月別アーカイブ: 2015年11月

武志の宮はどこ?

Published / by 飯塚弘明
投稿:2015年11月30日

霊界物語第20巻の第1篇の題名は「宇都山郷(うづやまごう)」、第1章の題名は「武志の宮(たけしのみや)」といいます。
三五教の新米宣伝使・天の真浦(あめのまうら)が、錦の宮の教主・言依別命(ことよりわけのみこと)から「人の尾峠を越えて、宇都の郷(宇都山郷)に初宣伝を試みよ」と命じられ、大雪の中ただ一人、降り積もった雪を踏み分けて歩いて行きます。

この宇都(うづ)というのはリアルワールドでは、京都市右京区京北下宇津町の辺りになるようです。
ここは明治7年(1874年)に2つの村が合併して北桑田郡「下宇津村」が誕生し、明治22年(1889年)には複数の村が合併して「宇津村」となり、昭和30年(1955年)にはさらに合併して「京北町」となり、平成17年(2005年)には京都市に編入されています。
北桑田郡 – Wikipedia

地図だとこの辺りになります。
Googleマップ
国土地理院地図

ここから日吉町(地図の左の方)に抜ける峠道がありますが、そこに「人の尾峠」があります。Googleマップには表示されてありませんが、国土地理院地図には表示されてあります。

日吉からずっ~と左上(北西)の方に綾部がありますが、天の真浦は綾の聖地(綾部)の錦の宮を出発し、人の尾峠を越えて宇都の郷までやって来ました。

ここの「武志の宮」という社の宮司・松鷹彦と出会っていろいろなエピソードが展開されます。そのエピソードの一つを拙著『超訳 霊界物語2 出口王仁三郎の[身魂磨き]実践書 ~ 一人旅するスサノオの宣伝使たち』で紹介しました。(p116~「不言実行──天の真浦の場合」)
この武志の宮という社は、京都府京都市右京区京北下宇津町庄ノ谷62にある八幡神社に相応するらしいです。
地図の中心点にある神社です。(Googleマップの方に神社名が表示されてます)

武志の宮は宇都の郷の「浮木の里(うききのさと)」にあると霊界物語に書いてありますが、神社の西の方に「上浮井」「下浮井」という地名が見えます。「下宇津村」はもともと「浮井村」と「粟生谷村」が明治7年に合併して誕生しましたが、その「浮井」が「浮木」の里のようです。

こんなふうに霊界物語の地名をリアルワールドの地名と照らし合わせてみると、親近感が深まりますね。
いつか武志の宮を参拝してみたいと思います。

【参考文献】
『みろくのよ』2013年12月号p29~32

責付出獄とは?

Published / by 飯塚弘明
投稿:2015年11月27日

王仁三郎の伝記を読むと「責付(せきふ)出獄」という言葉が出て来ます。
「大正十年六月十七日、責付出獄の処置により百二十六日間の監獄生活に別れをつげて、王仁三郎がひょっこりと世間に姿をあらわした」(『巨人出口王仁三郎』p162)

この「責付」というのは、現在の法制度にはありません。
ですので現代人が分かりやすいように「仮釈放」とか「仮出獄(仮出所)」という説明がなされたり、あるいは言い換えられたりすることもあります。
しかし「責付出獄」と「仮出獄」は全く異なる概念です。

責付とは、
「旧刑事訴訟法で、裁判所が被告人を親族などに預け、勾留(こうりゅう)の執行を停止した制度。現行刑事訴訟法の親族・保護団体などへの委託による勾留の執行停止に相当する。」(デジタル大辞泉)

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旧・刑事訴訟法第118条
裁判所は検事の意見を聴き決定を以て勾留せられたる被告人を親族其の他の者に責付し又は被告人の住居を制限して勾留の執行を停止することを得
責付を為すには被告人の親族其の他の者より何時にても召喚に応じ被告人を出頭せしむべき旨の書面を差出させむべし
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1459294/42
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裁判中(あるいは裁判前)で刑が確定していない人を牢屋に入れておくのが「勾留」で、それを停止して解放するのが「責付出獄」です。「家族の責任で逃げないように見張っておいてちょうだいね」という制度なわけです。
ですから、
「京都府以外に旅行するときは、かならず当局の許可をえなければならなかった」(『大本七十年史 上』p722)
という状態でした。
ところが王仁三郎はそれを無視して、大正13年2月、勝手にモンゴルに行ってしまったのです。
そのため責付が取り消され、7月に帰国してから再び入牢することになります。

一方、「仮釈放」とか「仮出獄(仮出所)」というのは、刑が確定して刑務所に居る囚人が対象となる制度です。
矯正したと思われる囚人を期間満了前に解放して外に出すのです。
刑務所から仮釈放されることが「仮出獄(仮出所)」、少年院から仮釈放されることは「仮退院」ということになります。
王仁三郎は裁判中で、刑が確定していませんので、「仮釈放」とか「仮出獄」と表現することは不適当です。
「責付出獄」を現代人に理解しやすいように言うとしたら「勾留が停止となり出獄した」とでも言えばいいでしょうか。

実は私も今まで「責付出獄」を安易に「仮釈放」とか「仮出獄」等と書いてしまったことがありました。ここにお詫びして訂正させていただきます。

○   ○   ○

さて、責付が停止となり再び収監された王仁三郎は、11月に再び外に出されます。今度は「責付出獄」ではなく「保釈」という言葉が使われています。
「一一月一日保釈の決定にもとづいて、王仁三郎は九八日間の獄中生活にわかれをつげ、午後一時一一分に北区刑務所若松分監の門をでた」(『大本七十年史 上』p758)

史料に詳しいことが書いていないので、なぜ「責付出獄」ではなく「保釈」なのかはよく分かりません。「保釈」も、勾留されている被告人の拘束を解く制度ですので「責付出獄」と似たようなものですが、いちおう法律上は両者は別個の制度になっています。
保釈には保釈金が必要です。推測ですが、家族が王仁三郎の行動を制限させるのは不可能だと裁判官が判断し、保釈金を積むなら保釈してもいいよということになったのではないでしょうか。金を積ませておけば王仁三郎は逃げないと裁判官は思ったのかも知れません。王仁三郎もずいぶんなめられたものです。(^_^;

ところで第二次大本事件のときは、昭和10年12月8日に投獄され、昭和17年8月7日に出獄しています。このときも「責付出獄」ではなく「保釈」です。
7月31日に第二審判決が出され、王仁三郎は不敬罪で懲役5年の刑が言い渡されました。
もともと治安維持法違反と不敬罪で起訴されて、求刑は無期懲役です。第一審では求刑通り無期懲役が言い渡されましたが、第二審では治安維持法は無罪となりました。
被告も検察も共に上告し、裁判は継続することになりましたが、被告側の保釈請求を裁判官は認めて釈放されたのです。

二審判決が出た時点で王仁三郎は約6年8ヶ月収監されており、この期間(未決勾留日数)は刑期と相殺されるので、刑が確定したら即釈放される状態です。だから釈放が認められたのでしょう。このとき払った保釈金は500円と史料に記されています。(『大本七十年史 下』p618)
当時の大卒銀行員の初任給が70~75円、煙草のゴールデンバットが1箱10銭でしたので、
http://www8.plala.or.jp/shinozaki/s17.pdf
500円というのは現在の100~200万円くらいの価値になるでしょうか。

○   ○   ○

以上、「責付出獄」と「仮釈放(仮出獄)」「保釈」の区別を書いてきました。
しかし私は法律の専門家ではありませんので、もし間違いがあったらご指摘いただくと助かります。メール宛先:oni_do@ybb.ne.jp(飯塚弘明)

王仁三郎は監獄の中にいましたが、刑が確定して「刑務所」に入ったことは一度もありません。被疑者や被告人を一時的に入れておく「拘置所」に入っていました。
王仁三郎は獄中に囚われていましたが、しかし法律上は刑事被告人であり、囚人になったことはありません。ですから「仮釈放」(囚人を刑期満了前に釈放すること)はあり得ないのです。

しかしまあ、いずれにせよ当事者にとっては「塀の中か、外か」の違いしかないかも知れませんね。



●第一次大本事件

大正10年(1921年)2月12日 第一次大本事件、投獄
大正10年(1921年)6月17日 責付出獄(獄中生活 126日間)
大正10年(1921年)10月5日 一審判決(懲役5年)
大正13年(1924年)2月13日 モンゴルへ出発
大正13年(1924年)6月21日 パインタラの法難
大正13年(1924年)7月18日 責付取消し
大正13年(1924年)7月21日 二審判決(懲役5年)
大正13年(1924年)7月25日 帰国、門司に到着
大正13年(1924年)7月28日 再び投獄
大正13年(1924年)11月1日 保釈(獄中生活 98日間)
昭和2年(1927年)5月17日 大赦令により「赦免」され免訴

http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rs02-11.htm
大赦令(昭和2年勅令第11号)
第一条 昭和元年十二月二十五日前左ニ掲グル罪ヲ犯シタル者ハ之ヲ赦免ス
一 刑法第七十四条及第七十六条ノ罪  (これが不敬罪)
十五 新聞紙法違反ノ罪但シ風俗ニ関スルモノヲ除ク

●第二次大本事件

昭和10年(1935年)12月8日 第二次大本事件、投獄
昭和15年(1940年)2月29日 一審判決(無期懲役)
昭和17年(1942年)7月31日 二審判決(懲役5年)
昭和17年(1942年)8月7日 保釈(獄中生活 6年8ヶ月)
昭和20年(1945年)9月8日 三審判決(上告棄却、懲役5年が確定)
昭和20年(1945年)10月17日 大赦令により「赦免」

http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rs20-579.htm
大赦令(昭和20年勅令第579号)
第一条 昭和二十年九月二日前左ニ掲グル罪ヲ犯シタル者ハ之ヲ赦免ス
一 刑法第七十四条及第七十六条ノ罪  (これが不敬罪)
注・王仁三郎は第74条(天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ對シ不敬ノ行為アリタル者ハ三月以上五年以下ノ懲役ニ處ス)で懲役5年が確定したが「赦免」されて罪が消滅した。

膿をすする

Published / by 飯塚弘明
投稿:2015年11月26日

霊界物語に「膿をすする」シーンが何回か出てきます。体が皮膚の病気で全身醜く化膿して膿汁が垂れている人が、旅をする宣伝使の前に現われるのです。
病気の人が宣伝使に「膿をすすってくれれば治る」と頼むと、宣伝使は快くすすってやり、すると病人が本当の姿──女神(木花姫命)となって現われます。実は宣伝使の身魂磨きのレベルを調べるための神の試しだったのです。

この場面には「癩病」(ハンセン病)とか「天刑病」という表現も出てきます。ハンセン病患者の人たちは、まさに天刑病と呼ばれて社会から差別され非人道的な対応をされてきたという歴史がありますので、そのことを十分注意した上で読まねばなりません。

さて、この場面は

(1)文字通り、病気等で外見の醜い人

と受け取れると同時に、

(2)心が醜い人の抽象的な表現

と受け取ることも出来ます。
いずれにせよ、ふつうはなかなか接したくない人であると思います。
都会の駅前でホームレスが寝ていたらなるべく離れて通るでしょうし、人の悪口や罵詈雑言ばかり発するような人とは友達になりたくないでしょう。
しかし人類愛善の精神を発揚させるならば、進んで接したくなるのだということが霊界物語で示されているのだと思います。

外見にせよ、内面にせよ、汚く醜い人には近づきたいくないというのは、自分を守るための生物としての本能だと言えるかも知れません。
しかしそれでは人間は獣と変わりがありません。
人間は動物であると同時に、神の子神の宮であり、神の霊が止(とど)まる「霊止」(ひと)であります。神人和合した霊止になるためには、嫌なこと・汚いものから避けて通ってはいけないのであります。

この世界には本来、不要なものは存在しません。自分の前に汚い・嫌だと思うことが現われたのならば、それは神様からのありがたい試練であると受けとめると、人生の質がより良く向上することでしょう。
美しくきれいなものだけが神なのではありません。大地の金神・金勝要神さまが「大便所の神」(かわやのかみ)と呼ばれているように、また救世主神・スサノオの神さまが世界中の罪・穢れを背負って高天原から追放されたように、汚く醜いところにも神はいるのであります。
それを人間が勝手に立て別けて、美しくきれいなものだけが必要なもので、汚く醜いものは不要なものと、差別をしているのであります。

さて、私が調べたところでは、霊界物語に「膿をすする」シーンが次の3ヵ所出てきます。
それぞれ若干、意味するものが違うようにも思います。
ご自身で読み較べてみて下さい。

(1)竜宮島で、初稚姫が。
第24巻第16章「慈愛の涙」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm2416
※この章は『超訳 霊界物語2 出口王仁三郎の[身魂磨き]実践書 ~ 一人旅するスサノオの宣伝使たち』p85で紹介しました。

(2)高砂島で、高姫が。
第29巻第13章「愛流川」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm2913

(3)天国で、治国別と竜公が。
第47巻第14章「天開の花」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm4714

日本神戸道院の設立

Published / by 飯塚弘明
投稿:2015年11月24日

中国史学者の酒井忠夫氏の著書からの引用です。

酒井忠夫「近現代中国における宗教結社の研究」『酒井忠夫著作集6』2002年3月、国書刊行会、P214-219

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(四)日本神戸道院の設立
 道院創始以来二三年間は中国各省県に推行するのみで、海外には出なかった。海外設院は神戸道院の設立より始る。その発端は大正十二年(民国十二年)九月一日の関東大震災の時、道院紅卍字会は乩訓を奉じて救難に当ったが、その帰途素爽(済南道院の道監侯延爽)と円誠が神戸に寄って布道した。在神戸の総副領事及び華商会会長等の紹介により、六七名のものが求修した。これが東瀛(日本)佈化(布教)の始である。円誠が帰国し、素爽一人が日本に留った。素爽は南京出発の時、在南京日本領事館の林出賢次郎領事(後、入修し、道名尋賢)より大本教への紹介状を貰って来たので、彼は京都府綾部に赴き教主出口王仁三郎(後道名を尋仁とす)と会い、共に道旨を談じ、大いに共鳴し、素爽は自ら神戸道院の創設を任とし、神戸市外六甲山麓にある大本教信者片岡春弘の別邸を院址とした。かくて一時に求修するもの百数十人に上った。次いで王仁三郎はその弟子北村隆光(道名尋宗)を代表として派遣し、素爽と共に京・津・済(南)に到らしめ、乩判を奉じて位経(老祖の神位と太乙経)の日本への東渡を請い、許可された。神戸道院創立に当っては、道院(中国)側は、慧済を神戸道院統掌暫定代理、円誠を院監代理、華和を院監兼宣掌、素爽を坐掌として派遣した。その上で、尋仁(出口王仁三郎)を責任統掌として派遣した。尋宗(北村隆光)は再び中国に赴き、太乙真経の束渡を請願した。素爽・華和らは、尋宗とともに神戸に行き、慧琴(俗名・賀某)を纂正とし、尋宗をその助とした。こうして大正十三年三月六日を期して神戸道院を開くに至った。この開院式当日は、各界の参観者百余名、求修者三百余名という盛況であったと『道慈綱要大道篇』にある。右の日本に於ける道院の設置は、大本教と道院という二つの宗教結社が相互に利用し合った形であって、この両者が相依関係に立ったということは、両者の教旨の内容が類似していた為であろうと考えられる。教旨の類型的な二教団が、一は中国の宗教結社の民国初期十年代の政・社・文化の変革期に対応可能の道院紅卍字会であるに対し、他は日本の邪教として禁断せられるに至った所以は、第一に日本と中国との国体の差異、第二に国体と関連して社会体制と表裏をなす日本の民族宗教(習俗)を代表する氏神・鎮守一体の神社神道の形式は、中国の宗教結社には存在しないということであろう。以後日本に於ける道院の増加は夥しい数に上ったとこの教団の間で言われているが、それは悉く大本教の教団的地盤を利用したものに外ならない。序に神戸道院開設後の日本に於ける道院の発展の概略を次に述べよう。但しこのことは民国十七年までの所謂発展時代以後のことであり、『道慈綱要』では民国十八年以後の所謂拡化時期に属している。
 神戸道院開設後、民国十八、九年の交(昭和四、五年)、前後二回に亙って満洲及び中国本部の道院から「東瀛佈道団」が日本に派遣された。詳しく言えば昭和四年(民国十八年)春、日本人西島(道名宣道)が奉天道院に於いて乩訓を仰いだところ、「宣道の来るは、東瀛の道を宣べ西欧に及ぼさんが為なり。此れ至機に中る。皆定数あり」と出た。次で彼は安東道院に至り訓を奉じて安東の統監性真(王筱東)をして奉天(東北主院)・大連・長春・営口等の各院と協商させて神戸道院に於ける開沙(乩壇の開設)に従事させた。適々大本教の人類愛善会奉天支部長富村順一(後入修し道名循一)が愛善会と卍字会とは宗旨相同じものであると考え、藩陽主会(奉天の紅卍字会)に手紙を出し相互の提携を申込んだ。かくて両者は大いに共鳴し、遂にこれが東瀛佈道団の起因となった。かくて秋八月朔、安東道院の性真等は訓を奉じて専ら東瀛佈道のことを主どり、更に済南母院・北京総院とも連絡してその準備を整え、瀋陽主院(奉天道院)に集り、東瀛佈道団簡章を議決した。佈道団一行十八人、団統は安東道院の性真王筱東、団員は主として瀋陽・大連・営口等の満洲各地の道院から派遣せられ、他に済南(素爽)・北平・済寗各道院からも入っている。この一行の中に日本人西川那華秀(道名尋化)、西島佐一(道名宣道)の両名が共に瀋陽道院から派遣されている。一行は中秋後一日奉天を出発し、安東京城釜山を経て神戸に至り、秋分の日(一九二九年八月二十一日)より五日間神戸道院にて開沙(砂壇の開設)した。これは神戸道院成立後第二回目の開沙である。神戸道院の開沙が終り、一行は大本教の本拠たる大本瑞祥会本部のある綾部に到り、王仁三郎を訪ね、次いで中央主院を此処に設けた。亀岡には日本総道院行院を設け、大阪では八月朔に開院し開沙すること二日に亙った。次で重陽日には東京に総院を設けた。
 右の如く日本各地に道院が設けられ、主院・総院の体制も整ったので、次には神位の供奉が行われねばならぬが、それには既に定式があるので、母院が恭請し、此次東瀛佈道については訓を奉じて、長さ四寸七厘、幅二寸七分を神位の式とし、正面に道旗の炁胞の形を書し、背面にその説明を書くことと定め、妙因に命じてそれを撰述させた。式は次の通りである。

「正面の炁胞内に、老祖及び五教主を恭書」
背面の説明は「至聖先天老祖又曰太乙老祖、即一炁孕育万霊之大主宰、亦即天之御中主大神。
下列耶釈道回儒五教教主……此位乃表五教帰源一道之意」とある。

 日本の道院では老祖を天之御中主神としている。日本の神話(太陽神即ち天照大神を天の神とする)にある天之御中主神は、中国の大宇宙の天神思想の影響を受けて附加された神であることが明らかである。次に日本各院の職責を定めることとなり、訓を奉じて尋仁(王仁三郎)を日本総院統掌とし、以下それぞれ定め、又承仁(尋仁、王仁三郎の妻)を日本婦女道徳総社の社長とした。佈道団の日本滞留中は、大本教関係のものは盛大に歓迎した。各駅では凡そ大本教の支部のある所であれば、信者である士女が各々旗を手にして歓迎会をし、多きは数十百人に及んだ。東京では中国公使館及び東京市長の歓迎宴会が行われ、団員代表は其処で院会の大旨を演説し、聴くもの皆道慈救世の要義を暁ったと言う。一行は日本に滞在すること一ヶ月、安東を経て奉天に帰った。此の時王仁三郎は済南母院参拝を発願し一行に従い奉天まで行ったが、時機不適当のため帰国した。第二回目の佈道団は民国十九年(一九三〇、昭和五年)春、京都で宗教博覧会が催された時、東京総院より瀋陽主院に参加を勧誘したことに端を発する。瀋陽主院ではこれを母・総院に諮ったところ代表を派遣し兼ねて日本に於ける道慈の事務を視察させることとした。この時は臨佈道院の慈果(梁慶雨)が団長となり、団員十名、その中第一回渡日の人は六名、北京道院より一名が参加した。この度もその大部分は満洲各地、主として瀋陽道院の人で占められている。日本人としては瀋陽に籍を置いた西川那華秀が第一回同様参加している。一行は瀋陽を陰暦二月十四日に出発、神戸を経て京都に至り博覧会を見学し、ここで道院を設け書画壇を開き、亀岡・綾部を経て東京に至り、此処での訓に道慈に関する詳細な説明が現れ、その中で道と宗教との区別を闡明し、その帰結は「中正和平」にありと示されたと言う。其後大阪安東経由で帰った。この東瀛佈道団二回の派遣で、日本に於ける道院は各地に設けられたと称せられる。『道慈綱要』によると昭和四年より六年に至る(民国一八-二〇)間に四三一箇所に及んだことになっているが、これ等は恐らく大本教教会の基礎を利用し、それを道院と称したものであろうと思われる。かく日本に於いては教団の地盤もその伝道の便宜も大本教に拠ったものであり、両教団は表裏一体であったから、邪教大本教の壊滅(昭和十一年)と共にすべては消滅した(戦後復活)。日本への佈道に際しては日本的なものと合一すべき努力は払われたけれども、中国の宗教結社は日本の社会国家に受容せられることは理論的にもあり得ないことであるし、日本固有の神社神道と「宗教」の差違の問題についても究明さるべきである。又この間題には、日本の社会に発生した大本教の研究にも俟たねばならぬ所が多いであろう。日本の民族社会としては受容されないこの宗教結社も日本人個個人が宗教として受取る場合は問題を異にするものと考えられる。この教団の日本伝道は主として奉天の道院が中心となって行ったもので、日本と満洲及び華北の文化的な人的な交渉を重ねたことで教団の活動以外の点で意義のあったことは、見逃せない事実であろう。
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