カテゴリー別アーカイブ: 出口王仁三郎と霊界物語

伝記地図(4)穴太の詳細

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年10月05日

下の地図はグーグルマップの、亀岡市曽我部町穴太(あなお)の王仁三郎の生家周辺です。

穴太の拡大地図

「宗教法人大本 瑞泉苑(ずいせんえん)」とあるのが、生家跡です。
東西に延びる水色の池みたいのがありますが、これが「久兵衛池(きゅうべえいけ)」です。
いわゆる久兵衛池事件(明治20年)の舞台です。池に落ちて危険なので埋めようとしたら、農業の潅漑に使っているため村人たちが反対し、まだ17歳(数え年)だった喜三郎は父の代理として村人たちの嫌がらせと戦ったという、あの事件の久兵衛池です。
ご存じない方は「本教創世記 第一章」を読んで下さい。真ん中以降に書いてあります。王仁DBで「久兵衛池」を検索すると他にも出て来ます。
この久兵衛池より北側が瑞泉苑です。

「余の宅地の西南隅に清水の湧き出る池が一か所あるが」と本教創世記に書いてありますが、この地図で見ると、敷地面積に対して池が大きすぎますね。それに西南でなくて、南だし。

調べてみると、もともとはもっと小さな池だったものを、後に拡張したようです。

〔大本七十年史 下巻 p235〕
 一九三三(昭和八)年夏、穴太の久兵衛池(玉の井)を整備するため周囲に石垣をめぐらし、従来の約六倍のひろさに池を拡大した。そして一一月二日に玉水殿の斧始式をおこなった。建坪六五坪余の神殿造りである。このときより穴太の玉の井の名称を、瑞泉苑と改めることになった。玉水殿はその後工事をいそぎ、昭和九年四月二〇日完成祭をかね大神の鎮座祭が執行され、さらに八月一六日には玉水殿の社務所が完成した。この社務所は水上館ともよけれ、王の井池の一端にまたがった建物である。
 一九三五(昭和一〇)年二月七日には、石の宮の神聖神社が完成し鎮座祭が挙行された。ご神体は璽と鏡と剣である(五編三章)。なお同年三月三〇日には長久館の遷座祭がおこなわれた。

久兵衛池を6倍に広げたわけですね。
玉水殿とか神聖神社とかいうのは、当時この瑞泉苑の中に建てた建物です。
第二次大本事件で全部破壊され、今は残っていません。

この辺りは穴太の中でも「宮垣内(みやがいち)」という地名で、産土の小幡神社の住所が「宮垣内1番地」になっています。

金剛寺(こんごうじ)」も王仁三郎の伝記にたびたび出て来ます。喜三郎は金剛寺で開かれていた夜学に通い、久兵衛池事件で村の寄り合いが開かれた場所も金剛寺です。
臨済宗のお寺で、江戸時代の絵師・円山応挙(王仁三郎の先祖)と縁が深いことから応挙寺とも呼ばれています。(金剛寺の公式サイト

(ごう)神社」は「神明社」とも呼ばれており、この神社の前の広場にあった小屋を喜三郎が借りて「喜楽亭(きらくてい)」と命名し、自分の住み家にしていました。

穴太の地名の由来として──比沼真奈井神社から豊受大神が伊勢外宮に遷座する道中、上田家の敷地に宿泊し、そのとき神霊に供えていた稲の種が老木の穴に落ち、その稲を四方に植え広めたというのが穴穂の地名が起きた──という逸話があります。
 ○玉鏡 「瑞穂神霊」

郷神社の創建はこの逸話に関係しています。

〔出口王仁三郎著作集 第5巻 「生いたちの記」(故郷乃二十八年)〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195305c103

 当時の祖先は家門の光栄として、この祥瑞を末世に伝えんが為に、私財を投げ出して、朱欄青瓦(しゅらんせいが)の荘厳なる社殿を造営し、皇祖天照大御神・豊受姫大神を奉祀し、神明社と奉称し、親しく奉仕したのである。
 其の聖跡は、現在上田家の屋敷なる、宮垣内(みやがいち)である。宮垣内の名称は神明社建造の時より起こったのである。同社は文禄年間(注・1593~96年)、川原条(注・現在地)に移遷され、今なお老樹鬱蒼として昔の面影を止め玉うのである。
(略)
 神明社が宮垣内から川原条へ遷座されてから、後神明社(ごうしんめいしゃ)と改称されたが、いつの間にやら、後神社(ごうじんじゃ)と里人が唱え出し、今では郷神社(ごうじんじゃ)と曰うように成って、穴太の産土なる延喜式内・小幡神社の附属となり、無格社に列せられ玉うに到ったのである。

つまり、もともと郷神社は、遷座途中の豊受大神の宿地となったことを記念して、上田家の敷地に建てられた、ということになります。

穴太の拡大地図
↑明治時代の穴太(「Googleマップを使って過去の地形図や空中写真を見る」より)

昨日は中秋の名月(旧8月15日)でした

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年10月05日

昨日(10月4日)の夕方、外に出てみると、大きな月が見えました。ほぼ満月です。
調べてみたら、昨日は旧暦8月15日、「中秋の名月」だったんですね。

15日でも満月ではなく、月齢14日弱で、満月になるのは10月6日のようです。
なぜ旧暦と月齢がずれるのかについては、国立天文台のこちらのページをどうぞ。→「中秋の名月

新暦8月15日と言えば終戦の日ですが、「旧8月15日」で思い出すのは霊界物語の天祥地瑞(第73~81巻)の口述開始です。
今から84年前の、昭和8年(1933年)旧8月15日に天祥地瑞の口述が始まり、翌9年の新8月15日(旧7月6日)に最後の第81巻の口述を終えました。

…神務は年を逐ひますます繁忙となり、口述の寸暇を見出す能はざりしが、非常時日本の状態に鑑み、一切の雑事を放棄し、いよいよ昭和八年十月四日(旧暦八月十五日)の仲秋の吉日を卜し、庚(かのえ)の巻 天祥地瑞と命名して口述する事とはなりぬ。
〔第73巻序文〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm730001

そうです、84年前の旧8月15日は、奇しくも今年と同じく新暦10月4日だったのです。
(ちなみに来年の新8月15日は旧7月6日ではなく7月5日になります)

引用文に「庚(かのえ)の巻」と書いてましたが、庚は干支の7番目(甲・乙・丙・丁・戊・己・・辛・壬・癸)ですので、霊界物語の1輯12巻の7輯目(霊主体従、如意宝珠、海洋万里、舎身活躍、真善美愛、山河草木、天祥地瑞)という意味だと思います。

時代は、満州事変(昭和6年)、満州建国(昭和7年)、国際連盟脱退(昭和8年3月)と道なき道を突き進み、まさに「非常時日本」でした。

今となっては、あの時代は坂道を転げ落ちて行ったと評価されますが、しかし当時はイケイケの時代であり、今の北朝鮮のように国威を発揚させ、国粋主義を花開かせて行った希望の時代でした。

現代日本もある意味では「非常時」ですね。

伝記地図(3)綾部の詳細

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年10月02日

王仁三郎の伝記によく出て来る地名地図の綾部編です。
正確な位置ではなく、おおまかな位置です。

綾部の地図

本宮山(ほんぐうやま)」は大本の聖地の御神体山です。

右上の「上谷(うえだに)」は、幽斎修行場があったところで、第37巻第24~25章などに出て来ます。

 ○霊界物語 第37巻第24章~25章
 ○大地の母 第6巻 上谷修行場

もともとは別のところで修行をしており、第24章には「本町の中村竹造氏の宅」から「本宮の東四つ辻、元金光教の広前」に移り、そして「神界へ伺つた上、猿田彦神の御神勅で山家村(やまがむら)の鷹栖(たかのす)へ修行場を移転する事となつた」と書いてあります。
その「鷹栖」は、上谷の下(南)にあります。
鷹栖の後、上谷に修行場が移りました。

次の地図は大正時代の綾部近辺の地図です。(大正15年発行『何鹿郡誌』収録の地図)

綾部近辺の地図(大正時代)

鷹栖は山家村に、上谷は西八田村に属しています。
昭和25年(1950年)に、綾部町と西八田村、山家村など何鹿郡(いかるがぐん)の町村がが合併して、綾部市が誕生しました。(ウィキペディア

次は、綾部の中心部の地図です。

綾部中心部の地図

出口ナオがもともと住んでいたところは、「元屋敷」と書いてあるところです。五女の出口澄子さんもそこで生まれました。

しかしその家は、長女のお米(よね)さんの夫・大槻鹿造によって売り払われてしまいました。
ナオが神懸かりになり、「世界のことをみて改心いたさねば、どこへ飛び火がいたそうも知れんぞよ」と、艮の金神さんのメッセージを叫んでいたので、この「飛び火」という言葉から放火犯と間違われて警察に捕まってしまったのです。
真犯人は捕まりましたが、ナオは精神異常と見なされ、大槻鹿造の家の座敷牢に閉じ込められてしまいました。
その後、大槻鹿造がナオに無断で家や家財道具を売り払ってしまったのです。

その大槻鹿造の家があったのが「西町(にしまち)」です。
北西町と南西町があり、大槻宅は北西町にあったようです。

 ○大本七十年史 上巻 放火の嫌疑四〇日の座敷牢
 ○大地の母 第4巻 座敷牢

上田喜三郎が出口ナオと初めて面会した頃、ナオが住んでいたのは「裏町」です。貧しかったので、狭い土蔵の二階を借りて神様を祀っていました。

その後、明治32年(1899年)7月に、「本町」の中村竹蔵を家を借りて、金明会の広前にし、裏町の土蔵から引っ越しました。
その遷座祭の説きに、祭典用に注文した提灯が届けられると、九曜の紋を指定していたはずなのに、間違って十曜の紋になって作られていたのです。それから大本の神文は十曜の紋と定まりました。

 ○大本七十年史 上巻 十曜の神紋

裏町は現在は住所としては残っていないようです。出口和明『大地の母』には、裏町は現在の若竹町とも若松町とも書いてあります。(第4巻第5巻
若竹町も若松町も隣接しているので、昔はその辺り一帯が裏町だったのかも知れません。(地図にマークしてあります)

並松(なんまつ)」は、霊界物語の口述を始めた松雲閣(しょううんかく)という建物があったところです。現在その場所は「現長(げんちょう)」という名の料亭があります。

伝記地図(2)亀岡の詳細

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年09月29日

王仁三郎の伝記によく出て来そうな主な地名を地図にプロットしてみました。
正確な位置かどうか分かりませんが、本を読むときの参考にして下さい。

亀岡の地図


この地図の一番左側「葦野山峠(あしのやまとうげ)」は、第37巻第9章「牛の糞」で、幽斎修業者の斎藤宇一が、喜楽(喜三郎)に懸かった大霜天狗に騙されて、財布だと思って牛の糞を掴まされたエピソードに出て来ます。「葦野山峠を二町(約200m)ばかり西へ下りかけた所の道端」に十万円入った財布が落ちていると騙されたのですが、その葦野山峠がある道は現在は整備されていて、どこが峠なのか分からないので、適当な位置にプロットしています。だから「?」マーク付きです。

この道は今は「湯の花温泉街」として多数の温泉旅館が建ち、栄えています。(『大地の母』では「芦の山峠」と表記)

 ○第37巻第9章「牛の糞」
 ○大地の母 第5巻 「売僧の詐術
 ○湯の花温泉公式サイト


そのずっと下(南)の方に「法貴谷(ほうきだに)」とありますが、ここは第37巻第12章「邪神憑」で喜楽が、小谷重吉という稲利下げに「サア法貴谷へ修行に行きませう」と誘われた場所です。

また、天恩郷に大安石(たいあんせき)と小安石(しょうあんせき)という病治しの岩石がありますが、『水鏡』によると、この岩石は法貴谷にあったとのこと。

ここには、明智光秀が摂津・播磨へ進軍する途中、峠を越えずにここで引き返し本能寺へ向かったという「明智戻り岩」と呼ばれる岩があり、ちょっとした観光名所になっているようです。

 ○第37巻第12章「邪神憑」
 ○水鏡「大安石と小安石」

法貴谷の地図


亀岡地図の中央あたり、高速道路が通るところに「硫黄谷(いおうだに)」とあります。その右下には「鍬山(くわやま)神社」「矢田(やだ)の滝」とあります。
ここは第37巻第10章「矢田の滝」で、松岡仙人が喜楽に懸かり「喜楽の肉体を自由自在に操つて、足早に硫黄谷を越え、大池の畔を伝うて、亀岡の産土 矢田神社の奥の谷に導き水行を命じた。そして一週間の間毎夜この滝に通ふ事を肉体に厳命した」という場所です。
「硫黄谷」は一般には「医王谷」と、「矢田神社」は一般には「鍬山神社」と呼ばれています。(霊界物語では硫黄谷、大地の母では医王谷と表記)

穴太の産土は開化天皇を祭る小幡神社ですが、鍬山神社が「亀岡の産土」というのは、当時の亀岡町の産土という意味です。昭和30年(1955年)に亀岡町と、穴太が属する曽我部村等が合併して亀岡市が発足しました(ウィキペディア)。だからそれまでは亀岡と穴太(曽我部村)は全く別の地域だったわけです。今は「亀岡の一地域としての穴太」というような認識ですけどね。

鍬山神社の奥に「矢田の滝」があります。

矢田の滝
『大本七十年史 上』p153 矢田の滝の写真

現在の滝と鍬山神社は、こちらのサイトにどなたかが撮った写真があるので参考にして下さい。→「銀鈴の滝 落差20m 2012年8月
一般には「矢田の滝」ではなく「銀鈴の滝」と呼ばれているようです。

現在の地図では、高速道路「京都縦貫自動車道」(沓掛IC~亀岡IC間は1988年開通)が出来たりして、少々地形が変わっていると思うので、昔の地図を見てみましょう。
Googleマップを使って過去の地形図や空中写真を見る」というページにある明治時代の地図です(国土地理院の地図を使用したもの)。
明治何年かは不明ですが、明治32年(1899年)に開業した亀岡駅も載っているのでそれ以降の地図です。

明治時代の亀岡の地図1

地図には山の東側に「医王谷」と地名が書いてありますが、この地形図を見ると、現在、高速道路が通っている部分全体が谷になっているので、その部分全体が「医王谷」だったのではないかと思いますよ。
霊界物語に「追々進んで硫黄谷の大池の側へ来て見ると」(第37巻第10章)と書いてあるんですが、この「硫黄谷の大池」というのは、現代の地図に「中山池」と表示してある池のことだと思います。だからこの谷になっている部分全域が硫黄谷だったのではないかと思います。
ということで、現代の地図の方にはそこ全域を医王谷として黄色マーク付けています。

追々進んで硫黄谷の大池の側へ来て見ると、周囲(まわり)一里(4キロメートルだが地図を見る限りでは1キロくらいしかない)もあると云われている山間の大池の中に二~三丈(6~9メートル!)ばかりあろうと思わる背の高い、それに恰好した太さの、赤い丸顔の男が深い池水に腰あたりまでつけて、バサリバサリと自分の方を向いて歩んで来るように見える。
第37巻第10章

と、恐ろしい化け物が出たことが書いてありますが「進撃の巨人」のような化け物でしょうか(^_^;

ちなみに池の畔(東の方)には現在、出雲大社の京都分院が建っています(公式サイトウィキペディア)。しかし平成5年(1993年)に造営されたもので明治期にはありませんでした。

硫黄谷の北側にある安行山(あんぎょうさん)は西山とも稲荷山とも呼ばれていますが、山頂には「磐栄稲荷宮(いわさかいなりぐう)」と、安倍晴明を祭る「晴明神社」があります。
晴明神社は昭和に創建されたものですが、磐栄稲荷は古い神社で、伏見の稲荷大社はここから遷座したと伝えられ、「元稲荷」とも呼ばれる神社です。
こちらのサイトに写真があるので参考にして下さい。→「丹波の神社」、「わが猫とカメラマンさん」)

この山は「平和台公園」になっており、山頂には展望台があり、亀岡の市街地が一望できます。
下の写真は2008年9月に撮影したものです。無理やり合わせてパノラマにしてみました。

亀岡市街地 安行山頂の展望台から


硫黄谷のずっと上(北)の方に「余部(あまるべ)」という地域があります。
そこには賭場があって、若者たちがバクチに引き込まれ、喜三郎のすぐ下の弟の由松(よしまつ)もそこの常連で散々金を吸い上げられました。

 ○霊界物語 第37巻第2章「葱節」
 ○大地の母 第2巻 三大学則

また、太元(たいげん)教会という新興宗教(町の神様という程度ですが)があり、高島ふみという女性にキツネが懸かり、霊能を売り物にして信者を集めていたのですが、その舞台裏を知った喜楽は、その霊能がイカサマだということを知り、「おかしいやら馬鹿らしいやら、にわかに信仰がさめてしまい、それから三十一年の二月、二十八歳になるまで、神様に手を合わすのがいやになり、極端な無神論者になってしまったのである」というエピソードが霊界物語に書いてあります。

 ○霊界物語 第37巻第16章「四郎狸」~第17章「狐の尾」
 ○大地の母 第2巻 穴太精乳館

この余部から、左(西)に真っ直ぐ延びる道があります。田畑の中を通っている道路です。
その先をずっとたどると、稗田野(ひえだの)神社の前を通ります。この神社は延喜式内の古社で、古事記の編纂者・稗田阿礼を摂社に祀っています。
実際に祀られたのは最近ですが(→「御鎮座壱千参百年を来年に迎えて(20.9.24)」)、稗田阿礼が幼少時から青年期にかけてこの地に住んでいたという伝説があるそうです。

この東西にほぼ一直線に延びる道が、古代の山陰道です。以前にブログに書きました→「王仁三郎の生地・穴太と、古代山陰道

今の山陰道は国道9号線で、大井川(桂川)沿いを北上していますが、古代はこんなところを通っていたのです。
この道は明治期は「篠山(ささやま)街道」と呼ばれていましたが、1970年代に国道372号線が、その少し南側に整備され、今はそちらが篠山街道です。この旧道は府道になっています。

下の地図は明治時代の地図ですが、この道がこの地域の幹線道路になっているのが分かります。
はるか古代は、この道が丹波国の幹線道路だったのです。
この道を通って丹後半島の比沼麻奈為神社から伊勢に豊受大神が遷座し、その途中で穴太の上田家の庭に泊まったわけです。(玉鏡「瑞穂神霊」

明治時代の亀岡の地図1

伝記地図(1)亀岡~綾部の概観

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年09月28日

出口王仁三郎の伝記によく出て来る地名がどの辺りにあるのか、地図にプロットしてみました。

霊界物語第37~38巻は王仁三郎の前半生の自叙伝になっており、現在メルマガの方に「王仁三郎の人生から教訓を得よう」ということでその第37~38巻を元に連載しているのですが、その自叙伝をよく理解するために、地図を作ってみた次第です。
前回の「西は半国 東は愛宕 南妙見 北帝釈……の帝釈とは?」も同様の意図です。

さて、まずは亀岡~綾部の間の概観です。(クリックすると大きな画像が開きます)

亀岡~綾部の概観

王仁三郎の郷里「穴太(あなお)」の北の方にある「八木(やぎ)」は、出口ナオの三女・久子が住んでいた場所で、王仁三郎と久子が邂逅した「虎天堰(とらてんいね)」と呼ぶ大きな堰(いせき)があります。(写真

 ○霊界物語 第37巻第21章「参綾」(虎天関と書いてあります)
 ○大地の母 第5巻 開祖初会(寅天堰と書いてあります)

八木の北西にある「園部(そのべ)」は、王仁三郎のいとこで獣医の井上直吉が住んでおり、王仁三郎が22~3歳の頃(明治26~7年)井上の書生となって獣医学を学んでいました。仕事をしていた牧場のすぐ隣りに南陽寺というお寺があり、そこに逗留していた国学者・岡田惟平から和歌の道や歌祭りを学んだ重要な場所です。

 ○本教創世記 第一章
 ○飯塚弘明.com 「王仁三郎の和歌の師匠・岡田惟平の略歴

ずっっと飛んで、綾部の西の福知山は、出口ナオが生まれた所です。16歳(数え年だと17歳)で綾部の叔母の養女となり移住しました。

その上(北)の元伊勢内宮皇大神社は、明治34年(1901年)に「元伊勢お水の御用」と呼ばれる御神業が行われた場所です。

 ○霊界物語 第38巻第20章「元伊勢」

丹波地方には元伊勢以外に元出雲もあります。亀岡市内の「出雲大神宮」です。
王仁三郎において出雲は重要な地ですが、しかし出雲大神宮(当時は出雲神社と称していた)の話は全く出て来ません。参拝したという記録はあるのですが。
丹波国一宮で有名な神社なはずですけど、王仁三郎の宗教思想上はそれほど重要ではないようです。

桂川と由良川

亀岡市内も綾部市内も、かなり幅の広い川が流れています。
亀岡の方は桂川(かつらがわ)、綾部の方は由良川(ゆらがわ)です。
電車(山陰線)に乗っていると、亀岡近辺でも綾部近辺でも川が見えるので、同じ川なのかなと思ってしまうのですが、全く別の川です。

上の地図ではよく見えませんが、桂川は亀岡市内から京都市内を通り、南下して、鴨川や宇治川や木津川と合流して淀川と名を変え、大阪湾(瀬戸内海)に注ぎます。

由良川は、福知山市内で向きを変え、国道175号線沿いに北上して、舞鶴湾(日本海)に注ぎます。

川は地域によって名前を変えますが、桂川は亀岡市内では「大井川(おおいがわ)」、愛宕山の麓では「保津川(ほづがわ)」、京都の嵐山を通り、「桂川」となります。
しかし名前が変わると不便な面もあるので、現在は行政上は「桂川」に統一しているようです。だから地図上も桂川です。
現在地元では何と呼ばれているのかは分かりませんが、王仁三郎の文献では亀岡市内は「大井川」とか「大堰川」と書かれています。

一方、由良川は、上流部分は(和知の辺りから)「和知川(わちがわ)」と呼びます。
これも現在行政上は「由良川」に統一しているようです。
王仁三郎文献では「由良川」と「和知川」は併用されています。どう使い分けているのかは不明です。
たとえば霊界物語第2巻序では、川沿いに建つ松雲閣(しょううんかく)での口述風景として

二十四年間心に秘めたる霊界の消息も、いよいよ開く時津風(略)夢かうつつか幻か、神のしらせか、白瀬川、下は音無瀬由良の川和知川、上林川の清流静かに流れ、その中央の小雲川、並木の老松川の辺に影を浸して立ならぶ、流れも清く、風清く、本宮山の麓なる、並松に、新に建ちし松雲閣書斎の間にて五人連れ、口から語る、筆を執る、五人が活気凛々として、神示のままを口述発表することとなつたのであります。
第2巻序

というように、由良川と和知川が別々の川のように書かれています。
和知川が由良川に流れ込んでいる…というような認識でしょうか?

さて、桂川と由良川の源流なんですが、調べてみて驚きました。
同じ所から発しているのです。
桂川の(主な)源流は佐々里峠、由良川の(主な)源流は杉尾峠なんですが、上の地図の、右の方に赤い色でプロットした場所です。

 ○桂川(国土交通省)、桂川(ウィキペディア)
 ○由良川(国土交通省)由良川(ウィキペディア)

桂川は佐々里峠から「宇津(うづ)」を通り、「園部」を通って、亀岡へ流れて行きます。
由良川は杉尾峠から「和知」を通って、綾部へ流れて行きます。

この二つの峠の間は8キロほどしか離れていません。
雨雲さんから見たら同じ場所だと言ってもいいでしょう。
この山地に降り注いだ雨は、佐々里峠という分水嶺の、南に落ちた雨水は桂川となって亀岡を通り、大阪湾(瀬戸内海、太平洋)へと流れて行き、北に落ちた雨水は由良川となって綾部を通り舞鶴湾(日本海)へと流れて行くのです。
また杉尾峠という分水嶺の南に落ちた雨水は由良川となり、北に落ちた雨水は南川(みなみがわ)という名の川となって小浜湾(日本海)へ流れて行きます。
地図にプロットして初めて気が付きました。同じ所に降った雨が、桂川と由良川になっていたのです。