(この記事は2009年10月17日にブログ「霊界物語の新常識」に掲載した記事を加筆訂正したものです)
スサノオが導く三五教の教えの一つ「惟神(かむながら、かんながら)」とは「神様の御心のままに」というような意味ですが、もともとは神道で使われている言葉です。しかし神道系だけでなく、他の宗教でも同じような概念が見られます。
たとえばキリスト教では、聖書でイエス・キリストが次のように教えています。「山上の垂訓」の一部です。
だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。
命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。
だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。
あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
あなたがたのうち誰が、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡(つむ)ぎもしない。
しかし、言っておく。栄華を極めたソロモン(注・古代イスラエルの国王)でさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。(略)
だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩むな。(略)あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。(略)
だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。
〔新共同訳聖書 マタイ福音書第6章第25章~〕
思い悩まず、すべてを神に委ねて生きなさい──これは「惟神」そのものです。もちろんキリスト教では惟神という言葉は使いませんが、その精神はイエス・キリストがしっかり説いているのです。
また、仏教の中にも惟神の精神を見いだすことが出来ます。たとえば親鸞上人が説いた「自然法爾(じねんほうに)」です。これは親鸞が弟子に宛てた手紙の中で絶対他力の信仰を説明した言葉ですが、広辞苑には次のように書いてあります。
人為を加えず、一切の存在はおのずから真理にかなっていること。また、人為を捨てて仏に任せきること。親鸞の晩年の境地。
この説明では少々簡単すぎるので、もう少し詳しい解説を。
『絶望からの出発―親鸞・その人と教え』(1984年、鈴木出版・まいとりぃ選書)から引用してみます。
…親鸞八十六歳の時に書かれた書簡の中に、次のような言葉が見える。
「自然(じねん)」の「自」というのは「おのずから」ということで、行者が自分でああしよう、こうしようとしてなるということではないという意味です。「然」というのは「そのようにあらせる」ということです。「そのようにあらせる」というのは、行者自身のはからいではなく、如来の誓いによるものです。だから「法爾」というのです。「法爾」とは弥陀の誓いによる故に、おのずからそのようになっていくことをいうのです。…このように、自然法爾とは、仏にすべてをゆだね、だれもが自分からああしよう、こうしようとはしないことをいうのです。それはもはや、自力を超えた絶対他力の世界だから、「義なきを義とす」(意味や理由などない)とされるのであると、知らなければなりません。
自然(じねん)とは、今日いうような「自然(しぜん)に」という意味ではない。行者の側でああしよう、こうしようと考えなくても、ひとりでに弥陀の救済の手がさしのべられてくるということである。法爾とは、そうした弥陀のはたらきの背後に、衆生を救済しようとする弥陀の誓いがあることを意味している。そしてこの絶対他力の信仰は、自力のはからいを超えた世界であるから、もはや私たちの凡夫のせんさくの及ばないものとされているのである。
〔同書p151-152〕
自分の力で悟りを開く・救済を得るということが「自力」で、他の存在(神仏)の力で救いを得ることが「他力」です。
「神さま仏さまお願いします」と必死になって祈るのは、「他力」のようですが、実は「自力」でもあります。自分の意志・自分の力で祈っているです。しかしこの神仏に祈願しようという気持ちが生じたこと自体が神仏の御力によるものなのだ…ということに気が付いて初めて「絶対他力」ということが判って来ます。
自分の力なんて何もない、すべては神仏の広大無辺な力の中で生かされているのである…ということが惟神であり、そのことがキリスト教でも仏教でも説かれているのです。
神の心に自分の心を合わせること・真釣り合わすことが惟神であり、これは究極的には自力即他力、他力即自力となるわけです。
王仁三郎がつくった「大本教旨(おおもときょうし)」という文があります。
神は万物普遍の霊にして人は天地経綸(けいりん)の主体なり、神人合一して茲(ここ)に無限の権力を発揮す。
これは惟神を別の角度から説いたものであると思います。
神と人の一致和合──それが究極の惟神です。