作成者別アーカイブ: 飯塚弘明

喜三郎の修業 (17) 排除しない「言向け和す」の精神

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年05月11日

喜三郎が初めて参綾して出口ナオに面会した時、高熊山修業の際に霊界で見た「幽庁の大王」の顔を思い出した…ということが霊界物語第1巻に書かれています。

幽庁の大王というのは、俗に言う閻魔大王のことで、その正体は艮の金神(国祖・国常立尊)です。
その顔と出口ナオの顔がよく似ていたというのです。

閻魔大王というと恐ろしい形相というイメージがあります。しかしそれは、心に後ろめたいことを抱えている人が見た場合に、そのように見えるのであって、誠の心を持っている人が見た場合には、温和で慈愛に満ちた容貌をしているというのです。

引用してみます。

…今までの恐ろしき形相は跡形もなく変わらせたまいて、また元の温和にして慈愛に富める、美(うる)わしき御面貌に返っておられた。
神諭に、

『因縁ありて、昔から鬼神(おにがみ)と言われた、艮の金神のそのままの御魂(みたま)であるから、改心のできた、誠の人民が前へ参りたら、結構な、いうに言われぬ、優しき神であれども、ちょっとでも、心に身欲(みよく)がありたり、慢神(まんしん)いたしたり、思惑がありたり、神に敵対心(てきたいごころ)のある人民が、そばへ出て参りたら、すぐに相好(そうごう)は変わりて、鬼か、大蛇(おろち)のようになる恐い身魂(みたま)であるぞよ』

と示されてあるのを初めて拝したときは、どうしても、今度の冥界にきたりて大王に対面したときの光景を、思い出さずにはおられなかった。

また教祖(注・出口ナオのこと)をはじめて拝顔したときに、その優美にして温和、かつ慈愛に富める御面貌を見て、大王の御顔を思い出さずにはおられなかった。

〔第1巻第7章「幽庁の審判」〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0107#a069

心の持ち方一つで、神の姿も、この世界の見え方も、違って来るのです。
この世は地獄だと思っている人には、ミロクの世は永遠に訪れません。

さて、この当時(明治31年)の大本は、金光教(こんこうきょう)の傘下にありました。

金光教は安政6年(1859年)に岡山県で誕生した新宗教で、やはり金神系です。
https://kotobank.jp/word/%E9%87%91%E5%85%89%E6%95%99-67177

出口ナオに艮の金神が懸かった明治25年(1892年)は、すでに開教してから33年経っており、それなりに教勢も拡大して、丹波地方にも教会がいくつか出来ていました。

ナオは神懸かりになったとはいえ、宗教に関して特別な知識も技術もありませんでしたから、神様を祭るにしてもどうしたらいいのか分からなかったでしょう。
それにそもそも現代のように信仰の自由だの、結社の自由だのが不十分な時代だったので、宗教活動をするにはどこか公認された教団の傘下に入らなくてはいけなかったのです。

出口ナオの三女・福島久子が、ナオより二年早く明治23年に神懸かりになっており、金光教に祈祷してもらったのをきっかけに、久子夫婦は金光教の信者になっていました。
そういう縁もあって、ナオは金光教の世話になったのです。

最初は、亀岡の金光教会から奥村という布教師が、次いで京都の教会から足立という布教師が綾部にやって来ました。

ナオの周りには病気直しなどで信者が集まって来ました。
当局の目が光っているため独立して活動は出来ず、それら金光教の布教師の下で宗教活動をしていたのですが、足立の方では、金光教の布教のためにナオを利用するだけで、その懸かっている神「艮の金神」のことは重視しませんでした。
ナオは艮の金神を世に出したいのですが、金光教の下で活動していたら、それは望めませんでした。
そこへ、この神を表に出す人と筆先で予言されていた人物が現れたのです。
それが上田喜三郎、後の出口王仁三郎です。

そういうわけなので、喜三郎は出口ナオが待望していた人だったのですが、しかしその周りの役員信者らにとっては、あまり望んでいない人でした。

年が若いし、よそ者ですし。
喜三郎が綾部に来る6年前から、出口ナオの周りで活動していた人たちにとっては、喜三郎は新参者です。新米の若造に活動の主導権を取られてはたまりません。

人が集まるところには様々な利権が発生します。
お金も得られるし、地位や名誉も得られます。
一度握った利権はなかなか手放せないことでしょう。

喜三郎が最初に参綾した時(明治31年10月8日)は、足立を始め幹部らに反対運動をされ、時期未だ至らずと、2~3日滞在しただけで綾部を去り、園部で宗教活動をしていました。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3721#a043

翌年、綾部からナオの使者がやって来て、喜三郎は大本入りする決心をし、綾部に移住したのです。(明治32年7月3日)
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3721#a230

喜三郎は金明会(きんめいかい)という団体を組織して、幽斎修業などに取り組み出しました。

しかしその時でもまだ足立らは喜三郎に反対し、妨害活動を続けていました。
やがて足立らは劣勢となり、足立の周りには信者が誰もいなくなってしまいました。信者は喜三郎の金明会の方に寄りつくようになったのです。

そうすると足立は我を折って「改心するから金明会に入れてくれ」と頭を下げてきました。
しかし金明会の役員会では、足立を入れないことに決めます。

…足立氏が尾を振って来たのは、心のうちから金明会へ心従しているのではない。老母や子供がたちまち糊口(ここう)に窮する(注・つまり生活に困る)ところから、一時の窮策として表面心従したと見せかけ、時機を見て金明会を転覆させ、喜楽先生を放り出す計略なる事は、今までの足立氏の行動に徴して明白だから、今度のいい機会を幸いに一切の関係を絶つ方が上分別だと、今まで同氏の熱心な教養をうけたものさえ、極力排斥を主張するようになって来た。

喜楽は足立氏の境遇を憐れみ、かつ、また今まで金光教を信じていた役員や信者の人情の浮薄冷酷なるに呆れ果て、

『(略)こんな薄情な人間のところへおってはとうてい駄目だ。自分さえここを立ち去ったならば足立氏親子の困難は除かれるだろう。世人の困難を救うべき神の取次(とりつぎ)が人を困らせてはならない』

と思ったから、四方氏を始め重なる役員に向かい、

上田『私がここへ来たために、足立氏親子が困難を来たすべき結果を生じたのだから、私は同氏に対して済まないから今日から帰ります。どうぞ足立氏と仲良うして神様の御用をして下さい』

と申し込んだ。
そこで数多の役員は大いに狼狽(ろうばい)し、鳩首(きゅうしゅ)謀議の結果、

『足立氏の処置については上田先生に一任しますから、ぜひとも教祖様のそばに居て、大本の宣伝に力を尽くして下され』
と異口同音に頼み込む。

そこで喜楽は足立氏を金明会の副会長に任じ、金明会の名のもとに仲良く神務に奉仕する事となった。
出口教祖も足立氏の身の上につき心ひそかに非常な心痛をしておられたが、喜楽の同情ある処置に対し、非常に安心をしたと云って感謝せられた。
足立氏は大変に喜び、役員信者も喜楽の赤誠(せきせい)に感じ、直ちに今までの態度を改め、教祖に次いで喜楽を師匠と尊敬し出した。

一時は大争乱が勃発しそうの模様のあった金光教対金明会も、ここに円満な解決が出来て、双方とも心持ちよく勇んで和合のうちに神様の御用に尽くす事を得たのである。

〔第37巻第21章 後半〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3721#a299

何と喜三郎は、自分を追い出そうとした足立を、立場が逆転したからといって追い出し返さずに、仲間に入れてしまったのです。

仕返しをせずに、排除しなかったのです。

これはまだ王仁三郎が三十歳前の時のエピソードですが、こんなところにも「言向け和す」の精神が顕れています。

足立はお金のため、生活のために宗教活動をしていたのですが、しかしそんな彼が開教間もない大本を支えて来たことも事実です。
そういう功労者を、敵対するからといって追い出さずに、手元に置いて仲間にしてしまうなんて、まさしく「言向け和す」です。

その喜三郎の慈愛に満ちた精神に他の人たちも感じ入って、それまでの態度を改め、対立が解消されて和合することが出来たのです。

そして喜三郎の株も上がり、ただの若造ではなく、尊敬される人物になったわけです。

しかしそれで、めでたしめでたしではありません。
それは一時的な平和に過ぎず、再び嵐が吹き荒れ出すのです。

(続く)


この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2017年11月16日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック


喜三郎の修業 (16) お歯黒と陣羽織の謎

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年05月07日

喜三郎が初めて綾部へ行って出口ナオと面会したのは、明治31年(1898年)10月8日(旧8月23日)です。
高熊山修業からおよそ7ヶ月ほど後のことです。

このとき喜三郎は、男のクセにお歯黒を付け、陣羽織(じんばおり)を羽織り、手にはコウモリ傘とバスケットを持つという、たいへん奇妙ないでたちでした。

陣羽織というのは武士が陣中で来ていた服で、一見チャンチャンコか、丈の長いチョッキのような感じです。
(例)
http://samue.co.jp/isyou/odanobunaga/nobunaga_500b.jpg
http://www.samurai-store.com/armor/images/acs/jinbaori/Jinbaori01.jpg

文献によっては陣羽織ではなく打裂羽織(ぶっさきばおり)を着ていたと書いてあるものもありますが、どちらも似たような服です。

この変ないでたちのことは、霊界物語には「異様な姿」(第37巻第21章)
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3721&mky=a012#a012
としか書いてありませんが、『開祖伝』や『巨人出口王仁三郎』、『大地の母』など他の文献には書いてあります。

ただし、情報が混乱していて、下に括弧書きで書いてあるように、変ないでたちをしていたという時期や場所はバラバラです。

◆『開祖伝』……明治31年旧6月、八木で、福島久子に出会った時。
「綾部の東方に当る八木の福島に縁づかれた久子さんが、母の身の上を見分ける人を捜すため、わざわざ八木の町はずれの虎天堰という灌漑用の堰がある所の枝振りのよい松の木陰に、茶店を開いて待っておられました。
 そこへ手に大きな鞄をさげ、陣羽織のようなものを着、鉄漿をつけた異様な扮装いでたちの青年が一服しました」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B100600c22#a025

◆出口京太郎『巨人出口王仁三郎』 p53……開祖伝と同じ。
「喜三郎は、このとき、おはぐろをつけ、陣羽織を着て大きな鞄をさげるという異様な風体をしていたと『開祖伝』にあるが」

◆『大本七十年史』……明治31年10月、綾部で、初めて出口ナオと面会した時。
「一〇月八日(旧八月二三日)、綾部の裏町(現在の若松町)で、喜三郎は、はじめて大本開祖とあった。その日の喜三郎の姿は、陣羽織をきて、口にはおはぐろをぬり、手にはコウモリ傘とバスケットをもつという、念のいったいでたちであった」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195401c1512

◆出口澄子の自叙伝『幼ながたり』……明治32年7月、綾部で、出口ナオと二度目の面会の時つまり喜三郎が綾部に移住した時。
「明治三十二年の梅雨もそろそろあけかける頃のことでありました。私は大原のお茶よりの仕事がすんで、裏町の教祖さまのもとに帰ってきました。
 そのおり私は、不思議な人を見ました。その人は年齢は二十七、八ぐらい、男のくせに歯に黒くオハグロをつけ、もうそろそろ夏に入ろうとするのに、お尻のところでニツに分かれているブッサキ羽織というものを着て、ボンヤリ縁側から空を眺めていました。私は変わったその姿をみながらも何処かで一度見たことのあるような気がして来ました。「安達ガ原」という芝居に出てきた、お公卿(くげ)さんの姿の貞任(さだとう、安倍貞任)に、そっくりの感じでした。」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B124900c27

◆出口和明『大地の母』第6巻p61~「変わった人」……幼ながたりと同じ。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138906c02#a0200

文献によって時期は3つに分かれていますが、3回ともお歯黒・陣羽織だったのかも知れません。

しかしともかく、お歯黒(鉄漿とも書く)に陣羽織という奇妙な格好で西北へ旅立ったことは事実のようです。

   ★   ★   ★

男のクセにお歯黒をしていた、というのは、とても印象に残るスタイルですが、いったいなぜ喜三郎はお歯黒をしていたのでしょうか?

お歯黒は現代のホワイトニングのように歯の汚れを目立たなくしたり、歯並びの悪さを隠したり、また虫歯の予防にも役立っていたようです。
美容と健康が目的ですが、成年の印でもあります。

お歯黒と言ったら女性がするもの(江戸時代は結婚した婦人はみなお歯黒をした)という固定概念がありますが、『幼ながたり』にも書いてあったように、実は昔は公家さんもしていました。
元服(15歳前後)して成人した証しにお歯黒をしたのです。

しかし明治3年に政府から皇族にお歯黒禁止令が出されました。
近代化(西洋化)の一環だと思います。
その後、民間でも徐々に廃れて行ったようです。
(参考 ウィキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E6%AD%AF%E9%BB%92#.E6.AD.B4.E5.8F.B2

民間でもお歯黒の風習が廃れつつあったのに、喜三郎はなぜお歯黒をしていたのか?
本人が何も言っていないので(私の調査では王仁三郎本人が言及している文書は見つけることが出来ませんでした)はっきりしたことは分かりませんが、『大地の母』では、祖母の宇能(うの)が喜三郎にお歯黒を付けたのであろうと推測しています。

喜三郎の実父は有栖川宮熾仁親王ですが(出口恒著『誰も知らなかった日本史』参照)、皇族の子であることを意識して、宇能がお歯黒を付けてあげたのだろうという推測です。

喜三郎は明治31年10月の初参綾の時は、移住するのはまだ時期尚早と判断して、2~3日滞在しただけで帰ってしまったのですが、翌年7月、出口ナオからどうしても来てくれと使者が派遣されて来たので、綾部の大本に入ることを決意しました。

故郷を離れ、大きな御神業に従事する一大決心です。
ある意味で、立志の時とも言えます。
皇族は元服の時に初めてお歯黒を付けたようですが、立志して、大人となり(肉体的にはとっくの昔に大人ですが)、旅立って行く喜三郎に、一種の儀式としてお歯黒を付けたというわけです。

『大地の母』から宇能のセリフを少し引用してみます。(『大地の母』第6巻p67)

 宇能は、嫁入り道具の一つであったかなり古びた手箱と、耳だらい・水指し・茶碗を持ち出してきた。灯りを引き寄せて手箱から小さな鉄漿(かね)壷をとり出すと、喜三郎に眼で笑いかけた。(略)

「お前は、もう二十九歳にならはった。お前のお父上さまは、その年頃でどんなお悲しみに耐えられ、御自分の御心を殺されて、なお天皇さまのため、国民のために一身を捧げつくされたことかのう」(略)

「わたしが鉄漿親(かねおや)になりましょう。真似ごとやと笑うたらあきまへん。おそまきながらお前の成人式やと思いなはれ」(略)

「今夜せなんだら、もうお前がわたしの手元に帰る時はありまへんやろ。文明開化の御代になって鉄漿付けの習俗など忘れられ、廃れてきたけれど、遠い昔から鉄奨は堂上公卿の身嗜(みだしな)みの一つでしたんやで。祐宮(さちのみや)さま(明治天皇)は御年十七歳の明治元年一月十五日元服のお式の日に鉄漿を。お前の父上、熾仁(たるひと)親王さまはもっと早く、和宮(かずのみや)さまとの御婚約の時には、元服も鉄漿始めの儀も済んでおられたはず。一度だけそのしるしをつけて、お前のお母さんに見せてやりなはれ。門出のはなむけやでなあ」

『大地の母』では陣羽織も宇能が喜三郎に着せてやったことになっています。
これもまた、軍人だった熾仁親王を意識してのことです。

お歯黒や陣羽織は宇能が…という場面は、著者(出口和明)の想像(創作)です。
しかし、熾仁親王の子であるということを意識した格好だと考えれば、お歯黒・陣羽織という奇妙ないでたちが理解できます。

もちろん、皇族の落胤であることを暗に主張するため…ではなく、決意の表明です。
高熊山修業後、一年ほど地元で宗教活動をしていたとはいえ、いよいよ本格的に宗教活動を開始するのです。
綾部という見知らぬ地で、自分が来ることを反対する連中がいるところに自ら飛び込み、救世の大神業を開始するのです。
その決意です。

お歯黒をして陣羽織を羽織り…という姿は想像するとちょっと笑ってしまうのですが(^_^;)、その背景には、喜三郎のただならぬ決意が秘められていたのだと思います。

(続く)


この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2017年11月13日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック


喜三郎の修業 (15) 初めての参綾

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年05月04日

喜三郎が小松林命から、お前が来るのを待っている人がいるから西北へ行け、という神示を受け、穴太から旅立ったのは「旧六月の暑い最中」でした。〔第21章〕
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3721

具体的な日は分かりません。
明治31年(1898年)の旧6月というのは新暦だと7月19日(旧6月1日)から8月16日(旧6月29日、小の月のため29日が月末)の間になります。
たしかに暑い最中ですね。

3月1日~7日(旧2月9日~15日)の高熊山修業を終えてから、4~5ヶ月後のことです。

西北というのは微妙な方角だと思うかも知れませんが、地図をごらんいただければ分かるように、
https://goo.gl/maps/WZeSdbVn1ym
穴太から西北に向かって山陰道が延びており、つまり山陰道を山陰方面へ向かって進め、という意味です。

小松林は「園部(そのべ)の方へ向かって行け!」と命じていますが〔第20章の最後〕、園部というのは穴太から12キロほど離れたところにある町で(現在は合併して南丹市園部町)、喜三郎が4~5年前に(明治26~7年、22~3歳の頃)従兄の牧場で獣医学を学んだ町です。

しかし園部まで行かずに、もっと手前で、神が導いた出会いがありました。
出口ナオの三女・福島久子と出会ったのです。
場所は八木(やぎ)という町です。

…ただ一人穴太を離れ北へ北へと進み行く。道のりほとんど二里(8キロ)ばかり来たところに、南桑田、船井郡の境界の標(ひょう)が立っている。そこには大井川の清流をひいた、有名なる虎天関(とらてんいね)というのがある。〔第21章〕

穴太は南桑田郡、八木や園部は船井郡です。
「虎天関」は「虎天堰」とか「寅天堰」と表記している文献もありますが、虎天という名の井堰(いせき)のことです。
農業用水などに使うために川から水を引くために、川の水を堰き止めた所を井堰と呼びます。
地図だとこの辺りです。山陰道と川が接近したところです。
https://goo.gl/maps/N6pbHYKG37U2
航空写真で見ると、堰き止められているのがよく分かります。

この辺りの地理や、川の名前(大井川は桂川とも呼びます)については、以前にブログに書きましたので、そちらを読んで下さい。
「伝記地図(1)亀岡~綾部の概観」
http://iizukahiroaki.com/?p=1193

この付近に福島久子が茶店を出して、母(出口ナオ)の筆先で予言されていた人──この神(艮の金神)を見判ける者は東から出て来る、と予言されていた人を探すために、ここに茶店を出したのです。

なぜ綾部から遠く離れたこの場所(八木)だったかというと、久子が嫁いだ先(福島寅之助)が八木で、八木に住んでいたからです。

久子はナオと王仁三郎を繋ぐ重要なお役目をした人ですが、霊界物語の高姫に相応する人で、王仁三郎(霊界物語ではスサノオ)に反対して、大本内部を攪乱する、悪の御用を務めた人でもあります。
久子の一派は「八木派」と呼ばれ、霊界物語のウラナイ教に相応します。

喜三郎は久子から筆先を見せられ、そこに自分が高熊山修業中に見聞したことと一致することに驚いて、参綾(さんりょう)することを約束しました。

参綾とは綾部に参ることで、帰綾(きりょう、綾部に帰ること)とか帰亀(きき、亀岡に帰ること)なんて言葉もみな王仁三郎用語です。

綾部に行くことを約束したものの、実際に行ったのは、それから二ヶ月ほど経った秋の10月8日(旧8月23日)のことでした。

この時は、当時の役員信者らに猛反対され、時期尚早と判断して、すぐに引き上げてしまいました。

喜三郎はよそ者だし、毛色が異なるので、排除されるのも分かります。
宗教団体というのは、そういうところです。

もちろん宗教団体に限らず、政党だって、企業だって、そうですけどね。
人間社会に排除は付きものです。
その困難を乗り越えて、その社会に入り込み、内部から改革して行くというのは、とても大変なことです。王仁三郎はそれを行ったのです。

王仁三郎は、自分で新しい宗教団体を作り、広めて行く能力・実力を十分持っています。
反対派が渦巻く宗教団体になんか入らずに、自分で独立して活動して行けばよさそうなものです。
なぜそうせずに、茨の道を選んだのでしょうか?

それは、王仁三郎の救済法が「雛型」によるものだからでしょう。
実地で、政治運動・宗教運動によって人類社会を変えて行くというのではなく、出口ナオを中心とする「大本」という霊的集団を、立て替え(破壊)立て直す(再生)ことで、それを日本、そして世界へと波及させて行くという、超常現象による世界改造が、王仁三郎のお役目でした。
超常現象なので、常識では理解できませんが、数運などを見れば、そういうことだったんだなと受け入れざるを得ません。

また、別な見方も出来ます。
新しいものを作ったからといって、古いものを捨て去ってはいけないのです。
古いものと新しいものを和合させて行かなくては、人類社会は分断してしまいます。
古い価値観と新しい価値観が対立しやすいのはやむを得ませんが、それを繋いで行くことが、世界を統一するということです。
それが出来ずに離脱してしまったら、世界を統一することは出来ません。
分裂です。社会を食い千切る八岐大蛇の罠に引っ掛かってしまいます。

こんな頑固者のクソ野郎ばかりの宗教団体に居られるかッ、と愛想を尽かして出て行くことは簡単ですが、世界統一の使命を持った王仁三郎としては、あくまでもそこ(大本)に居て、そこを変えて行くことを選んだのです。

これは、神の「第三の選択」です。
陰謀論に「第三の選択」と呼ばれる説がありますが、ご存知でしょうか?
地球はこのままでは住めなくなるから、優秀な人間だけを選んで地球外に移住しようということをたくらんでいる連中がいるという説です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E3%81%AE%E9%81%B8%E6%8A%9E

これは悪魔の第三の選択です。
古いもの、汚れたものは捨ててしまい、新しいものを作ろうというのです。
人類の生みの親である地球を捨てようなんて、全く悪魔的な発想です。

それに対して神の第三の選択は、古いもの、汚れたものを甦らすのです。
そして、優秀な選ばれた者だけではなく、総ての存在を救う、というのが、神の第三の選択です。

そしてそれが王仁三郎のやり方です。
彼の人生にはそれが顕著に顕れています。

(続く)


この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2017年11月9日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック


喜三郎の修業 (14) 信仰の鍛錬

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年04月30日

明治31年(1898年)旧6月(詳しい日は不明)、喜三郎に小松林命が神懸かりして、次のように命じました。

「一日も早く西北の方をさして行け、神界の仕組がしてある。お前の来るのを待っている人がある。何事にも頓着(とんちゃく)なく速やかにここを立って園部の方へ向かって行け!」〔第37巻第20章の最後〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3720#a305

こうして喜三郎は故郷を旅立つことになります。

「お前の来るのを待っている人がある」なんて、嬉しい話ですね。

山口百恵の『いい日旅立ち』は「ああ日本のどこかに私を待ってる人がいる♪」でした。
それはおそらく「いるはず」とか「いて欲しい」という期待・願望だと思いますが、喜三郎は神示によって「いる」と断言されたのですから、これはたいへん嬉しいことです。

しかしその神示を信じることが出来るかどうかが肝心です。
他人に懸かった神霊にせよ、自分に懸かった神霊にせよ、その神霊が語ることが必ずしも正しいわけではありません。
悪霊がウソをついて騙している可能性もあります。
迂闊に信じてしまうと、破滅の道を転がり落ちることになります。

第37巻の第2~3篇(第7~20章)には、邪霊に騙された霊媒者のエピソードがいくつか出ています。

たとえば第16章後半~第17章に出て来る「高島ふみ子」という女性にはお稲荷さんが懸かり、杉山という男と一緒になって盛んに人を集めて宗教活動をしていましたが、舞台裏ではインチキをやっており、イカサマの霊術を見せていたことが記されています。(これは高熊山修業前に体験したエピソードです)
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3716#a221

また、第20章後半には、下司熊(げしくま)こと下司熊吉(げし・くまきち)という男が、斎藤静子という妻と一緒に神懸かりをやって、相場占いで金銭トラブルを起こし、インチキ宗教で一稼ぎしたものの、やがて流行らなくなり、最後には睾丸炎で死んでしまったという話が記されています。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3720#a138

みな、変な霊が懸かってそれを信じてしまい、妄動・悪業に走ってしまったのでしょう。

しかし喜三郎に懸かった霊(松岡神使や小松林)も、牛糞を掴ませたり(第9章)、役者にしてやろうと言われて挫折させられたり(第19章)、けっこう色々と引っ掛け回しています。
そこの部分だけ取り上げてみたら、高島ふみ子や下司熊らと同様の悪霊憑きにしか見えません。

もちろん、高熊山修業や、静岡の長沢雄楯と出会ったことなど、数々の奇跡・神秘現象もあり、憑霊が正神であることを十分に信じるだけの現象が起きているのですが、しかし騙されるようなことがあると・・・ちょっと信じられなくなりますね。

そうやって神様は信仰を試します。
右に左に転がして、それでも信じることが出来るのか試すのです。
信仰を鍛えているとも言えます。
また、こういうときに、こういうことをすると、こういうことになるという、ハウツーを学ばさせているとも言えます。
牛糞騒動も役者騒動も、喜三郎に下心があったからに他なりません。

信仰とか信念いうのは、人が持つ一種の技術・能力であると思います。
信じることもそうだし、愛することもそうです。

料理を作るとか、文章を書くとかいうのと同じように、技術・能力です。
だから、色々な体験を積みながら、学習し、養い、磨いて行かねばなりません。

それがために、色々な苦難が降りかかってくるのだとも言えます。

喜三郎に小松林から「西北へ行け」と神示が下った直前にも、苦難が降り注いでいました。
喜三郎は下司熊に騙されてお金を巻き上げられてしまい、そのことに怒った弟の由松(よしまつ)が、「この神はめくら神だから、兄貴のバカが騙されているのを黙って見ていやがった。腰抜け神だ。もうオレのうちには置いてやらぬ」と言って、祭壇をひっくり返して暴れまくったのです。

それで、どうしたらいいのか産土の小幡神社に行って神勅を請うたところ、小松林から「西北へ行け」と神示が下り、それで「故郷を離れることを決意した」のです。

王仁三郎にせよ、出口ナオにせよ、最初から、神示に従っていたのではありません。
悪神ではないのか、騙されているのではないのかと疑いながら、その神と対話し、付き合って行ったのです。
つまり審神(さにわ)をして行ったのです。

おそらく、最初っから信じてしまっては、いけないような気がします。
そこが正しい道か悪しき道かの分かれ目のように思います。

それは、神懸かりして下りた神示に限りません。
信仰とか、信じる、ということ全般に通じます。
神社でおみくじをひいたり、占い師に相談に行ったりするのも同様です。
それを信じる自分がいるわけです。

信は芯であり、人間の芯となるものです。

現代はネット社会となり、ウソ情報が氾濫して、右往左往するような状態となっていますが、それは神様から「信じる」力を鍛錬させられているのではないかと思います。

「信じる」と言っても、頭から鵜呑みにしてはいけないのです。
どういう情報を信じればいいのか。
何を、どう信じたらいいのか、その能力・技術を養うことを、人類はやらされているのではないかと思います。

変な霊(情報)に騙されて破滅の道を歩まないようにするためには、牛糞を掴まされるような失敗経験も必要となって来ます。

(続く)


この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2017年11月6日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック


喜三郎の修業 (13) 小松林命

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年04月24日

旅館に宿泊代をぼったくられてお金が無くなってしまった喜三郎は、仕方なく郷里の穴太に帰ることになります。
元カノ(斎藤いの)の実家に一泊し、翌日帰るのですが、手元には2銭半しか残っていません。

ネットで調べると、明治30~40年代の東京の国鉄初乗り運賃は5~6銭だったようです。だから2銭半ではとうてい汽車に乗れません。
そこで線路を歩いて帰ったと歌で記されています。〔第37巻第14章「夜の山路」〕
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3714#a149

大阪から穴太まで「十三里」(52km)の道のりです。マラソン(42.2km)より長いですね。
現代人だったら挫折してしまう距離ですが、当時は鉄道も自動車もまだまだ発展途上で、徒歩移動が当たり前の時代ですので、このくらいなら一日で歩けてしまうようです。

この歌の中に「四月十五夜の月は」云々と出て来るので、帰郷した日は旧4月15日、新暦だと6月3日だったことが分かります。
大阪に出向いた日は分かりませんが、二週間旅館に泊まり、元カノの実家に一泊したので、おそらく計15日滞在したのではないかと思われます。

ここで、高熊山修業からの出来事を簡単にまとめてみます。

新3月1日(旧2月9日)高熊山修業開始
新3月7日(旧2月15日)正午 帰宅
新3月9日(旧2月17日)早朝 体調に異変 床縛りの修業開始
新3月15日(旧2月23日)床縛りが終わる
幽斎修業を始める
新4月3日(旧3月13日)(神武天皇祭)三矢が訪問
新4月13日(旧3月23日) 静岡へ 長沢雄楯に弟子入りする
新4月22日(閏3月2日) 帰郷
新5月20日(旧4月1日)? 大阪宣教へ
新6月3日(旧4月15日) 帰郷

わずか三ヶ月の間に、喜三郎は実に多くのことを体験していますね。
それから二ヶ月後に、八木の茶店で福島久子(出口ナオの三女)と出会うことになるのですが(第21章)、第15~19章はそれまでの間に起きた出来事です。
複数の女性の憑霊現象が物語られています。

第15章 石田小末
第16章 岩田藤
第17章 高島ふみ子
第18章 多田琴と石田小末
第19章 阿栗(おぐ)

これらのエピソードは割愛します。直接、霊界物語を読んで下さい。

第19章の前半に書かれている役者騒動について書いておきます。
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3719

喜三郎は、壮士芝居の役者を募集する広告が新聞に載っているのを見ました。
壮士芝居とは「自由民権思想を広めるために始めた演劇」〔デジタル大辞泉〕で、後に新派劇へと発展して行ったジャンルです。
https://kotobank.jp/word/%E5%A3%AE%E5%A3%AB%E8%8A%9D%E5%B1%85-89399

喜三郎がその広告を見ていると、多田琴に小松林命(こまつばやしのみこと)という神霊が懸かり、役者にしてやろう、と喜三郎に言います。

喜三郎は広告を見て、自分も役者になってみたいと思っていたので、大喜びしました。
早速、お金を15円集めて京都へ行き、10円の入会料を払って劇団に入り、稽古に励み出しました。
しかし、お尻に大きな腫れ物が出来てしまい、痛くてたまらず、芝居どころではなくなります。

すると喜三郎に松岡神使が懸かって大声で嘲笑います。
「役者になりたそうにしておるから、ちょっと改心のためになぶってみたのだ」

喜三郎は仕方なく故郷に帰ると、お尻の腫れ物はすっかり完治してしまいました。

世界を救うという重大な御用があるにもかかわらず、役者になってみたいというような浮気心を抱いたため、改心させるため神様が苦難を与えたのです。

「それきり壮士俳優になってみたいという心は、スッカリ消え失せ、一心不乱に神界の御用に尽くすという心になったのである」
と王仁三郎は霊界物語に書いています。

自分が進むべき道から逸れてしまったため、神様から気づきを与えられたのだ、とも言えるでしょう。

   ★   ★   ★

この小松林ですが、王仁三郎の前半生に出て来る重要な人物の一人です。
松岡天使と共に、王仁三郎の活動初期に懸かっていた憑霊の一つで、明治32年に綾部に移住してからは、当時の大本の役員信者に「小松林の悪神が懸かっている」ということで攻撃材料にされました。

第9章で、「小松林の命令」で現れた大霜天狗は、財布だと思わせて牛グソを掴ませました。
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3709#a026

第19章では、喜三郎に「役者にしてやろう」なんて甘い餌をまきました。
このように小松林はイタズラ好きの神霊ですが、悪神と言うのはちょっと言いすぎです。

それがなぜ悪神扱いにされたかというと、出口ナオ開祖の筆先で、小松林が守護している間は、喜三郎(緯、瑞霊、変性女子)は開祖(経、厳霊、変性男子)に敵対すると出たからです。
○参考 大本神諭 明治36年旧6月14日
「この緯役は小松林の守護の間は、男子を敵対うて…」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=os246&mky=a013#a013

開祖に敵対すると神示が出たので、悪神とされたのです。
それで役員信者たちは、その悪神が懸かる喜三郎を排斥したり、早く改心せよと迫ったのです。

この小松林とは何者かと言うと、多田琴に懸かった小松林が「わしは男山(おとこやま)の眷族・小松林命であるぞ」と言っています。
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3719&mky=a005#a005

男山とは石清水八幡宮(京都府八幡市)が鎮座する山で、明治期には男山八幡宮と称していたようです。
○ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE
(石清水八幡宮は、京都の裏鬼門を守る神社ですね)

…余は常に、この神と入魂となり、余が修行中、すなわち十か年間は、小松林の御名を拝借する事を赦されたり。
 付記す。小松林は八幡宮の高等なる眷属神にして、生前は武士なり。神功皇后の軍に従いて、三韓を征し玉いし英雄なりしなり。
〔本教創世記〕
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195301c16

というように、小松林命は生前は武士で、神功皇后に従い三韓征伐に出征したと王仁三郎は書いています。
それは竹内宿禰(たけのうちすくね)のことです。
○聖師伝
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B100800c16#a058

また小松林命は「素盞嗚尊の分霊」でもあります。
○大本七十年史 上
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195401c1511

そしてまた王仁三郎は、「後小松天皇」(第100代天皇。南北朝が統一した最初の天皇)は小松林の霊だとも言っています。
○『新月の光』上巻p306「後小松天皇」

小松林という神霊が喜三郎のもとに現れたのは、高熊山修業の時からで、いろいろと神示を与えています。
「三大学則」はその時に小松林から伝えられたもので、
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121805c232
「いろは歌」や「太古の神の因縁」も小松林が伝えたものです。
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195301c03
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121801c24

小松というのは、小さな松、若い松という意味ですが、高熊山の山頂は、当時は小松が茂る林だったというので、そこからのネーミングかも知れません。

開祖に敵対する役だと筆先で言われた小松林命ですが、大正5年の神島開きの折りに出た筆先で、ミロクの神の系統だということが明らかにされました。
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=os250

この小松林命が、喜三郎に
「西北へ行け。お前を待っている人がいる」と神示を下し、
福島久子、そして出口ナオと出会うことになるのです。

(続く)


この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2017年11月2日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック