カテゴリー別アーカイブ: 出口王仁三郎と霊界物語

西は半国 東は愛宕 南妙見 北帝釈……の帝釈とは?

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年09月25日

霊界物語第37~38巻は王仁三郎の自叙伝ですが、そこに次のような歌が出て来ます。

西は半国(はんごく)東は愛宕(あたご)
南 妙見(みょうけん)北 帝釈(たいしゃく)の
山の屏風(びょうぶ)を引きまわし
中の穴太(あなお)で牛を飼う
第37巻第2章「葱節」〕

高熊山修業で自分の使命に覚醒する以前の王仁三郎(当時の名は上田喜三郎)は、郷里の穴太(現在の亀岡市曽我部町穴太)で牛を飼い、搾乳兼牛乳販売の事業を営んでいました。
その穴太は、歌にあるように、四方を山の屏風に囲まれた村落です。

西には半国山があり、東には愛宕山があり、南には妙見山が、北には帝釈山があるというのです。

穴太に限らず亀岡は盆地なので、四方を山に囲まれています。
しかしあまりにも山だらけなので、どれがどの山なのかさっぱり分かりません。

地図で調べると、山の名前が書いてあるので、どの山なの分かるのですが、ちょっと疑問に感じることがあります

一つ目は、帝釈山はどの山?ということ。
半国山、愛宕山、妙見山は分かるのですが、帝釈山は地図に書いてないどころか、ネットで調べてもこの近辺には該当する山がありません。

二つ目は、山の位置がどうもおかしいこと。
穴太から見て、半国山はだいたい西にありますが、愛宕山は東北(艮)だし、妙見山は南西(坤)に位置しています。

四方に山があるのですから、東や南に位置する山は他にあると思うのですが・・・

ということで、Googleの地図を使って位置関係を調べてみることにしました。


●南 妙見

まずは南からです。
次の地図に、黄色い丸が三つありますが、一番左側が穴太の集落です。
つまり穴太から南方面を上空から見た地図ということになります。(クリックすると大きな画像が開きます)

穴太から南をのぞむ

穴太の少し右にある黄色い丸は、高熊山です。地図上は丁塚山(ちょうづかやま)と呼びます。
標高は357m。
穴太も含め亀岡盆地の標高はだいたい100mくらいなので、比高250mくらいの山です。
この山の中腹にある岩窟で、王仁三郎は霊的修業をしたわけです。

右上の方にある黄色い丸が、妙見山です。標高660m。

大ざっぱに言って、穴太の周囲は標高3~400m級の山に囲まれ、さらにその周りを5~600m級の山に囲まれています。

これらの山々の向こう側は大阪です。この地図で見ると近いように思えますが、実際には穴太から直線で20kmも行かないと、山越えして大阪に行けません。けっこう遠いです。

穴太のすぐ南側にも、名前がよく分からない3~400m級の山がいくつもありますが、なぜ妙見山なのでしょうか?
現地で見てみないと何とも言えませんが、地図で見るかぎりだと、南には湯谷ケ岳という、妙見山と同じ600mクラスの山があります。
なぜ妙見山なのでしょう? 穴太で住んでいる感覚だと「妙見」の方がランドマーク的なのでしょうか?

それはちょっと置いといて、次に北を見てみます。
問題の帝釈山です。

●北 帝釈

地図やネットをいくら探しても帝釈という山はこの近辺に見当たりません。
いろいろ調べたら、ほぼ真北にある諸木山(もろきやま)が、昔は帝釈山と呼ばれていたようです。
この山の麓(西の方)に、1200年以上前に建立された帝釈天堂があり、「京都帝釈天」と呼ばれ有名みたいです。
そのため帝釈山と呼ばれていたのでしょう。
曹洞宗の福寿寺(ふくじゅじ)というお寺が管理しています。(ウィキペディア「福寿寺」)

次の地図は江戸時代の文政年間(1818~31年)に作成された「丹波国図」です。(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

丹波国図

「帝釈山」と書いてます。
現代の地図の地名と照合してみると、諸木山が帝釈山だと分かります。(国土地理院地図
右上の「千代田山」というのは、現代の「千歳山」ではないかと思います。

穴太から北をのぞむ

●西 半国山

この山はだいたい西にありますし、標高774mで高いので、手前の山の向こうに高く見えるのでしょうか。

穴太から西をのぞむ

●東 愛宕山

この山は東北(艮)にありますが、東の方(老ノ坂方面)にはそれほど高い山はないので、東北でも仕方がないと思います。
標高900m超で、さすがに高い山なので、ランドマークとしてよく目立ちます。

穴太から東をのぞむ


これは真上から見た地図です。

穴太の真上から

西に半国(はんごく)聳(そび)え立ち
東に愛宕の峰高く
南遥(はるか)に妙見の
山(やま)雲表に屹立し
帝釈山(たいしゃくざん)は北方に
コバルト色を染め出(いだ)し
若芽に萌ゆる山屏風
中の穴太に牛飼いし…
第17巻総説歌

現地からだと、この歌のように見えるのですかね?
私も亀岡には何度も行ってますが、じっくりと山を眺めたことはないので・・・そもそも山ばっかりで、どれがどの山なのかよく分かりません。(^_^;

実際にこれらの山がランドマークなのかも知れませんが、この四つの山をよく調べると、いずれも宗教の山だということに気づきます。

東の愛宕山には、京都市側に愛宕神社があります。全国に約900社ある愛宕神社の総本社です。
また亀岡市側には、その愛宕神社の勧請元だという「元愛宕」神社があります。(ウィキペディア「愛宕神社」)

南の妙見山は、日蓮宗の重要な寺院である「能勢妙見堂」があります。(ウィキペディア「能勢妙見山」)
公式サイトを見ると「北極星信仰の世界的聖地」と銘打っています。(能勢妙見山の公式サイト

西の半国山は「丹波富士」とも呼ばれる秀麗な山容です。
この山には、金輪寺という、鎌倉時代に創建された天台宗の修験道の寺院があります。(参考

そして北の帝釈山は「京都帝釈天」です。(曹洞宗の福寿寺)

少し高い山にはどこにでもたいてい神社やお寺がありますが、この四つの寺社は小さな寺社ではなく、いずれもそれなりに有名な寺社のようです。

四つの山は、見た目のランドマークとしてだけではなく、宗教的なランドマークでもあるのかも知れません。

「瑞能神歌」について

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年09月15日

王仁文庫 第三篇「瑞能神歌(みづのしんか)」を霊界物語ネットにアップしました。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B115003

瑞能神歌には
大本神歌
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B115003c03
いろは歌 その一
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B115003c04
いろは歌 その二
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B115003c05
の三つの神歌が収められていますが、実は今までも他の資料にほぼ同じものが掲載されていました。

大本神歌 → 大本史料集成 Ⅰ
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195501c22031

いろは歌 その一 → 大本史料集成 Ⅰ
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195501c22021
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195501c22022

いろは歌 その二 → 大本史料集成 Ⅰ、出口王仁三郎著作集 第一巻
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195501c2106
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195301c03

これを元に校正し、ルビや脚注を付けて「瑞能神歌」としてアップしたものです。

瑞能神歌とは主に予言が記された歌なんですが、内容の解説はまた別の機会にすることとして、外形的な情報をここに記しておきます。


瑞能神歌の「解題」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B115003c02
にも書いてありますが、三つの神歌の初出はそれぞれ次の通りです。

大本神歌
大正6年(1917年)12月1日・筆
『神霊界』大正7年2月1日号で発表
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=M192919180201c03(霊界物語ネットには未掲載)

いろは歌 その一
大正6年(1917年)11月3日・筆
『神霊界』大正6年12月1日号(「い」から「ふ」の段まで)、及び大正7年1月1日号(「こ」の段以降)で発表
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=M192919171201c03(霊界物語ネットには未掲載)
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=M192919180101c05(霊界物語ネットには未掲載)

いろは歌 その二
明治36年(1903年)9月10日・筆
『神霊界』大正6年11月1日号で発表
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=M192919171101c02(霊界物語ネットには未掲載)

これが後に一冊の本にまとめられ、王仁文庫の第三篇「瑞能神歌」として大正10年(1921年)1月に発刊されたのです。

当時の本をスキャンしたPDF復刻版が、霊界物語ネットの「書籍ダウンロード」でダウンロードすることが出来ます。(onibon_pdf_01.zip)
http://reikaimonogatari.net/dl.php

   ○   ○   ○

さて、最初に発表された神霊界誌上の神歌と、瑞能神歌収録の神歌とを較べてみると、細かい文字の違いはあるものの、ほとんど一緒です。

しかし、「いろは歌 その一」と「その二」の一部分に大きな相違があります。
脚注として本文中に入れておきましたが、その大きな相違点だけをここにも書いておきます。
脚注の設定はこちらをお読み下さい。総ての脚注を開いたり、非表示にしたり出来ます)

まず「いろは歌 その一」の「な」の段です。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B115003c04&mka=a357#a353
「御稜威もたかき大和路の」が、初出の神霊界では「罪も穢れも内藤の、家に集える信者を、大本王仁が引連れて、御稜威もたかき神の森、大阪本の文雄大人、其他あまた伴なひて、大和の国に名も高き」になっています。つまり王仁文庫に収録されるにあたり、ばっさりと短く切り落とされたのです。理由は不明。

次は「も」の段です。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B115003c04&mka=a926#a918
「道の審神者は経と緯」が、初出の神霊界では「未だ日も浅野王仁の大人」になっています。浅野和三郎の名を出したくなくて修正したのか?

次は「せ」の段。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B115003c04&mka=a940-a943#a938

神 「活動く時機を松の世の、東の国に冬小森、国の鎮めと木花の」
王 「活動く時機を松の世の、国の鎮めと木花の」

神 「咲耶の姫の弥固き、千代の常磐の岩下に」
王 「咲耶の姫の活動は、千代に八千代に動きなき」

それに続いて「す」の段。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B115003c04&mka=a9764a9765a9806-a9809#a976

神 「教御祖と諸共に、神の御教を王仁が」
王 「教御祖の神教に、服ろひ尽す真人が」

神 「咲哉木の花直日嬢、御代の一の大二に、誉も竜の宮の棟、十曜の星のキラキラと」
王 「咲哉木の花春の空、時代の栄へも弥広く、誉も竜の宮の棟、十曜の紋のキラキラと」

この「せ」と「す」の段は、他にも細かい文字の相違が多いんですが、神霊界では姓名折込歌になっているため、姓名に合わせた用字・文言になっています。しかし王仁文庫では姓名折込歌ではなくふつうの神歌になっているため、字句を改めたのではないかと思われます。

最後は「いろは歌 その二」の「く」の段です。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B115003c05&mka=a248#a243
「然も大道の中心を」の前に、神霊界では「手掛足懸色々に、」という文が入っています。

大きな相違点は以上です。

   ○   ○   ○

余談です。
「瑞能神歌」は基本的には予言歌のようですが、回顧歌も一部含まれています。
「いろは歌 その一」の「な」の段以降は回顧歌のようです。

「む」の段ですが、ここは、大正6年(1917年)4月23日に明治天皇の遠い親戚だった鶴殿親子(大本名は大宮守子)が初めて参綾し、その翌24日に、王仁三郎・鶴殿親子ら一行11人で吉野山へ神業に出向いた時のことが記されています。
その時の模様は神霊界の大正6年6月1日号p37~40に「山吹の花」という題名で詳しく載っていますが、まだテキスト化していません。
この吉野の御神業もいろいろ謎めいています。
『新月の光』の「吉野山」という項に、

大石凝先生は吉野山に金がある。厚さ三寸、巾三里、長さ十三里のがあると言われていた。(略)
王仁は大正六年四月二十四日、大勢つれて吉野山に見に行った。金峯山や八幡山にはあるが、これは嘘やと言って帰った。確かにある。金のあるところには、黄金草が生えているから判る。シダのようなものである。(昭和十八年)
〔新月の光(八幡版)下巻 p105〕

とあるのは、この時のことです。

「霊の礎」について

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年09月14日

霊の礎(たまのいしずえ)は霊界や霊魂の実相を王仁三郎が簡潔にまとめたものです。

最初は機関誌『神の国』誌上で発表され、大正11年(1922年)11月25日号から12年4月25日号にかけて掲載されました。
その後、霊界物語の巻末に収録され、全11篇が8巻に分散して収められました。下のリストがそうです。

ただし戦後、天声社から発刊された霊界物語の中には、収録されている巻が違っている場合があります。
霊界物語ネットの霊界物語は、愛善世界社版に準拠(戦前の版に準拠)しており、下のリストの通りです。(霊界物語ネットにリンクが張ってあります)

霊界物語の刊行後に、一冊にまとめられて『霊之礎』という本として発刊されました。
大正13年(1924年)に初版が出ており、霊界物語ネットの「ダウンロード」のページから、昭和5年(1930年)の第七版がPDFでダウンロードできます。(onibon_pdf_02.zip)
http://reikaimonogatari.net/dl.php


(1)第16巻
(2)第16巻
(3)第17巻
(4)第18巻
(5)第19巻
(6)第20巻
(7)第20巻
(8)第23巻
(9)第37巻
(10)第24巻
(11)第24巻

変性女子と、性的マイノリティ

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年07月14日

諸外国では同性婚を認める国も増えているようですが、王仁三郎は同性愛についてどのように述べているでしょうか。

同性愛だけでなく、性同一性障害、オカマ、トランスジェンダー、女装趣味など、性的マイノリティと呼ばれるもの全般について、特に肯定もしていなければ否定もしていません。

当時は性的マイノリティのジャンルが今ほど多様でなかったこともあるでしょうけど、せいぜい男色(だんしょく)くらいにしか言及していません。
それも、そういう人たちが昔からいるよ、という事実について述べているだけで、それを肯定的にも否定的にも捉えていません。
座談会の中で次のような会話が交わされています。聖師は王仁三郎、寿賀麿(すがまる)は王仁三郎の二女・梅野の夫。高見、井上、林は信者です。

【高見】 『男でも○○県に男娼という奴がありますが、ああいうのは、どうなんですかなア』
【聖師】 『古(いにしえ)からある。若衆とかいうて…。あれは女の風をさして白粉をつけていてそれを男が買いに行くのや。十三、四から十五、六くらいまで尻に毛が生えたらいかん』
【井上】 『女は買いに行かんのですか』
【聖師】 『女子も行くが男も行く。両刀使いや。それだから十五くらいを過ぎるとあかん。つまりその括約筋が固くなるし毛が生えて来るからいかん。男娼の事を陰間(かげま)という。それは頼朝がカゲマサという若衆を寵愛した事が始まりで、それをカゲマ カゲマと呼んだ。それでカゲマというのや。それを略してカマというようになったのや』
【寿賀麿師】 『オカマを掘ると言いますなア』
【聖師】 『古は男色というた』
【高見】 『しかし現在でもあると聞いてビックリしました』
【聖師】 『九州あたりでは結婚するまでに女に相手になると、みんなが相手にしなかったもんや。それで男の取り合いが激しかった。そのために生命の果たし合いをやったくらいや。あんな事ばかり書いた本があるよ。「男色物語」とかいうんだったと思ったが……』
【林】 『何だか汚いなア』
【聖師】 『そんなこと考えたら出来やへん。学生などには随分流行っている。それに兵隊に坊主……何しろ小姓(こしょう)を置いたらキット嬶(かか)の代わりをさしている。その方面では徳川家綱なんて有名やがな』
【寿賀麿師】 『女を小姓に化けさして無理にやらしたら、食ってみたらうまかったんだろ……ハヽヽヽヽ』
〔「出口王仁三郎聖師と出口寿賀麿氏を囲む座談会 第二夜(四)」〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B108500c07

というように、バカ話の中で男色のことが出て来るんですが、男色することについて特に肯定も否定もしていません。

霊界物語ではどうでしょうか。
霊界物語の登場人物はみな男か女かで、ゲイもニューハーフもいません。
男勝りの女は何人もいますが、オナベというほどではありません。
しかしたった一人だけ、異色の人物がいます。
第66巻に登場するサンダーという名の男性です。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm66

いつも女装しており、しかも絶世の美女だというキャラクターです。男装の麗人ならぬ女装の麗人です。
しかし恋愛の対象は女性で、スガコ姫というカノジョ(許嫁)がいます。
現代で言う、女装子(じょそこ)とか男の娘(おとこのこ)というやつです。
決して軟弱な草食男子ではなく、悪党に誘拐されたスガコ姫を救出に行くという、勇敢な面も持っています。
このサンダーの女装趣味に関して、特に肯定的にも否定的にも描かれていません。ただ単に、そういう人、というだけです。
カノジョのスガコ姫も、彼氏の女装趣味について、特に何とも思っていないようです。ですから表面的にはレズのカップルに見えることになります。しかし親も周りの人も、特に不自然には思っていないようです。
一体なぜ、このような女装者を登場させる必要があったのか? ストーリーの上から言ったら、サンダーは女に見えることを利用して、悪党のアジトに潜りこむんですが、そのためにわざわざ女装者を登場させたのでしょうかね?

ともかく王仁三郎は、性的マイノリティについて、良いとも悪いとも、特別な評価は下していないので、ここは自分で考えるしかありません。

以前にも書いたように、王仁三郎の教育論は天賦の才能を育む天才教育です。人間は、神様から与えられた天賦の才能を発揮して、地上天国ミロクの世の建設に貢献することが、この地上界に生まれて来た使命です。

性的マイノリティの人が、そうした方が自分らしいと思うなら──つまり、体は男だけど心は女なんだ、とか、自分は異性ではなく同性が好きなんだ、とか──それが自分本来の生き方だと思うなら、そうすればいいと思います。それが惟神(かんながら)ということです。アブノーマルではあっても、その人にとってはそれが惟神なのです。それもまた神の仕組です。それがどういう仕組なのかは人間が知るところではありませんが、まあ、何かワケがあるのでしょう。

しかし天地の公道(自然の法則)はしっかりと見定めねばなりません。
上の引用文で王仁三郎が、括約筋がどうのこうのとバカ話をしていましたが、しかし、そもそもお尻の穴はウンコをする穴であって、ペニスを入れる穴ではありません。アナルセックスは天地の公道に反する行為です。

タバコなんかもそうです。肺は空気を吸う器官であって、煙を吸う器官ではありません。私も実は20年間タバコを吸い続けて34歳の時に止めたんですが、モッタイナイ精神を発揮してフィルターぎりぎりまで吸い、肺の隅々まで煙を充満させていたので、肺の中はすっかり真っ黒けです。神様から預かっている肉体を、本来の使用方法とは異なる使い方をするのは、天に向かって唾を吐くのと同様で、しっぺ返しがあってもおかしくありません。

天地自然の法則に反することを続けていたら、後で何らかの弊害が発生する可能性があることは、しっかりと覚えておくべきです。

ところで王仁三郎は「変性女子(へんじょうにょし)」です。出口ナオは逆の「変性男子」です。
変性女子というのは、霊魂は女だけど肉体は男、という神業上の役柄です。
ということは、王仁三郎は性同一性障害か~~という見方も出来るわけですが、王仁三郎は霊魂が女だということであって、心が女だというわけではありません。
一般に性同一性障害者は、肉体の性と心の性が異なると感じているのであって、霊魂がどうのこうのという問題ではありません。
そして実は、霊魂上の男女というのは、仮に男とか女とか呼んでいるだけで、世間一般で言う男女とは異なります。
霊魂上の男とは、厳の御魂であり、四魂のうち、経の二魂(荒魂と和魂)が強く働く霊魂です。
また霊魂上の女とは、瑞の御魂であり、四魂のうち、緯の二魂(幸魂と奇魂)が強く働く霊魂です。

四魂

〔第10巻第29章、第13巻総説参照〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm1029
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm130003

このように変性女子とは霊魂上のことですので、性的マイノリティというわけではありません。

しかし王仁三郎は、

「王仁(私)は男で性が女であるが、髪の毛が濃く長くて多く、髭が少なく、身体が柔かで乳房が大きいところなど、肉体までが女に似ている」〔玉鏡「変性男子、変性女子」〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg593

と、かなりきわどいことも言っています。
まあたしかに女性ホルモンは多かったのかも知れませんね。
ご自分がそういう変わり者なので、性的マイノリティのことも、否定的には見ていないと思いますよ。

↓髪の毛を垂らした王仁三郎  たしかに髪の量が多そうですね。

王仁三郎

王仁三郎の生地・穴太と、古代山陰道

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年07月12日

王仁三郎が生まれ育った亀岡市「穴太(あなお)」の語源は「穴穂」で、穴太寺の住職は代々、穴穂家が務めているようです。

この穴穂の語源ですが──古代、雄略天皇(第21代天皇)の勅命で、丹後半島の比沼麻奈為神社から豊受大神が伊勢に遷宮して外宮が創建された時に、御神霊を運ぶ一行は徒歩ですので道中で何泊かするわけですが、丹波・穴太の上田家の庭がその「御旅所(おたびしょ)」に選ばれました。その時に御神霊にお供えしていた稲穂の種が、欅(けやき)の老木の腐った穴に落ちて、そこから苗が育った。それを稲を四方に植え広めたところから「穴穂」の里の名が起こった──ということを王仁三郎は言っています。

「瑞穂神霊」『玉鏡』
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg651

「故郷の二十八年」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195305c103

現在の穴太は、亀岡市の市街地から2キロくらい離れた、長閑な農村地区です。

↓瑞泉郷(王仁三郎の生家)を中心とした地図(グーグルマップ)
https://goo.gl/maps/NfZi1d32fUJ2

山陰道(国道9号)からもだいぶ離れているし、こんな場所になぜ神輿を運ぶ一行が泊まったのか…と疑問に思う人もいることでしょう。
私も疑問に思いました。山陰道から1キロ以上も離れた穴太に、わざわざ立ち寄らなくても、沿道にもっと適した場所があったのではないか…と。

調べてみると、古代の山陰道は穴太付近を通っていたようです。
武部健一『続 古代の道』(2005年、吉川弘文館)p19によると、古代山陰道は下の地図のようなかんじで、穴太近辺を東西に通っていたようです。

穴太付近の古代山陰道

これは現代の府道402号線(市街地)~407号線、そして国道372号線です。
なるほど。開化天皇(第9代天皇)を祭る小幡神社や、孝元天皇(第8代天皇)を祭る御霊神社があるのも、ここが僻地ではなく山陰道沿いだったことが分かると、何となくうなずけます。この道を通って、四道将軍の一人・丹波道主命(開化天皇の孫)は丹波を平定したのでしょう。

↓穴太寺  昔このお寺の境内にあった小学校に上田喜三郎少年が通ってタダアイ事件とか起きたわけですね。ふむふむ。前述の「故郷の二十八年」参照

穴太寺