三五教の教え「惟神」「惟神中毒」「人ながら」

投稿:2015年12月14日

(この記事は2009年10月12日にブログ「霊界物語の新常識」に掲載した記事を加筆訂正したものです)

霊界物語の三五教の重要な教えの一つに「惟神(かむながら)」があります。

これは王仁三郎独自の言葉ではなく、神道で一般に使われている言葉で、広辞苑を引くと、次のように書いてあります。

かむながら【随神・惟神】
(1)神でおありになるまま。神として。
(2)神の御心のままで人為を加えないさま。神慮のまま。

王仁三郎が言っていることも、だいたい同じです。簡略に言うと「何事も神様の御心のままに生きること」というような意味です。

では「神様の御心」とは何なのか、どういうものなのか。それを覚るためには常に神(超越者、宇宙意識)を意識した生活を送る必要があります。「神と共に生きる」ということです。

神は汝と倶(とも)にあり」という言葉が霊界物語にたびたび出て来ますが、無限絶対のス神は神棚の中にいるのでもなければ神社の中にいるわけでもなく、常にこの世界に偏在し、自分を見守り、自分に力を与えてくれているのだ、ということを脳ミソにインプットしておかなくてはいけません。

「惟神」について、王仁三郎は次のように説明しています。

惟神という事は、天地の真象に倣(なら)うという事である。また、大自然、あるいは真理のままという事である。〔→水鏡「惟神」〕

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すべて人間は常に心を平静に持ち、愛善の誠を以て人の幸運を祈り、悲しかった事や、くやしかった事は全然忘れてしまい、楽しかりし事をのみ思い出し、世界人類に対して、誠をさえ、つくして居ればそれで良いのである。これが惟神の心である、人生の努めである。〔→月鏡「惟神の心」〕

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魂は遠心的のものであるから、外へ出さねばならぬ。内へ引っ込めるから狭い胸がなお苦しくなって来るのである。魂は決して傷つけてはならぬ。いろんな事件が起こったら、雨や風が吹き荒んで居るのだと考えたらよい。魂を自由の境地において活動するのが、惟神である。〔→水鏡「魂は外へ出さねばならぬ」〕

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この世の中は愛と善とで固まって居る世の中でありますから、何事も総て愛善の神様に任して、そうして取り越し苦労をしないよう、過ぎこし苦労をしないよう──過ぎこし苦労というものは、済んでしまってからの事である。あいつはああいう事を言いよったとか、あいつの讐(かたき)をとらんならんとか、ああせなんだら、今まで大分財産も出来て居ったのにというような事で、また取り越し苦労をして、明日の事を、明日はどうしようかと考えて居っても仕方がない。
千里の路(みち)を行くのにも、左の足から右の足というふうに出して行けばよい。
行くところは東京なら東京と決めておいて、一足々々を注意して行く。積極的刹那心を以て進んで行く。そうすれば、影が形に伴う如く、愛善の心が起こって来る。
取り越し苦労と過ぎ越し苦労を忘れて来たら、一切の欲も起こって来ぬ。怨恨も忘れて来る。また妙な欲望もなくなる。大本の方からいうと、それが惟神の精神である。〔→「人類愛善の真義」出口王仁三郎全集第一巻P436〕

過去を悔やまず、未来を悩まず、「今」この一瞬一瞬を生きる、ということです。人間は脳ミソがありますから、どうしても過去を思い起こし、未来を想い浮かべます。しかし人間が生きているのは、「今現在」です。生きている「今」を見つめ、「今」を精一杯生きて行くこと、それが惟神の生き方だと言えます。

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「惟神」に対して「人ながら」という言葉も使われています。
自分の力で何事も出来るという思い込みが「人ながら」です。

小北山でお寅婆さまと魔我彦(まがひこ)がお互いに相手を“真の道”に導こうと説得に努めたとき、お寅婆さまは、改心は神の力によるものだということを覚っていますが、魔我彦は自分の力量で改心させようと必死になります。

…この両人はあたかも峠の上に降った雨であった。どうしてもお寅婆アさまの雨は旭に向かって流れねばならなくなっていた。魔我彦の雨はどうしても夕日の方に向かって流れ落ちねばならない境遇になっていた。
善悪正邪の分水嶺上に降る雨は、どうしても天から降らねばならぬ、決して人間の身体から雨は降るものでない。ここに悟ると悟らざるとの区別がついて来るのである。
お寅婆アさまは恵の雨は天より降るものだということを自覚した。そして魔我彦は、自分の知慧や力や考察力や苦労の結果で、自分の身体から自由自在に雨を降らし得るものと考えていた。
ここに惟神人ながらの区別のつく所以(ゆゑん)である。
いかなる聖人君子、智者勇者といえども、天の御恵なくしては、到底救わるることは出来ない。広大無辺の天然力、即ち神の御威光によらなくては、地上一切の事は何一つ思いのままに出来るものでない。
吾が頭に生えた髪の毛一筋だも、あるいは黒くし、あるいは白くし得る力のない人間だ。この真理を理解して始めて宇宙の真相が悟り得るのである。これがいわゆる惟神であり、魔我彦が最善と思惟して採ったやり方は即ち人ながらであって、神の御目より見給う時は慢心ということになるのである。〔→第46巻第17章「惟神の道」〕

我執を離れて、何事も神の意志・神の力に任すようにしなくてはいけません。

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何事も神様に任す──と言っても、人間は何もしなくてもいいというわけではありません。
卑近なたとえ話になりますが──宝くじを買えば確率は低くても当たる可能性はあります。しかし買わなければ当たる可能性はゼロです。何もせずに家でじっとしていても神様の力でお金が入って来るだろう・・・などというのは「惟神中毒」と呼び、王仁三郎は厳しく戒めています。人間が努力するところに神の力が働くのであって、人間が何もしなければ神力は発揮されません。奇跡は起きません。

「惟神中毒」について王仁三郎は霊界物語の中で次のように戒めています。

童子『惟神、惟神と口癖の様に言いやがって、難を避け易きにつき、自分の責任を神様に転嫁し、惟神中毒病を起こし、大きな面をして天下を股にかけ、濁った言霊の宣伝歌を謡い、折角の結構な世の中を濁す奴は貴様の様な代物だ。〔→第20巻第9章「童子教」〕

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いわゆるご無理ごもっともの譲歩的態度は、相手方の無理を是認する事となってしまう。換言すれば譲歩退嬰は誤解を釈く方法に非ずしてかえって相手方の誤解を裏書し、ますますその誤解をして増長せしむるものとなるのである。
たとえば、ある商品に対し、即ち相手方の無暗に値切るに任せて、損をしてまで大負けに負ける時は、相手方の買人はこちらの好意に満足するよりも、かえって吾が本来掛値を吹き掛けたのをうまく値切ってやった、しかし未だ少しばかり高値であったかも知れぬがなぞと誤解する様なものである。
何処やそこいらの立派な方々の中にも、右様の態度を持する人が十中の十まである様に感じられてならぬ。
これも依然、難きを避け易きにつかんとする、いわゆる惟神中毒の影像かも知れぬ。〔→第28巻跋「暗闇」〕

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女神『二十世紀の三五教の信者のように貴方もよほど惟神中毒をして居られますなア。尽すべき手段も尽さず、難を避け易きにつき、吾が身の安全を守り、世界人類の苦難を傍観して……到底人力の及ぶ限りでない、何事も惟神に任すより仕方がない……とは実に無責任といおうか、無能といおうか、卑怯といおうか、人畜と申そうか、呆れはてたるその魂、左様な事でどうして衆生済度が出来ましょう。〔→第40巻第13章「試の果実」〕

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サンジャイーヴィ・ラチャーブトラというのは、人間は決して修業なんかする必要がない。天地の草木を見ても春が来れば自然に花が咲き、秋が来れば自然に実が生り、冬が来れば自然に葉が散るごとく、八万劫が来れば自然に人間の苦は尽きて道を得るとなすものである。
要するに自暴自棄、惟神中毒の外道であって、これを無因外道の一種となすのである。二十世紀の三五教には、この種の人がずいぶん混入しているようである。〔→第57巻第1章「大山」〕

「二十世紀の三五教」というのは、当時の(そして現在の?)大本のことを指しており、王仁三郎はそうやって大本信者を戒めているのですが、これは他人のことではなく、自分のことを言っているのだなと、常に自分の心を引き締めていく必要があります。