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喜三郎の修業 (20) 行動原理の転換

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年06月04日

ようやく第37巻が終わりました。
今回から第38巻に入りますが、総説に次のように書いてあります。

 本巻は子の巻に続き瑞月王仁が斯道(しどう)に入信したる経路の大略を口述したもので、実際の百分の一をも尽くしてはありませぬ。(略)この『舎身活躍』の子の巻、丑の巻はいずれも断片的物語で、年次を逐うては述べてありませぬから、そのおつもりで読んで頂きたいものであります。
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm380002

第37~38巻は、王仁三郎の前半生の自叙伝になっていますが、この総説に書いてあったように、年月の順序で、起きた出来事をじっくり書いているわけではなく、想い出したこと逐次、書き綴ったようなかんじです。

第1巻から続く太古の神代の物語の中に、突如イレギュラーな現代の物語が挿入されているので、唐突な感じがしますが、何となく気まぐれに書いて霊界物語の中に入れた、というわけでもないようです。

霊界物語全81巻は次の3つの大きな話のブロックに分けることが出来ます。(詳しくはオニドや、拙著『あらすじで読む霊界物語』を参照)

第1~36巻  仮にAブロックと名づけます。
第37~72巻  Bブロック
第73~81巻  Cブロック(天祥地瑞)

このAブロックとBブロックの間に、自叙伝が挿入されています。

第39巻以降は、フサの国~月の国を舞台にした、大黒主調伏の旅で、それまでのストーリーの流れから一転した、新展開のストーリーとなります。

それ以前のAブロックにおける登場人物の行動原理は、欲望です。
高姫を筆頭に、自己実現するための玉を手に入れるために世界を駆け巡りますが、それが結果的には、神様から身魂磨きの旅をさせられていたということになります。

それに対して、Bブロックでの登場人物の行動原理は、使命です。
スサノオによって大黒主調伏の使命を与えられた宣伝使たちが旅に出ます。

AとBの両者の違いを、身近なことに喩えるのならば、お金を稼ぐために仕事をするのか、それとも世のため人のために仕事をするのか、ということです。

若い頃は、収入とか、世間体とか、そういうことで仕事を選ぶ傾向があります。しかしだんだんと年を取ってくると(お金ももちろん大切ですが)他人に役立つこととか、社会に貢献とか、そういうことに目が開いて来ます。

これは一人の人間の発達でもそうだし、社会の発達においてもそうです。

高度経済成長して世界の一流国になったところで、それはうわべだけのきらびやかに過ぎません。
中味も光り輝くためには、自分が、この世に生きて果たすべき役割は何なのか、日本が果たすべき役割は何なのか、そういう役割とか使命ということに目を向けるようにならなくてはいけません。

その行動原理の転換期に現代日本はあるわけですが、霊界物語においては、「みろく」の第36巻を境として、登場人物の行動原理が転換するのです。

その転換点に、王仁三郎の自叙伝が挿入されており、それ自体が、王仁三郎自身の転換期のドラマになっています。

9度にわたる大ゲンカ、そして高熊山修業という、死と再生の儀式によって、それまでの世間的な願望で生きてきた王仁三郎が、天から与えられた自分の使命に目覚め、行動原理が大転換したドラマが、第37~38巻なのです。

ですから、決して、ただ何となくここに自叙伝が挿入されているのではなくて、霊界物語全体の流れの中で、ちゃんと意味があってここに挿入されているのです。

(続く)


この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2017年11月27日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック


喜三郎の修業 (19) 悪魔は善良な人に憑きたがる

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年05月25日

前々回(17)で書き忘れたことがありました。

上田喜三郎が綾部に移住するまでは、出口ナオは金光教の看板を借りて活動していて、足立正信(あだち まさのぶ)という名の金光教の布教師が活動を仕切っていましたが、第1巻第17章「神界旅行(四)」に出て来る「足」という名の鬼は、この足立に相応するようです。

…山を降って少しく北に進んで行くと、小さな家が見つかった。自分は電気に吸い着けらるるごとく、たちまちその門口に着いていた。そこには不思議にも、かの幽庁にいられた大王が、若い若い婦(おんな)の姿と化して自分を出迎え、やがて小さい居間へ案内された。自分はこの大王との再会を喜んで、いろいろの珍しい話しを聞いていると…
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0117#a069

霊界で見たことが、後に現実界に事象となって起きて来たのですが、上記の出来事は、出口ナオとの面会という形で現実界に顕れたのです。
そのもう少し後ろの方に「足」が出て来ます。

…にわかに虎が唸るような、また狼が呻(うめ)くような声が聞こえてきた。
よく耳を澄まして聞けば、天津祝詞や大祓の祝詞の声であった。それらの声とともに四辺は次第に暗黒の度を増しきたり、密雲濛々(もうもう)と鎖ざして、日光もやがては全く見えなくなり、暴風にわかに吹き起こって、家も倒れよ、地上のすべての物は吹き散れよとばかり凄じき光景となった。
その濛々たる黒雲の中より「足」という古い顔の鬼が現れてきた。
それには「黒」という古狐がついていて、下界を睥睨(へいげい)している。

「黒」というのは、黒田清子という幽斎修業者(信者)のことのようです。
第38巻第7章に次のように出ています。

…喜楽は(略)上谷(うえだに)の四方伊左衛門という人の家の修行場へ出張してみると、役員も神懸りも村の人達も、老若男女の分かちなく、悉皆(しっかい…皆ことごくの意)福島(寅之助)について、高い不動山の上へ上ってしまい、あとには黒田清子と野崎篤三郎とが修行場の留守をしていた。そして黒田には悪狐の霊が憑って、喜楽の行ったのも知らずに、何事か一人でベラベラとしゃべり立てつつあった。
野崎はそのそばに両手をついて、おとなしく高麗狗(こまいぬ)然として畏まっていた。
喜楽の顔を見るなり、野崎は驚いて、黒田清子に耳打ちをすると、黒田はたちまちに仰向けになって、
黒田『上田来たか、よく聞けよ。この方は勿体なくも素盞嗚尊であるぞよ。お前が改心出来ぬために、気の毒ながら綾部の金明会は灰にしてしまうぞよ。(略)』
とベラベラと際限もなくしゃべり立てる。喜楽はいきなり、
喜楽『コラ野狐、何を吐(ぬか)すか。そんな事があってたまろうか。コリャ野狐、正体をあらわせ!』
と後ろから手を組んで『ウン』と霊をかけると、清子はたちまち四つばいになって、
『コーンコン』
と鳴きながら、家の裏山へ一目散に駆け出した。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3807#a134

キリスト教圏ではこれは要するに悪魔払い(エクソシスム)です。
神父さんが十字架を突き出して「サタンよ出て行け~!」と叫んで、おどろおどろしいことになるわけですが、霊界物語のこの悪魔払いは、滑稽ですね。
四つん這いになって「コーンコーン」と鳴きながら裏山に駆けていったなんて、ホラー映画ではなく、コメディ映画的ですね。

さて、福島寅之助のことが出て来ましたが、出口ナオの三女・久子と結婚した福島寅之助もまた、喜三郎の活動を妨害していた一人です。
要するに、大本が(艮の金神が)世に出ることを阻止するため、邪神界が動いていたのです。

第37巻の一番最後の章である第25章「妖魅来」に、福島寅之助の妄動が出て来ます。

…福島寅之助は上谷(うえだに)の村中に響きわたるような大音声(だいおんじょう)で、
福島『丑の年に生まれた寅之助は、福島ただ一人であるぞよ。それじゃによってこの方が誠の艮の大金神であるぞよ。上田は未の年の生まれ、出口直は申の年生まれであるぞよ。ようやく二人合わして坤の金神じゃぞよ。二つ一つじゃぞよ。とてもこの福島寅之助には叶わぬぞよ。サア皆の者ども、これから今までの取り違いをスッパリ改心致して、この方にお詫び致せば今までの罪を許してやるぞよ(略)』
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3725#a124

なるほど。「丑」の年に生まれた「寅之助」だから自分が本当の「丑寅(艮)の金神」だと言うのです。
邪神界はこういう下らないレトリックで正神の出現を妨害するのですが、しかしこんな下らない話に引っ掛かってしまうような人もいるのです。

一般に、大きな話より小さな話の方が、入りやすいし分かりやすいし、大衆には受け入れやすいです。
艮の金神(国常立尊)というのはこの地球の神霊ですが、地球的規模の話よりも、小さな体の人間を生神と崇めることの方が、広まりやすいのは事実です。
出口ナオや王仁三郎の御神業というのは、そういうちっぽけな話ではないのですが、邪神勢力が、それを矮小化して、大本神業を潰してしまおうとするのです。

邪神に憑かれた福島寅之助らの妄動はエスカレートして行きます。
先ほどの文章の続きを読んでみましょう。

…などと赤裸(まっぱだか)となり妖魅がうつって、教祖の筆先の真似ばかりを、のべつまくなしに呶鳴りちらして始末におえない。
喜楽は直ちに神界に祈願をこめ鎮魂を修した。
そのため、いったん邪神の暴動が鎮定したが、またほかの神懸りにも沢山の妖魅の同類がうつって福島の神に加勢をする。
ついには神懸り一同が口を揃えて、
『皆の者よ。シッカリ致さぬと、上田の曲津にごまかされて、ヒドイ目にあわされるぞよ。誠の艮の金神は福島大先生に違いはないぞよ』
と叫ぶのを聞いた福島は、再び邪神におそわれて、黒い濃い眉毛を上げたり下げたり、目を剥(む)いたり、腕をふり上げたり、飛んだりはねたり、尻をまくってはねまわったり、畳は穴があき床はおつる、ドンドンドンと響きわれるような音をさして、非常に大騒ぎを再演し出したので、田舎人が珍しがって、四方八方から毎日々々弁当持ちで見物に来る。

怪獣大戦争のような状況ですね。
しかし、弁当持って見物人が来るというのですから、何とものどかな時代ですね。
現代だったらたちまち警察とマスコミの餌食にされてしまうことでしょう。

ところで、邪神に憑かれた福島寅之助というのは、邪神に憑かれるような奴だから、よっぽど悪い奴なんだろうと思うかも知れませんが、全く逆です。悪い奴どころか、人間界的には良い人だったようです。
この章(第25章)の最後に、次のように書いてあります。

…そしてイの一番に叛旗(はんき)をかかげたのは福島寅之助氏であった。
元来福島は正直の評判をとっている、人間としては申し分のない心掛けのよい人である。
妖魅という奴はなかなか食えぬ奴で、世界から…彼は悪人じゃ、不正直だと見なされているような人間にはメッタに憑るものでない。
たとえ憑ってみた所でその人物に信用がなければ、世人が信用せないことを知っているからである。
そこで悪魔は必ず善良なる人間を選んで憑りたがるものであるから、神懸りの修行する者はよほど胆力のある智慧の働く人でないと、とんだ失敗を招くものである。
良き実を結ぶ木には害虫がわき易いものである。菊一本にても、大きい美しい花の咲くものには虫がかえってよけいにわくようなもので、正直だから善人だから、悪神がつくはずがないと思うのは、大変な考え違いである。
あゝ惟神霊幸倍坐世。

なるほど。
悪魔は必ず善良なる人間を選んで憑りたがるもの
というのは重要ですね。
これは第65巻第25章で初稚姫が
悪の強い欲の深い者はみな聖地に来て何か思惑を立てようとする
と教え戒めているのと同じことです。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm6525#a223

善良な人、清純な人ほど、慢心取り違えて悪魔に憑かれないよう常に用心せねばなりません。
もっとも、自分で「自分は善良だ」「自分は清純だ」と思っているような人は、その時点でもうすでに悪魔に取り憑かれている可能性が高いですけどね。(^_^;)

(続く)


この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2017年11月23日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック


喜三郎の修業 (18) 運が良いのか悪いのか

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年05月13日

第37巻の第21章「参綾」には、喜三郎が初めて参綾したこと(明治31年10月)と、綾部に移住したこと(明治32年7月)が記されています。その間は、園部の辺りで宗教活動を続けていました。

その時のエピソードが3つほど、次の第22章「大僧坊」、第23章「海老坂」に記されています。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3722

1. 鞍馬山の大僧坊と偽る悪霊が取り憑いた小林貞蔵という男のエピソード(第22章)
2. 人見与三郎という僧侶がいる古寺でのエピソード(第23章前半)
3. 森田お民という稲荷憑きのエピソード(第23章後半)

この3つは直接霊界物語を読んでいただくことにして──その次、第24章「神助」と第25章「妖魅来」は、喜三郎が綾部に移住して大本での活動を始めた最初の頃のエピソードです。
そこから気づいたことを一つ取り上げます。

喜三郎は綾部でも幽斎修業を始め、それが順調に発達して来たある日、四方平蔵(しかた・へいぞう)という信者と共に、静岡の長沢雄楯の元を訪ねました。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3724#a139

月日は霊界物語には書いていませんが、別の資料によると、明治32年10月のことです。
31年4月に初めて静岡へ行き、5月に再訪し、今回が3度目になるようです。

二昼夜滞在した後、帰郷の途に就きました。

…午前一時の急行列車へ乗り込もうとする時、わずか二分の短き停車、ことに列車はボギー式で、田舎の汽車のように入口が沢山にないところへ、四方氏はあいにく目が悪い、夜分はほとんど灯があっても見えぬくらいだ。
それに沢山の荷物を肩にひっかけている。
喜楽も手一杯の荷物を下げて手早く乗車し、四方氏はどうかと昇降台を見れば、今片手をかけたばかりに汽車は動き出している。
駅員は力一杯の声を出して『危ない危ない』と連呼している。
四方氏はその間に七~八間(十数メートル)も引きずられていた。
喜楽は金剛力を出して荷物もろとも昇降台まで引きあげた。
この事を思うと今でもゾッとするようだ。

午前1時というのは、深夜です。
長距離だからか、そんな真夜中にも汽車が走っていたんですね。
今の夜行列車のような感じでしょうか?

ボギー式の車両というのは、車体に直接車輪が付いているのではなく、台車の上に車体を載せている車両で、車体を長くすることが出来ます。「列車はボギー式で」云々というのは、車体が長くて入口の間隔が離れており、停車時間も短いので乗るのが大変だ、という意味だと思います。
現代の感覚からすると、2分も停車しているなんてずいぶん長時間ですけど、昔のことだからホームというものが無い駅だと思います。汽車が来るまで駅舎で待っていて、汽車が入って来たら、駅舎から出て砂利の上を歩いて行って、「昇降台」(階段)を昇って車両に乗り込むという形です。
目の悪い四方平蔵が車両に上がるのが遅くなり、汽車が走り出してしまったというのです。
映画ではそういうシーンを見かけますが、実際にあるんですね。

喜三郎が力一杯引き上げて、四方平蔵は何とか汽車に乗れましたが、災難はこれだけではありませんでした。
午後1時、京都駅で降りて(静岡から京都まで12時間かかったことになります。現代なら新幹線で2時間くらいです)、亀岡行きの乗合馬車を待っていると、四方平蔵は食中毒で苦しみ出し、死人のような有様になってしまいます。

そこで喜三郎が、教祖(出口ナオ)から授かっていた「おひねり」を与え、鎮魂を施すと、御神徳によってたちまち病気は回復しました。

ここで言う「おひねり」というのは、世間一般で言うお金のことではなく、宗教用語であり、一種の神薬です。
神様に病気を治していただくために頂くものです。

宗教法人大本の公式サイトに次の資料がありました。
『大本いろは ご下付物3 おひねり』
https://oomoto.or.jp/wp/wp-content/uploads/2018/01/iroha09.pdf

 大本の「おひねり」は、当代の教主が祈念して神名を書いた和紙を折りたたみ、それをひねって小さくまるめたもので、重い病気や、突然の事故など、まさかの場合にご神水と一緒に頂きます。
 おひねりを頂くことで、体の中からも神さまのお力を頂き、大きなご守護を頂けるのです。
 おひねりは医薬品ではありません。感謝と畏敬の気持ちをもって、信仰的に頂きましょう。

出口ナオによって、この当時からこういうおひねりが与えられていたのです。

喜三郎は、元気になった四方平蔵と共に人力車に乗って亀岡に向かうと、今度は四方が乗った車の車輪が外れてしまい、四方は車から道路に放り出されてしまいました。
しかし奇蹟的に、かすり傷一つしないで無事でした。

──このように四方平蔵は一日のうちに三度も死にはぐったのです。

そんな目に遭ったら、皆さん、どう思いますか?
「ああ、ついてないな~」とため息ついたり、「何か悪いことしたかな」(つまり天罰)と反省したり、はたまた「悪魔が邪魔をしている」と思ったりするかも知れませんね。

しかしここで王仁三郎は、違う見方をしています。

…四方氏はよほど運の強い人と見え、一日の間に三度まで汽車、馬車、人力車の危難に救われるという事は、実に不思議である。
これも神様の御神徳と考えるよりほかに判断はつかぬ。
人間には一生のうちには必ず一度や二度は幸運が向かうて来る。
それと同様にまた一度や二度は大難が来るものである。
四方氏の信仰の力と大神様のおかげで、かかる危ない所を九分九厘で助けられたのは、全く神様に一心に仕えていたおかげである。

一日に三度も死ぬような災難に遭ったのだから「よほど運が悪い人」だ、と思うのは、凡人の発想です。

そういう人を王仁三郎は全く逆に、「よほど運が強い人」だと受けとめています。

災難が身に降り注いだ時、「運が悪い」と受け取るか、「運が良い」と受け取るかで、人生に違いが出て来ます。

死にそうになっても、かろうじて生きているのだから、それを「有り難い」と感じることが出来るかどうかです。
自分のことではなく、他人に対してもそうです。
「あいつは行いが悪いから罰が下ったんだ」と感じるか、「神様によって助けられた」と感じるか。

自分の身魂の正体が顕れる時です。
この世界をどのように受けとめるかで、その人の生き方はガラリと変わってくることでしょう。

王仁三郎が二度の大弾圧にも負けなかったのも、彼がそういうものの見方をしていたからではないでしょうか。

世界の見方を変えることが、身魂磨きとも言えます。

大地震や火山爆発、感染病の流行など、自分の人生を狂わすようなアクシデントはたびたび起き得ます。
こういう時に、世界をどう見るかで、今後の人生が変わって行くのです。
災難は神様から与えられた試練です。

(続く)


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喜三郎の修業 (17) 排除しない「言向け和す」の精神

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年05月11日

喜三郎が初めて参綾して出口ナオに面会した時、高熊山修業の際に霊界で見た「幽庁の大王」の顔を思い出した…ということが霊界物語第1巻に書かれています。

幽庁の大王というのは、俗に言う閻魔大王のことで、その正体は艮の金神(国祖・国常立尊)です。
その顔と出口ナオの顔がよく似ていたというのです。

閻魔大王というと恐ろしい形相というイメージがあります。しかしそれは、心に後ろめたいことを抱えている人が見た場合に、そのように見えるのであって、誠の心を持っている人が見た場合には、温和で慈愛に満ちた容貌をしているというのです。

引用してみます。

…今までの恐ろしき形相は跡形もなく変わらせたまいて、また元の温和にして慈愛に富める、美(うる)わしき御面貌に返っておられた。
神諭に、

『因縁ありて、昔から鬼神(おにがみ)と言われた、艮の金神のそのままの御魂(みたま)であるから、改心のできた、誠の人民が前へ参りたら、結構な、いうに言われぬ、優しき神であれども、ちょっとでも、心に身欲(みよく)がありたり、慢神(まんしん)いたしたり、思惑がありたり、神に敵対心(てきたいごころ)のある人民が、そばへ出て参りたら、すぐに相好(そうごう)は変わりて、鬼か、大蛇(おろち)のようになる恐い身魂(みたま)であるぞよ』

と示されてあるのを初めて拝したときは、どうしても、今度の冥界にきたりて大王に対面したときの光景を、思い出さずにはおられなかった。

また教祖(注・出口ナオのこと)をはじめて拝顔したときに、その優美にして温和、かつ慈愛に富める御面貌を見て、大王の御顔を思い出さずにはおられなかった。

〔第1巻第7章「幽庁の審判」〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0107#a069

心の持ち方一つで、神の姿も、この世界の見え方も、違って来るのです。
この世は地獄だと思っている人には、ミロクの世は永遠に訪れません。

さて、この当時(明治31年)の大本は、金光教(こんこうきょう)の傘下にありました。

金光教は安政6年(1859年)に岡山県で誕生した新宗教で、やはり金神系です。
https://kotobank.jp/word/%E9%87%91%E5%85%89%E6%95%99-67177

出口ナオに艮の金神が懸かった明治25年(1892年)は、すでに開教してから33年経っており、それなりに教勢も拡大して、丹波地方にも教会がいくつか出来ていました。

ナオは神懸かりになったとはいえ、宗教に関して特別な知識も技術もありませんでしたから、神様を祭るにしてもどうしたらいいのか分からなかったでしょう。
それにそもそも現代のように信仰の自由だの、結社の自由だのが不十分な時代だったので、宗教活動をするにはどこか公認された教団の傘下に入らなくてはいけなかったのです。

出口ナオの三女・福島久子が、ナオより二年早く明治23年に神懸かりになっており、金光教に祈祷してもらったのをきっかけに、久子夫婦は金光教の信者になっていました。
そういう縁もあって、ナオは金光教の世話になったのです。

最初は、亀岡の金光教会から奥村という布教師が、次いで京都の教会から足立という布教師が綾部にやって来ました。

ナオの周りには病気直しなどで信者が集まって来ました。
当局の目が光っているため独立して活動は出来ず、それら金光教の布教師の下で宗教活動をしていたのですが、足立の方では、金光教の布教のためにナオを利用するだけで、その懸かっている神「艮の金神」のことは重視しませんでした。
ナオは艮の金神を世に出したいのですが、金光教の下で活動していたら、それは望めませんでした。
そこへ、この神を表に出す人と筆先で予言されていた人物が現れたのです。
それが上田喜三郎、後の出口王仁三郎です。

そういうわけなので、喜三郎は出口ナオが待望していた人だったのですが、しかしその周りの役員信者らにとっては、あまり望んでいない人でした。

年が若いし、よそ者ですし。
喜三郎が綾部に来る6年前から、出口ナオの周りで活動していた人たちにとっては、喜三郎は新参者です。新米の若造に活動の主導権を取られてはたまりません。

人が集まるところには様々な利権が発生します。
お金も得られるし、地位や名誉も得られます。
一度握った利権はなかなか手放せないことでしょう。

喜三郎が最初に参綾した時(明治31年10月8日)は、足立を始め幹部らに反対運動をされ、時期未だ至らずと、2~3日滞在しただけで綾部を去り、園部で宗教活動をしていました。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3721#a043

翌年、綾部からナオの使者がやって来て、喜三郎は大本入りする決心をし、綾部に移住したのです。(明治32年7月3日)
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3721#a230

喜三郎は金明会(きんめいかい)という団体を組織して、幽斎修業などに取り組み出しました。

しかしその時でもまだ足立らは喜三郎に反対し、妨害活動を続けていました。
やがて足立らは劣勢となり、足立の周りには信者が誰もいなくなってしまいました。信者は喜三郎の金明会の方に寄りつくようになったのです。

そうすると足立は我を折って「改心するから金明会に入れてくれ」と頭を下げてきました。
しかし金明会の役員会では、足立を入れないことに決めます。

…足立氏が尾を振って来たのは、心のうちから金明会へ心従しているのではない。老母や子供がたちまち糊口(ここう)に窮する(注・つまり生活に困る)ところから、一時の窮策として表面心従したと見せかけ、時機を見て金明会を転覆させ、喜楽先生を放り出す計略なる事は、今までの足立氏の行動に徴して明白だから、今度のいい機会を幸いに一切の関係を絶つ方が上分別だと、今まで同氏の熱心な教養をうけたものさえ、極力排斥を主張するようになって来た。

喜楽は足立氏の境遇を憐れみ、かつ、また今まで金光教を信じていた役員や信者の人情の浮薄冷酷なるに呆れ果て、

『(略)こんな薄情な人間のところへおってはとうてい駄目だ。自分さえここを立ち去ったならば足立氏親子の困難は除かれるだろう。世人の困難を救うべき神の取次(とりつぎ)が人を困らせてはならない』

と思ったから、四方氏を始め重なる役員に向かい、

上田『私がここへ来たために、足立氏親子が困難を来たすべき結果を生じたのだから、私は同氏に対して済まないから今日から帰ります。どうぞ足立氏と仲良うして神様の御用をして下さい』

と申し込んだ。
そこで数多の役員は大いに狼狽(ろうばい)し、鳩首(きゅうしゅ)謀議の結果、

『足立氏の処置については上田先生に一任しますから、ぜひとも教祖様のそばに居て、大本の宣伝に力を尽くして下され』
と異口同音に頼み込む。

そこで喜楽は足立氏を金明会の副会長に任じ、金明会の名のもとに仲良く神務に奉仕する事となった。
出口教祖も足立氏の身の上につき心ひそかに非常な心痛をしておられたが、喜楽の同情ある処置に対し、非常に安心をしたと云って感謝せられた。
足立氏は大変に喜び、役員信者も喜楽の赤誠(せきせい)に感じ、直ちに今までの態度を改め、教祖に次いで喜楽を師匠と尊敬し出した。

一時は大争乱が勃発しそうの模様のあった金光教対金明会も、ここに円満な解決が出来て、双方とも心持ちよく勇んで和合のうちに神様の御用に尽くす事を得たのである。

〔第37巻第21章 後半〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3721#a299

何と喜三郎は、自分を追い出そうとした足立を、立場が逆転したからといって追い出し返さずに、仲間に入れてしまったのです。

仕返しをせずに、排除しなかったのです。

これはまだ王仁三郎が三十歳前の時のエピソードですが、こんなところにも「言向け和す」の精神が顕れています。

足立はお金のため、生活のために宗教活動をしていたのですが、しかしそんな彼が開教間もない大本を支えて来たことも事実です。
そういう功労者を、敵対するからといって追い出さずに、手元に置いて仲間にしてしまうなんて、まさしく「言向け和す」です。

その喜三郎の慈愛に満ちた精神に他の人たちも感じ入って、それまでの態度を改め、対立が解消されて和合することが出来たのです。

そして喜三郎の株も上がり、ただの若造ではなく、尊敬される人物になったわけです。

しかしそれで、めでたしめでたしではありません。
それは一時的な平和に過ぎず、再び嵐が吹き荒れ出すのです。

(続く)


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喜三郎の修業 (16) お歯黒と陣羽織の謎

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年05月07日

喜三郎が初めて綾部へ行って出口ナオと面会したのは、明治31年(1898年)10月8日(旧8月23日)です。
高熊山修業からおよそ7ヶ月ほど後のことです。

このとき喜三郎は、男のクセにお歯黒を付け、陣羽織(じんばおり)を羽織り、手にはコウモリ傘とバスケットを持つという、たいへん奇妙ないでたちでした。

陣羽織というのは武士が陣中で来ていた服で、一見チャンチャンコか、丈の長いチョッキのような感じです。
(例)
http://samue.co.jp/isyou/odanobunaga/nobunaga_500b.jpg
http://www.samurai-store.com/armor/images/acs/jinbaori/Jinbaori01.jpg

文献によっては陣羽織ではなく打裂羽織(ぶっさきばおり)を着ていたと書いてあるものもありますが、どちらも似たような服です。

この変ないでたちのことは、霊界物語には「異様な姿」(第37巻第21章)
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3721&mky=a012#a012
としか書いてありませんが、『開祖伝』や『巨人出口王仁三郎』、『大地の母』など他の文献には書いてあります。

ただし、情報が混乱していて、下に括弧書きで書いてあるように、変ないでたちをしていたという時期や場所はバラバラです。

◆『開祖伝』……明治31年旧6月、八木で、福島久子に出会った時。
「綾部の東方に当る八木の福島に縁づかれた久子さんが、母の身の上を見分ける人を捜すため、わざわざ八木の町はずれの虎天堰という灌漑用の堰がある所の枝振りのよい松の木陰に、茶店を開いて待っておられました。
 そこへ手に大きな鞄をさげ、陣羽織のようなものを着、鉄漿をつけた異様な扮装いでたちの青年が一服しました」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B100600c22#a025

◆出口京太郎『巨人出口王仁三郎』 p53……開祖伝と同じ。
「喜三郎は、このとき、おはぐろをつけ、陣羽織を着て大きな鞄をさげるという異様な風体をしていたと『開祖伝』にあるが」

◆『大本七十年史』……明治31年10月、綾部で、初めて出口ナオと面会した時。
「一〇月八日(旧八月二三日)、綾部の裏町(現在の若松町)で、喜三郎は、はじめて大本開祖とあった。その日の喜三郎の姿は、陣羽織をきて、口にはおはぐろをぬり、手にはコウモリ傘とバスケットをもつという、念のいったいでたちであった」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195401c1512

◆出口澄子の自叙伝『幼ながたり』……明治32年7月、綾部で、出口ナオと二度目の面会の時つまり喜三郎が綾部に移住した時。
「明治三十二年の梅雨もそろそろあけかける頃のことでありました。私は大原のお茶よりの仕事がすんで、裏町の教祖さまのもとに帰ってきました。
 そのおり私は、不思議な人を見ました。その人は年齢は二十七、八ぐらい、男のくせに歯に黒くオハグロをつけ、もうそろそろ夏に入ろうとするのに、お尻のところでニツに分かれているブッサキ羽織というものを着て、ボンヤリ縁側から空を眺めていました。私は変わったその姿をみながらも何処かで一度見たことのあるような気がして来ました。「安達ガ原」という芝居に出てきた、お公卿(くげ)さんの姿の貞任(さだとう、安倍貞任)に、そっくりの感じでした。」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B124900c27

◆出口和明『大地の母』第6巻p61~「変わった人」……幼ながたりと同じ。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138906c02#a0200

文献によって時期は3つに分かれていますが、3回ともお歯黒・陣羽織だったのかも知れません。

しかしともかく、お歯黒(鉄漿とも書く)に陣羽織という奇妙な格好で西北へ旅立ったことは事実のようです。

   ★   ★   ★

男のクセにお歯黒をしていた、というのは、とても印象に残るスタイルですが、いったいなぜ喜三郎はお歯黒をしていたのでしょうか?

お歯黒は現代のホワイトニングのように歯の汚れを目立たなくしたり、歯並びの悪さを隠したり、また虫歯の予防にも役立っていたようです。
美容と健康が目的ですが、成年の印でもあります。

お歯黒と言ったら女性がするもの(江戸時代は結婚した婦人はみなお歯黒をした)という固定概念がありますが、『幼ながたり』にも書いてあったように、実は昔は公家さんもしていました。
元服(15歳前後)して成人した証しにお歯黒をしたのです。

しかし明治3年に政府から皇族にお歯黒禁止令が出されました。
近代化(西洋化)の一環だと思います。
その後、民間でも徐々に廃れて行ったようです。
(参考 ウィキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E6%AD%AF%E9%BB%92#.E6.AD.B4.E5.8F.B2

民間でもお歯黒の風習が廃れつつあったのに、喜三郎はなぜお歯黒をしていたのか?
本人が何も言っていないので(私の調査では王仁三郎本人が言及している文書は見つけることが出来ませんでした)はっきりしたことは分かりませんが、『大地の母』では、祖母の宇能(うの)が喜三郎にお歯黒を付けたのであろうと推測しています。

喜三郎の実父は有栖川宮熾仁親王ですが(出口恒著『誰も知らなかった日本史』参照)、皇族の子であることを意識して、宇能がお歯黒を付けてあげたのだろうという推測です。

喜三郎は明治31年10月の初参綾の時は、移住するのはまだ時期尚早と判断して、2~3日滞在しただけで帰ってしまったのですが、翌年7月、出口ナオからどうしても来てくれと使者が派遣されて来たので、綾部の大本に入ることを決意しました。

故郷を離れ、大きな御神業に従事する一大決心です。
ある意味で、立志の時とも言えます。
皇族は元服の時に初めてお歯黒を付けたようですが、立志して、大人となり(肉体的にはとっくの昔に大人ですが)、旅立って行く喜三郎に、一種の儀式としてお歯黒を付けたというわけです。

『大地の母』から宇能のセリフを少し引用してみます。(『大地の母』第6巻p67)

 宇能は、嫁入り道具の一つであったかなり古びた手箱と、耳だらい・水指し・茶碗を持ち出してきた。灯りを引き寄せて手箱から小さな鉄漿(かね)壷をとり出すと、喜三郎に眼で笑いかけた。(略)

「お前は、もう二十九歳にならはった。お前のお父上さまは、その年頃でどんなお悲しみに耐えられ、御自分の御心を殺されて、なお天皇さまのため、国民のために一身を捧げつくされたことかのう」(略)

「わたしが鉄漿親(かねおや)になりましょう。真似ごとやと笑うたらあきまへん。おそまきながらお前の成人式やと思いなはれ」(略)

「今夜せなんだら、もうお前がわたしの手元に帰る時はありまへんやろ。文明開化の御代になって鉄漿付けの習俗など忘れられ、廃れてきたけれど、遠い昔から鉄奨は堂上公卿の身嗜(みだしな)みの一つでしたんやで。祐宮(さちのみや)さま(明治天皇)は御年十七歳の明治元年一月十五日元服のお式の日に鉄漿を。お前の父上、熾仁(たるひと)親王さまはもっと早く、和宮(かずのみや)さまとの御婚約の時には、元服も鉄漿始めの儀も済んでおられたはず。一度だけそのしるしをつけて、お前のお母さんに見せてやりなはれ。門出のはなむけやでなあ」

『大地の母』では陣羽織も宇能が喜三郎に着せてやったことになっています。
これもまた、軍人だった熾仁親王を意識してのことです。

お歯黒や陣羽織は宇能が…という場面は、著者(出口和明)の想像(創作)です。
しかし、熾仁親王の子であるということを意識した格好だと考えれば、お歯黒・陣羽織という奇妙ないでたちが理解できます。

もちろん、皇族の落胤であることを暗に主張するため…ではなく、決意の表明です。
高熊山修業後、一年ほど地元で宗教活動をしていたとはいえ、いよいよ本格的に宗教活動を開始するのです。
綾部という見知らぬ地で、自分が来ることを反対する連中がいるところに自ら飛び込み、救世の大神業を開始するのです。
その決意です。

お歯黒をして陣羽織を羽織り…という姿は想像するとちょっと笑ってしまうのですが(^_^;)、その背景には、喜三郎のただならぬ決意が秘められていたのだと思います。

(続く)


この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2017年11月13日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック