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昭和18年旧元日・10万年に一度の皆既日蝕と「新月の光」の謎

Published / by 飯塚弘明
投稿:2015年12月06日

(この記事は2009年7月23日にオニドブログに掲載した記事を加筆訂正したものです)

昨日7月22日は皆既日蝕(日食)の日でした。あいにく天候が悪く、日本国内では観測できなかったところが多かったようです。こういうのはやっぱり動画サイトで見るのが一番ですね。

https://www.youtube.com/watch?v=6T4Gjk4uwoY(奄美大島から)
https://www.youtube.com/watch?v=w72jJGUGYLo(硫黄島から)
https://www.youtube.com/watch?v=dQLLsQJb5EA(中国・杭州の西湖から)

余談ですが75年前の昭和9年(1934)7月22日は昭和神聖会の発会式が軍人会館(現・九段会館)で挙行された日です。

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ところで王仁三郎は日蝕という現象について何か言っているでしょうか。
調べてみたら、昭和18年(1943)の旧元日(新暦2月5日)に次のように信者に語っていました。

元旦の(皆既)日蝕は十万年に一度である。天文学者は星の運行は判っているが神の意志が判らない。(昭和十八年旧正月元旦新二月五日西暦一九四三年)
〔木庭次守・編『新月の光(かけ)』下巻、八幡書店、P50「元旦の皆既日蝕」〕

ふう~ん。
ただ単に「元日に皆既日蝕が起きるのは10万年に1回しかない」と言っているだけですね。
しかしもう一歩踏み込んで調べてみると、すごいことがわかりました。

北海道大学情報基盤センター北館」のサイトに「日食情報データベース」があります。これを用いて、1943年2月5日を調べてみると……何と!
この日は日本で日蝕が起きた日だったのです。この日、日蝕が起きたから、王仁三郎は日蝕について語っていたのです。

京都地方の20世紀の日蝕一覧表です。7時半頃を中心に前後1時間ずつくらい日蝕が起きたことが分かります。

しかし、最大食分、つまり最大で欠けた率が0.818およそ8割ですから、皆既日蝕とは言えません。
さらに調べてみると、北海道で皆既日蝕になっていたことがわかりました。札幌地方の20世紀の日蝕一覧表をご覧ください。最大食分1.001ですから皆既日蝕です。
こちらのページの下の方にある地図を見ると、滝川~釧路のライン(最大食分1.010)を中心に、ほぼ北海道全域で皆既日蝕が起きたことが分かります。

旧元日に皆既日蝕が起きるのは10万年に1度だ、と王仁三郎は言っていますが、これが天文学的に果たして正しいのかどうかは不明です。
ちなみに21世紀に日本で見られる皆既日食は、2009年7月22日の他に、2035年9月2日(旧8月1日)、2063年8月24日(閏7月1日)があるそうです。

ところで旧元日というのは旧1月1日で、月がまったく見えない朔日(さくじつ、新月)ですが、昨日も朔日(旧6月1日)でした。
実は日蝕は朔日にしか起きないのです。月の背後に太陽があるわけですから、月に太陽が当たらない新月なのです。

よく分からない方は、こちらのページを見て勉強して下さい。
国立科学博物館 日食・月食はなぜ起こるのですか?

新月と言えば先ほどの引用元にも出てきた『新月の光(かけ)』が思い浮かびます。

編者の木庭次守(こば・つぎもり)さんはすでに故人ですが、王仁三郎をのぞけば霊界物語を一番たくさん読んだ人だと思います。第二次事件のときには王仁三郎に命じられて裁判資料を作るために霊界物語を熟読し、その後研修資料もたくさん作っています。

その木庭さんが編纂した王仁三郎の如是我聞集『新月の光(かけ)』は、どうしてこういう題名なのか、前から疑問に思っていました。
新月というのは基本的に見ることはできません。何故なら太陽と同じ方向に月があるので──つまり明るい昼間に月が出ているので、見ることができないのです。三日月や半月なら明るいときでもぼんやりと見えることがありますが、新月はまず無理です。新月は太陽のちょこっと横に出ているので、見ることができません。

では「新月の光」とは何か? 「満月の光」なら分かりますが、新月は光っていないのです。さっぱり意味不明です。

調べてみると、もともとは「新月の影」という題名でした。昭和30年(1955年)に「新月の影」という題名で出版し、その後昭和63年(1988年)に日本タニハ文化研究所(代表は木庭さんです)から出版しています。そのときに題名を「新月の光(かけ)」に改めています。そして平成14年(2002年)に八幡書店から上下2分冊にして、やはり「新月の光」という題で出版しています。(「かけ」とは「かげ」だけでなく、「片」「かけら」という意味も含めているのではないかと思います)

この「新月の影」というのは、「聖師の未決出所后の御染筆の中から頂戴致しました」と昭和30年版の「編者のことば」に記されています。私は見たことがありませんが、「新月の影」と染筆した王仁三郎の書画がどこかにあるのだと思います。
あるいは「新月のかけ」と染筆したのかも知れません(本の巻頭口絵写真に掲載されている『新月のかけ』の原本は「新月のかけ」と題名が書かれているので王仁三郎は「新月のかけ」と染筆し木庭さんが「影」とか「光」と漢字を当てはめた可能性もあります)が、確認できませんので、とりあえず「新月の影」と染筆したものとして考えます。

さて、「影」と「光」とでは意味が真逆です。
ですが実は「影」には「光」という意味があります。
たとえば「星影」とか「月影」と言えば、星や月の光のことです。おそらく「かがやく」というような意味で古来日本人は「かげ」という言葉を使ってきたのではないでしょうか?
おそらく王仁三郎は「陰」ではなく「光」という古典的な意味として「新月の影」と染筆したのではないのかと思います。

ですから「新月の影」を「新月の光」と言い換えても意味は同じだと思うのですが、「新月は光っていないのに、なぜ『光』なのか?」という疑問は解消されません。

それが、皆既日食の動画を見たときに、その謎が解けたような気がしました。

月によって太陽が覆い隠され、真っ暗になる。
そして暗闇が終わって再び太陽が姿を現わしたその瞬間に、ピカッと大きく光る──ダイヤモンドリングです。

あの神秘的なダイヤモンドリングこそ、「新月の光」と呼ぶのに、ふさわしくありませんか?

前掲の動画の一番下の動画の7:00あたりからダイヤモンドリングが始まります。
まだ見ていない方はぜひ見て下さい。

天照大神が天の岩戸から出てきて地球が甦る、復活の瞬間です。

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そして別な見方もできます。「新月の影」を「光」ではなく「陰」と解釈した場合、太陽を覆い隠す、あの真っ暗な月こそが「新月の影」だという解釈です。
この新月の影は、日蝕のときにしか見ることができません。

たとえ目に見えなくても、月はいつでも活動しています。
王仁三郎が「神示の宇宙」で説く、神から見た宇宙の姿は、地球も太陽も星も動かず、ただ月だけが動いています。

月が我々の眼に見えるのは、第一図の上線を月が運行している場合で、下線を通過している時は全然我々には見えない。月が上線を運行する時は、月読命の活動であり、下線を運行する時は素盞嗚尊の活動である。
霊界物語第4巻第47章「神示の宇宙 その二」

この「我々には見えない」というのがまさに新月のときではないでしょうか? それが素盞嗚尊の活動だというのです。

太陽を覆い隠し、再び岩戸から出すという、宇宙の死と再生の儀式──立替え立直しを司るスサノオこそが宇宙の中心たる主神であるというのです。
その目に見えない月が見えるのが、この日蝕のときなのです。「光」ではなく「影」という形で。

これはとても意味深なことであると思います。

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ところで「天文学者は星の運行は判っているが神の意志が判らない」と王仁三郎は言っていますが、ではその神の意志とは何でしょうか?

実はこの日は大本神業上、極めて重要な日なのです。

「昭和18年1月1日」と聞いてピンときた方はオニサブラー検定試験「初段」に認定します。黒帯です。(帯は自分で買って下さい)

この日を理解するには、王仁三郎の次の歌を知る必要があります。

昭和歴十八年の元旦は五十年しゆんひの充てる日にそある  瑞月
御経綸三千年に充ちぬるは明治の二十四年なりけり  瑞月
昭和十八未のとしより三千年のいよいよしくみの幕はあかれり  瑞月
三千年と五十年にてきりかヘの準備全く出来上りける  瑞月
三千世界一度にひらくしらうめの花咲きみちてみのるとき来ぬ  瑞月

この歌は『百千花』(ももちばな)という歌集に書いてあります。『新月の光』にも転載してあります。下巻のP128です。

「しゆんひ」は「準備」、「三千年」は「みちとせ」、「しらうめ」は「白梅」です。

国祖御隠退から3000年にわたって仕組んできた御経綸が明治24年(1891年)にて終了し、翌明治25年(1892年)旧元日から、出口ナオに艮の金神(国祖・国常立尊)が懸かって神政復古の雄叫びを始めた。それから、準備の期間50年が経ち、いよいよ昭和18年旧元日から神政成就の幕が開いたというのです。

この50年間のことを「地の準備神業」と呼びます。

これは大本神諭にも出てきます。明治33年旧4月7日に降りた神示です。(『神霊界』大正9年1月号p6)
「艮の金神は此の世を始めた神なれど、余り我が強ふて丑寅へ三千年と五十年押込められて居りて、蔭から構ふて居りたが」云々

この地の準備神業50年が開けた昭和18年(1943年)元日は、ある意味では「ミロク元年」とも呼べる、重要な日なのです。
10万年に1度の皆既日蝕の「神の意志」とは、このことを指しているのだと思います。
ミロク紀元でいうと今年(2009年)はミロク67年になり、アセンションの年(2012年)は70年になります。
これからどのように神の仕組が開いて行くのでしょうか。とても楽しみです。