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高橋和巳『邪宗門』と出口王仁三郎は何の関係もありません

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年05月22日

先日、「木嶋佳苗死刑囚がブログで激怒?」というニュースを見ました。
木嶋死刑囚は男性3人を殺したとして去る5月9日に最高裁で死刑判決が確定(本人は無罪を主張)しましたが、彼女をモデルにして書いたという『BUTTER(バター)』という小説(2017年4月、新潮社)に激怒しているというのです。

木嶋佳苗死刑囚がブログで激怒? 「私の逆鱗に触れた!」(デイリー新潮)
バターって何やねん 2017年5月11日(木嶋佳苗の拘置所日記)

著者は柚木麻子(ゆずき・あさこ)氏という、山本周五郎賞なんかを受賞している作家です。
木嶋死刑囚は、自分をモデルにしたかのように本を宣伝しているクセに作中の主人公は全然自分と違う、誤解されてしまう、ということで怒っているようです。

本の帯には「木嶋佳苗事件の闇について、柚木さんでなければ描けなかった」と佐藤優氏の書評をしっかり載せており、この本は木嶋死刑囚を主人公にしていると読者に宣伝していることは明かです。
その当の本人にしてみれば、デタラメばかり書かれて怒り心頭なのは、そりゃそうでしょうね。

このニュースを見て、『邪宗門』という小説を思い出しました。
著者は高橋和巳(たかはし・かずみ、1931~71年)という、比較的有名な作家です。(ウィキペディア
学生運動・安保闘争が真っ盛りの1965~66年に『朝日ジャーナル』に連載され、後に単行本化されました。
この『邪宗門』が大本事件をモデルにした小説だということで有名なのです。
今まで何人もの人に言われましたよ。「王仁三郎って・・・あの『邪宗門』の?」と。
私も20代の時に、そういうことを聞いて読んでみたんですが・・・全く違いますよ。王仁三郎・大本とは何の関係もありません。

絹織物の産地として知られる(綾部ならぬ)「神部(かんべ)」という町に本部を構える(おほもとならぬ)「ひのもと救霊会」という宗教団体が舞台で、開祖は(出口なおならぬ)「行徳まさ」という女性で、二代目が(王仁三郎ならぬ)「仁二郎」という養子だという設定は、明らかに大本を意識しています。
しかし、著者が大本事件にヒントを得て創作したのは事実とはいえ、中味は全く別物です。
小説としてはとてもおもしろいですが、著者が設定した「ひのもと救霊会」という宗教団体は、まったく稚拙なもので、入信したいとは思いません(笑)
こんなのが王仁三郎だと思われては、たいへん迷惑です。

小説としてはおもしろいので、当時からいろいろ話題になっていたと思われます。おそらく、この小説のかなりの部分が史実であると思い込んでしまった人も多かったと見え、単行本の後書きで著者は、実在の宗教とは何の関係もない、ということを強く書いています。
そこの部分を引用してみます。

 発想の端緒は、日本の現代精神史を踏まえつつ、すべての宗教がその登場のはじめには色濃く持っている〈世なおし〉の思想を、教団の膨脹にともなう様々の妥協を排して極限化すればどうなるかを、思考実験をしてみたいということにあった。表題を『邪宗門』と銘うったのも、むしろ世人から邪宗と目される限りにおいて、宗教は熾烈にしてかつ本質的な問いかけの迫力を持ち、かつ人間の精神にとって宗教はいかなる位置をしめ、いかなる意味をもつかの問題性をも豊富にはらむと常々考えていたからである。ただ、いかなる想像力も、全くの真空には羽撃(はばた)けず、いかなる夢幻の花も樹根は現実に根ざさねば枯死する。それゆえに、この作品の準備期間中、私は日本の現存の宗教団体の二、三を遍歴し、その教団史を検討し、そこから若干のヒントを得た。とりわけ、背景として選んだ地理的環境と、二度にわたる弾圧という外枠は、多くの人々にとって、ああ、あれかと思われるだろう類似の場所および教団が実在する。だが、ここに描かれた教団の教義・戒律・組織・運動のあり方はもちろん、登場人物とその運命のすべては、長年温め育て、架空なるゆえに自己自身とは切り離しえぬものとして思い描いた、我が〈邪宗〉のすがたであって、現存のいかなる教義・教団とも無縁であることを、ある自負をもって断っておきたい。ここに描いたものは、あくまで「さもありなむ、さもあらざりしならむ」虚実皮膜の間の思念であり、事件であり、人間関係である。
〔高橋和巳『邪宗門(下)』1966年、河出書房新社、P321〕(太字は飯塚)

このように著者が、実在する人物や団体(王仁三郎・大本)とは無関係だよと明言しているのですが、「邪宗門は大本事件がモデル」という情報が一人歩きしてしまい、読者はそういう先入観で読んでしまうのです。
そして、「あとがき」なんか読まない人はたくさんいます。
実在する人物・団体と無関係だと主張したいのであれば、その告知は「あとがき」ではなく巻頭に掲げ、人物の名前など設定も誤解が生じないように似たようものではなくもっと違うものに変えるべきでしたね、高橋さん。

しかしこれは、表現者にとって悩ましい問題です。
私も若い頃は小説家・脚本家志望でしたので、こういう問題はとても悩ましいということはよくわかります。

小説にせよ映画にせよ、何らかの事実をもとに発想する場合が少なくありません。
そして、実在の人物や事件や場所を出した方が、リアリティが増して、作品として面白味が増すのです。
それにマーケティング的にも、「木嶋佳苗をモデルにした」とか「大本事件をモデルにした」とか、すでに知られている有名な何かを持ち出した方が、世間の注目を引きやすいし、ね。

そうやって実在する何かを出してしまうと、今度はそれに対する誤解が生じる可能性が出てしまいます。
表現者の方で、誤解が生じないように配慮すべきなのは当然ですが、あまり配慮しすぎると表現の自由度が小さくなって創作活動がつまらないものになってしまいます。

これは読者の方でも注意する必要があるでしょう。
小説・映画のようなフィクションはもちろん、ニュースやドキュメンタリーのようなノンフィクションにしても、しょせんは作者のフィルターを通したものの見方であり、作品としておもしろくするために脚色・演出がなされているはずです。
事実だけを報道している場合でも、何を報じて何を報じないか、情報を取捨選択することで、印象操作されているのです。
それを前提にして小説やニュースを読むべきでしょう。