月別アーカイブ: 2017年8月

言向和(30) 夫に言向け和された妻と、互いに言向け和され合ったドライバーと乗客

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年08月21日

今回は身近なところでの「言向け和す」の例を紹介します。


デパートで夫に言向け和された妻

A子さんが「小さな話ですが…」と前置きして自分に起きた体験を話してくれました。(この体験談は実話をもとに脚色したフィクションです)

A子さん夫妻がデパートに買い物に行ったときのことです。買い物袋を抱えて夫の後ろをついて歩いていました。すると突然、前を歩いていた夫が立ち止まったのです。

A子さんもとっさに立ち止まりました。するとそのはずみで買い物袋が下に落ちてしまったのです。

袋の中にはオシャレなデザインのお皿が入っていました。拾って中を確かめると、床に落ちた衝撃で割れてしまっています。

A子さんは『あーあ、コイツが急に立ち止まるから割れちゃった』と声には出しませんでしたが心の中で夫を恨みました。

そのとき夫は気がついて振り向くと──「割れちゃったのか? いいよ、ぼくが新しいのを買ってあげるよ」と優しく言ったのです。

このとき彼女は、心が和された感じがしたそうです。そして、自分の心が小さかったことを思い知ったそうです。
旦那さんの大きな愛に包まれて奥さんの気持ちが和されたわけですね。

何やらノロケ話のようにも聞こえますが、言向け和すを考えるのにとてもいいエピソードだと思います。
せっかく買った大切なものが壊れてしまい、A子さんはとても悲しい気持ちになりました。
そういうとき、誰かに当たりたくなります。八つ当たりです。原因を作った夫に対して腹が立ちました。怒りの気持ちが湧き上がったのです。

自分に苦痛を与える存在は「敵」です。敵を排除するために攻撃しようという気持ちが「怒り」とか「憎しみ」です。

ところがこのとき旦那さんは「ぼくが新しいのを買ってあげるよ」と優しく言いました。
これでは敵ではなく「味方」ですね。自分を助けてくれる味方です。今まで敵だと思っていた存在が、実は味方だった……このとき奥さんは「和された気持ちがした」と言うのです。
凝り固まり、緊張した気持ちが一気にほぐれたのですね。
このような感情を「和された」と言うのだと思います

そして彼女は自分の小ささに気づきました。
敵の攻撃から身を守るときは動物でも虫でも身を丸めて小さくしますよね。悲しみや苦しみを抱えているときというのは、人間の心は小さく内に閉じ籠もっているものです。
しかし旦那さんが味方だと分かったことにより、また心が外に向かって解き開かれたのです。愛に包まれた瞬間です。

このケースでは、めでたしめでたしで終わったわけですが、しかしこのとき旦那さんが違う言葉を発していたら、違う展開になっていたことでしょう。

「バカだな-、ちゃんと前を向いて歩けよ」とか、「もったいない。しっかり持ってなきゃダメだろ。無駄遣いしやがって」などと奥さんの非を責めるようなこと言っていたらどうでしょうか?
それはまさに「敵」と呼ぶにふさわしい言葉です。

そうしたら、とたんに奥さんもブチ切れて、その場で口論が始まることでしょう。
「なによ、あなたが悪いんでしょ! 急に立ち止まるから!」
戦争の開始です。
実際に時々見かけます。デパートでバトルをしているカップルを(笑)

人を言向け和すには、その人の味方になって包み込んでしまい、ケンカの気力をなくしてしまうことが大切なようです。


言向け和され合ったタクシードライバーと乗客

次は、タクシーのドライバーBさんの体験談です。(この体験談は実話をもとに脚色したフィクションです)

このときのお客さんはご老人でした。指示された場所で止まり、ドアを開けてお客さん(Cさん)を降ろしました。

ところが確認ミスで、まだ降りている最中にうっかりドアを閉じてしまったのです。

健康な人ならドアが体に当たってもたいしたことはありませんが、小柄で、足腰が弱っている高齢者だったため、ドアが体に当たったはずみで転倒して道路に倒れてしまったのです。

Bさんは慌てて車の外に降り、Cさんを助け起こしました。
「すみません! 大丈夫ですか?」
するとCさんは物凄い形相でBさんを睨みつけ、
「おまえのことは絶対に許さないからな」
と呪いの言葉を吐きました。

『年寄りだからバカにされた』とCさんは感じて、余計に怒り憎しみが込み上げてきたのだと思います。

ドライバーのBさんはすぐに救急車を呼び、Cさんは病院に運ばれました。骨折で全治三ヶ月の重傷です。ドアが閉じたこと自体はたいした衝撃ではなくても、体の弱いお年寄りでしたので、たいへんな怪我になってしまったのです。

もちろんそんな言い訳は通用しません。100%、Bさんの過失です。

Bさんは社内で処分を受け、一年間タクシーの乗務を外されてしまいました。洗車とか書類整理の毎日です。
ドライバーとして入社したのに運転できずに雑用をやらされるのはとても辛いことです。
それに会社としては余剰人員ですから、自発的に退職するように嫌がらせもされ、辛い日々を過ごしました。

その一方でBさんは、自分の親のような年齢のCさんに怪我をさせてしまったことをたいへん申し訳なく思い、毎日のように病院にお見舞いに行きました。病院の食事だけでは飽きるだろうと思い、ときには手作りのお弁当を差し入れとして持って行きました。

Cさんも一人で寂しかったのでしょう。最初は睨むばかりで不機嫌だったCさんも、だんだんと世間話や身の上話もするようになり、お互いに打ち解けて行ったのです。

そして最後にはCさんは、
「早く乗務に復帰するといいね。そうしたらまたあんたの車に乗ってあげるからね」
と言ってくれたそうです。

この言葉でBさんの心は一気に和されました。

これはお互いに和し、和され合ったエピソードだと思います。
初めはBさんを憎んでいたCさんも、毎日のように病院にお見舞いに来るBさんの真摯な態度に和されて行ったのでしょう。
そして、和されたCさんの言葉に、Bさんも和されたのでした。

このように、最高の「和す」は、双方の気持ちが和合することなのではないかと思います。
そして和合した瞬間──どのような気持ちになるでしょうか?
言葉では言い表せない至福を感じるのではないでしょうか?

子どもの頃、家族でトランプか何かゲームをして、そしてみんなで一斉に歓声を上げる瞬間というのがありました。家族みんなの気持ちが一致した時というのは、何とも言えない幸福を感じたものです。
自分を憎んでいたCさんと心が和合できたときのBさんの気持ちは、さぞ至福の想いに満たされたのではないでしょうか。

このケースではBさんが自分のミスを認め、真摯に反省したので和合することができたのですが、ドライバーと言っても色々な人がいますから、中には逆ギレするような人もいるかも知れません。

自分のミスを認めずに、『この爺さんがトロいから自分がとばちりを喰らってしまった』と他人のせいにするような意地の悪い人も世の中にはいることでしょう。
もしそういう人だったら、和解は永遠にやって来ません。それこそ一生恨まれたままです。
そして、自分も相手もその事故のことで一生不愉快な思いを抱えて生きて行かなくてはなりません。

また、ケガをしたCさんも、Bさんの罪を許したから、いつまでも他人を憎み続けなくて済んだのです。
人を憎み続けるというのは苦痛です。もし罪を許さなかったら、CさんもBさんも、一生苦しみ続けたことでしょう。

イエス・キリストの「汝の敵を愛しなさい」です。(第26回参照)

罪を許し、敵を愛せば、お互いに苦しみから解放されます。この「許す」ということも「言向け和す」に重要な要素だと思います。

あいつが憎い憎いというその凝り固まった自分の気持ちをまず和すのです。


ところで、「自分の気持ちを和す」と口で言うのは簡単ですが、実際にはなかなか和すことは出来ないのではないかと思います。
腹が立って仕方がないのに、どうやってその腹を静めたらいいのか。

先ほどの2つの例では、どちらも相手がいて、相手の言動によって和されたのですが、自分一人しかいない場合には、どうしたらいいでしょうか。

宗教的な方法としては「祈る」ことですが、現代では心を健康にするためのテクノロジーが発達していますので、いろいろな方法が編み出されています。(それはおいおい紹介して行きます)
しかし一番簡単なのは「敵のために祈る」ことです。

霊界物語に、宣伝使が敵のために祈っている姿を見て、悪党が言向け和されるシーンが時々出て来ます。(たとえば第16巻第15~16章で、ウラナイ教の青彦が、三五教の亀彦・英子姫に言向け和されたシーン。第12回参照)
これは、祈ってる側にすると、悪党に対する腹立たしい思いが、祈ることによって解消される効果があります。

イエス・キリストの言葉にも「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とある通りです。(第26回参照)

私の体験ではこれが一番効果があり、お金もかかりません。
クソ野郎のために祈るなんて腹立たしくて出来ないかも知れませんが、そこを祈るのです。
涙がちょちょぎれますが、クソ野郎のために祈りたくないという自分の我をあえてへし折って、神に祈るのです。
『○○さんが、良くなりますように。罪が許されますように。立ち直りますように。向上発展しますように。幸福になりますように』
と、憎きあのクソ野郎のために祈ってあげるのです。

これが一番、自分(の副守護神)を言向け和すのに効果があります。
お試しあれ。

(続く)


この文章は過去に次のところへ掲載した文章を加筆訂正したものです。
霊界物語スーパーメールマガジン」2015年3月12日号 及び 3月16日号 及び
電子書籍『言向け和す ~戦わずに世の中を良くする方法』(2015年12月)

言向和(29) やられても、やり返さない ─バンクーバー朝日の場合

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年08月20日

霊界物語第12巻の「一つ島の深雪姫」のエピソードを以前に紹介しました。(第17回参照)

やられても、やり返さずに、敵と友達になってしまったエピソードですが、実際に起きた出来事の中から、それと似たようなエピソードを見つけました。

「バンクーバー朝日」という野球チームをご存知でしょうか?
日本のチームではありません。第二次世界大戦前にカナダにあった日系人のアマチュア野球チームです。

十九世紀末(明治半ば)から二十世紀初頭にかけて、大勢の日本人が新天地を夢見て海を渡り、遙か彼方のカナダへ移住して行きました。しかし夢の大陸で彼らを待ち受けていたものは、人種差別や過酷な肉体労働、貧困といった厳しい現実でした。

そんな中、日系人社会に一つの野球チームが生まれました。それが「バンクーバー朝日」です。

2014年12月、この日系人チームの栄光と奇跡の物語を映画化した『バンクーバーの朝日』が公開されました。
夢も希望も持てなかった時代に、彼らの活躍が日系人にとって一筋の光となる──という実話をもとにした映画です。

バンクーバー朝日は日系二世の若者を中心にしたチームで、最初はとても弱いチームでした。白人の方がはるかに体が大きく、パワーがあるのでなかなか勝てません。
しかし小柄であることを逆手に取り、その機動力を生かして、バント、盗塁、ヒットエンドランといった業を駆使して、白人のチームを打ち破り、見事リーグ優勝を果たして、白人社会からも支持されるようになります。

彼らバンクーバー朝日の物語の中に「言向け和す」の実例となるエピソードを見つけました。
ここでは映画ではなく次のテレビ番組をもとに紹介します。

●フジテレビ系『奇跡体験!アンビリバボー』2014年12月20日放送(ドキュメンタリー系のバラエティ番組)
 次の書物も参考にしました。
●テッド・Y・フルモト『バンクーバー朝日 ~日系人野球チームの奇跡』2014年、文芸社
●後藤紀夫『伝説の野球ティーム バンクーバー朝日物語』2010年、岩波書店

日本からカナダに移住した日系人はとても勤勉でした。
しかしやがて、安い賃金でも文句を言わずに働く日系人と、地元の白人との間にトラブルが起きるようなります。「白人の仕事を日系人が奪っている」というのです。
そして日系人排撃運動が起こりました。まじめに働いているだけなのに、文化の違いから偏見が生まれ、憎まれるのです。

1907年(明治40年)9月、大規模な反日デモが起こりました。5千人もの群衆が手に手にプラカードを持ちシュプレヒコールを上げて市内をデモ行進。夜になって群衆は暴徒化し、日系人街を襲撃したのです。「ジャップは死ね!」「出て行け!」と石を投げて、家々の窓ガラスを割ります。

日系人たちは家族の生命と財産を守るため、棍棒を持ち、石や瓦礫を投げ返し、実力で暴徒を撃退しました。自分たちの街を守ったのです。

すると──「日系人は危険だ」と新聞は報道しました。「日系人は野蛮で好戦的な人種だ」という歪められたイメージで伝えられたのです。

そもそも白人が起こした暴動なのに、それに抵抗したことで、逆に日系人は危険な連中であると思われてしまったのです。
カナダ政府はこの暴動以降、移民を厳しく制限するようになりました。

その頃カナダでは野球が盛んでした。そこで日系人としての誇りを保つために日系人の野球チームが作られたのです。白人に勝つ強くチームを作って、白人どもを見返してやろう、と。
こうして日系人の間で野球チームがいくつか作られて行きました。
そして排日暴動の7年後の1914年(大正3年)に、二十歳前後の日系二世を主体とした野球チーム「バンクーバー朝日」が結成されたのです。

最初は弱小チームでしたが次第に実力を身につけ、結成から5年後には日系人チームの中ではナンバー1となります。そしてカナダのセミプロチームで作るリーグに加盟して、白人チームと試合をするようになりました。

するとリーグで白星を重ねて行き、ついにリーグ優勝の候補チームとなります。
そうなると面白くないのは白人チームです。実力で敵わないならと、ラフプレーで勝負して来ます。走塁中に体をぶつけたり、バッターがボールを打つと同時にバットを投げるような不正を仕掛けてくるのです。

リーグ優勝を果たしたバンクーバー朝日は、上部リーグに入ることが認められました。
しかし日系人に対する憎しみがなくなったわけではありません。白人たちは日系人チームが白人チームに倒されるのを見たくて集まって来ます。そのためリーグにとっては集客力の高いチームなのです。

白人チームの不正プレーは止みません。それに抗議する日系人と白人とで試合中に場内乱闘も起きることもありました。
そして、審判もあらかさまに差別するようになるのです。どうみてもセーフなのにアウトと言う白人優遇のジャッジです。それに対して観客も「それ、ジャップをやっつけろ」と沸き上がります。不正プレーで日系人チームは散々です。

監督が変わり、新しい方針が作られました。その一つは、打力よりも機動力やバントなどの小技を、そして徹底して守備を磨くことにしました。いわゆる「スモール・ベースボール」を目指したのです。

そして新監督はもう一つ、フェアプレー精神を徹底させました。審判への抗議は一切禁止にして、どんな不正なジャッジでも決して抗議しないことにしたのです。

しかしバンクーバー朝日は相変わらず惨敗続きです。抵抗しないことをいいことに白人チームは不正プレーをやりたい放題なのです。

「あそこまでされて何で黙っているんだ。何でやり返さない? 勝ちさえすればいいじゃないか」という声がバンクーバー朝日の支援者から沸き起こりました。

ここで前述のテレビ番組では再現ビデオの中で監督に次のように語らせています。

「やられたらやり返す。それでどうなりましたか? 13年前、あの暴動で、白人たちの憎しみに、ぼくらは憎しみで報いました。その結果、何が生まれましたか? 憎しみが憎しみを呼んだだけじゃありませんか? バンクーバー朝日軍は勝たなければならない。だけど勝ちさえすればいいわけじゃない。ぼくたちは白人たちに見せてやりたいんです。どんな不利な状況でも正々堂々と戦い、そして勝つ。それがぼくら日系人の本当の姿だと、祖国日本の魂だと」

その後も、どんなに不正なプレー、偏向した審判をされても、黙ってフェアプレー精神を貫き続けました。この姿勢が白人からはジェントルマンと映り、次第に高く評価されるようになって行くのです。

そしてあるとき大きな事件が起きました。
朝日軍が5点リードしている9回裏、白人チームの攻撃で、ランナー満塁のピンチです。
ここで何とヒットを打たれてしまい、走者が全員戻り、打者も本塁に滑り込んで来ました。

どう見てもアウトですが、審判のジャッジはセーフ。
これで4点取られて1点差にまで縮められてしまいました。

このときも朝日軍は抗議をしませんでした。
しかし、この明らかに不正なジャッジに怒ったのは、白人の観客たちでした。
およそ3千人の観衆は激高してグランドに乱入し、審判を取り囲んで激しく抗議したのです。

今まで日系人を敵視し不正プレー不正ジャッジを喜んでいた白人が、何と今は不正に怒って抗議しているのです。
結局判定は覆りませんでしたが、試合再開後に朝日軍が何とか逃げ切り勝利を収めました。

そして新監督就任から五年目、チーム結成から十二年目にとうとうリーグ優勝を果たし、日系人と白人のファンが抱き合って喜び合ったのです──。

   ○   ○   ○

やられてもやり返さずに、正々堂々とフェアプレーを続ける態度が、白人の日系人に対する憎悪・偏見を和して行ったようです。
卑近な言葉で言うと「こいつら実は良いやつじゃん」ということです。今まで悪いやつだと思っていた日系人が、実は正々堂々と戦うジェントルマンだったと、認識が180度変わったのです。
「悪いやつ」だと思っていたからこそ、悪に天誅を下すつもりで日系人街を襲撃したり、アンフェアなプレイやジャッジを正当化していたのでしょうが、相手がジェントルマンなら、それを攻撃する方が悪になってしまいます。

敵から攻撃された場合、人はどういう反応をするでしょうか?
たいていは戦うか逃げるかのどちらかです。
これは人間に限らず、動物はみなそうです。
ワンちゃんは敵が来たら、ワンワンと吠えます。もし敵が自分より強いと思ったら尻尾を巻いて逃げます。相手に服従する、ということもありますが、これは負けて屈服したので、敗退して逃げるのと一緒です。

しかし人間には第三の道があります。それは「敵と友達になる」ということです。つまり「言向け和す」です。(第23回も参照)

日系人街が白人の暴徒に襲撃されたとき、日系人は実力でそれを阻止しました。戦ったのです。
これは予想される反応の一つです。
そして白人側は日系人は狂暴だと憎悪・偏見を増幅させました。
これでは敵の思う壺です。日系人をカナダ社会から締め出すための、いい口実になってしまいます。

このとき日系人は、荷物をまとめて日本に逃げ帰ることもできたでしょう。しかしそれも敵の思う壺です。日系人がいなくなれば大喜びです。逃げても戦っても、敵の罠にはまってしまうのです。

不正プレー不正ジャッジで散々苦しめられた朝日軍は、不正プレーでやり返したり、不正に断固抗議して戦うこともできたでしょう。また、憤慨してリーグから脱退することもできたでしょう。どちらも予想される当然の反応であり、どちらを選んでも敵の思う壺です。

しかし朝日軍は逃げも戦いもせず、黙々とフェアプレーを貫き通しました。それによって白人たちの気持ちを変えることができたのです。敵と和合して、友達になることができたのです。
これは他の動物にはできません。ライオンとシマウマが友達になったという話は聞いたことがありませんね(笑) これは人間にしかできない業(わざ)です。

前にも書きましたが(第23回)出口王仁三郎は、人というのは神の霊が止(とど)まる「霊止(ひと)」であると説きました。
人間の肉体だけ見ればただの動物です。そこに神の霊が入って霊止となるのです。

敵味方の垣根を取り払って和合して、調和の取れた世界を築くのは、まさに神の為せる業です。

みんな仲良く暮らしたい、という気持ちは人間なら誰でも持っていると思います。日本人は特にそれが強いと思います。

朝日軍が取った態度は、日本精神、大和(だいわ)の精神の発揚でした。
そしてそれが「言向け和す」なのです。

(続く)


この文章は過去に次のところへ掲載した文章を加筆訂正したものです。
霊界物語スーパーメールマガジン」2015年1月19日号 及び
電子書籍『言向け和す ~戦わずに世の中を良くする方法』(2015年12月)

言向和(28) 和されて再生した米国の自動車工場

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年08月19日

前回は暴力以外の方法ということで、桑田真澄氏の話を紹介しました。

桑田氏は
「『絶対に仕返しをされない』という上下関係の構図で起きるのが体罰」
と語っていましたが、それは会社の上下関係でも同じです。部下に仕返しされないことをいいことに、不当な暴力行為を行う上司はどこにでもいます。パワハラ・セクハラのような犯罪行為とまでは行かなくても、仕事のミスを叱責したり、罵声を浴びせることは、部下にしてみると非常に不愉快です。

しかし怒鳴らなくても部下を指導することはもちろん可能です。

トヨタ自動車が80年代にアメリカで現地生産するためにGM(ゼネラルモーターズ)と提携し、84年に合弁でNUMMI(ヌーミ)という会社を設立しました。工場はカリフォルニア州のフリーモントという町にあったGMの工場を譲り受けることになりました。

この工場は82年に閉鎖されており、再建するに当たって、次のようなエピソードが伝えられています。次の記事から抜き出して紹介します。

●ライフハッカー日本版 「怒鳴っても人間は変わらない!」史上最悪の工場を変えたシンプルな教え【LHベストヒッツ】
http://www.lifehacker.jp/2013/08/130825fix_the_machine.html

また、次の記事・書籍も参考にしました。

●JBpress 日米の共存共栄に貢献したトヨタ生産方式
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5012

●楠 兼敬『挑戦飛躍 -トヨタ北米事業立ち上げの「現場」』(2004年、中部経済新聞社)
http://amzn.to/2x00LyC

カリフォルニア州フリーモントの工場の労働者は全米で最悪だと呼ばれていました。
当時の労働組合長は「戦いの毎日だった」と語っています。働いている時間より抗議活動をしている時間の方が長く、ストライキは日常茶飯事で、毎日が混乱の連続。「この工場で買えないものはない」と言われ、セックス、ドラッグ、アルコール、あらゆるものが工場内で手に入りました。賭博などの違法行為も見られ、無断欠勤は常態化しており、人数が足りなくて製造ラインが動かせないこともあるほどです。

会社が労働者に罰を与えれば、すぐに仕返しがありました。会社の車に傷を付けたり、ストライキを始めたり、部品を故意に付けなかったり、会社と労働者との戦争です。そしてついにGMは工場を閉鎖することにしたのです。

トヨタとGMの合弁会社が設立され、工場を再稼働するに当たり、今までの労働者を再雇用する取り決めが組合との間でなされました。労働者の意識を変えるためにトヨタは日本の工場に労働者を送り「全く新しい働き方」を見せました。有名な「トヨタ生産方式」です。

GM時代には作業員はミスをするとフォアマン(職長)から怒鳴られていました。「怒られたら次から注意するようになるだろう」と思って怒鳴るのです。

作業員は会社と個人契約で結ばれており、その契約通りの仕事が行われているかどうか管理するためにフォアマンがいるのです。フォアマンは部下の成績表を作りますが、どうすればミスをしないかの指導はしません。契約通りの仕事が出来なければ即クビにします。仕事の面倒を見てくれる上司ではなく、監視兵のようなものですね。

この生殺与奪の権を握っているフォアマン(会社)の力から作業員を守るために、強大な労働組合がストライキなどの労働活動を日常的に行っていたのです。
こういう対立構造では、人間関係はギクシャクするし、生産効率も上がらないでしょう。

GM流のやり方しか知らない労働者たちはトヨタの工場に研修に来て驚きました。
トヨタ方式は、個人の能力を大切にしますが、それ以上にチームワークを大切にします。現場の作業員と上司は同じチームの仲間です。対立する関係ではありません。GMでは組み立てラインを止めたら怒鳴られクビですが、トヨタではラインを止めても上司が怒鳴ることはありません。それどころかラインに飛んできて一緒に問題を解決してくれるのです。

フリーモントの労働者にとってこれは信じられないことでした。フリーモントで30年以上働いてきた白髪交じりのアメリカ人が涙を流しながらトヨタの労働者を抱き寄せました。彼らは、みんなが協力し合うトヨタの働き方を見て心の底から感動したのです。(和された瞬間です)

3ヶ月後、フリーモントの労働者は帰国して工場が再稼働しました。抗議活動や無断欠勤はなくなり、労働者たちは仕事に来るのが楽しみだと言うようになりました。作った車は高い品質評価を受け、製造コストも激減しました。全米最悪と言われた工場が全米トップの工場に生まれ変わったのです。

   ○   ○   ○

「みんなで協力して仕事を早く終わらせよう」「手が空いたら他の人を手伝おう」というのは私たち日本人にしてみると、ごくふつうのことです。それが当たり前のことだと思って仕事をしています。
しかしアメリカ人から見ると、それはとても驚異的なことだったのです。
対立を生み出す経営ではなく、みんなが和合していく経営ですね。
怒鳴ったり、解雇権をちらつかせたりして脅迫的・暴力的に労働者を管理しなくても、生産効率は上がるという、良い例です。GMよりもトヨタ方式の方がはるかに良い結果を出せてます。

といっても、トヨタが労働者にやさしい会社だと言うつもりはありません。所詮は常に利潤を出し続けなくてはいけない悲しき上場企業です。2008年秋のリーマンショックの際にトヨタは真っ先に派遣切りを行い6000人もの派遣労働者のクビを斬って路頭に放り出しました。
決して経営が苦しいわけではないのですが、減産になったので不要人員を削減したのです。それをやらないと株主に怒られます。労働者の生活よりも株主への配当を最優先しなくてはいけないのが上場企業なのです。
こういう利潤追求のために生産効率を追求したノウハウの集大成が「トヨタ生産方式」だと言えるでしょう。

同じように効率を追求しても、アメリカの文化から出てきたやり方は、「怒鳴って急がせ、監視してサボらせない」というやり方です。
しかし日本文化から出てきたやり方は、「みんなで協力して早く仕事を終わらせよう」というやり方なのです。
とても素晴らしいことだと思いませんか?
私たち「和」の国の人間なら、暴力に依らずに世の中を良くする方法を、きっと見つけ出せるはずです。

(続く)


この文章は過去に次のところへ掲載した文章を加筆訂正したものです。
霊界物語スーパーメールマガジン」2013年10月31日号
電子書籍『言向け和す ~戦わずに世の中を良くする方法』(2015年12月)

言向和(27) 暴力以外の方法─スポーツの場合

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年08月18日

今まで26回にわたり「言向け和す」について書いて来ましたが、ここまでは主に古事記や霊界物語等の文献をもとにして「言向け和す」を探究して来ました。
ここからは、現実の人間社会に「言向け和す」がどのように顕れているのかを探究して行きたいと思います。

なお、そのほとんどは、私が今日までにメルマガやブログ等で書いて来たことの再掲的なものになります。『どこかで読んだな~』と思うかも知れませんがご了承下さい。


「言向け和す」という文字を見ると、言葉を向けて人の心を和すということなので、あたかも暴力反対の思想のようにも思えます。

しかし「言向け和す」は暴力を否定しているわけではありません。
暴力否定の思想ではなく、暴力以外の方法を使うことが「言向け和す」です。

暴力を決して否定はいけません。
暴力を否定したら、悪がはびこるだけです。
物理的な力には物理的な力でしか対応出来ないのです。

雨が降ったら傘を差します。
差さなかったら、雨に濡れてしまいます。

ICBMが降ったらPAC3を差せばいいのです。
差さないと死んでしまいます。

暴漢に襲われたらスタンガンでビリビリやって撃退すればいいのです。
ネットでウソをばらまいて人を誹謗中傷している奴がいたら警察に訴えて捕まえてもらえばいいのです。

しかしそれで真に問題が解決したわけではありません。
撃退された暴漢は別のところで別の誰かを襲撃することでしょう。
ウソつくのが好きな奴は刑務所を出た後でまたウソをばらまきます。
ICBMを撃ち落としたって、今度は別の方法で攻撃して来ます。

暴力に対しては暴力でしか対抗出来ませんが、それは一時的・その場しのぎ的な解決方法でしかないのです。
真に問題を解決したわけではありません。

そして、暴力に対して暴力で対抗していたら、暴力が増幅して行きます。
やられたら、やり返さないと、やられてしまいますので、やるべき時にはやらなきゃいけません。
しかし、やられた方は、自分が悪いとは思っていませんので、怨恨を抱きます。それで倍返し、三倍返しとなり、憎悪と暴力が増幅して行くのです。

つい先日(2017/8/12)アメリカ・バージニア州のシャーロッツビルという町で白人至上主義集団とその反対派が激突して死傷者が出るという事件が起こりました。
それに対してトランプ大統領が「双方に非がある」と声明を出したことで騒動に拍車がかかり大騒動になっています。
反対派から見ると、人種差別は問答無用で断罪しなくてはいけない極悪事であるのに、「双方に非がある」なんて言うのは、人種差別を許容するようなものです。
それで反対運動が激化して、大変なことになっているのです。

たしかに反対派が言うことはもっともであり、差別の蔓延を防ぐには力で抑え込むことも必要でしょう。
しかし一時的に差別の言動をなくすことは出来ても、差別主義者はいなくなりません。彼らは白人至上主義が正しいと思っているのですから、当然、力で弾圧されたことに対して恨みを抱きます。それでまたいつの日かゾンビのように甦って来るのです。
ハリウッド映画にゾンビ映画が多い理由は、制作費が安いというだけでなく(ゾンビを演じるのに高度な演技は必要ないのでエキストラで十分)、ともかく悪を力で抑え込むというアメリカ社会の文化が背景にあります。
本質的に、ゾンビを生み出す文化なのです。
退治しても退治しても甦るのでは、永遠に心が安まる日が来ません。

一時的には暴力で押さえ込むことが必要とはいえ、それ以外の方法も考えねば、ゾンビはいなくならないのです。
それが「言向け和す」です。

   ○   ○   ○

しかし暴力以外の方法を知らなければ、暴力に依存したままです。

たとえば、学校での体罰。
体罰をふるう先生というのは、それが良かれと思ってやっています。
生徒のためを思って、体罰をしているのです。
いくら体罰を禁止しても、体罰以外の方法を知らなければ、体罰を繰り返すだけです。

スポーツに体罰は必要ない

中国で反日暴動の嵐が吹き荒れた2012年から、翌13年にかけて、日本国内では学校での「イジメ」やスポーツ界にはびこる「体罰」が大きな社会問題になりました。
大津市中二イジメ自殺事件や大阪市立高校バスケ部体罰自殺事件、女子柔道強化選手による暴力告発問題などです。

【大津市中二イジメ自殺事件】 2011年10月11日、滋賀県大津市立某中学校の中学二年の男子生徒が、同級生によるイジメを苦に自殺。翌2012年7月頃からマスコミで大々的に報道されるようになり、学校や教育委員会、警察の対応の悪さや隠蔽体質が大きな社会問題となった。この事件がきっかけとなり2013年6月に「イジメ防止対策推進法」が制定される。

【大阪市立高校バスケ部体罰自殺事件】 2012年12月23日、大阪市立某高校でバスケットボール部キャプテンの男子二年生が顧問の教師からの体罰を苦に自殺。スポーツ強豪校として知られるこの高校では他の部でも顧問による体罰・暴言が常態化していたことが明らかになった。

【女子柔道強化選手による暴力告発問題】 2013年1月29日、女子柔道の国際試合強化選手15名が長年にわたり全日本女子ナショナルチーム監督ら指導陣に暴力やパワハラを受けていたことがマスコミで報道され公になった。監督は辞任、全柔連(全日本柔道連盟)は会長以下全理事が辞任する騒ぎとなった。

大阪の高校バスケ部体罰自殺事件で、体罰を行っていた顧問教師は懲戒免職となりました。しかし部員や卒業生、保護者たち約1100人が「寛大な処分」を求める嘆願書を教育委員会に提出したのです。その先生は熱血教師として生徒や保護者から大きな信頼を得ていた〝いい先生〟だったようです。

しかし不幸なことにこの先生は、暴力以外の教育方法を知らなかったのだと思います。だから当たり前のように体罰を行っていました。
そして、市教委の記者会見で次のように語っています。(2013年1月11日)。

「部を強くするために体罰は必要だった。叩くことによって生徒をいい方向に向かわせるという実感があった」

果たして本当に体罰をしなければスポーツは強くなれないのでしょうか?

私は1968年4月1日生まれなんですが、ちょうど同じ日に生まれたプロ野球選手に桑田真澄氏がいます。巨人軍で活躍した後、現在は野球の解説者や指導者をしています。
その桑田氏が、この体罰自殺事件について新聞の取材で「体罰は必要ない」と答えています。彼も中学までは毎日のように練習で殴られていたそうです。少々引用してみます。

 私は、体罰は必要ないと考えています。「絶対に仕返しをされない」という上下関係の構図で起きるのが体罰です。監督が采配ミスをして選手に殴られますか? スポーツで最も恥ずべきひきょうな行為です。殴られるのが嫌で、あるいは指導者や先輩が嫌いになり、野球を辞めた仲間を何人も見ました。スポーツ界にとって大きな損失です。
 指導者が怠けている証拠でもあります。暴力で脅して子どもを思い通りに動かそうとするのは、最も安易な方法。昔はそれが正しいと思われていました。でも、例えば、野球で三振した子を殴って叱ると、次の打席はどうすると思いますか? 何とかしてバットにボールを当てようと、スイングが縮こまります。それでは、正しい打撃を覚えられません。「タイミングが合ってないよ。どうすればいいか、次の打席まで他の選手のプレーを見て勉強してごらん」。そんなきっかけを与えてやるのが、本当の指導です。
 今はコミュニケーションを大事にした新たな指導法が研究され、多くの本で紹介もされています。子どもが10人いれば、10通りの指導法があっていい。「この子にはどういう声かけをしたら、伸びるか」。時間はかかるかもしれないけど、そう考えた教え方が技術を伸ばせるんです。
〔朝日新聞デジタル 2013年1月11日 「体罰は自立妨げ成長の芽摘む」桑田真澄さん経験踏まえ〕
http://www.asahi.com/edu/articles/TKY201301110314.html

なるほど。
体罰に拠らずにスポーツで強くなれる方法がいろいろと開発されているのですね。

しかし、その方法を知らなければ、体罰はなくなりません。
法律(国家権力)で体罰を禁止することも大切ですが、体罰以外の方法を教えて行かないと、体罰がなくなることはありません。

これはスポーツという分野に限らず、私たちの身の回りの人間関係でもそうですし、政治・社会運動でも同じことです。

暴力以外の方法を開発して広く普及していかないと、暴力がなくなることはありません。

今はまだ時代の過渡期ですが、「言向け和す」を究めて行けば、やがてきっと──桑田氏の言葉を流用するなら──「暴力で脅して人を思い通りに動かそうとするのは、最も安易な方法。昔はそれが正しいと思われていました」という時代が来るはずです。

(続く)

言向和(26) 慈悲とミロクと和とアガペー

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年08月17日

「言向け和す(ことむけやはす)」は古事記に出て来る古い大和言葉ですが、しかしその思想・概念は決して日本にだけあるのではありません。
前回紹介した老子の教えにも、それは見てとれます。

イエス・キリストの「汝の敵を愛しなさい」という教えも「言向け和す」です。
その言葉はいわゆる「山上の垂訓」に出て来ます。イエス・キリストが山の上で弟子たちや群衆に教えを説いた場面です。

あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人達でさえ、同じことをしているではないか。
だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
〔マタイによる福音書 第5章第43~48節(新共同訳聖書)〕

最初の「あなたがたも聞いているとおり」というのは「世間一般で言われている」という意味です。
たしかに世間一般では「敵を憎め」と教えていますね。マスコミの論調は憎悪や敵愾心を煽ってばかりだし、テレビドラマや映画も「倍返し」の『半沢直樹』だとか、ゾンビ映画・戦争映画のように復讐心や恐怖心を煽るものが多く作られます。正義を名分にした暴力を肯定しているのです。
それで「隣人を愛しなさい」と愛国心・同胞愛を掻き立てられたら、そりゃあ、○○ファーストになるのも当然です。世間一般が説いている教えがすでに国粋・排外主義であるわけです。

そんな人並みのことをしたって、世の中は何も良くならないよ、とイエス・キリストは説くのです。
天の父(神)は、善人・悪人、敵・味方の区別なく愛を与えて下さっている。
その神の大御心を心として、敵を愛するように努めなさい、というのです。

敵を味方(隣人)と同じように愛したら、どうなるでしょうか?
もはや敵ではありません。味方です。仲間です。
これは「言向け和す」と一緒です。

「汝の敵を愛しなさい」(敵愛)というのは「言向け和す」なのです。

   ○   ○   ○

ここで一つ注意点があります。

「人を愛する」という場合に一番多く使われるのは、「恋人を愛する」とか「夫や妻を愛する」という文脈で使われると思いますが、異性を愛するのと同じように、汝の敵を愛せますか?

そりゃ無理です。

それで「敵愛なんてただの理想だ」ってことで、結局、敵憎になってしまうのです。

愛についてもう少し深く考えねばなりません。
そもそも日本語の「愛」という言葉にはいろいろな意味が含まれています。
異性愛も、神の愛も、みな「愛」という言葉で一緒になっています。

もともと「愛」という言葉は、ドロドロとした感情を指していました。執着・欲望です。
『広辞苑』で「愛」を引くと、次のように出ています。

①親兄弟のいつくしみ合う心。広く、人間や生物への思いやり。万葉集五「―は子に過ぎたりといふこと無し」。「愛情・博愛・人類愛」
②男女間の、相手を慕う情。恋。「恋愛・求愛」
③かわいがること。大切にすること。伽、七草草子「己より幼きをばいとほしみ、―をなし」。「愛護・寵愛」
④このむこと。めでること。醒睡笑「慈照院殿、―に思し召さるる壺あり」。「愛好・愛唱」
⑤愛敬(あいきよう)。愛想(あいそ)。好色二代男「まねけばうなづく、笑へば―をなし」
⑥おしむこと。「愛惜・割愛」
⑦〔仏〕愛欲。愛着(あいじやく)。渇愛。強い欲望。十二因縁では第八支に位置づけられ、迷いの根源として否定的にみられる。今昔物語集二「その形、端正なるを見て、忽ちに―の心をおこして妻(め)とせんと思ひて」
⑧キリスト教で、神が、自らを犠牲にして、人間をあまねく限りなくいつくしむこと。→アガペー。
⑨愛蘭(アイルランド)の略。
〔広辞苑〕

この7番目の意味が、もともとの「愛」です。
愛欲、愛着、渇愛です。
男女の性愛です。

学研の『漢字源』で「愛」の解字(かいじ…漢字の成り立ち。字形の分析)を見ると、
「牙」(人が胸を詰まらせて後ろにのけぞったさま)+
「夂」(足をひきずる)+
「心」
の三つの形から成り立っており、総じて「心がせつなく詰まって、足もそぞろに進まないさま」と出ています。

要するに、好きな人を想って胸がキュンとなり、目が宙を漂ってフラフラと歩いている姿が「愛」という漢字なのです。

このような感情はギリシャ語で言うと「エロス」です。

それに対して「アガペー」が神の愛を指す言葉です。

古代ギリシャ語では愛を表す言葉が4つあるそうです。(参考:ウィキペディア、「真の愛について」)

エロス … 性愛、夫婦愛
ストルゲー … 家族愛、肉親愛
フィリア … 隣人愛、友愛
アガペー … 自己犠牲的な愛、神の愛

日本では、アガペー的なものは「慈悲」という言葉で表現していました。
細かい学問的な見方をすれば、アガペーと慈悲は少々異なる概念だと思いますが、実践的な観点で見ればどちらも一緒です。「今のこの気持ちは仏の慈悲、こちらの気持ちは神の愛」な~んて、いちいち区別がつくものではありませんし、また区別する必要もありません。どちらも同じです。

さて、もともとエロス的意味合いであった「愛」ですが、キリスト教が日本に伝来して、アガペーを「愛」と翻訳してしまったので、「愛」がおかしくなってしまったのです。

エロスもアガペーもみな「愛」という言葉で一緒くたになってしまったので、ある意味ではそれが原因で、日本人の愛という感情が未分化なものになってしまったのかも知れません。

そこで王仁三郎は言葉を整理し、概念を区別したのです。

神の愛、広く大きな愛が「愛善」です。
小さな、利己的な愛が「愛悪」です。

自分しか愛さないのは愛悪ですが、しかし自分を愛することも大切です。
自分も神の子であり、肉体は神様からの預かりものです。自分を愛することはとても大切です。
しかし自分しか愛さないのが愛悪になるのです。

だから「自分を愛するように隣人を愛しなさい」とイエス・キリストは説くのです。
それは愛善です。
アガペーは愛善です。
エロスは・・・男女二人だけの愛ですが、自分たちだけしか愛さないのであれば愛悪です。
ストルゲーもフィリアも同様です。家族を愛し、同胞を愛するのは大切ですが、家族しか愛さず・同胞しか愛さず、排他的になると、愛悪です。

霊界物語から愛善と愛悪について引用します。

愛の善とは即ち霊主体従、神より出でたる愛であり、愛悪とは体主霊従と云って、自然界における自愛または世間愛を言うのである。

今、口述者が述ぶる世間愛とは、決して世の中のいわゆる博愛や慈善的救済を言うのではない。己が種族を愛し、あるいは郷里を愛し、国土を愛する為に他を虐げ、あるいは亡ぼして自己団体の安全を守る偏狭的愛を指したのである。
〔第47巻第9章「愛と信」〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm4709#a009

無始無終の宇宙間において、最も強く美(うるわ)しきものは愛の発動なり。(略)

しかして、愛には善あり、悪あり、大あり、小あり。神の愛は愛善にして、世間一切の愛は愛悪なり。神の愛は大愛にして世間の愛は小愛なり。わが身を愛し、わが家を愛し、わが郷土を愛し、わが国土を愛するはいわゆる自己愛にして、神の大愛に比して雲泥の相違あり。故に小愛は我情我欲の心を増長せしめ、ついには自己愛のために他人を害し、他家を破り、他郷と争い、他の国と戦い、ついに彼我(ひが)共に惨禍の洗礼を受くるに至る。

また神の愛は大愛なれば、宇宙一切万有に普遍して毫(ごう)も依怙(えこ)の沙汰なし(注・偏向しないという意)。
世間の愛は他を顧みず、ひたすらにわが身を愛し、わが家を愛し、わが郷土を愛し、わが国家を愛するが故に、他よりもし不利益を加えらるると見る時は、たちまち立って反抗し争闘し、身を破り家を破り国家を破るに至る。恐るべきは愛の情動の度合なり。
〔第74巻第14章「真心の曇らひ」〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm7414

世界の一部──家族とか、郷土とか、国とか、そういう一部分しか愛さない小さな愛だと、他から危害が加わるとたちまち排他的、攻撃的になってしまうと言うのです。
だから世界全部を愛しなさい、大きな愛、神の愛を持ちなさい、というわけです。

イエス・キリストの敵愛の話に戻りますが、「汝の敵を愛しなさい」という場合の「愛」は、アガペーです。愛善です。
異性を愛する場合の愛ではなく、もっと広く大きな愛です。
友愛、博愛と言ってもいいと思います。

小さな愛で見たら「汝の敵を愛しなさい」という教えは理解できないことでしょう。「そんなもん愛せるか」と。
大きな愛でもって見たときに、それが理解できるのです。

敵を言向け和すには、自分の魂の中にある、神の愛(愛善)を大きく大きく育てて行く必要があります。

   ○   ○   ○

ところでキリスト教が日本に伝来したのは、一般には戦国時代の1549年とされています。イエズス会のフランシスコ・ザビエルが鹿児島で宣教を開始したのです。

しかしザビエルよりはるか昔、7世紀頃にすでに日本にキリスト教が伝わっていた、という説があります。
キリスト教の「ネストリウス派」という一派が、5世紀に、主流派から「異端」(邪教)の烙印を押されて排斥され、それが7世紀に中国に伝わり「景教」という名で呼ばれていたことが、歴史的に確認されています。
その景教が日本にもやって来たという説があるのです。(詳細はウィキペディアの「ネストリウス派」を見て下さい)

今、私たちが「キリスト教」だと思っているキリスト教は、主に欧州で発達したキリスト教です。エルサレムから西へ行った人たちです。
しかし、エルサレムから東へ行った人たちもいるのです。
景教以前にも、キリスト教が中国や日本に伝来していたかも知れません。
イエス・キリストの十二使徒の一人、トマスが、インドで宣教したという伝説があります。
そしてそのトマスが、禅の達磨法師になった、という説もあります。
古代イスラエルの失われた十支族の足跡を追って、中国や日本にまで渡った人もいるかも知れません。
大陸との交通ははるか古代からあったのですから、景教以前にもキリスト教徒が渡来していたとしても何も不思議ではありません。

歴史の真偽は定かではありませんが、ある人がおもしろいことを言っていました。

古代(それがいつの時代か分かりませんが)、日本に伝わったキリスト教が、アガペーを「和」と翻訳したのではないか、というのです。

なるほど。
それはおもしろい。

汝の敵を愛して行ったら、世界はどうなるでしょうか?
もはや敵はいなくなり、みんな仲間となります。
それは大きな「和」の世界です。
大和です。

私たち日本人は「和」を志向する民族性を持っています。
今さら比較文化論を論じるまでもなく、他の諸民族よりも「和」が好きなのが日本人です。
それは皇祖の「言向け和せ」という大命に由来するものなのか、はたまた聖徳太子の十七条憲法の筆頭に掲げられた「和を以て貴しと為し」に由来するものなのか、あるいはまたこの自然豊かな気候風土が自らそのような民族性を育んだのか、よく分かりませんが、ともかく「和」を旨とする民族です。

「敵を愛しなさい」なんて難しいことを言われなくても、日本人はごく自然に、敵愛を実践しているのかも知れませんよ。

アガペーを「和」と訳したという説は、新しい見地だと思います。

その「和」を最上級の価値と位置づけた聖徳太子は、実はペルシャ人だったという説がありますし、ひょっとしたらキリスト教徒だったのかも知れません。
というか、聖徳太子の伝説はイエス・キリストの伝説が変化したもの、という説もあります。聖徳太子は厩戸皇子(うまやどのみこ)とも呼びますが、厩戸とは厩舎(きゅうしゃ…牛馬の小屋)の戸ということです。それとイエス・キリストは馬小屋で生まれたという伝説とが繋がって、聖徳太子イエス・キリスト説が出るわけです。
その聖徳太子が仏教を積極的に導入したというのは少々解せないですが・・・(^_^;

果たして古代にアガペーを「和」と訳したのかどうかは定かではありませんが、汝の敵を愛して行くことが「言向け和す」であるということは、断定できます。

   ○   ○   ○

汝の敵を愛して行った世界が「ミロクの世」です。

王仁三郎は漢数字の「五六七」を「みろく」と読ませましたが、これは、仏教の弥勒信仰──釈迦入滅後、56億7千万年後に弥勒菩薩が地上に現れて人類を救済するという信仰に由来しています。

この「みろく(弥勒)」という言葉は、サンスクリット語(梵語)では Maitreya マイトレーヤと言います。音訳だと「弥勒」に、意訳だと「慈氏」になります。

また、「慈悲」の「慈」は Maitreya マイトレーヤで、「悲」はkaruna カルナーです。

そして Maitreya マイトレーヤの語源である maitri マイトリー とはブリタニカ国際大百科事典によると
あらゆる人に平等に注がれる最高の友情,友愛
という意味です。(コトバンク参照)

なるほど。
博愛、万有愛です。
つまりマイトレーヤ・ワールド=ミロクの世とは、世界中の人々が友情で結ばれた世界──世界中の人たちがみな友達になった世界のことを指すのです。

それは大きな「和」の世界です。

大和とは、汝の敵を愛して行くことであり、ミロクの世のことなのです。

アガペーも、慈悲も、和も、弥勒も、みな同じことを指し示していたわけです。

キリスト教が指し示した世界も、仏教が指し示した世界も、みな大和の地で結実していたのです。

──いや、まだ結実はしていません。
地上を総て、大和にしなくては結実したとは言えません。

地上を一つの大和の国にすること、それが「言向け和す」です。

(続く)