カテゴリー別アーカイブ: 三鏡

三鏡解説021 碁と将棋は嫌い

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年09月18日

●水鏡「碁と将棋は嫌い」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg021

 私は碁と将棋が一番嫌いだ。あんな事をして、一体何になるのだ。時間の空費ではないか。

 歌を読んでも字を書いても、何かそこに残って行くものがある。碁、将棋には、残る何物もがない。全く、時間と精力の空費である。

初出:『神の国』大正15年(1926年)6月号

碁や将棋ファンには何ともショックな話だと思いますが、しかしこれは碁や将棋自体を否定しているわけではありません。
早とちりして、碁や将棋を蔑視するようなことは間違いです。
それに、碁や将棋をすることだけを問題視しているわけではありません。

「ヒマだから将棋でもするか~」と、暇つぶしとして碁や将棋をするようなことを否定しているのです。当時の男性の暇つぶしとしては、碁や将棋がポピュラーなものだったのではないかと思います。
現代なら、暇つぶしでテレビを見たり、スマホでゲームをするようなことです。
そんなことをしても時間とエネルギーの無駄である、暇つぶしするならクリエイティブなことをせよ、というのです。

仕事で疲れた頭を休めるのにテレビを見るのはとてもいい気分転換になります。ボケーとしてテレビをながめているだけで、あちらから何かおもしろいことを言ってくれるのですから、とても楽です。
しかしそれは気分転換という目的があるからいいのであって、休みの日に他にすることがなくて一日中テレビを見たり、ゲームをしたりするようなことでは時間の浪費です。何のために生きているのか分かりません。

王仁三郎のように和歌を詠んだり、書や絵を描いたりしてもいいでしょう。また、手芸やDIYや園芸に精を出したり、ボランティア活動に参加したり、クリエイティブなことはいくらでもあります。
人としてこの世に生きている以上、自分が楽しめればそれでいいということではなく、何かこの世に残るようなことをしたり、他人の役に立つようなことをすべきでしょう。

ネットでゲームをしたりユーチューブを見るだけよりは、インスタに写真を載せたりニコニコ動画にコメントを書いたりする方が、まだ多少はクリエイティブかも知れませんね。受信だけの人生、貰うだけの人生では空しいです。発信したり、与えたりしてこそ、人の役に立つのであり、この世に生まれて来た義務を果たせます。

会社で働いている人の場合、人生における比重がどうしても会社の仕事(労働)が主になり、家にいる時は従になりがちです。家にいる時は、家事を除き、「余暇」の時間です。労働時間の短縮と共に余暇の時間が増えて来て、余暇をどう過ごすかということが、近代社会が抱える課題の一つでした。

今までは会社が人生の主舞台でしたが、これからは会社以外が人生の主舞台になって行きます。会社の労働はどんどん単純化され、ロボットやAIに取って代わって行くので、人間がやる労働は少なくなって行きます。ミロクの世には1~3時間働けばいいようになると王仁三郎は言っています(注)。ではそれ以外の時間は何をしたらいいのでしょうか???

つまり労働以外は余暇、ではなく、労働以外こそが人生の主たる時間となるのです。
その人生の長い時間を、テレビやゲームで空費するのでは、あまりにも空しいですね。
クリエイティブなことをして人生を送りたいものです。

(注)出口京太郎『出口王仁三郎の示した未来へ』p101 「王仁三郎翁は”ミロクの世が来たら、労働時間は、一日一時間から三時間で足りる”とおっしゃっています」


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この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2019年7月8日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック


三鏡解説020 私と仕事

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年09月17日

●水鏡「私と仕事」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg020

 私は常に何か仕事をしておらねば苦しくって仕方がない。手を動かすか、足を動かすか、口を動かすかしておらねばならぬ。この働くことを止めると、神様は直ぐ私を他の方面にお使いになる。即ち方々から祈りと、助けを呼ぶ声が聞こえて来る。そうなると体が苦しくって仕方がなくなる。

 私は口癖のように、えらいえらい(注・苦しいの意)と言うが、医師が見ると、どこも悪くないと言う。けれど私は実際苦しいのである。仕事をしていればその苦しさは取れてしまっているから、私はちょっとも手をやすめずに仕事をしているのだ。

 仕事をして全く疲れ果て、床に横たわると直ぐ寝るようにせねば、私は苦しくてかなわぬ。それだから停車場で汽車の来るまで長く待たされたり、写真を撮るとき暇をかけられたりすることは、私に取って一番つらいことである。

 方々から招待せられることもつらい、私は御馳走も何もちっとも欲しくはないのだ。招待してくれる人の好意は受けるが、前言う通り、暇ができると神様の方で直ぐ私の体をその方に使われるのであるから、じっとしてお膳の前に長い時間座らせられるのはどのくらい苦しいか分からぬ。

 私の身体(からだ)は他人(ひと)のとは違い、他人の楽なときが苦しく、苦しいときが楽なのである。

 山海の珍味で私を慰めてくれるつもりで、私を招待してくれることは、実は私を苦しめることだ。それよりも楽焼(らくやき)をひねっている(注・茶碗などの陶器作りのことで、大正15年2月から始めた)方が、どのくらい嬉しいか分からぬ。

 神様は一分間も私の体を無駄にはお使いにならぬのだから。たとえば裁判所などへ行っても(注・大正10年の第一次大本事件の裁判のことで、昭和2年まで続いた)、尋問を受けとる間は少しも苦しくないが、待たされるとつらい。

 どうか皆が私のこの天職を理解して、嫁娶(よめとり)だ、婿貰いだ、なに祭りだ、かに祭りだと、いろんなことに引っ張り出してくれぬと、私は本当に助かるのだ。

 二代(注・二代教主の出口澄子)は、せっかくあなたに来ていただこうと思っておるのだから、行ってお上げなさいと言う。私はそう言われると気の毒になって、行くには行くけれど、その苦しさは、皆の想像外である。

 私は今までに楽な日がたった二日あった。そのときは体が軽くて、気持ちがよくて、こんな楽なものならば長生きがしてみたいと思った。綾部へ帰って聞いたら、その二日間、二代がたいそう体が悪くて、ひどく苦しんでいたということだ。

 私は仕事をしている以外は苦しくてしょうがないから、早く昇天したいと思っている。長命したいなと思ったことはない。

 また私は神様からこんなことを聞いている。「お前が国替(くにがえ)(注・死んで霊界へ帰ること)したら、後のものがよほど注意して死骸を守っていないと、悪魔が取って行ってしまう」と。それだけ悪魔は私を憎んでおるのだ。

初出:『神の国』大正15年(1926年)6月号か8月号

早く昇天したい、長生きしたくない…というのは衝撃的な発言ですが、しかしそれだけ王仁三郎は苦しかったのでしょう。

しゃべったり、体を動かしたりしていないと、あちこちから祈りの声や助けを呼ぶ声が聞こえてくるというのですから、たいへんな毎日です。

「神様は一分間も私の体を無駄にはお使いにならぬのだから」と言っていますが、それに関連して、月鏡に次のような発言が載っています。

●月鏡「碁盤を買うた」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg350

(略)私には時間が大切である。碁(ご)を打って楽しむようなときは少しもない。ときに他の人の二~三時間が私にとっては二~三年に相当することがある。私には神様から仰せつかっている経綸というものがあるので、ほんの二~三時間ですからと他の人は言うが、その二~三時間の間に流星光底長蛇(りゅうせいこうていちょうだ)を逸(いっ)す(注・せっかくのチャンスを逃すの意)の悔いを招いて神様に申し訳のないことができると、私はほんとうに苦しい。

 そりゃ比較的ゆっくりした時間をたまに持つときもあるけれど……だから私はいつも思う。私の行動だけは、私の自由意志に任して欲しいと。

 皆さん方が好意をもって方々へ案内して下さるその誠心(まごころ)は全く嬉しいけれど、実のことを言えば、吉野の桜も、耶馬渓(やばけい)の勝(しょう)も私はいながらにして、霊眼で見ている方が楽なのである。それでもみんなは見たかろうと思って……。(略)

補足説明すると、地方に巡教に行くと、聖師様が見たかろうと思って信徒が景勝地に案内してくれるわけです。しかし神様の御用が忙しいし、他人が楽だと思う時が苦しいので、有り難迷惑だというわけです。

しかしせっかく案内してくれるというのだから、行けば信徒が喜ぶだろうと思って、苦しみながらも行ってしまうのでしょう。そんな王仁三郎の姿が目に浮かびます。


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三鏡解説019 霊と記念物

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年09月16日

●水鏡「霊と記念物」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg019

 霊というものは、篭めれば篭めるほど深くなるものである。私は茶碗を一つ捻(ひね)るにも一々性念を篭めてやるのであるから、深く霊が入っている。それ故、この器で毎日湯でも茶でも呑んでいると、相応の理によって、おかげをいただけるのである。

 私がやろうとも思わぬのに、くれくれと言うて貰っても、おかげは少ない。また、やろうと思うものを辞退するのもおかげがなくなる。滅多に人から記念物を貰うのもよくないことである。霊が反対していると、品物を貰うたがために、とんだ災難を受けることがある。

 生前お互いが好意を持ちあうていたものの記念物でなくては貰うものではない。また自分が一番愛していたものに一番霊が篭もるものであるから、昔はその一番愛していたものを御神体として祭ったものである。

 ただし、心を篭めるというのと、霊を篭めるというのとは意味が違う。

初出:『神の国』大正15年(1926年)6月号

心を篭めることと、霊を篭めることとは異なると言うのですが、どのようにすれば霊を篭めることが出来るのかは分かりません。

自分が一番愛していたものに一番霊が篭もるということなので、たとえばその物と会話をするような感じで接するのならば、霊が篭もるのでしょうか?

人形なんかに、霊がよく篭もりそうですよね。。。

最初に茶碗のことが書いてありましたが、いわゆる耀盌(ようわん)と呼ばれる、色彩豊かな茶碗を作ったのは、昭和20~21年です。しかし楽焼を始めたのは大正15年2月からなので、この発言の時はすでに茶碗を作っていました。


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三鏡解説018 神、耶、仏すべてを信ず

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年09月15日

●水鏡「神(しん)、耶(や)、仏(ぶつ)すべてを信ず」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg018

 バイブルから、奇跡を除かんと企てた耶蘇教(やそきょう)(注・キリスト教のこと)信者がある。誤れるもはなはだしいものである。

 耶蘇教より奇跡を取り去れば、それはもう宗教でなくて倫理学である。

 私は仏教、耶蘇教、神道の総てを信ずるものである。

初出:『神の国』大正15年(1926年)6月号

聖書の奇跡とは、たとえばイエス・キリストが病人の病を癒やしたとか、嵐を静めたとか、水の上を歩いたとか、そういう超常現象です。
マリアが処女懐胎してイエスを産んだこともそうですし、何より一番大きな奇跡は、十字架に架けられて殺されたイエスが甦ったこと(復活)です。

聖書から奇跡を除くというのは、つまりそれらの奇跡を否定するということです。
そういうクリスチャンは近代科学の発達と共に増えています。聖書の内容を、科学的な知見に合わせて合理的に解釈しようという人たちです。

ここで王仁三郎が批判しているのは、誰か特定の人を指しているのか、教派を指しているのか分かりませんが、たとえば自由主義神学と呼ばれるものは、その一つのようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E7%A5%9E%E5%AD%A6

しかしここで王仁三郎が言いたいことは、聖書に書いてある奇跡を信じろということではありません。
キリスト教に限らず、宗教から奇跡(超常現象)を取り除いてしまったら、ただの倫理学になってしまう、ということです。

他のところでも似たような発言があります。そちらの方が、王仁三郎が言いたいことが、より詳しく分かります。

●出口王仁三郎全集第2巻 皇道大本は宇宙意志の表現 (初出:『神の国』昭和7年3月号)
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121802c119

 今までの既成宗教は霊界に偏し、今日の学者は現界に偏し、哲学者は不可思議力、あるいは色々なものに偏して、中庸を得たものは一つもないのであります。それで宗教家は科学を馬鹿にし、科学者は宗教を馬鹿にしている。しかるに今日の既成宗教家は、すべて自分の唯心論的宗教を幾分か軽蔑して、科学に迎合するようになって来ました。

 それで基督教などでも、聖書の中にある奇蹟などはみな云わぬ事にしている。奇蹟を云ったならば、今日の文明の世の中に馬鹿にされる、というような考えを持つようになってしまったのであります。

 基督教のみならず、仏教の坊主もそうなって来たのであります。しかし既成宗教において、経典やバイブルから奇蹟を抜いたならば、後は何ものもないのである。真理の方面から云えば、みんな勝手な理窟が並べてあるのであって、ともかく不思議でわからないと云うのは奇蹟だけである。その奇蹟もほとんど後人(こうじん)(注・後世の人)が作成したものが多い。けれども、それがなかったならば、既成宗教はすっかり零(ぜろ)になってしまう。

次の文章は、上の文章を少し書き直したものです。

●『惟神の道』「愛善道の根本義」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B123900c008

 今日までの既成宗教は霊界に偏し、現代の学説は現実界にかたより、特に哲学者は瞑想的な推理推論に走り、何れも中庸を得たものがない。そこで、宗教は科学を馬鹿にし、科学は宗教を軽蔑している。しかも今日既成宗教の総ては、自ら唯心論的宗教の根本義を幾分軽視して科学に迎合するようになって来た。

 たとえば基督教の如き、中には奇蹟なんかをなるべく口にせぬ教派もある。そうしてこの種の教派の方がいわゆる知識、大衆にうけ容れられる傾向があるので、ますますこの風潮が高まって行くのである。奇蹟を語れば、今日の文明の世の中に馬鹿にされるから、これを避けるようになってしまった。基督教のみならず、仏教の坊さん達も同様になって来た。

 しかしながら、既成宗教において、今までの奇蹟を抜いたならば残るところは何にもない。教理の方面はみんな後の人々が勝手に理屈をつけて列(なら)べ立てたのであって、深遠なる教典は主としてその奇蹟に出発しているのであるから、それが無かったならば、宗教というものはない。即ち既成宗教は零(ぜろ)になってしまうのである。この点が今日の既成宗教が通俗化して遂に低級なる倫理道徳の方便教になってしまった主因である。

新興宗教はたいてい奇跡を売り物にして人を集める場合が多いですが、既成宗教は奇跡が起きなくなり、教えを合理的に解釈し、「倫理道徳」と化してしまうのです。

しかし倫理道徳は、信仰とは異なります。
神を信じること(信仰)によって安心立命をはかるのが宗教の役目です。
倫理道徳から信仰は芽生えません。

本来、奇跡というものは、人々を神に目覚めさせるためにあります。
人々が神を信じないので、信じさせるために奇跡を起こすのです。
奇跡自体が重要なのではありません。
奇跡が起きて病気が治ったとしても、いつかは死にます。
今、奇跡が起きて病気が治るのは、その人を信仰に導くためです。

目に見えないもの(神)を信じさせるのだから、常識的なことではなく、超常的な何かが必要になります。
神という、人間を超えた存在を感じさせる何かです。
王仁三郎も、鎮魂帰神で神懸かりを体験させたり、病気治しを行ったりして、人々に超常現象を見せていました。
王仁三郎の場合は、雛形とか数運というものも超常現象です。
そういった超常的なことを否定して、科学や常識の範囲内で解釈してしまったら、それは「倫理道徳」であって、信仰とは異なるものになってしまいます。

しかし、その超常現象(奇跡)自体が重要なのではありません。
信仰の最初のうちは、偶然の一致というものに一喜一憂します。
たとえば買い物をしてレジに「567円」と出ると、
キタ━━━(゚∀゚)━━━!!
と大喜びするのです。

しかし信仰が深まり、神と共に歩み、神を近くに感じるようになると、そういうことにいちいち反応しなくなります。
「神の存在を信じる」という段階から、「神の存在を知っている」という段階になると、奇跡があろうとなかろうとどうでもよくなるのです。
今ここに生きていることが奇跡であるし、宇宙があることが奇跡です。
日常の、何気ないことに喜びを感じることが出来るようになれば、もはや特別な奇跡など必要なくなるのです。

ですが、もちろん、奇跡はないよりあった方がいいです。
宝くじが外れるより、7億円当たった方がいいに決まってます!!!
しかし宝くじが外れたからと言って、神に見放されたわけではありません。
それは『今のあなたには必要ない』という神のお告げです。

ところで冒頭の水鏡の最後に「私は仏教、耶蘇教、神道の総てを信ずるものである」と書いてありました。
これは、宗教の普遍的な原理において信ずる、という意味だと思います。
どの宗教も表面的なことはみな異なりますから。
「後の人々が勝手に理屈をつけて列(なら)べ立てた」教えを信じたって仕方がないです。
そうではなく、普遍的な信仰という点において、仏・耶・神(のみならず全ての宗教)を信ずるのだ、ということだと思います。


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三鏡解説017 艮の金神様

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年09月14日

●水鏡「艮の金神様」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg017

 艮(うしとら)という字にはハジメ、カタマル、ナガシ、トドメ等の意味がある。世をハジメ、カタメ、トドメをさす神様である。

 金神(こんじん)の金は金剛力であり、また金は総ての物を清浄にするものである。お守りの袋に金襴(きんらん)を用いたり、神様のことに錦(にしき)や、金を使用するのはこの理によるのである。

 即ち、金神は至清至粋の金剛力を有する神の謂いである。世を始め、世を固め、艮(とどめ)を刺す至清至純の金剛力を持った神様が艮の金神様である。

初出:『神の国』大正15年(1926年)6月号

「艮の金神」という神名の意味を説いていますが、入蒙記第2章「神示の経綸」に、もう少し詳しく書いてあります。
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rmnm02&mky=a137-a145#a137

艮といえば東北を意味し、神典(注・古事記のことか?)にては日の若宮の方位であり、万物発生の根源であって、太陽の昇り玉う方位であります。

また艮という字義は、艮(とど)めとなり初めとなり固めとなり永(なが)しとなり、世の終りの世の初まりの意味となります。

金神という意味は売卜者(ばいぼくしゃ)(注・占いを商売とする者)の云っている方除(ほうよ)けをせられたり、祟り神として排斥せられているような、人間の仮りに造った神の意味ではなく、尊厳無比 金剛不壊の意味を有し、三界をして黄金世界に完成し玉う救いの神という、約(つづま)り言葉(注・短くした言葉)であります。

王仁三郎は、「艮」という文字には、始め、とどめ(終わり)、固め、永し、という意味があると言うのですが、辞書を引いても、そんなことは書いてありません。

手元の『漢字源』(学研)には「艮」の意味として、

①周易の八卦(ハッカ)の一つ。また、六十四卦の一つ。艮下艮上(ゴンカゴンショウ)の形で、陽が上をさえぎり、陰が下にたまって動きのとれない姿を示す。
②うしとら。十二支を配当した方位・時刻の一つ。方角では東北、時刻では午前二時から四時にあてる。丑寅。
③とまって動かない。おしが強い。強情な。

と書いてあります。
とうてい「始め」とか「終わり」とかいう意味に解することは出来ません。

読み方も、訓読みは「うしとら」、音読みは「コン」または「ゴン」であり、入蒙記に書いてあったような「艮め(とどめ)」という読み方はありません。

広辞苑でも似たような意味です。

昔は違う意味もあったのかなと思って戦前の漢和辞典を調べてみました。
三省堂編輯所・編『漢和大字典』(大正4年)には「艮」の意味が次のように書いてあります。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936282/635 (国立国会図書館デジタルコレクション)

一 易の卦の名 艮下艮上
二 うしとら。
 (い)東北。
 (ろ)午前二時より同四時までの時刻。
三 とどまる、(止)、又、かぎる、(限)。
四 かたし。
 (い)堅し。
 (ろ)難し。

現代の『漢字源』と似たようなものですが、四番目の「かたし」だけは、王仁三郎が言う「固め(カタマル)」と一致します。

三番目の「とどまる(止まる)」は、「とどめ(終わり)」と似ています。
上田万年、松井簡治・著『大日本国語辞典』(大正6年、金港堂書籍)に、「とどめ」の意味として「とどむること。さしとむること。抑止すること」と書いてあるので、これも一致していると考えてよいと思います。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954647/530 (国立国会図書館デジタルコレクション)

しかし「始め」に対する「終わり」という意味ではありません。

それに「始め」とか「永し」という意味は、どう調べても見つかりません。
どうやら国語的・漢字的な意味ではないようです。

「艮」はもともと易の卦(け)の名称だというので、そちらも調べてみました。
「艮為山(ゴンイサン)」と呼びます。
戦前発行された、高島易断研究会・著『易の神秘』(昭和13年、大洋社)p171~174
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1056519/102
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1056519/103
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1056519/104
(国立国会図書館デジタルコレクション)

やはり、「始め」「終わり」という意味はなさそうです。
「止(とど)まるに宜(よろし)く進(すすむ)に損あり」と書いてあるので、物事の「終わり」にはいいかも知れませんが、物事を「始める」には適していないようです。

ということで、一般的にはそういった意味はないようなので、特殊な、宗教的な思想のようです。

大本神諭には「艮」と書いて「とどめ」と読ませる箇所が多数あります。
たとえば、

「綾部の大本は、艮めであるから、今までの真似は出来んから」〔『大本神諭』明治35年旧6月3日〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=os197

「今度は天晴れと表になりて、三千世界の艮めを刺すのであるぞよ」〔『大本神諭』大正元年旧7月30日〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=os235

「どんな苦労も致してこの方に付いて来る身魂でないと、の御用には使わんぞよ」〔『大本神諭』大正5年旧5月18日〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=os256

というようにです。
出口直が書いた「筆先」は平仮名と漢数字だけで書いてあり、それに漢字を当てはめて「大本神諭」として発表したのは王仁三郎です。
ですから、王仁三郎が「とどめ」という言葉に「艮」という文字を当てたのです。

それは一体何故なのか?
王仁三郎のオリジナルなものなのか?
それとも、それ以前から「艮」を「始め」「終わり」とする思想があったのか?

その辺りははっきりとは分かりません。
推測ですが、二つあります。

一つは、筆先で、三千世界のトドメを刺すのは艮の金神であるとされているので、艮をトドメと読ませた、ということです。
そしてまた艮の金神は、この世を造った根本の神様だとされているので、艮にハジメという意味を与えた、ということです。
つまり大本神話によって「艮」という文字に新しい意味を与えたのだ──というのが一つ目の推測です。

二つ目の推測は、二十四節気と二十四方位を当てはめた場合、艮は立春に当たり、立春は年の始まりであり、年の終わりでもあるので、ハジメ・トドメという意味を与えた──というものです。

一年で一番日の短い冬至を北に、一番日の長い夏至を南とした場合、立春は艮(東北)に当たります。

↓こちらにどなたかが作られた図があるのでごらん下さい。
http://china-fusui.sakura.ne.jp/official/wp-content/uploads/imgs/1/8/18e5487c.bmp

二十四節気
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%9B%9B%E7%AF%80%E6%B0%97
二十四山(二十四方位)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%9B%9B%E5%B1%B1

五六七の世の暦は立春が元日です。
一年の始まりは一年の終わりでもあります。
そのようなところから、「艮」は始めであり終わりであるとする考えが出て来たのかも知れません。

五六七の世の暦(十ヶ月暦)はこちらをお読み下さい。↓
●ミロクの世の暦「十ケ月暦」の謎
https://iizukahiroaki.com/?p=620
●「恒天暦」とは?
https://iizukahiroaki.com/?p=626

なお、「永し」については全く分かりませんでした。真の神は生き通しですから、永遠無窮ということでしょうか?

入蒙記に「艮といえば(略)日の若宮の方位であり、万物発生の根源であって、太陽の昇り玉う方位であります」とありましたが、これもよく分かりません。おそらく神道界にそのような思想があるのだと思います。
日本書紀では日の若宮は「日之少宮」と表記されてますが、釈日本紀や日本書紀纂疏に、日之少宮は艮の方位にある、ということが記されており、そのあたりが出所だと思います。
これについてはまた後でゆっくり調べたいと思います。
(参考)
神道史研究 – Googleブックス
国史大系第7巻 釈日本紀巻六 p596 7行目 – 国立国会図書館デジタルコレクション
慈性日記 第2巻 p268 5行目 – Googleブックス


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