オーケストラの指揮者をしているEさんが講演の中で、次のようなことを語っていました。(分かりやすいように多少脚色しました)
アメリカの某都市の郊外で、屋外に巨大テントを張ってクラシックコンサートが開かれました。
その指揮者はEさんが尊敬する先生で、そのコンサートをEさんは聴きに行きました。
するとコンサートの最中に、巨大な雷が鳴り出しました。
だんだん近づいて来て、雷鳴が間近で轟きます。
観客の女性や子どもは、その恐ろしい雷鳴に悲鳴を上げ出しました。
こういうとき、ふつうなら、指揮者はコンサートを中止にするそうです。雷鳴で音楽が聞けませんからね。
しかしその指揮者は何故かコンサートをそのまま続行させました。
そして何を思ったか、雷鳴が轟くと、そちらの方に向かって指揮棒を振り出したのです。
あっちでゴロゴロ鳴ると、あっちへ指揮棒を振り、こっちでゴロゴロ鳴ると、こっちへ指揮棒を振り……その動きがあまりにもコミカルで、やがて観客は笑い出し、場内に笑い声が響き渡りました。(和された瞬間です)
コンサート終了後、観客たちは、すごい感動を与えてくれたこの指揮者に一言、感謝のお礼を言おうとして楽屋の前に並びました。
Eさんもお礼を言うために行ってみると、その列は300mくらい続いていたそうです。
仮にコンサートを中止しても、観客は帰れないので、会場の中で雷鳴に震えたまま過ごさなくてはいけません。
といって、ただコンサートを続行しても、雷鳴で音楽は聞こえないし、観客は悲鳴を上げるし、もうメチャクチャですね。
それが、この指揮者のとっさの判断で、雷の恐怖から、一転して感動に変わったわけです。
これは雷を言向け和した……のではなく、観客の、怖い、恐ろしいという怯える気持ちを和したわけですね。
そこに感動が、生まれたのだと思います。
あるいは──雷さんをもオーケストラの一員にしてしまったのかも知れません。
偉大な指揮者ですね。
○ ○ ○
このエピソードは、緊張をユーモアで和した例でした。
いや、もう少し厳密に言うと、ユーモアによって感動を起こし、その感動で和したのでしょう。
次の例はユーモアではありませんが、歌を歌って感動を起こして和した例です。
つい最近のことですが(2017/8/20)、歌手の松山千春が、出発が遅れていた飛行機の中で歌を歌って、イライラしていた乗客の心を和ませた、という出来事がありました。
ネットニュースから引用してみます。
スポーツ報知 2017年8月22日5時0分
「松山千春、出発遅れの機内で熱唱!イラ立つ機内静めた」
http://www.hochi.co.jp/entertainment/20170821-OHT1T50204.html歌手の松山千春(61)が、20日に搭乗した飛行機で出発が遅れた際に、機内の乗客のために自らの代表曲「大空と大地の中で」を機内放送を通じて披露していたことが21日、分かった。機内の険悪な空気を感じ、それを和らげようと自ら乗員に申し出た。“特例”でのサプライズに、乗客は大喜び。松山は20日夜のラジオでこの出来事に言及し、「みんなの気持ちを考えて、何とかしたいと思った」と振り返った。
「いったい、いつになったら飛ぶんだ…」。イラ立ちが最高潮に達した機内に、松山の伸びやかな歌声が響き渡った。
「いつの日か 幸せを 自分の腕でつかむよう」
松山が乗ったのは、20日の札幌(新千歳)発、大阪(伊丹)行きの全日空1142便。同社広報部によると、出発予定は午前11時55分だったが、お盆休みの最終日ということで帰省ラッシュのため空港内が大混雑。保安検査場の通過に時間がかかったことに加え、各便とも満席で振り替えができないため、最後の乗客が搭乗するまで出発を遅らせざるを得なかったという。
同便も約400人の乗客で満席。予定時刻から約1時間が過ぎ、殺伐とした空気が流れる中、その雰囲気をくみ取った松山は、客室乗務員に「みんな、イライラしています。少しでも機内が和むように歌わせて下さい」と申し出た。
(略)松山は自己紹介の後、CAが使用する受話器型のマイクを手に「大空―」の一節を披露。その後、独特の声のトーンで「皆さんのご旅行が、またこれからの人生が素晴らしいことをお祈りします。もう少しお待ち下さい」と、機長やCAに代わって謝罪した。松山の“神対応”に、乗客からは拍手が起き、ムードが一変。もくろみ通り、松山がマイクを取ったわずか2~3分で機内の空気は穏やかになった。結局、同機は午後1時3分に出発した。
(略)
なるほど。
松山千春もそうですが、CAも機長も、うまく機転が利きましたね。素晴らしいです。
このケースでは歌を歌って感動を起こしたわけですが、しかしもっと深く考えてみると、歌で感動したのではなく、「有名人が同じ飛行機に乗り合わせており、サプライズしてくれた」から、感動が起きたのではないかと思います。
もちろん歌を歌えばいいというものではありません。有名ではない歌手や、私のような無名人が歌っても、ブーイングが起きるだけです。
また、有名人ならば、歌が上手くなくても、やはり感動が起こったと思います。
歌でなくても、他のことでもいいでしょう。
ともかく感動を与えることで、、いつ離陸するのか分からない苛立つ気持ちから注意をそらし、緊張を緩和したわけです。
最初の雷の例も同様です。感動を与えることで、恐怖から注意をそらし、緊張を緩和したのです。
人間は、見ているところへ吸い込まれて行きます。特に恐怖や怒りや苛立ちはブラックホールです。そこへ見つめると、どんどんそこへ引き込まれて行き、他のことを考えることが出来なくなってしまいます。
自分で意識を転換できればいいのですけどね。
たとえば、仕事のことを考えるとか、旅先での観光のことを考えるとか、そうすれば、出発が遅れてもさほどイライラすることなく過ごせるのですが、現実には、自分で自分をマインドコントロール出来ない人の方が多いのです。そんな訓練は、人生の中で受けていませんしね。
それで仕方ないので、誰かがピエロになるのです。前述の指揮者や、松山千春のように。
うまく感動を起こすことが出来たから良かったですが、もし滑ってしまったら…痛いですね。これはイチかバチかの賭けです。二人とも必死だったと思います。
○ ○ ○
ところで「言向け」和すと言いますが、必ずしも「言葉」は要らないようです。この指揮者は自分の動作・態度で観客を言向け和したのですし、松山千春は「有名アーチストが生歌を歌って聞かせる」というサプライズで言向け和したのです。
人間の意思伝達手段には、言葉を使わない非言語コミュニケーションというものがあります。「目と目で通じ合う」ことがありますし、身振り手振りのようなボディランゲージもあります。
「こと」というのは漢字の「言」を当ててますが、「言」と「事」はもともと同語(同源)であると広辞苑に書いてあります。つまり「言向け」和すは「事向け」和すでもあるのです。
「事」とは人間の行為・行動のすべてあり、世の中に現われる一切の現象です。
人間が行うアクションのうち、他の生き物が使えない、最も特殊なアクションが「言」(言葉)です。
「初めに言葉あり、言葉は神と共にあり、言葉は神なりき」と聖書にありますが、言葉を使えることが、人間を他の哺乳類から大きく進化させたと言えます。
言葉(文字)を使えば、遠く離れた地に住む人にも、はるか未来の子孫にも、自分のメッセージを伝えることができるのです。
私は二十歳を少し過ぎた頃、キリスト教に傾倒した時期がありました。聖書を読んで、とても心が和されたのです。
二千年という歳月を飛び超えてイエス・キリストの言葉が私を言向け和したのです。
このように言葉が持つ力は偉大であり、他の動物が持たない、人間ならではのコミュニケーション手段ですので、「事向け」ではなく「言向け」和すと呼んでいるのではないでしょうか。
しかし本来的には「事向け」和すであり、言葉を使わずに言向け和すことも出来るのです。
(続く)
ブログ「言向け和す」2012年11月8日の記事 及び
電子書籍『言向け和す ~戦わずに世の中を良くする方法』(2015年12月)