今回は身近なところでの「言向け和す」の例を紹介します。
デパートで夫に言向け和された妻
A子さんが「小さな話ですが…」と前置きして自分に起きた体験を話してくれました。(この体験談は実話をもとに脚色したフィクションです)
A子さん夫妻がデパートに買い物に行ったときのことです。買い物袋を抱えて夫の後ろをついて歩いていました。すると突然、前を歩いていた夫が立ち止まったのです。
A子さんもとっさに立ち止まりました。するとそのはずみで買い物袋が下に落ちてしまったのです。
袋の中にはオシャレなデザインのお皿が入っていました。拾って中を確かめると、床に落ちた衝撃で割れてしまっています。
A子さんは『あーあ、コイツが急に立ち止まるから割れちゃった』と声には出しませんでしたが心の中で夫を恨みました。
そのとき夫は気がついて振り向くと──「割れちゃったのか? いいよ、ぼくが新しいのを買ってあげるよ」と優しく言ったのです。
このとき彼女は、心が和された感じがしたそうです。そして、自分の心が小さかったことを思い知ったそうです。
旦那さんの大きな愛に包まれて奥さんの気持ちが和されたわけですね。
何やらノロケ話のようにも聞こえますが、言向け和すを考えるのにとてもいいエピソードだと思います。
せっかく買った大切なものが壊れてしまい、A子さんはとても悲しい気持ちになりました。
そういうとき、誰かに当たりたくなります。八つ当たりです。原因を作った夫に対して腹が立ちました。怒りの気持ちが湧き上がったのです。
自分に苦痛を与える存在は「敵」です。敵を排除するために攻撃しようという気持ちが「怒り」とか「憎しみ」です。
ところがこのとき旦那さんは「ぼくが新しいのを買ってあげるよ」と優しく言いました。
これでは敵ではなく「味方」ですね。自分を助けてくれる味方です。今まで敵だと思っていた存在が、実は味方だった……このとき奥さんは「和された気持ちがした」と言うのです。
凝り固まり、緊張した気持ちが一気にほぐれたのですね。
このような感情を「和された」と言うのだと思います。
そして彼女は自分の小ささに気づきました。
敵の攻撃から身を守るときは動物でも虫でも身を丸めて小さくしますよね。悲しみや苦しみを抱えているときというのは、人間の心は小さく内に閉じ籠もっているものです。
しかし旦那さんが味方だと分かったことにより、また心が外に向かって解き開かれたのです。愛に包まれた瞬間です。
このケースでは、めでたしめでたしで終わったわけですが、しかしこのとき旦那さんが違う言葉を発していたら、違う展開になっていたことでしょう。
「バカだな-、ちゃんと前を向いて歩けよ」とか、「もったいない。しっかり持ってなきゃダメだろ。無駄遣いしやがって」などと奥さんの非を責めるようなこと言っていたらどうでしょうか?
それはまさに「敵」と呼ぶにふさわしい言葉です。
そうしたら、とたんに奥さんもブチ切れて、その場で口論が始まることでしょう。
「なによ、あなたが悪いんでしょ! 急に立ち止まるから!」
戦争の開始です。
実際に時々見かけます。デパートでバトルをしているカップルを(笑)
人を言向け和すには、その人の味方になって包み込んでしまい、ケンカの気力をなくしてしまうことが大切なようです。
言向け和され合ったタクシードライバーと乗客
次は、タクシーのドライバーBさんの体験談です。(この体験談は実話をもとに脚色したフィクションです)
このときのお客さんはご老人でした。指示された場所で止まり、ドアを開けてお客さん(Cさん)を降ろしました。
ところが確認ミスで、まだ降りている最中にうっかりドアを閉じてしまったのです。
健康な人ならドアが体に当たってもたいしたことはありませんが、小柄で、足腰が弱っている高齢者だったため、ドアが体に当たったはずみで転倒して道路に倒れてしまったのです。
Bさんは慌てて車の外に降り、Cさんを助け起こしました。
「すみません! 大丈夫ですか?」
するとCさんは物凄い形相でBさんを睨みつけ、
「おまえのことは絶対に許さないからな」
と呪いの言葉を吐きました。
『年寄りだからバカにされた』とCさんは感じて、余計に怒り憎しみが込み上げてきたのだと思います。
ドライバーのBさんはすぐに救急車を呼び、Cさんは病院に運ばれました。骨折で全治三ヶ月の重傷です。ドアが閉じたこと自体はたいした衝撃ではなくても、体の弱いお年寄りでしたので、たいへんな怪我になってしまったのです。
もちろんそんな言い訳は通用しません。100%、Bさんの過失です。
Bさんは社内で処分を受け、一年間タクシーの乗務を外されてしまいました。洗車とか書類整理の毎日です。
ドライバーとして入社したのに運転できずに雑用をやらされるのはとても辛いことです。
それに会社としては余剰人員ですから、自発的に退職するように嫌がらせもされ、辛い日々を過ごしました。
その一方でBさんは、自分の親のような年齢のCさんに怪我をさせてしまったことをたいへん申し訳なく思い、毎日のように病院にお見舞いに行きました。病院の食事だけでは飽きるだろうと思い、ときには手作りのお弁当を差し入れとして持って行きました。
Cさんも一人で寂しかったのでしょう。最初は睨むばかりで不機嫌だったCさんも、だんだんと世間話や身の上話もするようになり、お互いに打ち解けて行ったのです。
そして最後にはCさんは、
「早く乗務に復帰するといいね。そうしたらまたあんたの車に乗ってあげるからね」
と言ってくれたそうです。
この言葉でBさんの心は一気に和されました。
これはお互いに和し、和され合ったエピソードだと思います。
初めはBさんを憎んでいたCさんも、毎日のように病院にお見舞いに来るBさんの真摯な態度に和されて行ったのでしょう。
そして、和されたCさんの言葉に、Bさんも和されたのでした。
このように、最高の「和す」は、双方の気持ちが和合することなのではないかと思います。
そして和合した瞬間──どのような気持ちになるでしょうか?
言葉では言い表せない至福を感じるのではないでしょうか?
子どもの頃、家族でトランプか何かゲームをして、そしてみんなで一斉に歓声を上げる瞬間というのがありました。家族みんなの気持ちが一致した時というのは、何とも言えない幸福を感じたものです。
自分を憎んでいたCさんと心が和合できたときのBさんの気持ちは、さぞ至福の想いに満たされたのではないでしょうか。
このケースではBさんが自分のミスを認め、真摯に反省したので和合することができたのですが、ドライバーと言っても色々な人がいますから、中には逆ギレするような人もいるかも知れません。
自分のミスを認めずに、『この爺さんがトロいから自分がとばちりを喰らってしまった』と他人のせいにするような意地の悪い人も世の中にはいることでしょう。
もしそういう人だったら、和解は永遠にやって来ません。それこそ一生恨まれたままです。
そして、自分も相手もその事故のことで一生不愉快な思いを抱えて生きて行かなくてはなりません。
また、ケガをしたCさんも、Bさんの罪を許したから、いつまでも他人を憎み続けなくて済んだのです。
人を憎み続けるというのは苦痛です。もし罪を許さなかったら、CさんもBさんも、一生苦しみ続けたことでしょう。
イエス・キリストの「汝の敵を愛しなさい」です。(第26回参照)
罪を許し、敵を愛せば、お互いに苦しみから解放されます。この「許す」ということも「言向け和す」に重要な要素だと思います。
あいつが憎い憎いというその凝り固まった自分の気持ちをまず和すのです。
ところで、「自分の気持ちを和す」と口で言うのは簡単ですが、実際にはなかなか和すことは出来ないのではないかと思います。
腹が立って仕方がないのに、どうやってその腹を静めたらいいのか。
先ほどの2つの例では、どちらも相手がいて、相手の言動によって和されたのですが、自分一人しかいない場合には、どうしたらいいでしょうか。
宗教的な方法としては「祈る」ことですが、現代では心を健康にするためのテクノロジーが発達していますので、いろいろな方法が編み出されています。(それはおいおい紹介して行きます)
しかし一番簡単なのは「敵のために祈る」ことです。
霊界物語に、宣伝使が敵のために祈っている姿を見て、悪党が言向け和されるシーンが時々出て来ます。(たとえば第16巻第15~16章で、ウラナイ教の青彦が、三五教の亀彦・英子姫に言向け和されたシーン。第12回参照)
これは、祈ってる側にすると、悪党に対する腹立たしい思いが、祈ることによって解消される効果があります。
イエス・キリストの言葉にも「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とある通りです。(第26回参照)
私の体験ではこれが一番効果があり、お金もかかりません。
クソ野郎のために祈るなんて腹立たしくて出来ないかも知れませんが、そこを祈るのです。
涙がちょちょぎれますが、クソ野郎のために祈りたくないという自分の我をあえてへし折って、神に祈るのです。
『○○さんが、良くなりますように。罪が許されますように。立ち直りますように。向上発展しますように。幸福になりますように』
と、憎きあのクソ野郎のために祈ってあげるのです。
これが一番、自分(の副守護神)を言向け和すのに効果があります。
お試しあれ。
(続く)
「霊界物語スーパーメールマガジン」2015年3月12日号 及び 3月16日号 及び
電子書籍『言向け和す ~戦わずに世の中を良くする方法』(2015年12月)