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伝染病と禊

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年03月28日

今日(2020/3/28)は東京で『あらすじで読む霊界物語』の著者4人による講演会が企画されていましたが、今月上旬に中止が決定されました。主催者が新型コロナウイルスの感染を警戒しての判断です。

毎日状況は悪化して行き、とうとう今週末の東京は外出自粛ということになってしまいましたね。上旬の時点で中止にしておいたのは正解だったと思います。
ウイルス渦が収まったら、また講演会を企画していただけるようです。

このような伝染病が流行るのは「霊の仕業」だと王仁三郎は教えています。

霊界物語スーパーメールマガジン』2月6日号に掲載した文章を加筆訂正して、下に載せておきます。


出口王仁三郎・著『玉鏡(たまかがみ)』収録「流行性感冒(かんぼう)」を紹介します。
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg840

流行性感冒とは、インフルエンザのことです。略して「流感」とも呼びます。
今からおよそ100年前、大正7年(1918年)から8年にかけて世界中で流行したインフルエンザは「スペイン風邪」と呼ばれており、甚大な被害をもたらしました。
当時の世界人口が約20億人の時代に、感染者数は数億人、死者数は数千万~1億人と言いますから、人類の5%が死んだわけです。
いわゆる「パンデミック」(伝染病の世界的流行)の元祖です。

 本年(昭和九年)もたいぶ流行性感冒がはやるようであるが、戦争と流行性感冒とはつきものである。あれは霊の仕業である。

 近年満洲事変(注・昭和6年)、上海事件(注・昭和7年)等で多くの戦死者を出したが、それに対して、禊の行事が行われていない。

 禊の行事の大切なる事は霊界物語に詳しく示しておいたが、昔はこの行事が厳格に行われたから、戦争などで沢山の死者があっても地上は時々に清められて、流行性感冒の如き惨害から免がるる事を得たのであるが、今の人たちは霊界の事が一切分からず、禊の行事などのある事をすら知らぬ人たちのみなるが故に、邪気充満して地上は曇りに曇り、濁りに濁り、爛(ただ)れに爛れて、目を開けて見ておられぬ惨状を呈しているのである。

 気の毒にもこうした事情を知らぬ世間の人々は、医師や薬にのみ重きを置いて焦心焦慮しているのであるが、霊より来る病気を体的にのみ解せむとするは愚かである。

 禊の行事の偉大なる効果を知る人は凶事あるごとに常にこれを行うべきである。さすれば一家は常に朗らかで滅多に病気などには罹(かか)らぬものである。

初出:『神の国』昭和9年(1934年)3月号

今世界を大混乱に陥れている新型コロナウイルスは、人工的に作られた生物兵器だという説もありますが、新しいウイルスや菌は人為的でなくても、自然にいくらでも誕生します。

昔であれば、新しい伝染病が発生しても、一つの村が全滅するだけで終焉していたでしょうけど、交通機関の発達によって、たちまち世界中に広まるようになりました。

玉鏡に書いてあったように、このような伝染病が流行るのは「霊の仕業」だと王仁三郎は教えています。
戦争や災害などの死者の、苦しみ、怨み、憎しみというような邪気が充満して地上が曇り、このような伝染病が流行るということなのでしょう。

スペイン風邪が大流行する直前には、第一次世界大戦(1914~18年)がありました。
主に欧州を舞台とした大戦争で、戦死者数は1千万人以上に上ります。
スペイン風邪と呼ばれているので、あたかもスペインが病気の発生源のように思ってしまいますが、全く異なります。
スペイン風邪の発生源は、戦場にならなかった米国の、中央部にあるカンザス州です。
しかし戦時中で情報統制がされていたので報道されず、中立国で情報統制がされていなかったスペインで流行していることが報じられたため、スペイン風邪と呼ばれるようになりました。

近年のパンデミックである、AIDS(1980年代以降)の発生源はアフリカ、SARS(2002~3年)も新型コロナも発生源は中国です。
しかしスペイン風邪のように、霊的には、発生源以外の地域で起きた戦争が関係している可能性もあるわけです。

ではAIDSやSARS、新型コロナはどんな戦争が関係しているのでしょうか?
いやそれは…ちょっと分かりません。人類はいつでも地上のとこかで戦争をしていますからね。
どれか一つ、というわけでもないでしょう。
戦争だけではなく、テロや弾圧や、地震・台風など自然災害も含まれると思います。
浮かばれない霊たちが大勢いるわけで、それによって伝染病が流行するというのです。

それを防ぐには禊(みそぎ)の行事が重要だと王仁三郎は言っています。「凶事あるごとに常にこれを行うべき」と書いてありました。
禊の行事というのは具体的に何を指しているのかよく分かりません。天祥地瑞の第75巻第1章「禊の神事」(著述は昭和8年)に記載してある方法かも知れません。
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm7501

「振魂(ふるたま)」だとか「天の鳥船」だとか「雄健び」だとか、禊の方法がいくつか書いてあります。
禊と言えば神道家の川面凡児(かわつら・ぼんじ、1862~1929年)が有名ですが、天祥地瑞に書いてある方法は、川面凡児が提唱した禊の方法と、おそらく同じものではないかと思われます。

そういう行法以外に、祭典としての禊もあると思います。
大本で行う節分大祭も、大は宇宙から小は個人に至るまで罪穢れを祓う、一種の禊の神事です。
戦争や災害の死者を弔う慰霊祭のようなものも、一種の禊です。

今回の新型コロナが収束したとしても、今後もパンデミックは時々起こることでしょう。
それに対処していく術を、人類は身に付けて行かなくてはいけません。
王仁三郎が説く禊もそうですが、こういう危機にどう向き合うか、その術です。
政府の対応方法もそうですし、治療法の開発もそうです。
社会として、感染者を差別することなく、どう受け入れて行けばいいのか。
感染を食い止めるためには経済が停滞してもいいという価値観も共有する必要する必要があります。
あるいはまた、病で人が死ぬことは止むを得ない、ウイルスと共存して行こう、という価値観も持つ必要もあるでしょう。

ミロクの世に向かって進んで行くためには、人類が獲得しなくてはいけない文化がたくさんあります。
そういうことを、神様が人類にやらせているのであると思います。
これはミロクの世を創るための一つの試練です。

喜三郎の修業 (4) 松岡仙人が現れる

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年03月27日

明治31年(1898年)旧暦2月8日の夜、大ゲンカをして重傷を負った喜三郎ですが、翌日、祖母に諫められ、心を改めることを決心しました。

そしてその夜、つまり旧2月9日(新3月1日)の夜、とても神秘的な現象が起きました。
それによって喜三郎は神業の渦に引き込まれて行くことになります。

そのエピソードは自叙伝の第37~38巻ではなく、第19巻第1章「高熊山」(謡曲高熊山)に書いてあります。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm1901

謡曲調で書いてあるので、少々分かり難いかも知れません。
概略を記すと──

喜三郎は夜、寝ていると、枕元に突然、異様に輝く光の玉が現れました。
紫、青、黄色、白、赤の五色に輝く玉(5個だけなのか、それよりもっと多いのかは不明)は、狭い部屋の中を右に左に飛び交い、そして喜三郎の体を目がけて飛び込んで来ました。
光の玉は、胸や、腹や、肩や、背中に、滲み込んで行きます。

すると喜三郎はたちまち心機一転し、起き上がって筆を取ると、墨を付け、そして床の間の壁にさらさらと神の名を書き記しました。
「天地大本大御神(あめつちおおもとすめおおみかみ)」

なぜそういう神名を書いたのか理由は記されていないので分かりません。
フトそういう神名が頭に思い浮かんだのだのではないでしょうか。
つい昨日まで、この世に神なんていない、と思い詰めていた若者が、今は信仰深げに神の名を唱え出し、今までの自分の罪を詫びました。

そのとき、外から戸を勝手に開いて、洋服を着た男が入って来たのです。
当時はまだ服は着物(和服)が一般的であり、洋服は珍しい時代です。
男は──自分は天教山(富士山)の木花咲耶姫(木花姫)の使いである。木花咲耶姫が、西の空に瑞雲がたなびき、星の光が照らしているのを見て、これは神の仕組の真人(しんじん)が現れた瑞祥であるから迎えに行けと命じられた──と言うのです。
この男は、松岡芙蓉仙人だとか、松岡神使だとか呼ばれています。
喜三郎は、松岡仙人に連れられて高熊山の岩窟に向かいました。

突然現れて一緒に来いと言う松岡仙人を、喜三郎はいぶかしがり、呆然として松岡の顔を眺めていた……と書いてあるので、積極的に行こうと思ったわけではないでしょう。
成り行きで行くはめになった……というような感じだと思います。

喜三郎の家から高熊山の岩窟までは、だいたい2キロくらい離れています。
岩窟に到着すると松岡仙人は去り、舞台は一転して、そこは須弥仙山(しゅみせんざん)の頂上に変わりました。
仏教で宇宙の中心にあるとされる山を須弥仙(しゅみせん)と呼びます。梵語では「スメール」です。
大本神諭や霊界物語に出る須弥仙山というのも、そういう意味合いです。
世界の中心にそびえて、総てを見下ろせるというような霊域を指すようです。

喜三郎は高熊山の岩窟の前にいたのに、いつの間にか須弥仙山の頂上に立っていました。
そこへ白馬に跨がり白雲を別けて駆け来たった神人(しんじん)がいます。
彼は小幡大明神(おばた だいみょうじん)と名乗りました。
穴太の産土である小幡神社の神様です。つまり開化天皇の神霊です。

明神『われは小幡大明神なり。このたび五六七の神世出現に際し、天津神・国津神のよさしのまにまに、しばらく丹州(たんしゅう)と現れ給う汝が御霊(みたま)、現幽神(げん・ゆう・しん)三界の探険を命じ、神業に参加せしめよとの神勅なれば、三十五年の昔より、木の花姫と語らひて、汝が御霊(みたま)を拝領し、わが氏(うじ)の子として生まれ出でしめたり。ゆめゆめ疑うことなかれ』
〔第19巻第1章「高熊山」〕
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm1901#a124

丹州というのは丹波の国のことですが、「丹州と現れ給う」というのは、ここでは丹波の国の人として生まれた、という意味ではないでしょうか。
また、霊界物語に丹州という名の人物が登場します。第17巻から第19巻にかけて登場しますので、この丹州のこと指している可能性も高いです。

小幡大明神の言葉に喜三郎は深く感じ入り、涙を流しました。
つまり、自分の出生は、昔からの神の仕組みだったことを、ここで知ったわけです。
何らかの使命を持ってこの地に生まれ、そして産土神によって守られ、育てられていたことを悟ったのです。

喜三郎がケンカに明け暮れていた時期に、相手に殴られても、自分は相手を殴らなかったということを前回(第3回)紹介しました。

いつも叩かれもって、心に思い浮かんだのはこうである。
『何だか自分は、社会に対して大なる使命を持っているような気がする。万一人に怪我でもさせて法律問題でも惹起したならば、将来のためにそれが障害になりはせないか?』
というのが第一に念頭に浮かんで来た。
〔第37巻第5章「松の下」〕
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3705#a141

「大なる使命」を持っているように何となく感じていたことが、小幡大明神の言葉によって、より確実なものになって来たわけです。

この大宇宙の中で、人はどこから来てどこへ行くのか…ということを誰でも一度や二度は考えると思います。
自分は何のためにここに生きているのか…それを考えると、おそろしい孤独感・虚無感に襲われるのではないでしょうか。
それで自分の存在意義を探して、人は蠢(うごめ)くのです。
生きていることの意味です。
生命の充実感と言ってもいいかも知れません。
それで喜三郎は
『思う存分、大喧嘩をやって……偉い奴だ! 強い奴だ! と云われたい。そうして強い名を売って、たとえ丹波一国の侠客にでもよいからなってみたい』〔第37巻第5章〕
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3705#a178
なんて思ったのです。

しかし彼の使命は他のところにありました。
この世に生まれる以前から、神に定められた何らかの使命があることを小幡大明神の言葉によって悟ったのです。
その使命を果たすために、この世に生まれて来たのです。
それを悟った時の感動というものは、とうてい口では言い現せないものがあったと思います。

さて、涙に暮れていた喜三郎は、ふと気が付くと、再び元の高熊山の岩窟の前にいました。
何と不思議なことだろうと首を傾けていると、またまた場面が変わり、そこに天国浄土の風景が開けました。
そこへ現れたのは女神様です。
彼女は国祖・国常立尊(艮の金神)の妻神の、豊雲野尊(坤の金神)です。

「…今より汝(なれ)が命(みこと)の体(たい)を借らん」
つまり喜三郎の肉体を使って御神業を行う、ということです。
するとまたもや場面は一転し、元の高熊山に戻っていました。

不思議な霊的現象です。
喜三郎は、突然、こういう神秘現象に巻き込まれて行ったのです。
それ以前は、牛乳販売のようなベンチャービジネスを手がけたり、ケンカに明け暮れたりして、かなり俗的な生活を送っていたのに、いきなり、あなたの知らない世界に入り込んだのです。
戸惑わなかったのでしょうかね?
いや、戸惑ったとしても、勝手に周りの場所が変わったり、勝手に神霊が現れたりするのですから、逃げるわけにも行かず、それを受け入れるしかないでしょうね。

もちろん伏線は敷かれていたのです。
直接的な伏線は、半年前の父の死です。
原因不明の病で、54歳という若さで亡くなってしまったのですが……
それも見方を変えれば、喜三郎を目ざめさせるための神の仕組だったと言えます。

父の上田吉松は、そういう御用を神様からさせられていたのだと言えます。
「因縁の身魂(みたま)を神が綱を掛けて引き寄せる」
というようなフレーズが大本神諭にたびたび出て来ますが、こうして喜三郎は綱を掛けられて、神業の渦に引き込まれて行ったのです。

(続く)


【附記】

第19巻第1章の小幡大明神(開化天皇の神霊)のセリフの中に
三十五年の昔より、木の花姫と語らひて、汝が御霊(みたま)を拝領し、わが氏(うじ)の子として生まれ出でしめたり」
という言葉が出て来ました。

35年前から、穴太に喜三郎が生まれるように計画していたというのです。

この時は明治31年(1898年)旧2月9日です。喜三郎の年齢は明治4年(1871年)7月12日生まれとして数えると、この時、満だと26歳、数え年だと28歳になります。

一体35年前とは、どういう意味でしょうか???

明治31年(1898年)の35年前は、満だと1863年、数え年だと1864年です。この時代だと数え年で数えるのが一般的でしょう。
すると1864年は幕末の元治元年になります。

この年の7月19日、京都御所で「禁門の変」が勃発しました。孝明天皇は旭形亀太郎に守られ、切神神示で下りた経綸書を持って危地を逃れたのです。

この神示の中で、丹波に王仁三郎が出現することが予言されています。

この話の詳細は出口恒・著(飯塚弘明・協力)『誰も知らなかった日本史 ~切神神示と共に甦る孝明天皇の遺勅』(ヒカルランド)をお読み下さい。

小幡大明神が言う「三十五年前」とは、この切神神示と深い関係があると考えられます。


この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2017年10月2日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック

喜三郎の修業 (3) 改心

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年03月26日

父親の死をきっかけに、押さえていたものが吹っ切れた喜三郎は、義侠心を発揮して、市民をイジめるヤクザどもを相手にケンカ三昧の日々を送り出しました。

しかし、相手に殴られることはあっても、自分から殴ることはなかったようです。

いつも叩かれもって、心に思い浮かんだのはこうである。
『何だか自分は、社会に対して大なる使命を持っているような気がする。万一人に怪我でもさせて法律問題でも惹起したならば、将来のためにそれが障害になりはせないか?』
というのが第一に念頭に浮かんで来た。
〔第37巻第5章〕
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3705#a141

つまり──万一、暴力事件で逮捕されて刑務所にでも入れられてしまったら、その使命が果たせなくなるのでは? とか、そのことで経歴に傷が付き、やるべきことが出来なくなってしまうのでは? と危惧したのだと思います。

そして、

その次には、
『人に傷つけたならば、きっと夜分には寝られまい。自分はいつも真裸になって、石だらけの道で相撲をとるが、力一杯張りきった時は、どんなところへ真裸で打ち投げられても少しも傷もせぬ、痛みもせぬ。これを思えば、全身に力を込めてさえおれば、何ほど叩かれても痛みも感じまい』
との念が起こり、指の先から頭の先まで力を入れて、身体を硬くして敵の叩くに任していた。……もう叶わぬ、謝まろか……と思ってる間際になると、いつも誰かが出て来て、敵を追い散らし、あるいは仲裁に入って、危難を妙に助けてくれた。それで、
『人間というものは、すべて運命に左右されるものだ。運が悪ければ畳の上でも死ぬ。運がよければ、砲煙弾雨の中でも決して死ぬものではない』
という一種の信念が起こっていた。

こういう態度は、何だか自分の生命を他人任せにしているみたいで、少々頼りないような気もします。

しかし別な見方をすると、これは神任せということなのかも知れません。
つまり惟神の境地になる練習を、神様からさせられていたと考えることが出来ます。

もっとも、この時期は無神論者だったというので、「神任せ」という表現はおかしいでしょうけど、運に任せるというのは、惟神の道の第一歩ではないかと思います。

それ故、人に頼まれたり、頼まれなくても喧嘩の仲裁がしたくなったり、ある時は、
『思う存分、大喧嘩をやって……偉い奴だ! 強い奴だ! と云われたい。そうして強い名を売って、たとえ丹波一国の侠客にでもよいからなってみたい』
という精神が日に日につのって来た。そのために二月八日の晩にも、若錦(わかにしき)一派の襲来を受くるような事を自ら招来したのである。
〔第37巻第5章〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3705#a143-a183

若錦(わかにしき)というのは相撲の四股名で、本名は八田弥三郎と言い、地元のヤクザ・河内屋勘吉の子分です。
この若錦一派に、明治31年(1898年)旧2月8日(新2月28日)の夜、ボコボコに叩きのめされて、頭に大ケガを負ったのです。
そしてそれがきっかけで喜三郎は心を改めることになります。

そのエピソードが第37巻第2章と、第5章の後半に出ています。
その間の章(第3章~第5章前半)は、それ以前の半年間の出来事の回想です。
具体的なことは霊界物語を直接読んで下さい。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3702
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3705#a184

地理がよく分からない人のために地図を作りました。参考にどうぞ。
「伝記地図(1)亀岡~綾部の概観」
http://iizukahiroaki.com/?p=1193

頭を負傷した喜三郎は、精乳館で寝ていると、母親(ヨネ)と祖母(ウノ)が心配して実家からやって来ました。
この時期、喜三郎は「上田牧牛場 穴太精乳館」と名づけた会社を友人と経営していました。牧場兼牛乳配達業です。
当時はまだ牛乳配達というのは珍しく、けっこう繁盛していたようです。

↓ その頃の上田喜三郎 ↓
精乳館の法被を着た上田喜三郎

精乳館に朝早くから配達人が集まって来ましたが、喜三郎が鍵を閉じて開けないので、異変に気づいて実家の母親を呼びに行きました。
母に知られてはバツが悪いと、喜三郎は少し離れたところに借りていた自宅(喜楽亭と名づけた、小さな小屋)に隠れ、布団を頭から被って横になっていると、やがて母が現れました。
母の世祢(よね)は加害者の若錦を恨んで次のように嘆いています。

去年までは親爺サンがおられたので誰も指一本さえる者も無かったが、わしが後家になったと思うて侮(あなど)って、うちの伜(せがれ)をこんな酷い目にあわしたのであろう。(略)中途に夫に別れるほど不幸の者はない、また親のない子ほど可愛そうなものはない(略)
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3702#a095

つまり世祢は、喜三郎は父親が亡くなったためにバカにされていじめられたのだ、と認識しているのです。

喜三郎もそのときまでは若錦を恨んでいました。

ただ自分の心裡(しんり)に往復しているのは(略)若錦一派の奴に対し、早く本復(ほんぷく)(注・全快すること)して仕返しの大喧嘩をやってやらねばならぬと、そればかりを一縷(いちるい)の望みの綱としていた。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3702#a068

という喜三郎ですが、しかし母の、若錦への恨みつらみを聞くと、逆に若錦が気の毒に思って来ました。それは、自分が撒いた種であることを知っていたからです。

自分は母の言葉の如く、決して父が逝くなった為めに侠客に苦しめられたのではない、つまり自分から招いた災いである事をその時すでに自覚し得たのである。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3702#a278

この辺りは微妙な心理ですが、今まで0だったものが、父が死んでマイナスになったのではなく、今まで義侠心を押さえていてマイナスだったものが、留め金が外れて0になったのであって、実はこれが本当の自分なんだ、という気持ちではないでしょうかね。
母親に、自分が不良にイジめられている、なんて思われたくないのですよ。
その不良に、自分から戦いを挑んだのです。
そしてその結果、負けただけです。

母に続いて祖母が現れ、母とは異なり、喜楽に説教を始めました。

祖母と母はけっこう性格が違うようです。
母の世祢は少々、過保護なところがありそうです。
満で26歳(数えで28歳)になるアラサーの息子に対して、
「親のない子ほど可愛そうそうなものはない」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3702#a101
な~んて言うのは、ちょっと子供扱いしすぎているんじゃないですかね。

いや、これは確実に過保護です。親バカです。26歳なら結婚して子供の1人2人いてもおかしくない年齢です。まして父親が死んだのだから、一家の黒柱になったわけです。そんな大の男を「父親が死んで可愛そう」などという目で見るのは、あまりにもバカにしています。
しかも喜三郎は8人兄弟(男5人、女3人)の長男です。一般に、末っ子に対しては過保護になりやすいですが、上の子に対しては厳しく接したり、あるいは無関心になりがちです。長男に過保護に接するというのは珍しいと思います。
それにそもそもこの時代の平均寿命は55歳前後なので、50代の親が死ぬというのはごくふつうのことです。それを、親が死んだのでいじめられたのだ、可愛そうなどと思うのは、全く異常な心理です。

一体なぜ世祢はこんな親バカなのか。
それはおそらく、喜三郎が有栖川宮熾仁親王の落胤であるということに関係があるのではないのかと思います。
皇族である熾仁親王の御子であるからこそ、大切に大切に思い、それが過保護になってしまったのではないでしょうか?
そのように考えれば、世祢の心理が理解出来ます。
熾仁親王の落胤だという視点で見ると、王仁三郎の修業に関して新たな見解が生じて来るのですが、王仁三郎は自伝の中で熾仁親王について触れていませんので、本稿でもそれについては深入りしないでおきます。

親バカな母親・世祢に対して、祖母・宇能(うの)は厳しい気丈な性格です。
学があり、喜三郎の幼少時にはいろいろ勉強や、言霊学などを教えてあげました。

王仁三郎の言霊学の師匠の一人、大石凝真素美(おおいしごり・ますみ)の、その師匠が中村孝道(なかむら・こうどう)という人で、宇能は中村孝道の家に生まれました。

宇能は中村孝道の娘だとか妹だとか姪だとか、資料によって書いてあることがまちまちです。(→詳しくはオニペディアの「中村孝道」を見て下さい)
王仁三郎本人が書いた資料(故郷乃二十八年)には「祖母は(略)中村孝道の家に生まれた」とボカした表現で書いてあります。

いずれにせよ宇能は中村孝道から言霊学を学び、それを喜三郎に教えたことに違いはありません。

祖父は喜三郎が生まれた半年後に亡くなっており、父親は婿養子で弱い立場にあったので、学問があり、気丈な性格の宇能が事実上、上田家の家長的な役割をしていたのではないかと推測できます。

その祖母は喜三郎に厳しく説諭します。

お前は最早三十に近い身分だ、物の道理の分からぬような年頃でもあるまい。侠客だとか人助けだとか下らぬ事を言って、たまに人を助け、助けたよりも十倍も二十倍も人に恨まれて、自分の身に災難のかかるような人助けは、チッと考えて貰わねばなるまい。
(略)この世に神さまはないとか、哲学とか云って空理窟(からりくつ)ばかり云って、もったいない、神々様をないものにして、御無礼をした報いが今来たのであろう。
(略)昨晩の事は全く神様の御慈悲の鞭(むち)をお前に下して、高い鼻を折って下さったのだ。必ず必ず、若錦やそのほかの人を恨めてはなりませぬぞ。一生の御恩人じゃと思うて、神様にも御礼を申しなさい。
〔第37巻第5章〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3705#a203

若錦に恨み言を吐いていた母に対し、祖母は逆に、若錦を恨むな、神様の慈悲の鞭だと思え、と説諭したのです。
それを聞いた喜三郎は、胸に打たれるものがあり、改心することになりました。

…と(祖母に)涙片手に慈愛の釘をうたれて、さすがの喜楽も胸が張り裂けるように思うた。森厳(しんげん)なる神庁に引き出されて、大神の審判を受けるような心持ちがして、負傷の苦痛も打ち忘れ、涙に暮れて、両親の前に手を合わせ、『改心します、心配かけて済みませぬ』と心の中で詫(わび)をしていた。

 老母や母は吾が家を指して帰り行く。あとに喜楽はただ一人悔悟の涙に暮れて、思わず両手を合わせ、子供の時から神様を信仰していながら、ここ二~三年神の道を忘れ、哲学にかぶれ、無神論に堕していた事を悔ゆると共に、立ってもいてもいられないような気分になって来た。

この喜三郎の改心は、母と祖母の絶妙なコンビネーションだったとも言えます。
祖母の説教だけでは、ひょっとしたら喜三郎はムッとしてヘソを曲げていたかも知れません。
その前に母が若錦を非難したことで、喜三郎の心の中に『本当は自分が悪い』という思いが芽生えていたのです。

法律上は、暴力を振るった相手(若錦)が100%悪いはずです。
喜三郎は、ケンカの仲裁に入ったりして、それがいろいろ揉めてしまっただけです。揉めるというのは見解の相違です。意見が違うからと言って暴力を振るうなんて、明治時代でも許されることではありません。
しかし、だからと言って、相手を恨んでみても、何の進展もしません。
同じところをグルグル回り続けるだけです。

母や祖母が来るまでは、喜三郎は「早く本復して仕返しの大喧嘩をやってやらねばならぬ」と思っていました。
やられたらやり返せ、という態度では、いつかは命を落とすことになったでしょう。
ここで気持ちを切り替えることが出来たので、新しい道が開いて来たのです。

何事も世の中は正邪混交、陰陽交代して成立するものである。別に人の商売(注・ヤクザ稼業)まで妨げなくとも、自分は自分の本分を尽くし、言行心(げん・こう・しん)一致の模範を天下に示せばよいのだ。自分に迷いがあり罪がありながら、人の善悪を審(さば)く権利はどこにあろうか……と思えば思うほど、自分が今までやって来た事が恥ずかしく、かつ恐ろしきような気になって来た。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3705#a307

今まで、自分の小さな考え(我)に引っ掛かっていた喜三郎は、こうして、そこから離れることが出来たのです。
グルグル回り続ける無限連鎖の地獄から、脱け出すことが出来たのです。

そしてその夜、神の使者──松岡仙人が現れたのでした。

(続く)


この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2017年9月28日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック

喜三郎の修業 (2) 無神論からの喧嘩道

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年03月25日

霊界物語第37巻は、高熊山修業の前夜に起きた出来事から始まります。

高熊山修業は王仁三郎が自分で進んで行ったことではありません。
神様から強制的にやらされたことです。

大本神諭に
「神が綱(つな)を掛けて引き寄せて御用をさせるぞよ」
というようなフレーズがたびたび出て来ますが、御神業に奉仕する人というのは、自分から進んで御神業に参加するのではなく、強制的に引き込まれるケースが少なくありません。

福知山生まれの桐村ナオが綾部に移住したのも、嫌々ながらでした。
ナオは17歳(数え年)で、綾部に住む叔母(出口ユリ)の養女になったのですが、叔母を嫌って半年ほどで福知山に逃げ帰りました。
すると叔母は井戸に飛び込んで自殺してしまい、その亡霊がナオの枕元に現れて福知山に帰ったことを厳しく責め立てたのです。
ナオには相思相愛の婚約者がいましたが、その縁談をあきらめて、仕方なく綾部に戻ったのでした。
こうしてナオは強制的に神業に引き込まれて行ったのです。

しかし現界的には無理強いされて嫌々ながら行ったとしても、霊魂の上から見たら、それを行うために生まれて来た、と言えます。
つまりもともとそういう使命を持っていたのです。
しかし生まれて来たときにそれを忘れてしまったので、それを思い起こさせるために、神様は「綱を掛けて」、強制的に神業という重力圏に引き込んでしまうのです。

王仁三郎が、高熊山での霊的修業を強制的にやらされたのも、そういうことです。
もともと世界を救う使命をもって生まれた王仁三郎ですが、生まれた時からそのことに気づいていたわけではありません。
それを思い出させるために、神様からいろいろな試練を与えられ、そしてその仕上げとして高熊山修業をさせられたのです。

自分はそれまでに二十七年間の俗界での悲痛な修行を遂行した。
その卒業式ともいふべきものであつて、生存中ただ一回のみ空前絶後の実修であつたのである。
〔第1巻第2章「業の意義」〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0102#a037

この修業に至るには、その半年前ほど前から伏線が引かれてありました。
明治30年(1897年)の夏、喜三郎が27歳(数え年)の時に、父の上田吉松(きちまつ)が「ブラブラ病」という原因不明の病で死んでしまったのです。

ブラブラ病とは、現在「慢性疲労症候群」と呼ぶ病気のことではないかと思います。体が非常にだるくて仕事や家事が出来ないとか、とても疲れやすいとか、そういう症状が出る病気です。(参考1参考2

吉松は2~3年間、ブラブラ病で苦しんでいました。
喜三郎は信仰によって父の病を治したいと思い、付近の教会に通いました。

あるとき父が、屋敷の中にある椋(むく)の木を薪(まき)にしたいから伐ってくれと頼むので、喜三郎は言われた通り伐り落としました。
それから父の病態が悪化して、半年ほど苦しんだ挙げ句に、7月21日、54歳で亡くなってしまったのです。

この椋の木はちょうど屋敷の鬼門(東北)に位置していたため、鬼門の木を伐った祟りだとか、あるいはまた裏鬼門の池(久兵衛池)を埋めようとした祟りだとか、何とかかんとか親戚や友人が口々に言い立てました。

ここから先は『聖師伝』から引用します。

喜三郎さんはその問題(注・祟りのこと)を解決するために宮川の妙霊教会や亀岡のヒモロギ教会などへ行って質問をしましたが、いっこう要領を得ず、この上は直接神教をうけるより外はないと決心せられて、毎晩十二時から三時まで産土神社に行って神教を乞われた結果、鬼門の金神と裏鬼門の金神の由来から、その神聖な理由を明かにされました。

喜三郎さんは大いに勇気づけられ、すすんで各教の教義をさぐり、誤った宗教界を改善しようと考えられましたが、いろいろな教会に出入しているうちに、教会の迷信ぶり、堕落ぶりに愛想をつかし、それからは神だとか、宗教だとか、信仰だとかということは見るもイヤ、聞くもイヤというようになり、一時は無神論者にさえなられました。

〔聖師伝 11父の死〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B100800c11

妙霊教会とかヒモロギ教会というのは、キリスト教会ではなく、神道系の新興宗教です。
また産土神社とは、開化天皇を祭る小幡神社(喜三郎の生家のすぐ近くにある)のことです。

この無神論者になったというエピソードは、霊界物語の第37巻第16章の最後の方から、第17章にかけて詳しく書いてあります。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3716#a260
「明治二十九年の春の事であった」からです。

ここを読んでいただければ分かりますが、の「余部(あまるべ)のお稲荷サン」と呼ぶ教会の、高島ふみ子という「お台さん」つまり霊能者の女性は、夫と共にインチキ宗教を開業して信者を集め金を儲けていたのです。

舞台裏を見て彼らの霊能がイカサマだと知ってしまった喜三郎は、信仰が醒めてしまい、「それから三十一年の二月、二十八歳になるまで(注・つまり高熊山修業の時まで)、神様に手を合わすのがいやになり、極端な無神論者になってしまった」〔第17章の真ん中あたり〕というのです。

ところで、神教を乞いに小幡神社に3週間通い「三大学則」を得たのは明治30年旧8月下旬(新10月頃)です。〔本教創世記 第三章を参照〕

ですから──
明治29年春から無神論者になり、
明治31年2月まで神様に手を合わすのがいやになった のにもかかわらず、
明治30年秋に神社に21日間通って神教を乞うた というのは、
何だか言っていることがとても矛盾しています。

が、王仁三郎が書いたものをよく読んでいるとこういう矛盾はよくあるので(笑)この細かい矛盾は無視して、高熊山修業の直前までは「この世に神なんているものか!」というように思っていた、ということだけ押さえておきましょう。

喜三郎は父の死後、穴太のケンカ番長となります。
彼は幼少時から正義感が強く、反骨精神のある性格でしたが、父に迷惑をかけまいとして、他人とケンカするようなことは避けていました。

父の死をきっかけに、その自制の留め金が外れ、一挙に噴出したようです。
それで地元のヤクザ者を相手にケンカをするようになり、半年ほどの間に9回もの大ゲンカをしてしまいました。

霊界物語から引用します。

実際の事を云えば自分は、今まで父がブラブラ病で二~三年間苦しんでいたので、それが気にかかり、云いたい事も云わず、父に心配をさせまいと思うて、人と喧嘩するような事はなるべく避けるようにしていたから、村の人々にも若い連中にも、チッとも憎まれた事は無く、かえって喜楽さん喜楽さんと云って重宝がられ、可愛がられていたのである。

そうしたところ、明治三十年の夏、父は薬石(やくせき)効なく遂に帰幽したので、最早病身の父に心配さす事もなくなった。破れ侠客が田舎で威張り散らし、良民を苦しめるのを見るたびに、聞くたびに、癪(しゃく)に触わってたまらない。

頼まれもせぬのに、喧嘩の中へ飛び込んで仲裁をしたり、しまいには調子に乗って、無頼漢(ぶらいかん)を向こうへまわし喧嘩をするのを、一廉(ひとかど)の手柄のように思うようになった。

二~三遍うまく喧嘩の仲裁をして味を占め、『喧嘩の仲裁には喜楽さんに限る』と村の者におだてられ、ますます得意になって、『誰か面白い喧嘩をしてくれないか、また一つ仲裁して名を売ってやろう』と下らぬ野心にかられて、チッと高い声で話している門を通っても、聞き耳立てるようになっていたのである。

〔第37巻第2章〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3702#a112

ケンカの種がないか探し回っていたというのですから、まったくたまげた話です。

そして最後の9回目の大ゲンカで、袋叩きにされ、頭を負傷し、こてんぱに叩きのめされてしまったのです。

後に天地の神の洪恩を説き、「言向け和す」を唱えるようになる王仁三郎も、霊的覚醒の直前には、こんなふうに無神論に堕し、ケンカに明け暮れるような人生に転落していたのです。

順風満帆な人生を送っている人で、神に目ざめる人はそう多くはないと思います。
それまでの人生に、疑問を持ち、別れを告げ、新しい人生を送るためには、一度はとことんまで落ちなくてはいけないようです。
『こんな人生は嫌だ』と思わないことには、新しい人生を踏み出せません。

この喜三郎の、高熊山修業の前2~3年間のエピソードから、何を教訓として学べるでしょうか?

人それぞれ感じるものがあると思いますが……
私は「やろうと思ったことは自制せずに進んで行け」ということを感じました。

このとき喜三郎が、父の死後も自制して、他人とケンカするようなことを避けた人生を送っていたら、一体どうなっていたでしょうか?

世間一般には、それがまっとうな人生だと誉められるのですが、しかし人にはそれぞれ人生でやらなくてはいけないことがあります。
やるべきことをやらなくては、先に進めません。

世間体を気にして、やりたいことをやらずに、悶々とした日々を過ごしているのでは、とうてい、自分がこの世に生まれて来た使命を果たせるとは思えません。

やりたいことをやろうと、突き進んだ結果、悪しき状態に陥ったとしても、そこからの復活・再生が待っています。

ある意味では、それまでの人生でたまったカルマを解消しているのかも知れません。
それが単に悪い状態に見えているだけかも知れません。

喜三郎がケンカ番長になったのも、結局、それまでの人生で受けた社会からのさまざまな軋轢の、そこから生じる様々な欲求不満を、ヤクザとのケンカという形で、一気に解消したのだとも言えます。

そしてクリーンでクリアな気持ちになった後に、神様の御用に仕えることが出来るようになったのだ……
と見ることが出来ます。

「使命」とか言っても、実際には自分がこの先何をやることになるのかなんて、とうてい分からないと思います。

自分の願望として持っている「使命」と、実際に神様から与えられた「使命」とは、必ずしも同じとは限りません。

この道の先に何が待っているのか……
それは進んでみないことには分かりません。

喜三郎は己の自制の留め金を外してケンカ道を突き進んで行った結果、その先に、神の道が待っていたのです。

(続く)

次の文献も参考としてお読み下さい
〔聖師伝 12青年時代の煩悶〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B100800c12
〔大地の母2 05三大学則〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138902c05


この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2017年9月25日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック

喜三郎の修業 (1)

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年03月19日

霊界物語の舎身活躍(第37~48巻)は王仁三郎の前半生の自叙伝から始まります。
第37~38の二巻にわたって、明治31年(1898年)から大正5年(1916年)までの思い出が記されています。

王仁三郎がまだ「上田喜三郎」だった26歳、高熊山入山前夜の出来事から、45歳、神島開きの頃までです。

と言っても、ほとんどは明治期です。
これは大本草創期の活動記録でもあります。

この王仁三郎の半生記を「修業」という観点から読んで行こうと思います。

王仁三郎の霊魂の霊格はわれわれと較べようもないほど高いですが、決して、生まれてからすぐ立ち上がり「天上天下唯我独尊」と叫んだわけではありません。
肉体を持った人間・王仁三郎としては、やはりわれわれ凡人と同じように、世間の荒波にもまれ、神様から様々な試練を受けつつ、成長して行ったのです。

王仁三郎が青年期において、どのような修業を神様からさせられていたのかを、霊界物語第37~38巻を通して探って行き、私たちの人生の学びに役立てたいと思います。

●王仁三郎の自叙伝

王仁三郎の前半生を知る資料は、第37~38巻以外にもあります。
断片的ですが、次のものがあります。

第1巻の前半…高熊山修業の様子・霊界探検で目撃した出来事
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0101

第19巻第1章「(謡曲)高熊山」…高熊山入山直前の出来事(松岡神使が現れる)
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm1901

時間順に見ると、大分あちこちの資料に飛んでいます。
まず第37巻第3章から始まり、
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3703
第5章の真ん中の「…其為めに二月八日の晩にも、若錦一派の襲来を受くる様な事を自ら招来したのである。」の次が、同巻第2章になります。
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3702

そして次が、先ほどの第5章の真ん中「若錦一派に打擲され、頭を痛めて喜楽亭に潜んで居る処へ…」に繋がります。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3705#a185

その後は第19巻第1章に繋がり、その後は第1巻の高熊山修業です。

高熊山修業が終わり、下山した後の出来事は、第37巻第6章からになります。

このように、複数の資料をあちこち繋げ合わせて、ようやく王仁三郎の前半生が見えてくるのです。

霊界物語以外にも、やはり断片的ですが、自叙があります。

そのほとんどは『出口王仁三郎著作集 第5巻』の第一部「自叙 野に生きる」にまとめられています。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195305
(まだ一部分しかテキスト化していません)

この中でも特に「生いたちの記」は読んでおくといいです。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195305c103

これは原題は「故郷乃二十八年」という随筆で、王仁三郎の幼少時の思い出が記されています。

また『出口王仁三郎著作集 第1巻』に収録されている「本教創世記」にも、王仁三郎の幼少期や、大本草創期の出来事が記されています。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195301c05

『巨人 出口王仁三郎』や『大地の母』のような伝記によく書かれる「タダアイ事件」は「故郷乃二十八年」に、「久兵衛池事件」は「本教創世記」第1章に記されています。

王仁三郎の前半生を知る資料は、基本的には、本人が書いたこれらの自叙しかありません。
後半生は、大本信者や、マスコミ、治安当局等による資料が星の数ほどありますが、前半生は有名人ではなかったので、本人の自叙しかないのです。

肉体は「天人の養成所」であり、人間は生まれた瞬間から身魂の修業をさせられていますが、このシリーズでは幼少期を省き、神の道を歩み出した高熊山入山前夜からを対象にして話を進めて行きます。

●修業と修行

「しゅぎょう」には「修業」と「修行」の2つの表記があります。
広辞苑によると

修業…学問・技芸などを習いおさめること。

修行…悟りを求めて仏の教えを実践すること。/托鉢をして巡礼すること。/精神をきたえ、学問・技芸などを修めみがくこと。また、そのために諸国をへめぐること。

と書いてあり、国語辞典的意味では、両者の意味は少々異なるようです。
しかし王仁三郎的には、どちらも同じものとして使っていると思われます。特に使い分けている様子はなく、併用されています。

第1巻第1章の章題は「霊山修業」で、本文内でも「修業」が使われていますが、第2章の本文では「修行」が使われています。
また第37巻第8~10章では、同じ章の中で「修業」と「修行」を混用しています。
とても使い分けているようには思えません。

ですから王仁三郎的には修業でも修行でもどちらもいいのですが、霊界物語内でその言葉が使われている数を数えてみると、

修業 275回
修行 206回

というぐあいに、若干「修業」が多いです。
したがって、このシリーズでは「修業」を使いたいと思います。

(続く)


この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2017年9月21日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック