王仁三郎の伝記を読むと「責付(せきふ)出獄」という言葉が出て来ます。
「大正十年六月十七日、責付出獄の処置により百二十六日間の監獄生活に別れをつげて、王仁三郎がひょっこりと世間に姿をあらわした」(『巨人出口王仁三郎』p162)
この「責付」というのは、現在の法制度にはありません。
ですので現代人が分かりやすいように「仮釈放」とか「仮出獄(仮出所)」という説明がなされたり、あるいは言い換えられたりすることもあります。
しかし「責付出獄」と「仮出獄」は全く異なる概念です。
責付とは、
「旧刑事訴訟法で、裁判所が被告人を親族などに預け、勾留(こうりゅう)の執行を停止した制度。現行刑事訴訟法の親族・保護団体などへの委託による勾留の執行停止に相当する。」(デジタル大辞泉)
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旧・刑事訴訟法第118条
裁判所は検事の意見を聴き決定を以て勾留せられたる被告人を親族其の他の者に責付し又は被告人の住居を制限して勾留の執行を停止することを得
責付を為すには被告人の親族其の他の者より何時にても召喚に応じ被告人を出頭せしむべき旨の書面を差出させむべし
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1459294/42
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裁判中(あるいは裁判前)で刑が確定していない人を牢屋に入れておくのが「勾留」で、それを停止して解放するのが「責付出獄」です。「家族の責任で逃げないように見張っておいてちょうだいね」という制度なわけです。
ですから、
「京都府以外に旅行するときは、かならず当局の許可をえなければならなかった」(『大本七十年史 上』p722)
という状態でした。
ところが王仁三郎はそれを無視して、大正13年2月、勝手にモンゴルに行ってしまったのです。
そのため責付が取り消され、7月に帰国してから再び入牢することになります。
一方、「仮釈放」とか「仮出獄(仮出所)」というのは、刑が確定して刑務所に居る囚人が対象となる制度です。
矯正したと思われる囚人を期間満了前に解放して外に出すのです。
刑務所から仮釈放されることが「仮出獄(仮出所)」、少年院から仮釈放されることは「仮退院」ということになります。
王仁三郎は裁判中で、刑が確定していませんので、「仮釈放」とか「仮出獄」と表現することは不適当です。
「責付出獄」を現代人に理解しやすいように言うとしたら「勾留が停止となり出獄した」とでも言えばいいでしょうか。
実は私も今まで「責付出獄」を安易に「仮釈放」とか「仮出獄」等と書いてしまったことがありました。ここにお詫びして訂正させていただきます。
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さて、責付が停止となり再び収監された王仁三郎は、11月に再び外に出されます。今度は「責付出獄」ではなく「保釈」という言葉が使われています。
「一一月一日保釈の決定にもとづいて、王仁三郎は九八日間の獄中生活にわかれをつげ、午後一時一一分に北区刑務所若松分監の門をでた」(『大本七十年史 上』p758)
史料に詳しいことが書いていないので、なぜ「責付出獄」ではなく「保釈」なのかはよく分かりません。「保釈」も、勾留されている被告人の拘束を解く制度ですので「責付出獄」と似たようなものですが、いちおう法律上は両者は別個の制度になっています。
保釈には保釈金が必要です。推測ですが、家族が王仁三郎の行動を制限させるのは不可能だと裁判官が判断し、保釈金を積むなら保釈してもいいよということになったのではないでしょうか。金を積ませておけば王仁三郎は逃げないと裁判官は思ったのかも知れません。王仁三郎もずいぶんなめられたものです。(^_^;
ところで第二次大本事件のときは、昭和10年12月8日に投獄され、昭和17年8月7日に出獄しています。このときも「責付出獄」ではなく「保釈」です。
7月31日に第二審判決が出され、王仁三郎は不敬罪で懲役5年の刑が言い渡されました。
もともと治安維持法違反と不敬罪で起訴されて、求刑は無期懲役です。第一審では求刑通り無期懲役が言い渡されましたが、第二審では治安維持法は無罪となりました。
被告も検察も共に上告し、裁判は継続することになりましたが、被告側の保釈請求を裁判官は認めて釈放されたのです。
二審判決が出た時点で王仁三郎は約6年8ヶ月収監されており、この期間(未決勾留日数)は刑期と相殺されるので、刑が確定したら即釈放される状態です。だから釈放が認められたのでしょう。このとき払った保釈金は500円と史料に記されています。(『大本七十年史 下』p618)
当時の大卒銀行員の初任給が70~75円、煙草のゴールデンバットが1箱10銭でしたので、
http://www8.plala.or.jp/shinozaki/s17.pdf
500円というのは現在の100~200万円くらいの価値になるでしょうか。
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以上、「責付出獄」と「仮釈放(仮出獄)」「保釈」の区別を書いてきました。
しかし私は法律の専門家ではありませんので、もし間違いがあったらご指摘いただくと助かります。メール宛先:oni_do@ybb.ne.jp(飯塚弘明)
王仁三郎は監獄の中にいましたが、刑が確定して「刑務所」に入ったことは一度もありません。被疑者や被告人を一時的に入れておく「拘置所」に入っていました。
王仁三郎は獄中に囚われていましたが、しかし法律上は刑事被告人であり、囚人になったことはありません。ですから「仮釈放」(囚人を刑期満了前に釈放すること)はあり得ないのです。
しかしまあ、いずれにせよ当事者にとっては「塀の中か、外か」の違いしかないかも知れませんね。
●第一次大本事件
大正10年(1921年)2月12日 第一次大本事件、投獄
大正10年(1921年)6月17日 責付出獄(獄中生活 126日間)
大正10年(1921年)10月5日 一審判決(懲役5年)
大正13年(1924年)2月13日 モンゴルへ出発
大正13年(1924年)6月21日 パインタラの法難
大正13年(1924年)7月18日 責付取消し
大正13年(1924年)7月21日 二審判決(懲役5年)
大正13年(1924年)7月25日 帰国、門司に到着
大正13年(1924年)7月28日 再び投獄
大正13年(1924年)11月1日 保釈(獄中生活 98日間)
昭和2年(1927年)5月17日 大赦令により「赦免」され免訴
http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rs02-11.htm
大赦令(昭和2年勅令第11号)
第一条 昭和元年十二月二十五日前左ニ掲グル罪ヲ犯シタル者ハ之ヲ赦免ス
一 刑法第七十四条及第七十六条ノ罪 (これが不敬罪)
十五 新聞紙法違反ノ罪但シ風俗ニ関スルモノヲ除ク
●第二次大本事件
昭和10年(1935年)12月8日 第二次大本事件、投獄
昭和15年(1940年)2月29日 一審判決(無期懲役)
昭和17年(1942年)7月31日 二審判決(懲役5年)
昭和17年(1942年)8月7日 保釈(獄中生活 6年8ヶ月)
昭和20年(1945年)9月8日 三審判決(上告棄却、懲役5年が確定)
昭和20年(1945年)10月17日 大赦令により「赦免」
http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rs20-579.htm
大赦令(昭和20年勅令第579号)
第一条 昭和二十年九月二日前左ニ掲グル罪ヲ犯シタル者ハ之ヲ赦免ス
一 刑法第七十四条及第七十六条ノ罪 (これが不敬罪)
注・王仁三郎は第74条(天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ對シ不敬ノ行為アリタル者ハ三月以上五年以下ノ懲役ニ處ス)で懲役5年が確定したが「赦免」されて罪が消滅した。