようになることを期待しています。
(続く)