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霊界物語で民主主義が否定される理由

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年06月30日

前回からの続きです。

すでに書いたように、霊界物語では民主主義が悪神の仕組のような見方をされています。
伊都能売神諭(開祖昇天後に王仁三郎に国祖が懸かって書いた神示)でも

「今の人民のように民主主義に精神を奪られておるような事では、今度は八岐の大蛇に自由自在に潰されてしまうから…」〔大正八年二月二〇日

とか

「民主主義を唱える鼻高が出来て来て、何も知らぬ日本の人民が学者の申す事を信じて、それに付和雷同してつまらん事を致すように曇りてしもうているから…」〔大正八年三月七日

など、民主主義が否定的に出て来るので、これをどのように捉えればいいのか、私の懸案の一つでした。
そして、民主主義がダメなら、何ならいいのか、と。
そのことにある程度の道筋を付けないと、人類が向かうミロクの世を指し示すことが出来ません。

さて、世界には民主主義でない国はいくつもあります。その中にはうまく行っている国もあります。たとえばサウジアラビアやアラブ首長国連邦は絶対君主制ですが、国民の民主化要求はそれほど大きくありません。これらの国は、原油を売ったお金が湯水のようにあるので、税金も安いし社会保障も充実しています。経済的にはみな満足しているのです。それを下手に民主化して我利我利亡者に政治を掻き乱されたら、その豊かな生活が壊れてしまいます。民主化などせず今のまま国王陛下にお任せしておいた方が安泰だと言えます。

結局、私たち民衆の不満の多くはお金の問題ではないでしょうか。税金、年金、ワーキングプア、失業、介護、受信料、待機児童に奨学金、み~んなお金の問題です。国防・外交・人権・環境などお金以外の問題もありますが、お金に何も困っていなかったら、それらの問題もかなり冷静に見つめることが出来ると思いますよ。『保育園を増やさずに軍事費ばかり増やすな!』というように、八つ当たりの部分も大きいと思います。もし自民党が国民に1人毎月50万円支給するベーシックインカム制度を作ってくれたら、この先数十年は自民党の天下が続くことは間違いありません。

国民にとって重要なことは「誰が決めるか」ではなく「豊かな生活ができるか」ということではないでしょうか。豊かさにもいろいろあり、経済的豊かさより精神的豊かさこそが本質であることは言うまでもありませんが、精神的なことは主に宗教が、経済的なことは主に政治が担当します。経済面から民に安心立命を与えるのが政治です。
前回、民主主義には(1)「国民が多数決で決める(主権在民)」という意味と(2)「国民のために政治を行う(民本主義)」という2つの意味があると書きましたが、国民にとって真に重要なことは、後者です。豊かな生活を与えてくれるのであれば、政治を誰が決めるかなんてさほど重要な問題ではないことは、アラブの金持ち国家の例を見れば分かります。政治は官僚が決めてもいいし、AIが決めてもいいのです。
しかし一部の人間に決めさせると、そいつらのための政治になりがちなので、みんなで決めようということになっただけです。
アラブの王様にしても、国民にオイルマネーをばらまいていい思いをさせているから、うまく行っているのであって、王様がマネーを独占して国民に貧しい思いをさせたら、たちまち暴動が起きて権力の座から引きずり下ろされます。
民主主義というのは、国民本位の政治を執る(民本主義)ということが重要なので、誰が決めるかというのはそれほど重要ではないのです。

──と、ここまで書けば、霊界物語や神諭で、民主主義が否定的に扱われていることの謎が何となく見えて来ると思います。
太古の神代は国祖が主権を持ち、世界を統治していました。
それを、常世彦という悪神が、神々の賛同を集めて民主化を進めようとしました。(第4巻の常世会議)
ここで問題とされるのは、国祖の主権(最高決定権)を侵害したことです。
つまり民主主義と言っても、(1)の主権在民的な側面が否定的に扱われているのです。(2)の民本主義的な側面が否定されているわけではありません。
私たちは、選挙管理委員会やマスコミによって「投票には必ず行きましょう」と、まるで投票に行かない者は非国民かのように脳裏に植え付けられています。そのため「国民が多数決で決めるのが正義」という固定概念で見てしまうので、霊界物語で君主制が肯定的に扱われ民主制が否定的に扱われているのを見て「はあ??」と思ってしまうのです。
しかし決して民本主義が否定されているわけではありません。神代でも現代でも民本主義は政事の要諦です。国祖の神政も、民(神々)のためにあったことは言うまでもありません。
我欲を持った連中が我意を達成するための手段として民主主義(主権在民)が利用されているという、そういう側面が否定されているのです。

民衆を扇動し、多数決によって、世界を我が意のままに支配しようという連中は伊都能売神諭で「ガガアル(我が在る)の悪神」などと呼ばれています。
よく陰謀論で言われるフリーメーソンだとかイルミナティだとかロスチャイルドとかロックフェラーとかの類です。その真相は私の知るところではありませんが、まあともかく、そうやって世界を掻き乱している連中がいることは事実でしょう。
しかしそういう連中だけが悪いのではないというのが、大本神諭や伊都能売神諭、霊界物語の一貫とした主張です。そういう連中に扇動されている一般の人民もまた悪いのです。ですから、特定の集団のみを悪玉化して批難しているようでは、世界の改善は図れません。

そういう「体主霊従」の世に艮(とどめ)を差して、「霊主体従」の世界つまりミロクの世に立替立て直す時節が訪れたわけですが、では、そのミロクの世の統治システムはどうなるのでしょうか。果たして民主主義(国民が多数決で決める)が続くのでしょうか。それとも、国祖の復権というのですから、君主制(特定個人が決める)のようなものが復活するのでしょうか。

結論を言うと、どちらでもいいのだと思います。
どうしてかと言うと、「霊主体従」であれば、システムがどちらでも、結果は一緒になるからです。

次回に続く


このシリーズ

  1. 王仁三郎が選挙で当選 でも民主主義は・・・
  2. 天と地を真釣るのがマツリゴト
  3. 霊界物語で民主主義が否定される理由
  4. テクノロジーが民主主義を変える
  5. 惟神に決まるのがミロクの世の統治システム

天と地を真釣るのがマツリゴト

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年06月29日

前回からの続きです。

王仁三郎は民主主義について肯定的なことも否定的なことも述べています。
しかし王仁三郎でなくても、民主主義は「良いけど悪い」と思っている人はけっこう多いのではないでしょうか。
端的に言うと「みんなで決めたことが正しいとは限らないが、みんなで決める以外にみんなが納得の行く方法はない」というようなことだと思います。その代表例として「ヒトラーは民主主義で独裁者になった」ということが挙げられます。

民主主義は衆愚政治と揶揄されるように、人間は口の達者な奴に煽動されやすいです。それで「北朝鮮が核ミサイルを撃ってくる」と危機感を煽って憲法を改正しようとしたり、政権に対するネガティブキャンペーンを張って支持率を落とそうとしたり、与野党共に煽動合戦を繰り返すわけです。
こんなんではいつまでたっても猿の惑星のままです。

王仁三郎が民主主義について肯定的に語っている発言を一つ紹介します。

問 聖師様を友達のようにしては、いけませんね。
答 いやこの方が王仁は好きじゃ。神様は民主主義じゃからな。(昭和二十一年二月二日)
〔「神様は民主主義」『新月の光』〕

神様は民主主義って・・・神様は多数決で決めるの? ──いや、そういう意味で言っているのではないでしょう。

霊界物語ネットに座談会の記録がありますが、それを読めば分かるように、王仁三郎という人はけっこうフレンドリーな人です。しかしそれでも信者から見たら、「聖師様」とお呼びしているように、王仁三郎は生神様であり、おいそれと話しかけたり、ましてご意見申し上げたりすることは、畏れ多くて出来ないのです。
それで、「聖師様は生神様なんだから友達のように対等な立場で接してはいけませんね」という信者の質問に対して「いや、その方がエエよ。神様は民主主義だからなー」(意訳)と答えたわけです。

民主主義という言葉には、大きく2つの意味があります。
1つは「国民が多数決で決める」という意味です。それまでは一部の人間だけが主権を持ち政治を決めていたのです。王制とか貴族制とかいう奴です。
2つ目は「政治は国民のために行う」という意味です。つまり「民本主義」です。それまでは一部の特権階級のための政治であって、国民は支配者の奴隷であったのです。それを「人民の人民による人民のための政治」に変えたのが民主主義です。

王仁三郎が「神様は民主主義だ」と言っているのは、「神様は多数決だ」という意味ではなく、2つ目の「神様は民本主義だ」という意味だと思います。
「友達のようにしてはいけませんよね」「いや神様は多数決じゃからな」では意味が通じませんもんね。「神様は民本主義だから、民の声に耳を傾けるので、みんなワシに気楽に話しかけてエエよ」という意味で王仁三郎は言っているのだと思います。

この発言は昭和21年2月2日のものですが、この1ヶ月前の昭和21年元日に天皇がいわゆる「人間宣言」を発表しています。現人神が雲の上から地上に降りて来たのです。ひょっとしたら、それを受けてのこの発言だったのかも知れません。
人間宣言は、支配者が雲上にいて地上の人民を支配するような時代が終わったことを象徴しています。神が民と共に歩む時代に変わったのです。

まつりごと(祭・政)というのは、神と人とを真釣(まつ)り合わせることだと王仁三郎は説いています。

祭(マツリ)(マツル)という語は、「真釣り」「真釣る」の義である。「真釣る」とは、度衡(注・どこう…天秤の意か)の両端か、あい(注・間の意)に重量を懸けて平衡さする意義である。天上の儀と地上の儀とを相一致せしむるの作法が「マツル」(祭祀)である、「マツリゴト」(政道)である。祭祀政道の大義は、これ以外に決してあるべきではない。(略)

天上の儀を地上に「真釣る」のが祭祀である、政道である。現代は祭祀も政道も全くその根本を失って、一片の形式に流れ、権謀を以て政道の本義とさえ思うように至ったことは、何たる大なる誤りであろう。(略)

惟神(注・かんながら)の道というのは、天上地上の祭祀政道の、正しく行わるる有様をいうのである。神の示させ給うまにまに行いゆくのが、惟神の道である。惟神の道は祭祀政道の根本義である。現代の如き形式的祭祀、権謀術数的政道は、決して惟神の道でない。(略)
〔「国教樹立論(十一)」『出口王仁三郎全集 第一巻』〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121801c21

天(神)と地(人)を真釣り合わせるのが本来の政治のあるべき姿です。神は、民の声に耳を傾け、民のために政治を行うのは当然です。
しかし一部の人間だけが主権を持っていると、支配者のための政治になってしまうのがオチだったのです。それで主権を国民全てが持つようになったわけですが、結局は、自分が属する特定の集団のための政治を行おうという姿勢には変わりありません。労働者代表は労働者のために、農業代表は農民のために、地域代表はその地域のために、利益を誘導し、そのために権謀術数を駆使するというのが、民主主義の実態です。

結局、政治とは何であるのか、ということが分かっていないからでしょう。
あらゆる利害関係を真釣り合わせなきゃいけないのに、自分の利益だけ主張しているのが現今の政治家たちです。
彼らが「国民が」と言う場合、それは自分の支持者だけを指しています。自民党が言う「国民」とは自民党支持者のことだし、共産党が言う「国民」とは共産党支持者のことです。
しかし本当は、自民党も共産党も含めて「国民」なのです。
賛成派も反対派も含めた「国民」を、いかにして統治して行くか…という観点を持っている政治家は皆無だと言わざるを得ません。

それを考えると、王制の方がまだマシかも知れません。何故なら王族は、民を治めるのが家業だからです。生まれた時からその仕事を教えられ、一生その仕事を行い、子へ、孫へと継承されて行きます。その統治のノウハウがいわゆる帝王学です。民主主義における政治のノウハウとは、いかにして利益を獲得するか、です。それで政界は利権の奪い合いをする猿山と化すのです。
王制は世襲で代々統治を行うのですから、「国家百年の大計」ということも可能です。たかだか数年で交代する総理や大統領には、百年先のことを考えることなど出来ません。国家は行き当たりばったりで進むことになるのが民主主義です。
しかし王制でも、結局は、民のためではなく、王族のための政治になってしまうというオチだったので、主権在民となったわけです。

前回、王仁三郎が「二大政党などを樹てずに、一国一党で行く政治が望ましい」と述べていることを書きました。
これはつまりセクト主義(政党政治)をやめて一つになれ、ということです。
しかしそれでうまく行くとも思えません。結局、政治とは利益を獲得することだ、自分の要求を認めさせることだ、という態度で政治に臨んでいる以上は、徒党を組むのをやめても、一人一党のセクトと化すだけです。
セクトから離れ、自民党も共産党も含めたのが国民である、という観点を持つ必要があります。そうでない限り利権の奪い合いは続き、地球は猿の惑星から進化できません。

では、王制でもダメ、民主主義でもダメとなったら、いったい何ならいいのでしょうか?
ミロクの世の統治とは一体どのようなものでしょうか?

次回に続く


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  1. 王仁三郎が選挙で当選 でも民主主義は・・・
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王仁三郎が選挙で当選 でも民主主義は・・・

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年06月28日

都議選の投票日が近づいて来ましたが、実は王仁三郎も「議員」になったことがあります。
大正14年(1925年)5月11日に綾部町議にトップ当選しているのです。「綾部町労働者団の有志に推されて」出馬したとのこと。〔「国内宣教と造営」『大本七十年史 上』〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195401c4444

ところで現代では「民主主義」が世界の常識ですが、王仁三郎はこんなことを言っています。

 普通選挙は衆愚政治である。我が国の国体には合わない。普通選挙が行わるる間は、真の政治は行われない。
 理屈から言えば国民の思想を代表するものとなっているが、実際から言うと、寡頭政治と同じである。理想と実際とは違うものである。
 二大政党などを樹てずに、一国一党で行く政治が望ましい。
〔「普通選挙」『月鏡』〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg330

なかなか過激なことを言ってますね~~
言ってることを私なりにまとめると、

(1) 普通選挙(民主主義)は衆愚政治
(2) 代議制は寡頭政治と同じ
(3) 政党政治を廃止せよ

ということになると思います。

(1) 普通選挙(民主主義)は衆愚政治

「普通選挙は衆愚政治である。我が国の国体には合わない。普通選挙が行わるる間は、真の政治は行われない。」

この発言は昭和初期(おそらく昭和5年頃)の発言です。普通選挙が昭和3年から実施(ただし男子のみ)されたので、その普通選挙の話題の中で、この発言が出たのではないかと思います。
「誰でも彼でも選挙権があるー」と世間はお祭り騒ぎだったわけで、そんな中で、「そんなもんは衆愚政治だ」と揶揄したわけです。

普通選挙実施以前は、金持ちだけ(高額納税者)に選挙権がある「制限選挙」でした。
しかし王仁三郎の「普通選挙は衆愚政治である」という発言は、「貧乏人が政治に参加すると衆愚政治だが、金持ちだけなら衆愚政治にはならない」という意味ではないと思います。
明治初期なら庶民は文盲で新聞も読めない人が多かったので、選挙に参加させたらまさしく衆愚政治になったかも知れません。農民と士族とでは知識において雲泥の差がありました。しかし昭和初期なら(就学率がかなり高くなってきたので)金持ちと庶民の知識レベルの差はたいぶ小さかったと思いますよ。むしろ苦労を知らずに育った金持ちのボンボンだけの選挙の方が衆愚政治かも知れません。
ですから「普通選挙は衆愚政治だ」という発言は、要するに巷でよく言われるように「民主主義は衆愚政治だ」という意味ではないかと思います。

王仁三郎は民主主義に対して否定的な発言もあれば肯定的な発言もあります。「時代の過渡期には民主主義でも仕方がない」というようなかんじだと思います。
霊界物語を読むと、民主主義に染まった現代人にはなかなか理解不可能なことが書いてあります。
太古の神代は、「地の御先祖様」である国祖・国常立尊が地上神界の主宰神として世界を統治していました。
地方は、国祖が任命した八王神(やつおうじん)と呼ばれる神々が主権者となり治めていたのですが、常世彦(とこよひこ)という悪神は、この八王神制度を廃止して、世界の民主化を進めようとしました。(第4巻の「常世会議」)
つまり民主主義というのは、”悪神の仕組”という扱いになっているのです。

その後、常世彦に煽動された世界の神々が国祖追放を叫び出し、国祖はとうとう主宰神の地位を追放され、世界の艮の方角へ追いやられてしまいました。
この艮の金神(国祖)が再び表に現れて昔の神代に戻す(ミロクの世を建設する)時代がやって来た…ということを、明治25年に出口ナオに懸かって叫び出したわけです。

昔の神代に戻すというのですから、悪神の仕組である民主主義は、ミロクの世の統治体制ではない、とも解釈できます。

では、ポスト民主主義は何なのか?
それはまた次の機会に書くとして、とりあえず次に行きます。

(2) 代議制は寡頭政治と同じ

「理屈から言えば国民の思想を代表するものとなっているが、実際から言うと、寡頭政治と同じである。理想と実際とは違うものである。」

最近、高知県の大川村という過疎の村で村議のなり手がいないので村議会を廃止して「町村総会」を設置することを検討している、というニュースがありました。この町村総会というのは村民の直接民主制です。
有権者が350人くらいなので、みんなが集まって会議することも可能かも知れませんが、人数が多かったらそれは不可能です。
それで選挙で代議員を選ぶ間接民主制(代議制)となるわけです。

当時は「オレたちの代表者を選ぶんだ~」「庶民の声を国に届けるんだ~」と小躍りして喜んでいたのかも知れませんが、実際のところは一握りのボスによる「寡頭政治」(少人数による支配)になってしまう、と王仁三郎は喝破しているのです。

代表者を選ぶという作業は、セクト化する作業だと言っても過言ではありません。
多数決で決めるので、多くの票を獲得しなくてはならず、当選するためには「票を取りまとめる」ことが必要となります。
それがその候補者の後援会であり、政治団体・政党です。利益を共にする集団ですね。
議会制民主主義は、議員(国民の代表者)によって政治が運営されるのではなく、この政党という組織によって運営されることになる、というのが現実です。これがいわゆる政党政治です。
さらにもっと言えば、政党のボス同士の談合による「寡頭政治」だとも言えるのです。
今のように自民党が安定多数だと、野党を排除して与党だけで国政が運営できてしまいます。
安倍晋三首相の独裁とは言えませんが、与党(自民・公明)内の派閥のボスによる寡頭政治であることは間違いないと思います。

議会制民主主義は国民の代表者による政治、というのは形式だけで、実態は少人数による寡頭政治と化すわけです。今の現実の政治を見れば王仁三郎の言っていることが理解できると思います。

ではどうしたらいいのかというのも次の機会に書くとして、次に行きます。

(3) 政党政治を廃止せよ

「二大政党などを樹てずに、一国一党で行く政治が望ましい。」

ここで言う二大政党というのは、立憲政友会と立憲民政党のことだと思います。
昭和初期から、昭和15年に大政翼賛会が結成されるまで、この二つの政党が衆議院全議席の8~9割を占めていました。この二党のトップによる寡頭政治だったわけです。

「一国一党」というのは、セクト主義をやめろ、政党政治をやめろ、ということです。
しかし既存のすべての政党を実際に解散して一党にしてみたところで、その中でセクト争いをしているのでは、多党と同じです。実態は変わりません。ですから実際に一党にしろという意味では無くて、セクト化が前提の政党政治を止めろという意味だと思います。

国会外での政党活動はいいとしても、国会を政党の組織の論理で動かすので、寡頭政治になるのです。

今の国会の仕組みは、国会議員が群らがって5人以上のセクト(院内会派)を作らないと、十分な議員活動が出来ないようになっています。
たとえば本会議での代表質問権が得られないとか。
政党交付金が支給されないとか。
国会の仕組みが、セクトを作れ、という仕組みになっているのです。

セクト(党)を作ることにより、各国会議員は対等ではなく、ヒエラルキー化され、上下関係が作られて、そのトップによる談合政治になってしまうのです。党議拘束によって議員の自立性を認めずサラリーマン化しているのです。
それで社長(党首)同士による寡頭政治と化すわけです。

もちろん、議員は政党に所属しなくてもいいのですが、前述したように、それでは議員活動が不十分なものとなります。特にお金の問題は大きいです。政党交付金は総務省の資料を見ると、平成29年分の場合、最も多い自民党が約176億円、最も少ない社会民主党が約4億円になっています。
議員数で割ると、自民党議員は1人当たり約4257万円、社民党議員は1人当たり約9884万円貰っていることになります。
もちろん議員に分配されるのではなく、党のお金なんですが、自分のポッケから経費を落とさないので済むので、事実上、議員の収入と同じです。
国会議員としての正規の収入は、歳費(報酬)・経費等合わせて1人年間約4200万円なので、それと同額以上のお金を政党交付金として貰っているわけです。徒党を組まない一匹狼の議員は、このお金を貰えないのです。となると徒党を組んでお金をゲットするのが利口ということになります。こうやって国会議員を組織化し階級化しボスに逆らえないようにして、その結果、一握りのボスによる寡頭政治となるわけです。

そういうやり方を改めて、政党を解体し、一つに集まれと王仁三郎は言うのです。
政党政治を廃止することで、各議員の上下関係がなくなり、フラットな立場となって、真に国民の代表者として活動できるはずです!

──と、まあ、そんなふうにうまく行くでしょうかね???

次回に続く


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人類普遍の宗教とは

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年06月27日

(3) 普遍的な宗教原理の探究

前回からの続きです。

王仁三郎が言う「宗教の統一」とは、ある一つ宗教に全人類を改宗させることではありません。どこかの”救世主”に全人類を帰依させるようなことではないのです。
諸宗教に共通する法則なり普遍的な原理なりを見出して、宗教が進むべき大道を共に歩いて行こうということです。
端的に言えば、共通する部分で繋がって行こうということです。

神話や教義や祭礼など、表面だけ見れば宗教は千差万別ですが、しょせんは同じ人間から発生したものであり、人間によって営まれているのですから、共通するものがあるのは当然です。

自分と他人と違う部分を見て『それは違う』『間違っている』『オレが正しい』と互いに非難し合っているのでは、争いが絶えないはずです。
前回書いたように、現代は「自由宗教」が隆盛している時代です。各自が自分のオンリーワンのアイデンティティを探究し確立して行く時代では、自分と他人は「違う」ことが当たり前です。
違う部分を見て批判するのではなく、同じ部分を見て一致・共感して行くことが重要になります。

それが、前々回書いたように新生の大本である「愛善苑」の会則第一条となるのです、。

「天地ノ公道万教ノ根本義ヲ究明」する、つまり宇宙の真理とか諸宗教の根本原理を探究すること──それは人類普遍の宗教を樹立すると言ってもいいでしょう。

では、普遍の宗教とはどのようなものでしょうか。

たとえばそれは「人権」です。

王仁三郎は昭和23年(1948年)1月19日に昇天しましたが、その年の12月10日に国連総会で採択された「世界人権宣言」の第一条を引用してみましょう。

第一条
 すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/udhr/1b_001.html

人権宣言というのは一種の法律のようなものですが、実は信仰告白でもあります。「人間は生まれながらにして自由であり、平等であると信じます」という信仰告白なのです。

「生まれながらにして」というのは、社会(国家)が与える、ということではなく、神が与える、ということです。ただし法律なので「神」という言葉を使わずに、人間同士の合意文(契約書)というような形になっているだけです。本来的には人権宣言とは、「神様は人間を自由で平等な存在としてお創りになられた」という信仰告白なのです。「理性と良心とを授けられており」という文言にその名残がありますね。理性や良心は社会(国家)が授けたものではないことは明白です。では誰が授けたの? ──そう、神様です。

人間は「自由」で「平等」で「理性と良心を授けられている」なんていう、科学的な根拠があるのでしょうか?
もちろん、根拠などありません。
これは「そうでありたい」という願望であり、「そのように信じる」という信仰です。

この「人権」という宗教が世界中に広まったのは、それだけ普遍的な宗教だったからです。
要するに、誰もが信じることが出来る宗教だったのです。
人間は生まれつき不自由で不平等だと信じるよりも、みんな自由で平等だと信じた方が、みんながハッピーに生きていけるということを、私たちの魂が知っていたからです。
一部の宗教のように、国家権力と結託して信仰を強要していったわけではありません。

イスラム原理主義や中国共産党などは、このような人権思想を「欧米キリスト教思想の押しつけだ」とか言って忌避する傾向がありますが、それは支配者の利己的な都合でしょう。人はみな自由で平等ということになったら、支配者は既得利権を奪われますから都合が悪いです。

私は、先に示した人権宣言第一条が完全なものとは思いませんし、それがすべてだとも思いません。
普遍的な宗教とはどのようなものだ、という一例を示したまでです。

神話や教義に基づく宗教は、誰もが信じることが出来るわけではありません。
しかし人権のような宗教は、無神論者でも信じることが出来るのです。

このように、人類共通の普遍的な価値観を打ち出して行くことが、宗教の統一のみならず、「世界を統一する」ということです。
そういう内面的な作業を、王仁三郎は「精神的統一」とか「道義的統一」とか呼んでいたのです。「宗教の統一」というのも同じことです。
そういうことをまず先にやって、それから外形的な法制度を統一する作業をやるというのが、世界統一の正しい手順です。

ここで一つ注意したいことは、人権思想のような宗教を学校で子供たちに教えても、それは教義を頭にすり込ませるだけのことで、真の信仰は芽生えません。人権という知識だけ教えても「人は尊い」「生命は尊い」とか「人はみな生まれながらにして自由で平等だ」という信仰が生じることはありません。
信仰は知識ではなく、むしろ経験則です。まず神様に手を合わせて拝んでみろ、というわけです。

私は子供の頃、虫を大量虐殺してましたが、あの体験で『もう無駄な殺生はしたくない』という思いが生じました。
信仰を深めるにはそういう体験が必要です。
とはいえ、動物を虐待したり同級生を虐めたりしては困りますから、それに代わる何らかの教育が必要です。
よく、クラスでニワトリを飼って可愛がり成長したら絞めて殺して食べる、ということをやっている先生がいますが、そういう体験をしなければ、生命の尊さを実感することはなかなか出来ないでしょう。

人類共通の価値観を打ち出したとしても、それがただの教義になってしまっては意味がないのです。
各人がそれを探究し経験して行くことによって初めて、その価値観を共有することが出来るのです。

そういう点で、王仁三郎が愛善苑会則第一条で示した「天地ノ公道万教ノ根本義ヲ究明シ」の「究明シ」という文言は、とても意味深いものがあります。
王仁三郎が「これが真理だ」と言って明文化されたものを示してしまっては、それが教義となってしまいます。
そうではなく、「各自で究明(探究)しなさい」と教えたのです。

神の宗教統一の御経綸 その3つの局面

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年06月26日

王仁三郎が行った宗教統一の御神業には、次の3つの局面があるということを前回書きました。→宗教の統一、道義的・精神的な世界統一

(1) 業界団体の結成
(2) 教義・教理における融合
(3) 普遍的な宗教原理の探究

この3つの局面は王仁三郎の昇天後に着実に世界に現れて来ています。

(1) 業界団体の結成

宗教の業界団体や、超教派の共同活動というものは、王仁三郎以前からもあります。たとえば宗教家懇談会(明治38年結成)だとか日本宗教懇話会(大正13年結成)というものがありますが、既成の二教(神道、仏教)や三教(神道、仏教、キリスト教)によるもので、幕末から雨後の筍のように勃興している新興宗教は含まれておりません。新興宗教はいかがわしいものとして見られていたのでしょうね。ひょっとしたら『新興宗教勢力の拡大に危機感を抱いた既成宗教団体が手を組んだ…』というのが実態なのかも知れません。新興宗教も含めた業界団体は、当事者である王仁三郎が主導して結成された世界宗教連合会や万国信教愛善会(どちらも大正14年結成)が濫觴ではないかと思います。現代では日本宗教連盟という新興宗教も含めた業界団体があります。

また大戦後は、戦争への反省や米ソ冷戦への対応ということもあり、世界宗教者平和会議だとか、比叡山宗教サミットだとか、国際ならぬ「宗際」活動が活発化しています。2006年に日本で開催された世界宗教者平和会議第8回大会では約100ヶ国から2000人の宗教者が集まったというので、かなりグローバルですね。

しかしこういった団体・集会は、宗教業界のトップ同士による同業組合であり交流会です。国で言うなら国連であり、産業界で言うなら経団連のようなものです。もちろんそれは重要な活動ですが、もっと重要なのは一般信者です。
トップは社会的責任があるので『平和のためには仲良くやらなきゃいけないよな』と思ったとしても、一般信者は責任がないのでそんなふうには思いません。一度敵愾心が芽生えたら芽生えたままです。『ユダヤ人がイエス様を殺した』とか言い続けることになるのです。

そこで一般信者の意識を変えるには(2)が必要となります。
宗教の中味を変えるのです。

(2) 教義・教理における融合

要するに、宗教が持つ神話や教義を変えてしまおうということです。『ユダヤ人は神から選ばれた選民』だとか『イエスが救世主として現れて旧約(ユダヤ教)を廃して新約をもたらした』とか、そんな話を無くしてしまえばよいのです。『ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も仏教もみな、その時代、その地域に必要だったから、神が地上に下したのだ』ということにしてしまえば『な~んだ、そうだったのか』ということで、他の宗教に敵意を持つことも少なくなることでしょう。TPOに応じて教えが変化していただけなのです。
しかし現実には、宗教の神話や教義を変更することは出来ません。
そこで (A)解釈を変える あるいは (B)新しい宗教を作る という2つのアプローチが取られます。

(2-A)
宗教の教義は変えられないですが、解釈なら変えられます。
王仁三郎も大本神諭の解釈を変えて三五神諭を作ったということを以前に書きました。→「大本神諭はヘイトスピーチ?
排外的・国粋的な文言を書き換えてグローバル化したのです。

世界最大の宗教団体であるカトリック教会も、60年代に開かれた第二バチカン公会議という最高会議で、大きな解釈変更を行っています。それまでは「カトリック教会に所属していなければ救われない」と説いていたのを「異教徒であっても良心に従って生きているなら救われるかも知れない」というようなかんじに解釈を変えたのです。
さすがに「うちの宗教に入っていないと救われない」なんていう排他的な教えでは世界の平和を乱しかねません。

ところがこれは原理主義者から見ると「堕落」なのです。同性愛を許容しつつあるのも「堕落」です。それで『バチカンはイルミナティに支配されている!』みたいな陰謀論が出て来たりするわけです。
世間様に合わせようと思うと内輪から悪魔呼ばわりされ、といってトンガってしまうと世間様に悪魔呼ばわりされるのです。
どっちに転んでも悪魔呼ばわりされるのですから、いや~、宗教経営というのは本当に大変なものですね (^_^;

このように解釈を変えるやり方には限界があります。
そこで面倒臭いので既成宗教を飛び出して、新しい宗教が誕生するのです。

(2-B)
従来の宗教を包括的に説明できる思想が生まれ、新興宗教として広まって行きます。
ニューエイジだとかスピリチュアルとか言われている分野も同じです。あまり組織化されないというだけで、新興宗教の一種です。
組織化されないというのは、人間がそれだけ個性化している、ということです。大量生産の既製服なんか着たくない、オンリーワンの自分を確立したい、ということです。

日本では、平成に入ってから一気にその流れが加速化したように思います。今思うとオウム真理教が日本で最後の新興宗教だったと言っても過言ではありません。幕末から百数十年間、雨後の筍のように次々と新興宗教が生まれていたのに、21世紀の今ではピタリとそれが止まったのです。
しかし、組織化された新興宗教は生まれていませんが、その代わりに、いわゆる「スピリチュアル」とか呼ばれる分野はとても繁盛しています。日月神示は有名ですね。それまでは一部の大本マニアにしか知られていない骨董品扱いだった日月神示を、平成3年(1991年)に中矢伸一氏が本に書いたことで一気に有名になりました。日月神示の流行は、それが特定の宗教教団の教典ではない、ということが時代精神にマッチしたのだと思います。各自が勝手に解釈して良いのです。
それに対して大本神諭や霊界物語というのは、大本という特定の宗教の教典ですから、ちょっと手を出しにくいかも知れませんね。勝手にやっちゃっていいのかと、悩むわけですよ。(それを悩まなくていいように、聖書みたいに一般化された書物にして行きたいと私は努力しています)

このような、宗教の個性化の流れはすでに大正時代から少しずつ始まっていたようで、王仁三郎はそれを「自由宗教」と呼んでいます。

 社会の一般的傾向が、ようやく民衆的になりつつあるとともに、宗教的信仰もあながち寺院や教会に依頼せず、各自の精神にもっとも適合するところを求めて、その粗弱なる精霊の満足をはからんとするの趨勢となりつつある。
 宣伝使や僧侶の説くところを聴きつつ、おのれみずから神霊の世界を想像し、これを語りて、いわゆる自由宗教の殿堂を各自精神内に建設せんとする時代である。
 既成宗教の経典に何事が書いてあろうが、みずから認めて合理的とし、詩的とするところを読み、世界のいずこかに真の宗教を見いださんものとしている。…
〔「自由宗教を求むる近代人の傾向」『瑞祥新聞』大正14年5月12日〕

この自由宗教が現代に現れたのが、いわゆる「スピリチュアル」です。
これは「一人一派」の宗教なので、教義を臨機応変に変えることが出来ます。時代への適応度が高いです。
だからといって、他者(他教)への敵愾心が存在しないというわけではありません。
(1)は教団組織を融和して行こうということで、(2)は思想(教義)を融和して行こうということです。
しかしどちらもまだまだ宗教の表面的なことに過ぎません。
そこで(3)が必要となるのです。

(続く)