日別アーカイブ: 2017年7月28日

言向和(12) 態度で言向け和す

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年07月28日

今回紹介するエピソードは、言葉で言向け和すのではなく、態度で言向け和すという事例です。

第6巻の、三五教が誕生する場面(第33~36章)に出て来ます。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0633
五大教の宣伝使・東彦天使(あずまひこのかみ)と、三大教の宣伝使・北光天使(きたてるのかみ)がエデン川の川岸で邂逅しますが、この時、北光天使と旅人との間に神の教えに関して激論が交わされています。
それは三五教の重要な教えである「無抵抗主義」に関わることことです。無抵抗主義も「言向け和す」に密接に関連しているのですが、拙著『超訳 霊界物語2 出口王仁三郎の[身魂磨き]実践書 ~ 一人旅するスサノオの宣伝使たち』p58~に詳しく書いておいたので、そちらをお読み下さい。とりあえずここではその場面の概略だけ書きます。

北光天使が神の教えを宣伝しているのを聞いて、一人の旅人の男(甲)が質問をします。

自分たちはウラル教の悪党に田畑や山林を奪われ、家を焼かれ、女房を奪われ、一家は離散し、食う物もなく、乞食となって四方を歩き巡り、憎き悪党に仇を討つために探し回っている。実に悲惨な人生だ。もし神様がこの世にいるのならば、どうしてこんな不公平なことを黙って見ているのだろうか。自分は神の存在を疑っている──と。

それに対して北光天使は答えます。

悔しい気持ちはよく分かるが、そこを人間は忍耐して、敵を赦してやらねばならないのだ。そこが人間の尊いところであって、神様の大御心に叶うというものだ──。

すると男は激怒して「バカ!」と叫ぶと、「お前はこれでも怒らないのか!」と、北光天使の頭の上から小便をジャアジャアと垂らすのです。

悪党に惨いことをされたのだから、怒って復讐したいと思うのは当然でしょう。それを「赦しなさい」というのはとうてい納得出来ないことでしょう。「泣き寝入りをしなさい」というのと一緒で、人間としての尊厳を否定されるような気持ちでしょう。それで男は、オレの悔しい気持ちを分からせてやる、と北光天使の頭に小便をひっかけたのです。

しかし北光天使は平然としています。

今度は別の男(乙)が質問します。

自分は悪党に片目を抉(えぐ)られてしまった。非常に癪(しゃく)に障るが、あなたのように忍耐強く、美しい心になりたい。しかし腹の虫が、仇を討て、仇を討てと囁いて仕方がない。どうしたらこれを消すことが出来るだろうか──。

北光天使は答えます。

そこを忍耐しなくてはいけないのだ。何事も惟神に任せなさい──。

すると先ほどの男(甲)が激昂して、「そんなのは強い者勝ちの教えだ。貴様もウラル教の一味だろう。オレたちのような弱い者を舌の先でちょろまかしているのだ。貴様もえらい目に遇わしてやる」と、竹の棒で北光天使の右目をグサリと突いたのです。

すると北光天使は目に刺さった竹を抜き取り、右手で目を押さえ、神様に感謝の祈願を捧げ出しました。
「一つの目を与えて下さり、ありがとうございます」と。

男は「そんなに目を突かれて嬉しいのなら、も一つ突いてやろうか」と、またもや竹の棒で、左目を突き刺そうとしました。

その時、近くにいた東彦天使は、その竹の棒を手でグッと握って押すと、男はよろめき、岸辺から河の中にドボンと転落したのです。

北光天使は驚いて、裸になると河に飛び込んで、男を救い出しました。

男は北光天使の慈悲の心に感じ入り、悔い改めて弟子となり、宣伝に従事することとなりました。〔第6巻第34~35章〕

──という話です。

最後に男(甲)は心を改めるのですが、これは北光天使の態度によって言向け和された、ということだと思います。

何か特別なことを言ったのではありません。むしろ北光天使が言った言葉に対して男は激怒するばかりでした。
それが、北光天使が川から救い出した、その態度によって、男の心境に変化が起きたのです。

これは「敵に救われた」ということでもあります。
悪党に酷い目に遇わされたのに、敵を赦しなさい、だなんて言う奴はやはり悪党の仲間です。だから男は、北光天使が敵(ウラル教)の一味だと思ったのです。
その敵だと思っていた奴が、自分を救ってくれたのです。
本当に敵ならば、救ってくれるはずがないでしょう。
その北光天使の態度に、敵味方を超えた、真の神の慈愛を感じ取ったのではないでしょうか。

態度によって言向け和されるという事例は他にも出て来ます。
たとえば、丹波が舞台の第16巻で、ウラナイ教の高姫の子分の青彦が、三五教の宣伝使・亀彦と英子姫に言向け和され改心します。
蜂の大群に刺されて生死の境を彷徨っていた青彦は、自分を救うために、敵だと思っていた三五教の二人が一心不乱に祈願している姿を見て、心を改めるのです。〔第16巻第15~16章〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm1615
このシーンは私がシナリオを書かせていただいた『霊界物語コミックス1 深遠微妙』にも出て来ます。

言向け和すのに必ずしも言葉は必要ないのです。


「言向け和す」の「こと」は言葉の「言」と書きますが、これは「事」でもあると思います。
人間が行うあらゆるアクション(言動)です。

手元の古語辞典(旺文社)によると、「事」とは

1 人のするわざ。仕事。動作。
2 事務。政務。
3 行事。儀式。
4 世の中に起こる事柄。現象。
5 特にとり立てて言うような事件。
6 意味。内容。
7 わけ。事情。
8 ことのようす。さま。
9 唯一の事業。ただ一つのこと。
10 僧侶の夜食。
11 (文末にあって)感動を表す。…ことよ。

と書いてあります。
10番の意味はかなり特殊ですが(^_^; 1番や4番にあるように、人間のアクションや、自然界の現象が「事」です。

言葉が無くても「目と目で通じ合う」ということがあるように、非言語コミュニケーションによって人を言向け和すことも出来ると思います。

しかし人間が行うアクションのうち、他の動物が持たない、人間ならではのコミュニケーション手段が「言葉」です。

言葉を使えば時間・空間を飛び越えて、遠い場所、遠い未来にいる人に対しても、言向け和すことができます。

私は二十代初めの頃、まだ出口王仁三郎と出会う前に、キリスト教に没頭していた時期がありました。
聖書に書いてあるイエス・キリストの言葉が、当時の私の気持ちを言向け和したのです。
2千年という長い時間を飛び越えて、イエス・キリストが私を言向け和したのです。
これはとてもすごいことです。
言葉を使えば、地球の裏側にいる人をも、言向け和すことが出来るのです。

人間の「事」のうち、もっとも効果的で偉大なものが「言葉」であるから、「事」を代表して「言」向け和すなのだと思います。
しかし言葉に限定されるのではなく、他の方法もあるということが重要です。

また、ある人が「言向け和すの『こと』は『まこと』の『こと』でもあると思う」と言っていました。
なるほど。これは新しい発見です。

古語辞典で「まこと」を引いてみると、「まこと」とは「真・実・誠」で、原義は「真事(まこと)」と書いてあります。
意味は、

1 真実。真理。事実。
2 まごころ。真情。誠意。

とあります。

私たちがよく「あの人はまことの人だ」と言う場合、迷いがなく真っすぐに道を進んでいるような人を指して言うのだと思います。
和されていない人というのは、物事の表面に捉われているのであって、真実の自分に気づいていないのかも知れません。

人の迷妄を覚まさして、本来の自分に立ち返らせることが「言向け和す」というになるでしょうか。

態度で言向け和すと言っても、その態度の中に「まこと」が含まれていないといけません。その「まこと」に触れることで、人は言向け和されるのではないでしょうか。

前述した霊界物語の二つの事例で言うと、敵だと思っていた三五教の宣伝使が、自分を救ってくれる姿の中に、敵味方を超えた真(まこと)の神の慈愛を感じ取ったのだと思います。

単に敵を救えばいいという問題ではなく、その行動の中に、「まこと」が含まれているかどうかが肝心です。

(続く)