月別アーカイブ: 2015年3月

神との出会い(3)キリストのお墓の巻

Published / by 飯塚弘明
投稿:2015年03月21日

●キリストのお墓の巻

当時は栃木県に住んでいました。北海道旅行の行きは東北自動車に乗りましたが、帰りは一般道でゆっくり東北を走ろうと思い、下北半島から十和田湖に向かって走って行きました。
すると、その時です。
道路際に「キリストの墓」という看板が立っているのが目に飛び込んで来ました。
んん?キリストの墓??
何のことか分からずにそのまま走り過ぎましたが、気になったので(どうせ時間制限のない気ままな旅だから…と思い)数百メートル先でバイクをUターンさせて戻って来ました。

そこは青森県新郷村(しんごうむら)の、知る人ぞ知る「キリストの墓」です。今はインターネットがあるのでかなり知名度は高いと思われますが、当時は一部のマニアしかにしか知られていないような遺跡?です。もちろんウブな私はそんなもの全然知らずに大変驚きました。
キリスト教自体もよく知りませんので、『あれ?イエス・キリストってヨーロッパの人じゃなかったっけ?何でそのお墓が日本にあるんだ?』(本当はユダヤ人でエルサレムで処刑されて死んだ)という認識でした。
詳しいことは新郷村のホームページを見てください。
http://www.vill.shingo.aomori.jp/07sight/sight-christ.html

ざっくり言うと、古史古伝の一つ「竹内文書」にキリストが日本に渡来していたということが書いてあり、昭和10年に関係者が新郷村を訪れて「キリストの墓」を発見したのです。「キリストの弟の墓」もあります。
それだけでなく新郷村にはユダヤ文化に由来すると思われる数々の風習が残っているのです。
日ユ同祖論では必ず取り上げられる有名な場所ですが、そんなものはまだ知りませんでしたので、このキリスト渡来伝説はかなり衝撃的でした。
とはいえ信じたわけではなく『なるほど、そういう言い伝えがあるのか、へえ~』という程度にしか思いませんでしたけどね。
ちなみに王仁三郎によると、イエス・キリスト本人は来ていないようですが、キリストの弟は日本に来ているようです。

思えばこれが「教科書やマスコミが伝えない真実」に触れた最初でした。
この19歳の一人旅から、あっちの世界=彼岸へ渡ってしまったように思います。それから数年間はこっちの世界に戻ってくることができませんでした。

神との出会い(2)恐山で野宿の巻

Published / by 飯塚弘明
投稿:2015年03月13日

(2)恐山で野宿の巻

北海道へ行くときは青森港からフェリーに乗って下館港に上陸したんですが、帰りは函館から下北半島の大間(大間のマグロで有名です)へ上陸しました。
そこはもう恐山の麓です。恐山と言えば「イタコの口寄せ」(巫女さんが死者の霊と交信する)で有名です。まあ、そういう意味での「怖ろしい山」という程度の認識しかなかったんですが、こわいもの見たさで恐山に上がってみました。

山頂には火山のカルデラ湖の宇曽利湖(うそりこ)があり、そのそばにお寺があります。死者を供養する霊場です。極楽浜だの賽の河原だの血の池地獄だの、何だかそれっぽい名前が付けられた場所があちこちにあります。川は硫黄の色と臭いで異様でした。

もう夕方になっており、日が暮れようとしていました。今から山を下りてキャンプする場所を探していたのでは暗くなってしまいます。仕方ないのでここで野宿することにしました。
見ると何百台も駐められそうな広い駐車場があります。平日ということもあり、端の方に車が数台駐まっているだけでした。特に邪魔にはならないだろうと思い、そこにテントを張ることにしました。

あたりはもうすっかり真っ暗で、街灯がポツリポツリと見えるだけです。
私はテントの天井に懐中電灯を垂らして照明にして、酒を飲みながらウトウトと眠り始めました。少々恐いので電灯は点けたままです。
するとそのとき突然、パッと電灯が消えたのです。

私はドキッとしました。嫌な予感がしました。
しかし冷静に考えてみると──きっと電球が切れたのでしょう。私は暗闇の中、手探りで懐中電灯の電球を取り替えました。
スイッチを入れると明かりが点きました。やはり電球が切れただけです。
私はホッとして、何事もなかったように再び酒を飲み、ウトウトとし始めました。。。

そのときです。再び明かりが消えたのです!
私はハッとしました。さっき電球を取り替えたばかりなのに、また切れるなんて・・・!
しかしもう替わりの電球はありません。仕方ないので私は暗闇の中で眠ることにしました。

恐いのでまた酒を飲み、酒の勢いで寝ようとします。
するとやがて風が吹き出しました。
だんだん風が強くなります。その風でテントが煽られて、あたかもテントの外から誰か人が揺すっているような不気味な感じがするのです。
私は『恐山で野宿なんてしなけりゃよかった』と後悔しました。死者を供養する山です。ある意味で墓地の中で野宿するようなものです。少々無謀でした。
今からテントをたたんで山を下りようかとも思いましたが、もうかなり酒を飲んでしまったし、それに真っ暗な山の中を走って行くなんて、何かが出て来そうでかえって恐いです。
私は観念して残った酒を全部飲み、シュラフをかぶって寝ようとしました──。

すると、その時です。
外から何やら人の声が聞こえてくるのです!!
テントを張った時には辺りに人の気配は全くありませんでした。
私は息を止めて聞き耳を立てました。
いよいよ幽霊との御対面か、こんな時にはどういうリアクションをしたらいいのだろうかと、今までに読んだ本、マンガ、テレビドラマなどを総動員して対応方法を考えましたが、せいぜい「キャー!」とか「うわー!」という恐怖の場面しか思い出せません。

私はべつに霊の存在を信じていたわけではありませんが、やはりこういう時には恐いものです。──いや実は、霊の存在を信じている今の方が、霊は恐くないのです。それは霊は目に見えないだけで居るのが当たり前と思っているからでしょう。昔は墓場が恐かったですが、今は恐くありません。私は霊が見える人ではありませんが、地縛霊の一人や二人、そこらへんに居てもおかしくはないと思っているので、特に霊が恐いとは思いません。霊は居るのか居ないのかわからない・・・という心理状態だからこそ、不安や恐怖が増幅されるのではないかと思います。霊なんて居ないと確信している唯物論者なら、きっとこういう場面でも恐いなんて思わないことでしょう。

私は外の声に聞き耳を立てました。しかしボソボソ言っているだけで何を言っているのか分かりません。私に何をするわけでもなく、ただ外で何かボソボソ言っているだけです。
どうもおかしいと私は気がつきました。外にいる霊(?)はひょっとしたら私の存在に気がついていないのではないのか?
相手にされていないのなら、それはそれでまた寂しいことです。

私は勇気を出して、テントの出入り口のファスナーを開け、こっそり片目だけ出して外の様子をうかがいました。
するとそこで見たものは──!

何と、イタコさんが口寄せをしていたのです!
テントのすぐそば、5メートルくらい離れたところで、イタコさんが、中年夫婦を前にして、霊懸かりして何かしゃべっています。
敬虔深そうな夫婦は合掌して、それを聞いています。
驚いたことに、声の正体はイタコの口寄せだったのです。
何百台も入るこの広い駐車場の中で、何も私のテントの近くで口寄せしなくたっていいじゃないですか~~!?
まあ、勝手にテントを張っていた私が悪いんですが。。。

一件落着です。その後はホッとしてゆっくり寝られました。
帰宅後に調べてみると、私が野宿した前の日が恐山の大祭の日で、その日は全国から死者が恐山に集まる日だったようです。
ひょっとしたら帰らずに残っていた霊がイタズラして、電灯を二度までも消したのかも知れませんね。。。(^_^;

(続く)

注意・私の真似をして恐山で野宿をしないようにして下さい。

追伸
この体験で私は霊の存在を信じるようになった・・・というわけではありませんが、ひょっとして居るのかもしれない、と思うようになった体験でした。
実際に憑霊体験をするのはそれから2~3年後のことですが、その話はまた数回後に投稿します。

神との出会い(1)知床半島徒歩旅行の巻

Published / by 飯塚弘明
投稿:2015年03月10日

神とはどういう存在か・・・神の観念というものは、信仰が深まると共に変化して行きます。最初のうちは「雲の上に乗って杖をついている白い髭のおじいさん」だったり、「善いことをしたら御褒美をくれるサンタクロースみたいな人」だったりするかも知れません。
宗教を学んでわかったことは、宗旨の如何を問わず、信仰が深まると「神を信じる」から「神を知っている」というように変化して行く人が多いことです。宗教体験を重ねるにつれて「神はわれと共にあり」ということを実感して行くのです。

宗教とは主観の世界であり、主観を大切にすることで人生を豊かにして行くことです。

稚拙ではありますが、私の宗教体験を記して行こうと思います。半生を記したメモのようなものです。
何かのお役に立てば幸いです。


私が初めて神というものを意識したのは小学生高学年の頃です。

夜ときどきオネショをしていた私は夜中にこっそり起きて、家族に気づかれないようにパンツを取り替えて洗濯カゴの奥深く突っ込んでいました。(^_^;)
大きくなってもいつまでもオネショをしていたのでは恥ずかしいと思い、どうにかしてオネショをやめたいと深く悩みました。そして夜寝るときに布団をかぶって『神サマ仏サマ、オネショをしないようにして下さい!』と強く念じるようにしたのです。

私のうちは特に何かの宗教を信仰していたわけではなく、よくある「無宗教」の家庭です。しかし世間には「神」だの「仏」だのいう、何やら目に見えない、人間を超越した存在があるらしい、ということはマンガやテレビを見て知っていました。
それで「困った時の神頼み」とばかりに、神サマにお願いしてみたのです。

すると不思議なことにいつしかオネショをしないようになりました。\(^O^)/
このことがきっかけで私は神を信じるようになりました・・・というわけでは、ま~~~~~たく、ありません。
その後も時々苦難に直面すると『神サマお願いします!』と念じることはありましたが、あくまでも「困った時の神頼み」です。神を信じていたわけではありません。単なる「おまじない」です。

目に見えないものの存在を実感したのは、それから10年ほど経ってからです。
19歳の夏、私は仕事を辞めて、オートバイで北海道に一人旅に出ました。腕時計を外し、テントとシュラフを積んで、予定を立てずに行きたいところへ行く、勝手気ままな野宿の旅です。
一ヶ月ほどかけて、北海道を一周しました。

そのとき体験したことは、
  (1) 知床半島を徒歩旅行し、
  (2) 恐山で野宿をし、
  (3) キリストの墓を発見しました。
これらの体験が「あなたの知らない世界」へ入るきっかけになったのです。

(1) 知床半島徒歩旅行の巻

知床半島は環境保護のため道路が半島の途中までしかありません。先端の岬へ行きたい観光客は、フェリーで行きます。
当時、オートバイの雑誌に、「オートバイを置いて歩いて知床岬に行く」というレポートが時々掲載されていました。道なき道を行く、ちょっとした冒険です。
私はそれを見て『機会があったらぜひ行ってみたい』と思っていました。
しかし一人で行くのは心細いので、道中で知り合った人と二人で行くことにしました。
その人は大手証券会社を辞めて東京から来たという、20代後半くらいの男性です。当時はまだバブルの全盛期ですので、証券マンとか銀行マンというのは「いいシゴト」と世間に思われていた時代です。私のようなフリーターならともかく、「いいシゴト」を辞めてしまうなんてさっぱり理解できませんでしたが、きっと私と同じように、腕時計を外したかったのでしょう。携帯電話の普及につれて腕時計をしない人が増えて来ましたが、そういう意味ではなく、管理社会の象徴である腕時計を捨てたかったのです。

当時は夏になると北海道を走り回るライダーたちを「ミツバチ族」と呼んでいました(今はどうなんでしょう??)。
ミツバチ族用の簡易宿泊所が道内にいくつもあり、500円とか1000円とかで泊まれます。知床半島の途中にある宿泊所にオートバイを置いて、二人で歩き出しました。
海岸線に沿って歩いて行きます。道がない、とは言ってもある程度は人が歩いているので道が踏み固められています。しかし人の背丈以上もある草木が生い茂った山道を上ったり、今にも切れそうなロープを伝って転げるように坂道を下ったり、なかなか大変でした。
海沿いの岩場のコースの途中には、満潮になると岩が海面下に沈んで通れなくなってしまうところがあり、時間ギリギリで通過したこともありました。
道を間違えて山の奥に入ってしまい、獣道に入ってしまったみたいで何やら獣の(クマ?)の臭いがして、慌てて下の方に駆け下りたこともありました。

岬に着いて頭上を見上げると、右側は晴れていて、左側に雲が広がっていました。
ここがちょうど太平洋(右)と日本海(左)の境目なんだなと、いたく感動しました。

実は岬に着く前に雨が降り出して、漁師さんの番屋(仕事で泊まる小屋)で二泊、泊まらせてもらいました。
二泊三日くらいの日程で往復できるようなのですが、私たちが岬に辿り着いたのは三日目でした。
結局、帰りは力尽きてしまい、仕事をしていた漁師さんに頼み込んで、お金を払って漁船に乗せてもらい、出発地点まで戻って来ました。(^_^;)

この知床半島徒歩旅行で私は、大自然に人間を超えた何かがあることを、生まれて初めて実感できたのです。
都会の雑踏を離れ、時間に追われる日常を離れて、その何かを感じることができたのでした。
800年前、西行法師が伊勢神宮に参拝したときに詠んだ次の歌があります。
「何ごとのおわしますかは知らねども、かたじけなくて涙こぼるる」
ちょうどそんなかんじです。大自然の中に、何者かは知らないけれど、かたじけない・・・という気持ちが生じました。
涙がこぼれるほどではありませんでしたが。

この体験が、「困った時の神頼み」ではなく、神に対する感謝──生かされていることの感謝、守られていることの感謝の気持ちが芽生えた始まりです。
そして北海道から本州へ戻ると、私は大胆にも、イタコで有名な青森の霊山・恐山で野宿をするという愚挙に出たのです。

(続く)

注意・知床岬に行くのは危険ですし、現在は立ち入りが規制されているようですので、安易に真似をしないようにして下さい。