神の宗教統一の御経綸 その3つの局面

投稿:2017年06月26日

王仁三郎が行った宗教統一の御神業には、次の3つの局面があるということを前回書きました。→宗教の統一、道義的・精神的な世界統一

(1) 業界団体の結成
(2) 教義・教理における融合
(3) 普遍的な宗教原理の探究

この3つの局面は王仁三郎の昇天後に着実に世界に現れて来ています。

(1) 業界団体の結成

宗教の業界団体や、超教派の共同活動というものは、王仁三郎以前からもあります。たとえば宗教家懇談会(明治38年結成)だとか日本宗教懇話会(大正13年結成)というものがありますが、既成の二教(神道、仏教)や三教(神道、仏教、キリスト教)によるもので、幕末から雨後の筍のように勃興している新興宗教は含まれておりません。新興宗教はいかがわしいものとして見られていたのでしょうね。ひょっとしたら『新興宗教勢力の拡大に危機感を抱いた既成宗教団体が手を組んだ…』というのが実態なのかも知れません。新興宗教も含めた業界団体は、当事者である王仁三郎が主導して結成された世界宗教連合会や万国信教愛善会(どちらも大正14年結成)が濫觴ではないかと思います。現代では日本宗教連盟という新興宗教も含めた業界団体があります。

また大戦後は、戦争への反省や米ソ冷戦への対応ということもあり、世界宗教者平和会議だとか、比叡山宗教サミットだとか、国際ならぬ「宗際」活動が活発化しています。2006年に日本で開催された世界宗教者平和会議第8回大会では約100ヶ国から2000人の宗教者が集まったというので、かなりグローバルですね。

しかしこういった団体・集会は、宗教業界のトップ同士による同業組合であり交流会です。国で言うなら国連であり、産業界で言うなら経団連のようなものです。もちろんそれは重要な活動ですが、もっと重要なのは一般信者です。
トップは社会的責任があるので『平和のためには仲良くやらなきゃいけないよな』と思ったとしても、一般信者は責任がないのでそんなふうには思いません。一度敵愾心が芽生えたら芽生えたままです。『ユダヤ人がイエス様を殺した』とか言い続けることになるのです。

そこで一般信者の意識を変えるには(2)が必要となります。
宗教の中味を変えるのです。

(2) 教義・教理における融合

要するに、宗教が持つ神話や教義を変えてしまおうということです。『ユダヤ人は神から選ばれた選民』だとか『イエスが救世主として現れて旧約(ユダヤ教)を廃して新約をもたらした』とか、そんな話を無くしてしまえばよいのです。『ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も仏教もみな、その時代、その地域に必要だったから、神が地上に下したのだ』ということにしてしまえば『な~んだ、そうだったのか』ということで、他の宗教に敵意を持つことも少なくなることでしょう。TPOに応じて教えが変化していただけなのです。
しかし現実には、宗教の神話や教義を変更することは出来ません。
そこで (A)解釈を変える あるいは (B)新しい宗教を作る という2つのアプローチが取られます。

(2-A)
宗教の教義は変えられないですが、解釈なら変えられます。
王仁三郎も大本神諭の解釈を変えて三五神諭を作ったということを以前に書きました。→「大本神諭はヘイトスピーチ?
排外的・国粋的な文言を書き換えてグローバル化したのです。

世界最大の宗教団体であるカトリック教会も、60年代に開かれた第二バチカン公会議という最高会議で、大きな解釈変更を行っています。それまでは「カトリック教会に所属していなければ救われない」と説いていたのを「異教徒であっても良心に従って生きているなら救われるかも知れない」というようなかんじに解釈を変えたのです。
さすがに「うちの宗教に入っていないと救われない」なんていう排他的な教えでは世界の平和を乱しかねません。

ところがこれは原理主義者から見ると「堕落」なのです。同性愛を許容しつつあるのも「堕落」です。それで『バチカンはイルミナティに支配されている!』みたいな陰謀論が出て来たりするわけです。
世間様に合わせようと思うと内輪から悪魔呼ばわりされ、といってトンガってしまうと世間様に悪魔呼ばわりされるのです。
どっちに転んでも悪魔呼ばわりされるのですから、いや~、宗教経営というのは本当に大変なものですね (^_^;

このように解釈を変えるやり方には限界があります。
そこで面倒臭いので既成宗教を飛び出して、新しい宗教が誕生するのです。

(2-B)
従来の宗教を包括的に説明できる思想が生まれ、新興宗教として広まって行きます。
ニューエイジだとかスピリチュアルとか言われている分野も同じです。あまり組織化されないというだけで、新興宗教の一種です。
組織化されないというのは、人間がそれだけ個性化している、ということです。大量生産の既製服なんか着たくない、オンリーワンの自分を確立したい、ということです。

日本では、平成に入ってから一気にその流れが加速化したように思います。今思うとオウム真理教が日本で最後の新興宗教だったと言っても過言ではありません。幕末から百数十年間、雨後の筍のように次々と新興宗教が生まれていたのに、21世紀の今ではピタリとそれが止まったのです。
しかし、組織化された新興宗教は生まれていませんが、その代わりに、いわゆる「スピリチュアル」とか呼ばれる分野はとても繁盛しています。日月神示は有名ですね。それまでは一部の大本マニアにしか知られていない骨董品扱いだった日月神示を、平成3年(1991年)に中矢伸一氏が本に書いたことで一気に有名になりました。日月神示の流行は、それが特定の宗教教団の教典ではない、ということが時代精神にマッチしたのだと思います。各自が勝手に解釈して良いのです。
それに対して大本神諭や霊界物語というのは、大本という特定の宗教の教典ですから、ちょっと手を出しにくいかも知れませんね。勝手にやっちゃっていいのかと、悩むわけですよ。(それを悩まなくていいように、聖書みたいに一般化された書物にして行きたいと私は努力しています)

このような、宗教の個性化の流れはすでに大正時代から少しずつ始まっていたようで、王仁三郎はそれを「自由宗教」と呼んでいます。

 社会の一般的傾向が、ようやく民衆的になりつつあるとともに、宗教的信仰もあながち寺院や教会に依頼せず、各自の精神にもっとも適合するところを求めて、その粗弱なる精霊の満足をはからんとするの趨勢となりつつある。
 宣伝使や僧侶の説くところを聴きつつ、おのれみずから神霊の世界を想像し、これを語りて、いわゆる自由宗教の殿堂を各自精神内に建設せんとする時代である。
 既成宗教の経典に何事が書いてあろうが、みずから認めて合理的とし、詩的とするところを読み、世界のいずこかに真の宗教を見いださんものとしている。…
〔「自由宗教を求むる近代人の傾向」『瑞祥新聞』大正14年5月12日〕

この自由宗教が現代に現れたのが、いわゆる「スピリチュアル」です。
これは「一人一派」の宗教なので、教義を臨機応変に変えることが出来ます。時代への適応度が高いです。
だからといって、他者(他教)への敵愾心が存在しないというわけではありません。
(1)は教団組織を融和して行こうということで、(2)は思想(教義)を融和して行こうということです。
しかしどちらもまだまだ宗教の表面的なことに過ぎません。
そこで(3)が必要となるのです。

(続く)