霊界物語のちょっと気になる言葉です。
三五教は無抵抗主義ですが、正当防衛は許されているようです。
しかし玄真坊(げんしんぼう)はその正当防衛を誤解して、師匠の照国別(てるくにわけ)に諫められます。
第72巻第5章「蛸船」より
(高砂丸の船中で、泥棒のコブライとコオロの二人に暴行されそうになり)
玄真坊「オイ、コブライ、コオロの両人、本真剣に俺を料理するつもりか、エー、それなら、それでこちらにも一つの覚悟がある。無抵抗主義の三五教に入信した俺だけど、正当防衛は許されてあるから、小泥棒の一匹や二匹ばらすくらい、何の手間ひま要るものか。サア見事相手になるならなってみよ』
と団栗眼(どんぐりまなこ)をむき出し、仁王立ちになって船底に四股を踏み鳴らしている。コオロ、コブライの両人は、
『何、猪口才(ちょこざい)な、売僧(まいす)坊主』
と言うより早く、一人は首っ玉に喰いつき、一人は足を引っ攫え、せまい船の中で転けつ輾(まろ)びつ一場の活劇を演じ出した。照国別はこの体(てい)を見るより、
『争いは枉津(まがつ)の神の仕業ぞや 静かなるこそ神の御心。
憎まれて憎み返すは枉神(まがかみ)の 醜(しこ)の業なり畏れつつしめ。
よき事と悪しき事柄行き交いて この世の中は開け行くなり』コオロ、コブライの二人はこの歌を聞くより、パット手を放せば、玄真坊は鼻汁をすすりながらヤットの事で起き上がり、
『有難し照国別の師の君の 生言霊(いくことたま)に命拾いぬ。
コブライやコオロの君に殴られて 罪消えなんと思えば嬉し』コオロ『わが命助け玉いし師の君の 厳言霊(いづことたま)に反くよしなし』
コブライ『憎い奴とは思えども宣伝使 待てとの声に力抜けたり』
照国別『争いの雲もようやく晴れ行きて 誠のかがみ照るぞ目出度き』
玄真坊は、そもそも闘争の想念を持っていました。
それがまずかったのではないでしょうか?
宣伝使が悪党に襲われ、霊縛で動けなくしてしまうシーンが霊界物語のあちこちに出て来ますが、それは自分の身を守るために悪党を動けなくしただけなので、正当防衛です。闘争の気持ちで「やるんだったらやってやるぜ」というのは正当防衛の範疇を超えて過剰防衛になってしまうのではないでしょうか?
法律では、人の心の中までは裁けず、防衛のためにどの程度暴力を振るったか、その暴力の程度で正当防衛か過剰防衛かを判断しますが、神を前にした場合には、人の心の中が問題とされるのです。
ところで、相手を動けなくしてしまうのは、究極の兵器かも知れません。破壊のためのあらゆる兵器を無力化してしまうのですから。
ご注意:全体の一部分を抜き書きしているだけですので、前後の文脈を知りたいときは原文を直接読んで下さい。また、意味は一つだけはありません。いろいろな角度から考えてみて下さい。