天と地を真釣るのがマツリゴト

投稿:2017年06月29日

前回からの続きです。

王仁三郎は民主主義について肯定的なことも否定的なことも述べています。
しかし王仁三郎でなくても、民主主義は「良いけど悪い」と思っている人はけっこう多いのではないでしょうか。
端的に言うと「みんなで決めたことが正しいとは限らないが、みんなで決める以外にみんなが納得の行く方法はない」というようなことだと思います。その代表例として「ヒトラーは民主主義で独裁者になった」ということが挙げられます。

民主主義は衆愚政治と揶揄されるように、人間は口の達者な奴に煽動されやすいです。それで「北朝鮮が核ミサイルを撃ってくる」と危機感を煽って憲法を改正しようとしたり、政権に対するネガティブキャンペーンを張って支持率を落とそうとしたり、与野党共に煽動合戦を繰り返すわけです。
こんなんではいつまでたっても猿の惑星のままです。

王仁三郎が民主主義について肯定的に語っている発言を一つ紹介します。

問 聖師様を友達のようにしては、いけませんね。
答 いやこの方が王仁は好きじゃ。神様は民主主義じゃからな。(昭和二十一年二月二日)
〔「神様は民主主義」『新月の光』〕

神様は民主主義って・・・神様は多数決で決めるの? ──いや、そういう意味で言っているのではないでしょう。

霊界物語ネットに座談会の記録がありますが、それを読めば分かるように、王仁三郎という人はけっこうフレンドリーな人です。しかしそれでも信者から見たら、「聖師様」とお呼びしているように、王仁三郎は生神様であり、おいそれと話しかけたり、ましてご意見申し上げたりすることは、畏れ多くて出来ないのです。
それで、「聖師様は生神様なんだから友達のように対等な立場で接してはいけませんね」という信者の質問に対して「いや、その方がエエよ。神様は民主主義だからなー」(意訳)と答えたわけです。

民主主義という言葉には、大きく2つの意味があります。
1つは「国民が多数決で決める」という意味です。それまでは一部の人間だけが主権を持ち政治を決めていたのです。王制とか貴族制とかいう奴です。
2つ目は「政治は国民のために行う」という意味です。つまり「民本主義」です。それまでは一部の特権階級のための政治であって、国民は支配者の奴隷であったのです。それを「人民の人民による人民のための政治」に変えたのが民主主義です。

王仁三郎が「神様は民主主義だ」と言っているのは、「神様は多数決だ」という意味ではなく、2つ目の「神様は民本主義だ」という意味だと思います。
「友達のようにしてはいけませんよね」「いや神様は多数決じゃからな」では意味が通じませんもんね。「神様は民本主義だから、民の声に耳を傾けるので、みんなワシに気楽に話しかけてエエよ」という意味で王仁三郎は言っているのだと思います。

この発言は昭和21年2月2日のものですが、この1ヶ月前の昭和21年元日に天皇がいわゆる「人間宣言」を発表しています。現人神が雲の上から地上に降りて来たのです。ひょっとしたら、それを受けてのこの発言だったのかも知れません。
人間宣言は、支配者が雲上にいて地上の人民を支配するような時代が終わったことを象徴しています。神が民と共に歩む時代に変わったのです。

まつりごと(祭・政)というのは、神と人とを真釣(まつ)り合わせることだと王仁三郎は説いています。

祭(マツリ)(マツル)という語は、「真釣り」「真釣る」の義である。「真釣る」とは、度衡(注・どこう…天秤の意か)の両端か、あい(注・間の意)に重量を懸けて平衡さする意義である。天上の儀と地上の儀とを相一致せしむるの作法が「マツル」(祭祀)である、「マツリゴト」(政道)である。祭祀政道の大義は、これ以外に決してあるべきではない。(略)

天上の儀を地上に「真釣る」のが祭祀である、政道である。現代は祭祀も政道も全くその根本を失って、一片の形式に流れ、権謀を以て政道の本義とさえ思うように至ったことは、何たる大なる誤りであろう。(略)

惟神(注・かんながら)の道というのは、天上地上の祭祀政道の、正しく行わるる有様をいうのである。神の示させ給うまにまに行いゆくのが、惟神の道である。惟神の道は祭祀政道の根本義である。現代の如き形式的祭祀、権謀術数的政道は、決して惟神の道でない。(略)
〔「国教樹立論(十一)」『出口王仁三郎全集 第一巻』〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121801c21

天(神)と地(人)を真釣り合わせるのが本来の政治のあるべき姿です。神は、民の声に耳を傾け、民のために政治を行うのは当然です。
しかし一部の人間だけが主権を持っていると、支配者のための政治になってしまうのがオチだったのです。それで主権を国民全てが持つようになったわけですが、結局は、自分が属する特定の集団のための政治を行おうという姿勢には変わりありません。労働者代表は労働者のために、農業代表は農民のために、地域代表はその地域のために、利益を誘導し、そのために権謀術数を駆使するというのが、民主主義の実態です。

結局、政治とは何であるのか、ということが分かっていないからでしょう。
あらゆる利害関係を真釣り合わせなきゃいけないのに、自分の利益だけ主張しているのが現今の政治家たちです。
彼らが「国民が」と言う場合、それは自分の支持者だけを指しています。自民党が言う「国民」とは自民党支持者のことだし、共産党が言う「国民」とは共産党支持者のことです。
しかし本当は、自民党も共産党も含めて「国民」なのです。
賛成派も反対派も含めた「国民」を、いかにして統治して行くか…という観点を持っている政治家は皆無だと言わざるを得ません。

それを考えると、王制の方がまだマシかも知れません。何故なら王族は、民を治めるのが家業だからです。生まれた時からその仕事を教えられ、一生その仕事を行い、子へ、孫へと継承されて行きます。その統治のノウハウがいわゆる帝王学です。民主主義における政治のノウハウとは、いかにして利益を獲得するか、です。それで政界は利権の奪い合いをする猿山と化すのです。
王制は世襲で代々統治を行うのですから、「国家百年の大計」ということも可能です。たかだか数年で交代する総理や大統領には、百年先のことを考えることなど出来ません。国家は行き当たりばったりで進むことになるのが民主主義です。
しかし王制でも、結局は、民のためではなく、王族のための政治になってしまうというオチだったので、主権在民となったわけです。

前回、王仁三郎が「二大政党などを樹てずに、一国一党で行く政治が望ましい」と述べていることを書きました。
これはつまりセクト主義(政党政治)をやめて一つになれ、ということです。
しかしそれでうまく行くとも思えません。結局、政治とは利益を獲得することだ、自分の要求を認めさせることだ、という態度で政治に臨んでいる以上は、徒党を組むのをやめても、一人一党のセクトと化すだけです。
セクトから離れ、自民党も共産党も含めたのが国民である、という観点を持つ必要があります。そうでない限り利権の奪い合いは続き、地球は猿の惑星から進化できません。

では、王制でもダメ、民主主義でもダメとなったら、いったい何ならいいのでしょうか?
ミロクの世の統治とは一体どのようなものでしょうか?

(続く)