言向和(44) 寛容性のある宗教観

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年09月12日

TED(テッド)はアメリカを中心に様々な分野の人物による講演会活動を行っている団体です。
2014年に京都で開かれたTEDの講演会で、あるお坊さんが講演しました。
臨済宗の禅寺の副住職をしている松山大耕氏です。
演題は「Reasons for religion」。直訳すると「宗教の理由」となります。(「宗教の理性」かな??)

ユーチューブに講演の動画があります。
https://youtu.be/8mAPA3YKC_A

十数分の短い話ですが、けっこう反響があったようで、ネット上のあちこちで紹介されています。
全文テキスト化したものがありますので、動画を見る時間のない方は、こちらをお読み下さい。
http://logmi.jp/34073

テーマ自体は、日本の宗教の寛容力が大きいことを訴えるもので、特に目新しいテーマではありませんが、しかし話しているエピソードがなかなかおもしろいです。

松山氏はお寺の子として生まれましたが、中学・高校はカトリックの学校に通っていました。

大学時代にアイルランドに行ったときに、現地の人に自分のそういう経歴を話すと、驚いて
「なぜあなたの国ではそんなことができるのか? アイルランドでそんなことをやったら殺される」
と言われたそうです。

アイルランドにも信仰の自由はありますが、国民の9割がカトリックです。
IRA(アイルランド共和国軍)というテロ組織が、イギリス領土になっている北アイルランドをイギリスから分離させて、全アイルランドを統一することを目的に長い間活動して来ました。(90年代末に停戦し、現在は武装解除しているようです)

IRAはカトリック過激派組織であり、イスラム教におけるアルカーイダやISILのようなものです。
要するにアイルランドには、自分の信仰する宗教以外は許容しないようなカルチャーがあるわけです。
「殺される」というのはさすがに大げさだとしても、カトリック信者の子供がプロテスタント系やイスラム系の宗教の学校に行くなんて、とうてい考えられないことなんでしょう。まして僧職者の子供だったらなおさらです。(ただしカトリックの神父は結婚禁止なので子供はいません)

松山氏の経歴を聞いたアイルランドの人は「日本では何でそんなことができるのか」とすごいカルチャーショックだったと思いますが、「そんなことをやったら殺される」と言われた松山氏もかなりカルチャーショックだったことでしょう。

しかし世界はそういうものだということを、私たち日本人はよく知った方がいいと思います。
結婚式はチャペルで行い、クリスマスを祝って、神社に初詣に行き、葬式は仏教で・・・なんていうのは、世界基準で見たらかなり異常な人たちなわけです。
それは果たして宗教的に寛容だということなのか、それとも無節操だということなのか・・・

松山氏は、この宗教観の違いは、食の違いと似ていると述べています。
洋食のコース料理にはメインディッシュというものがありますが、和食にはそれがありません。
懐石料理を想像してみて下さい。いろいろな料理が少しずつ出てきて、特別にメイン料理というものがありません。
ある特定の料理(宗教)だけを特別視することなく、全ての宗教に共通する倫理観とか哲学といったものを日本人は大切にしているのではないか、と松山氏は話しています。

他にも、日本とインドの仏教の違いはカレーに似ているとか、お坊さんだけあってなかなか話がうまいです。
で、最後は、日本人の持つ素晴らしい寛容性のある宗教観を世界に伝えて行きたい、そうすれば世界はもっと素敵になると信じている云々ということで、話を結んでいます。

   ○   ○   ○

松山氏のこの講演の中から特に抜き出して紹介したい箇所がいくつかあります。

(続く)


この文章は過去に次のところへ掲載した文章に加筆訂正したものです。
「言向け和すメールマガジン」2016年8月3日号

言向和(43) 憎しみの教育 その結果 寛容の精神に欠ける

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年09月10日

ユーチューブにあった動画で、中国の大学の所長が次のように語っていました。
『マフィア化する中国の医療』の2:13から
http://youtu.be/p-FZZYkTkZ0?t=2m13s

医療事故を隠すために病院が暴力を行使して被害者の声を弾圧している、という社会問題に対するインタビューです。
そういう問題が発生する理由の一つとして、この所長は、
「我々が受けた教育は階級闘争の教育で、憎しみの教育なので、寛容の精神に欠けている」
と語っています。

階級闘争の教育とは、一言で言うと「敵を憎め」という教育です。
共産主義が「悪魔の宗教」と呼ばれる所以です。

この所長が言うように、たしかに共産主義国家の中国では、党・政府の命令で、「敵を憎め」という教育が行われているのでしょう。「反日」がそのいい例です。
その結果、人心が荒廃し、寛容の精神に欠けるようになってしまったと、この所長は嘆いているのです。

しかし。
これは共産主義国家特有のことではありません。
日本でも「憎しみの教育」は身近なところに転がっています。

たとえば、夫婦仲に問題があり、妻が夫をバカにしている家庭があります。
妻の方が夫よりも仕事のスキルがあって収入が多く、夫が無能な人間に見えて仕方がないのでしょう。
そして子供を自分の味方につけて「父親はダメ人間」と教え込み、一緒になって夫を非難・攻撃させているのです。
この妻はイデオロギーとは無縁の人であっても、やっていることは階級闘争そのものです。
知らず知らずのうちに、そういう態度を取ってしまっているのです。
果してこんな「憎しみの教育」を受けた子供は、どういう人間に育つのでしょうか?

階級闘争から生まれるものは、自己嫌悪です。
夫を非難し、父親を非難し、そこから生じるのは空しさだけではないですか?
そういう男と結婚し、あるいは、そういう親から生まれた自分自身が、情けないだけです。
いくら夫や父親を非難しても、自尊心というものは決して生まれません。
自己嫌悪するだけです。自己嫌悪するから、なおさら父親を非難するのです。

年中、ストライキばかりしている労働組合があったらどうですか?
経営者を非難攻撃するのもいいですが、それは結局「うちの会社はダメな会社だ」と言っているのと同じです。

年中、政府や社会を非難攻撃している野党や市民活動家やマスコミがいたらどうですか?
それは結局「わが国はダメな国だ」と言っているのと同じです。

中国や韓国のように年中、日本を非難攻撃している国は、結局「わが国は簡単に他国に侵略されるような弱い国だ」と言っているのと同じです。そんな国の国民は、自尊心が育たず、自尊心がないが故にますます他者を非難攻撃することになります。

「弱い犬ほどよく吠える」と言いますが、自尊心のない人ほど、他人を悪く言うものです。
しかし他人を悪く言ったからと言って、自分が良くなるわけではありません。
それどころか、自分が悪く言っている人(あるいは会社とか社会とか国家とか)に依存して生きていかなくてはいけない自分が空しくなるだけです。
余計に自尊心が傷つくだけです。

安倍政権・自民党を一生懸命に非難攻撃して来た民進党が、脱党者が続出して解党寸前ですが、そんなのも良い例です。安倍政権の支持率を急落させたのですから、本当なら万歳三唱で結束力が高まるはずでしょう。ここで政権奪取のチャンスじゃないですか!
しかし他人の悪口しか言えない党なんて、嫌気が差す人もまた多いのです。民進党の支持率は低下し、それでは選挙に勝てないと脱党したくなる気持ちもよく分かります。

ツイッターだのフェイスブックだのインターネットの普及で、誰もが声を上げることのできる時代です。
他者を非難攻撃することが「言論の自由」であり、それが社会の健全発展につながるかのような錯覚が広まっているように思います。

ですが実はそれは悪魔の罠なのかも知れません。
社会はますます悪くなり、自分自身も悪化して行くことになるのです。

誰かを非難攻撃したい気持ちになったときは、まずその気持ちを言向け和してみる必要があるのではないでしょうか。

(続く)


この文章は過去に次のところへ掲載した文章に加筆訂正したものです。
「言向け和すメールマガジン」2016年2月17日号

言向和(42) ワールドワーク──敵同志が集まるグループセッション

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年09月08日

「ワールドワーク」というものをご存知でしょうか?

ユング心理学者のアーノルド・ミンデル(ウィキペディア参照)という人が創始したプロセス指向心理学を、会社や地域社会などの組織・団体に応用したものです。
紛争解決に役立つワークです。

たとえば宗教や人種で対立し、武力衝突が起きている地域で、対立している住民を集めてこのワークを行うのです。

多人数で行うグループセッションによくあるのは、アルコールやギャンブル依存症の人が集まって行うものです。
それぞれ自分の体験を語り合い、それに共感したり、励まし合ったりするわけです。

そこに「敵」はいません。ある意味ではみな同じような体験をした仲間(味方)ばかりです。

しかしこのワールドワークは、対立する人たちが集まります。お互いに、自分は被害者で、相手が加害者であると思っている敵同志です。
すごく激しいセッションになるでしょうね。

   ○   ○   ○

北朝鮮が核兵器の実験を行い、日米韓など関係諸国との対立がどんどん深まっていますが、国家間の対立でも、企業間でも、家族間でも、対立・紛争が起きるとよく「対話が大切だ」とか言います。

しかし対立もこじれてしまうと、もはや対話しても解決にはつながりません。
お互いに自分の利益を主張し、相手の非を責めるだけで、ますます仲がこじれるだけです。

感情が傷ついて、理性で解決できるレベルではなくなっているのです。

特に、怒りで頭に血が上っていると、自分のことしか考えることが出来なくなってしまいます。相手のことなど考える余地がありません。
和解なんてとうてい不可能です。

そういう場合は、理性的に解決しようとするのではなく、逆に感情を爆発させて、お互いに感情同志で戦わせた方が、むしろ解決につながる場合があります。
よく、不良少年を扱ったテレビドラマなんかに、子供が家庭で暴れた挙げ句に親と感情剥き出しのバトルをして心の奥底に押し籠めていた感情を吐露する場面がありますが、あれです。
「雨降って地固まる」です。

とはいえ、感情剥き出しのバトルは危険です。取っ組み合いのケンカになり、さらに相手を傷つけ、解決するどころか、かえって憎悪が深まる可能性もあります。
だからちゃんとファシリテーター(進行役)がいて、ルールに則って、感情の吐露を行って行く必要があるのです。
私の理解では、ワールドワークとはそういうグループセッションです。
(専門家から「そんな単純なものではない!」とお叱りを受けそうですが、私はその道の専門家ではないのでご了承下さい)

   ○   ○   ○

ワールドワークの参加者は、最初は敵(相手)に対して憎悪が剥き出しでも、「爆撃されて怖ろしかった」とか「銃で子供が殺されてとても悲しかった」という敵の体験談を聞いていくにつれ、『敵も自分と同じように、つらい思いをしていたのだ』という、感情の共感が生じて来ます。

相手の悲しい想いに耳を傾けることで、自分の正義は相手にとっては不義であるという、理性的に考えれば当たり前のことを実感するわけです。自分の報復が相手の報復を生み、憎悪が連鎖して、ここまで町が荒廃してしまったのだという現実を目の当たりにするのです。

それによって直ちに紛争が解決するわけではありません。
参加者が、憎しみを持って行く場がなくなってしまい、今度はその憎しみをどこに向けるのか、その向かう方向によってはますます大変なことにもなりかねません。

とはいえ、愛する家族を殺された人が憎しみをなくすことはなかなか出来ないと思います。
前回書いたように、憎悪を昇華できればいいのですが。。。

ワールドワークだけで紛争が解決するわけではありませんが、紛争解決に役立つワークであると思います。
興味のある方は勉強して下さい。

●A・ミンデル『紛争の心理学 ──融合の炎のワーク』講談社現代新書
http://amzn.to/2eKzOXU

●ワールドワーク ウィキペディア

(続く)


この文章は過去に次のところへ掲載した文章に加筆訂正したものです。
「言向け和すメールマガジン」2016年1月13日号

言向和(41) 憎悪の昇華

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年09月06日

出口王仁三郎が書いた霊界物語には宣伝使と呼ばれる人が多数出て来ます。霊界物語の主人公で、救世主であるスサノオの大神が、三五教(あなないきょう)という霊団を導いており、その宣伝使たちがスサノオの手足となって、世界を言向け和すために地上のあちこちを旅して回るのです。

言向け和されるのは悪神・悪人だけではありません。一見、善人に見える人でも改心を迫られます(第13回参照)。何も悪い行為をしていなくても、妬み嫉み憎しみという想い自体が悪なのです。それが発生する凝り固まった感情を、言向け和して行くのです。

悪神(邪神)とか悪人とか言っても、最初から悪かったわけではなく、何かいろいろ世間の波に揉まれているうちに悪くなったわけで、改心すれば善神・善人となりますが、その背後に「邪霊」が存在することを王仁三郎は説いています。邪霊には三種類(八岐大蛇、金毛九尾の悪狐、六面八臂の邪鬼)あるんですが、これらは最初から邪悪な存在として誕生しています。
しかしこの邪霊ですら、言向け和して、人々のため、宇宙のために役立つ存在へと変えて行くのです。
悪いもの醜いものを斬り捨ててしまうのではありません。
悪しき想いを昇華させてミロクの世の建設に役立てて行くというのが、スサノオの大神のやり方です。

それが現実の人間界に顕れるとどうなるのか、ということで、その一つの例を紹介します。

   ○   ○   ○

「汝の敵を愛しないさい」と言われても、なかなかできるものではありません。
犯罪や戦争で愛する人を亡くした遺族にとっては、敵を憎み続けることが唯一の「生き甲斐」だという場合もあります。

しかしこの憎悪心を昇華して、世の中を良くするために邁進する人もいます。

昭和41年(1966年)年に、市瀬朝一さんは通り魔によって息子を殺されました。
犯人は捕まりましたが、市瀬さんは息子の恨みを晴らすため、裁判所内で被告(犯人)を殺そうとしたのです。
それは未遂に終わりましたが、憎悪をそのままダイレクトに爆発させて復讐したとしても、自分は捕まって処罰されるし、家族は喜ぶどころかさらに悲しみに沈むことになります。
場合によっては復讐された相手がさらに復讐してきて、憎悪が増幅・連鎖し、いい結果にはなりません。

次に市瀬さんは、通り魔のような犯罪をなくすために活動を始めます。
犯罪をなくすというのはなかなか難しいことですが、復讐ではなく、世の中を良くすることで、息子の怨みを晴らそうとしたのです。

自分と同じように、通り魔によって家族を殺された遺族の元を訪ね歩きました。
同じような境遇にあって、気持ちが通じやすいはずですが、しかし実際には必ずしも市瀬さんを快く迎え入れてくれるわけではなく、傷ついている遺族たちの中には「ほっといてくれ」と市瀬さんを追い返す人もいました。

当時の社会風潮として「犯罪に遭うのは、被害者の方にも何か非があるのでは?」という目で見る人も多かったようで、遺族の心境はなかなか複雑だったようです。

遺族の元を訪ね歩くうちに、市瀬さんは、遺族が経済的に困窮に陥っている家庭が多いことに気が付きました。
何の罪もない子供が殺されたことで精神的に参って、働く意欲が起きなくなってしまったり、一家の大黒柱が殺されて収入が途絶えてしまったり。

法律を調べてみると、交通事故や災害による死亡者の遺族を救済する補償金制度はあったのですが、犯罪被害者に対する補償金制度が存在しませんでした。

そこで市瀬さんは、それを法制化することを目指すことにしたのです。
経営していた会社を畳んで活動資金を作り、署名を集めたり、政治家を訪ねたり。

昭和49年(1974年)、三菱重工爆破事件(過激派による無差別テロ事件)によって死者8人、400人近い負傷者が出ました。
この事件が直接的な契機となって議論が高まり、昭和55年(1980年)に犯罪被害者給付金制度が制定されました。それまでの市瀬さんの努力が報われたのです。

講演「犯罪被害者運動の先駆者 市瀬朝一氏を偲ぶ」も参考にして下さい。

この市瀬さんがモデルとなった『衝動殺人 息子よ』という映画が昭和54年(1979年)に公開されています。(ウィキペディア

また2015年12月にはテレビ番組「アンビリバボー」で放送されているので、Youtubeを「アンビリバボー2015年12月3日」で検索すると出てきます。
https://youtu.be/JT6zsNJYyR4

   ○   ○   ○

憎悪心を燃やして敵に復讐しても、あまりいいことはありません。

とは言え、憎悪心をなくせ、敵を愛せ、と言われても、そう簡単にはできません。

第三の道として、この人のように、憎悪心を昇華させて、世の中を良くするエネルギーに転換するという方法もあるのです。

単に憎む気持ちをなくすよりも、これが世の中に一番役立つ方法かも知れません。

そして実際に世の中を良くすることができたなら、犯罪の被害に遭ったという「災難」も、実は神の「恵み」だったと思うことができるようになるかも知れません。
神は自分にこれをやらすために、あのような酷い災難を降り注いだのか──と。

なお、この法律(犯罪被害者等給付金支給法)は、市民の立法運動によって制定された日本で初めてのケースだそうです。
最初は犯人に対する憎しみの気持ちで動いていたかも知れませんが、それがやがて「犯罪を無くそう」、そして「被害者を救おう」という愛の気持ちへと、原動力が変わって行ったのです。

まさに、憎しみの感情が愛へと昇華したわけです。

(続く)


この文章は過去に次のところへ掲載した文章に加筆訂正したものです。
「言向け和すメールマガジン」2016年1月20日号

言向和(40) 自分を虐待した親を許さない

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年09月04日

前回は、「言向け和す」世界の前の段階として「言向け和せない」世界があるということを書きました。
誰にでも必ずあるとは限りませんが、その世界を通過しなくては、次の世界に進めない人もいるのです。私の場合がまさにそうであったのです。
「言向け和せない」世界では、「言向け和さない」ということをしっかりやらなくてはいけません。その時、その人にとっては、それが必要だからです。

以前に「自分を虐待した親を許す」という話を書きました(第31回)。
今回紹介するのは、それとは真逆のケースです。
「虐待した親を許さない」ことで救われたという話です。

中井宏美・著『あなたの子供を辞めました』(2011年、マガジンハウス)には、親と絶縁することで幸福を手に入れた著者の体験が記されています。

中井さんは幼い頃から母親に虐待されて育ちました。殴られ、罵倒され、自殺しろとまで言われたのです。

しかし、母親に愛されないのは自分が悪いからだと思い込み、悩み、葛藤して、地獄のような日々を過ごしました。

やがて大学に進学し、家を出て、就職しましたが、トラウマはいつまでも彼女を追いかけて来ます。妹に「お母さんを許してあげようよ」と諭されますが、許すことが出来ません。

許すとは、どのような状態なのか。どうすれば許せるのかが私にはよく分からなかった。自分のつらさや怒りを押し殺し、母からの罵倒に耐え続けることが許すということならば、私は程なく死んでしまうだろう。私は許すこともできず、ただ憎むこともできない。許そうとすれば、自分の感情を抑えるつらさに耐えられなくなり、憎もうとすれば罪悪感に苦しめられた。(同書P185)

そんな彼女は「許す」ことではなく、「絶縁する」ことで、苦しみから救われたのでした。

同書で紹介されていますが、「毒親(どくおや)」という俗語があります(ウィキペディア参照)。アメリカの精神医学者スーザン・フォワード氏の著書『毒になる親』(1999年、毎日新聞社)の題名から生まれた言葉です。

毒になる親とは、児童虐待などで毒のような影響を子供に与える親のことで、子供の人生はその毒によって支配され苦しみ続けることになります。『毒になる親』の中でフォワード氏は「必ずしも親を許す必要はない」と述べています。

…長い年月をかけて「許す」という概念について綿密に研究してきた。そして次第に、「許さないといけないから許す」という考えは、傷ついた心の回復には助けにならないばかりか、むしろ妨げになっているのではないかと思うようになった。〔『毒になる親』P191〕

…私はけっして「親を許すな」と言っているのではない。本当に許すことができるのなら、それはかまわない。だがそれは、「心の大掃除」という長い道のりを経て、すべての整理がついたうえで、最後の結論としてそうなるのでなくてはならないということなのである。〔同P196〕

…私は長年にわたって多くの被害者をカウンセリングし、観察してきたが、「毒になる親」の支配から自己を解放した者は、必ずしも親を許さなくても心の健康と平和を取り戻すことができている。〔同P197〕

親と絶縁することによって救われた、というのは、親子関係ではなく、夫婦関係に置き換えると分かりやすいかも知れません。
夫婦仲がこじれたとします。二人の関係を修復するのが理想的かも知れませんが、いっそのこと離婚して別々の道を歩んだ方が、二人にとって幸せである場合もあります。
親子関係も同様で、修復不可能なら絶縁して、親と無関係に生きて行けばいいのです。

これは私にとっても、とても痛い話です。なぜならまさにそういう過去を経験しているからです。
前回少し書きましたが、私は自分自身の性格がとても嫌いでした。当時はとても内向的で人付き合いが苦手で友達が一人もいないような孤独な人間だったのです。そしてそういう性格であることを親のせいにして、それで親を憎んだのです。
(注・親の名誉のために書いておきますが、私は決して親に虐待されていたわけではないのでご注意を。私の親は世間一般的に見て決して恥ずかしくない、むしろ立派な親だと思います。しかし子供は世間を知らないので、自分の願望だけで善悪を判断してしまうのです。まして、内に引き籠もってしまうような性格だったのでなおさらです。要するに八つ当たりで憎んだのです)

詳細はここには書きませんが、私も親と「絶縁」をしました。親に対する、静かな、そして最大の復讐が「絶縁」だったのです。
『毒になる親』の引用文に「心の大掃除」という言葉が出て来ましたが、まさにその心の大掃除を二十歳頃から始めて、心理学とか精神世界とか宗教を学び、そして王仁三郎に出会い、4~5年後には親を憎む気持ちが無くなって行きました。

しかし親を憎んでいたときに「親を許しなさい」と言われても、絶対に無理だったと思います。
理性では許したとしても、腹の中の怒りは収まらなかったことでしょう。

イエス・キリストは「汝の敵を愛しなさい」と説きましたが、敵の罪を許し、愛することが理想だとしても、それができるようになるには、まず徹底的に敵を憎むことが必要な場合もあるのです。

それは、傷ついた自尊心を回復するためです。心のトラウマが癒されなくては、敵を許し、愛することは難しいのかも知れません。

タクシードライバーの例(第30回)で、客のCさんも、自分に重傷を負わせたドライバーのBさんを初めは憎悪していました。しかしBさんが真摯に謝る態度を見て、次第に心が癒されて行き、Bさんの罪を許すことができたのだと思います。

フォワード氏は「必ずしも親を許さなくても心の健康と平和を取り戻すことができている」と言っていますが、しかしそれはあくまでもその人一人だけを見れば、それでもOKだということに過ぎないでしょう。
人間は一人で生きているわけではありません。社会生活をする生き物です。「絶縁」は社会の有機的な結びつきを破壊する行為です。長期的に見ればいろいろな不都合が発生します。
あくまでも、その人が心の健康を取り戻すための一時的な行為であるべきです。やがて時期が来たならば、親を許すことが出来るようになるのが、目指すべき世界です。

『あなたの子供を辞めました』の中井氏も、今はそれが必要だからそうしているのであって、永遠にそのままでよいはずがありません。
しかし人の人生は短いです。わずか数十年の人生の中で、その日その時は訪れないかも知れません。
心残りなく死ぬには、やはり許すことが必要なのではないのでしょうか。

そして、人を許さないと、許されていない人もまた救われません。
社会(世の中)というものを考える場合には、自分のことだけでなく、相手のことも考えなくてはいけません。
しかし相手のことを考えることができるようになるには、まず自分自身が救われねばなりません。
そのためのプロセスとして「人を許さない」という逆説的な行為しなくてはいけない場合があるわけです。

「人を許す」ことができるようになるためには「人を許さない」ことが必要な場合もあるのですから、やみくもに「人を愛しなさい」とか「罪を許しなさい」とか「悪を言向け和しなさい」とか言ってみても、それが伝わらない人もいるわけです。

王仁三郎は「神は順序だ」と言っていますが、まさに順序です。必要なプロセスを省いて次のステージには進めないのです。
世界を言向け和して行くには、言向け和せない時代を経なくては行けない場合があるということです。
なかなか世界は一筋縄では進んで行かないようです。


この文章は過去に次のところへ掲載した文章に加筆訂正したものです。
電子書籍『言向け和す ~戦わずに世の中を良くする方法』(2015年12月)