「恒天暦」とは?

投稿:2016年10月06日

昨日は「十ケ月暦」について書きましたが、王仁三郎は「恒天暦」(こうてんれき)についても語っています。

「宇宙経綸の三大暦即ち恒天暦、太陽暦、太陰暦の大本元を(略)」(霊界物語第10巻第27章「言霊解一」)

「この世界には恒天暦、太陽暦、太陰暦の三つの暦が常に運行循環して居るのであります。」(霊界物語第12巻第28章「三柱の貴子」)

恒天暦は宇宙の現象に基づいて造ったもので、これによれば陽気に絶対に狂いがないのである。恒天暦によれば六十日が一月または一年ということになる。甲子より癸亥までである。世の中は六が本で三六と言い、六が本であって六十に六かけると三百六十になり、恒天暦では一年三百六十日である。太陰暦は三百五十日、太陽暦は三百六十五日と六時間である。王仁は恒天暦の暦を昔こんなものに(両手をひろげて紙の大きさを示して)書いておいたが、どこにも残っておらぬ。
王仁の考えではみろくの世になれば、一月三十五日とし三十六日目は三六だから祭日とし、一年は十カ月で残りの五日は無日として(略)」(『新月の光』所収「恒天暦(みろくの世の暦)」)

「問 みろくの暦法は。
答 恒天暦は宇宙の規則やから恒天暦から太陽暦、太陰暦が出ているのやから、人民のことは太陰暦を用いる。(昭和十九年四月十日)」(『新月の光』所収「みろくの世の暦法」)

恒天暦は、みろくの世の暦のようですから、十ケ月暦と同じもの?と思いきや、違うようです。別名「北斗暦」とも言うようです。

「しかし今の一月一日は西洋人の私作にかかる太陽暦に従つて生ずる所の元旦である。太陽暦は我が皇国の天地に対して春も春ならず、秋もまた秋ならず、二月に二十八日の不具数を生ずるなど、不満不便の点が最も多い。およそ暦と云ふものは要するに天地の自然に基づかねばならぬものである。古(いにしえ)の釈迦にしろ、孔子にしろ、聖徳太子にしろ、はたまた日蓮にしろ、何れも皆北斗暦に拠つたものである。太陽太陰の両暦に対照して見れば、北斗暦の万世不易なる点において大いに勝つて居ると思ふ。北斗暦に依れば大正九年の二月一日は太陰暦の十二月十二日に当る。吾人神国民は惟神の大道に従ひ以て東洋文明の権威を示し併せて天地の真理に浴すべく、一日も早く北斗暦恒天暦)を正暦として正真の正月元旦の用ゐられ、日蓮の唱へたる艮(日の若宮)の義の顕れんことを祈る次第である。」(『神霊界』大正9年(1920年)1月15日号所収「随筆」)

ではこの「北斗暦」とはどんな暦でしょうか?
調べてみると、たぶんこの「北斗中正暦」(ほくとちゅうせいれき)のことではないかと思います。
中正暦(ウィキペディア)

これは1年が12ヶ月です。各月が30日で、30×12=360日になります。先ほどの「恒天暦(みろくの世の暦)」の中で王仁三郎は「恒天暦では一年三百六十日である」と言っていますので、やはりこの中正暦を指しているのでしょう。365-360=5ですが、余った5日間は閏日として挿入されます(詳細は上のウィキペディアを読んで下さい)。

最大の特徴は、十ケ月暦と同様に、立春を元日としていることです。
上の随筆の中で王仁三郎は、恒天暦の元日、即ち立春を「正真の」正月元旦と呼んでいますね。立春を元日にすることが、みろくの世の暦のポイントのようです。

調べてみると、江戸時代までは、節分に年越しソバを食べていたようです(参考:麺類雑学辞典「節分そば」)。
昔は立春が一年の始まりとしていたようです。神武天皇即位の日、即ち建国記念日も立春の日であるという説もあります。一般には日本書紀の記述に基づき西暦紀元前660年の旧暦1月1日を新暦に換算した2月11日としていますが、この「正月朔日」は旧暦の元日ではなく、立春の日であるというのです。
旧暦の元日は月の運行に基づきますが、立春は太陽の運行(厳密に言えば地球の公転)に基づきます。太陽暦の一種です。
グレゴリオ暦も太陽暦ですが、1月1日は天体の運行とは何の関係もなく決められています。そういう意味では、恒天暦(北斗中正暦)の方が完璧な太陽暦と言えます。

ではお月様の運行はどうなってしまったのかというと、恒天暦、太陽暦、太陰暦が宇宙の三大暦であると王仁三郎は言っていますので、併用せよ、ということでしょうか?
そこにさらに十ケ月暦も加わって来て、かなり複雑ですね。さっぱりわけが分かりませんねえ。

ともかく、今回の結論は、みろくの世は「立春が元日」だということです。

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【注】随筆の中で「北斗暦に依れば大正九年の二月一日は太陰暦の十二月十二日に当る」と書いてありますが、これは北斗暦ではなくグレゴリオ暦の大正9年(1920年)2月1日が、旧暦の12月12日になります。