言向和(11) 宣伝歌で言向け和す

投稿:2017年07月26日

前回は、「言向け和す」の実例として、国祖の「真澄の大鏡」のエピソードを紹介しました。
死んだはずの悪神が甦り、改心して国祖の近辺にまめまめしく仕えている姿を神々に見せ、そして悪神の贖いとして自分の頭髪を抜いていた、その後頭部を見せたことで、神々は真の神の慈愛に深く感じ入り、心を改めることとなったのでした。

そのエピソードには「言向け和す」という言葉が出て来ませんが、私の長年の?研究で、これは「言向け和す」だと思ったのです。

次に紹介するのは、「言向け和す」という言葉が使われているエピソードです。
国祖隠退後、天変地異が続発して、大洪水が間近に迫っている地上で、宣伝使が邪神を言向け和したエピソードです。第6巻第2~7章に出て来ます。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0602

その最後の第7章に次のように書いてあります。場所は常世国の鬼城山(きじょうざん)です。

…四人の神司(かみ)は仁慈の鞭(むち)を揮(ふる)ひ、美山彦(みやまひこ)一派の邪悪を言向け和し、意気揚々として谷間を下り、音に名高きナイヤガラの大瀑布に禊を修し、ホツと一息つく間もなくなく涙の袖の生き別れ、我が天職を重ンじて、東西南北に袂(たもと)を別ちたるなり。
〔第6巻第7章「旭光照波」〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0607#a056

「言向け和し…」と書いてあるので、このエピソードは「言向け和す」なんだと思います。

4人というのは、足真彦(だるまひこ)、月照彦(つきてるひこ)、春日姫(かすがひめ)、春姫(はるひめ)の4人の宣伝使です。
邪神の美山彦は鬼城山をアジトにしていました。
月照彦、春日姫、春姫の3人は美山彦一派に囚われ監禁状態でしたが、そこへ足真彦が訪れたのを機に4人で力をあわせて美山彦一派を言向け和します。

どうやって言向け和したのかと言うと──美山彦たちが酒に酔い潰れて泥酔してしまったすきに、手足を紐で縛り、そして酔いが醒めて目覚めると、宣伝歌を歌って言向け和したのです。〔第6巻第6章〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0606

宣伝歌を歌って言向け和す、というシーンが霊界物語にたびたび出て来ます。
しかし・・・歌を歌って悪党を言向け和すなんて、少々おとぎ話的ですよね。
たしかに歌には心を和ませたり癒やしたりする効果はありますが・・・それにしても歌って悪党が改心してしまうなんて、それは現実にはどうでしょうか?
宣伝歌で言向け和すというのは、あまりにも超能力的な感じなので、現界人が真似をするのは無理ではないかと思います。そもそも王仁三郎にまつわる逸話にも、歌って言向け和したなんて話は聞いたことがありません。

三五教の宣伝歌を聞くと、悪党はみな苦しみ出します。宣伝歌の高尚な波動に耐えられないのでしょう。
地獄の住人は神の光を浴びると苦しむのです。それで、光のない世界へと自ら進んで行くのです。
暗闇に住んでいた人がいきなり眩しい光を浴びるのですから、そりゃ苦しむはずです。
次のような感じです。

春日姫は声をはげまし(略)謡ひ始めけるに、美山彦は頭上を鉄槌にて打ち叩かるるごとく、胸を引き裂かるるごとき心地して、苦しみ悶えだしたり。春日姫は声もさわやかに、又もや流暢なる声調にてしきりに謡ふ。美山彦は七転八倒(しちてんはつたう)目をむき、泡を吹き、洟(はな)を垂らし、冷汗を滝のごとく流して苦しみもだえける。(略)

三人は大広間に現はれ見れば、いづれの奴原(やつばら)も、足真彦、春日姫の二人に手足を縛られたることを覚り、おのおの声を放つて泣き叫ぶなりける。三人は又もや宣伝歌を高唱したるに、いづれも激しき頭痛胸痛を感じ、縛られたるまま前後左右にコロコロと回転し始めたり。(略)

ここに三人は、いよいよ天地の大道を説き宣伝歌を謡ひ、遂に彼らに憑依せる邪神を退去せしめ、各自の縛(いましめ)を解きやりければ、一斉に両手を合はせて跪(ひざまづ)き、その神恩に感謝し声を揃へて天津祝詞を、足真彦の導師の言葉につれて、恭(うやうや)しく奏上したり。
〔第6巻第6章〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0606

一見、宣伝使が悪党を暴力で苦しめているようにも見えますが、そうではなく、悪党は宣伝歌を聞いて、勝手に苦しんでいるのです。地獄から生還する時に通るべきイニシエーションとも言えます。
ある意味では、デトックスの時に起きる離脱症状です。

こんなふうに宣伝歌を歌って言向け和す業(わざ)が使えるならいいのですが、現界的にはまずあり得ないことでしょう。
これをどうやって解したらいいでしょうか。
歌、ということではなく、単に、善言美詞の言霊で言向け和す、というのであれば理解可能ですが。。。
宣伝歌で言向け和す、というのはどういうことなのか、もっと深く色々考えて行く必要があるようです。

ところで、「言向け和す」というのとは少々違うかも知れませんが、常世会議の時に、弁論ではなく、歌で、自分の意見を表明している場面があります。
第4巻第15~16章です。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0415

それまでは、現代の国会やマスコミのように、怒号罵声誹謗中傷何でもありの弁舌でしたが、出雲姫(正神側の神司)は演壇に立つと、手をうち、面白い節で歌を歌い出しました。

出雲姫は口演(こうえん)に代へ優雅と、皮肉との混交歌を歌つて、自己の憤怒と、所信とを遺憾なく、諸神司(しよしん)の前に訴へたるにぞ(略)

凡て歌は天地神明の聖慮を和げ、万有に陽気を与へ、神人(しんじん)の心魂を照り明かす言霊の精華なり。(略)

現代の人間同士の会議は、すべて言論のみを用ゐ、決して歌なぞの風雅の声に耳をかすものはなく、かへつてこれを禁止するにいたれり。それゆゑに現代の会議は何事にも口角(こうかく)泡を飛ばし、眼を釣り争論の花を散らせ、鎬(しのぎ)をけづりて快哉(くわいさい)を叫び、如何なる問題に関しても言葉冷たく尖どく不平不満の間に優勝劣敗的多数決てふ、衆愚本位の議決に甘ンじ居らざるべからず(注・甘んじなくてはならない、の意)。

秋津嶋浦安国の神国の遠き昔は言霊の幸ひ、助け、天照り渡り生ける国にして、善言美詞をもつて相終始したりしに、最早この時代は、天地神明の大道なる言霊の応用も乱れ乱れてつひにはその跡を絶つに至れり。
今日にては神人が優雅にして高潔なる歌をもつて、その意志を述ぶるものはなはだすくなく、ただ上位の神人の間にわづかに行はれ居たりける。
ゆゑに今回の常世の会議においても、神人の自由にまかせ、直接の言辞によるものと、単に歌のみによつて意志を表白するものと、言辞と歌とを混合して口演するものとありしなり。言霊の清く朗かなる神人は、凡て和歌によりて難問題を解決せむと努力したりける。
〔第4巻第16章「善言美辞」〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0416

なるほど。
神代は歌によって会議が行われていたのですね。

歌と言うのは、情に働きかける作用があります。
理屈を捏ねて相手をねじ伏せるのではなく、感情で伝える、ということでしょうか。

現代の国会議員の先生方も、頭に血を上らせて罵声を飛ばしてばかりいないで、会議の前に歌を詠むといいのでは?
しかし結局は罵声や誹謗の文言だらけの歌になってしまうのがオチかも知れませんね。

宣伝歌と言っても、三五教だけでなく、邪教のウラル教やバラモン教も宣伝歌を歌います。
ですから、歌の奥には「善言美詞で言向け和そう」という精神が必要であり、「宣伝歌で」言向け和すというよりは、やはり「善言美詞の言霊で」言向け和すと言うのが正解でしょうね。

歌を歌えばいいというものではないわけです。
どういう精神で歌うかが重要です。
それが、前回出て来た、国祖の慈愛です。ああいう精神で善言美詞の言霊を使った時に、人は言向け和されるのでしょう。

(続く)