三鏡解説020 私と仕事

投稿:2020年09月17日

●水鏡「私と仕事」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg020

 私は常に何か仕事をしておらねば苦しくって仕方がない。手を動かすか、足を動かすか、口を動かすかしておらねばならぬ。この働くことを止めると、神様は直ぐ私を他の方面にお使いになる。即ち方々から祈りと、助けを呼ぶ声が聞こえて来る。そうなると体が苦しくって仕方がなくなる。

 私は口癖のように、えらいえらい(注・苦しいの意)と言うが、医師が見ると、どこも悪くないと言う。けれど私は実際苦しいのである。仕事をしていればその苦しさは取れてしまっているから、私はちょっとも手をやすめずに仕事をしているのだ。

 仕事をして全く疲れ果て、床に横たわると直ぐ寝るようにせねば、私は苦しくてかなわぬ。それだから停車場で汽車の来るまで長く待たされたり、写真を撮るとき暇をかけられたりすることは、私に取って一番つらいことである。

 方々から招待せられることもつらい、私は御馳走も何もちっとも欲しくはないのだ。招待してくれる人の好意は受けるが、前言う通り、暇ができると神様の方で直ぐ私の体をその方に使われるのであるから、じっとしてお膳の前に長い時間座らせられるのはどのくらい苦しいか分からぬ。

 私の身体(からだ)は他人(ひと)のとは違い、他人の楽なときが苦しく、苦しいときが楽なのである。

 山海の珍味で私を慰めてくれるつもりで、私を招待してくれることは、実は私を苦しめることだ。それよりも楽焼(らくやき)をひねっている(注・茶碗などの陶器作りのことで、大正15年2月から始めた)方が、どのくらい嬉しいか分からぬ。

 神様は一分間も私の体を無駄にはお使いにならぬのだから。たとえば裁判所などへ行っても(注・大正10年の第一次大本事件の裁判のことで、昭和2年まで続いた)、尋問を受けとる間は少しも苦しくないが、待たされるとつらい。

 どうか皆が私のこの天職を理解して、嫁娶(よめとり)だ、婿貰いだ、なに祭りだ、かに祭りだと、いろんなことに引っ張り出してくれぬと、私は本当に助かるのだ。

 二代(注・二代教主の出口澄子)は、せっかくあなたに来ていただこうと思っておるのだから、行ってお上げなさいと言う。私はそう言われると気の毒になって、行くには行くけれど、その苦しさは、皆の想像外である。

 私は今までに楽な日がたった二日あった。そのときは体が軽くて、気持ちがよくて、こんな楽なものならば長生きがしてみたいと思った。綾部へ帰って聞いたら、その二日間、二代がたいそう体が悪くて、ひどく苦しんでいたということだ。

 私は仕事をしている以外は苦しくてしょうがないから、早く昇天したいと思っている。長命したいなと思ったことはない。

 また私は神様からこんなことを聞いている。「お前が国替(くにがえ)(注・死んで霊界へ帰ること)したら、後のものがよほど注意して死骸を守っていないと、悪魔が取って行ってしまう」と。それだけ悪魔は私を憎んでおるのだ。

初出:『神の国』大正15年(1926年)6月号か8月号

早く昇天したい、長生きしたくない…というのは衝撃的な発言ですが、しかしそれだけ王仁三郎は苦しかったのでしょう。

しゃべったり、体を動かしたりしていないと、あちこちから祈りの声や助けを呼ぶ声が聞こえてくるというのですから、たいへんな毎日です。

「神様は一分間も私の体を無駄にはお使いにならぬのだから」と言っていますが、それに関連して、月鏡に次のような発言が載っています。

●月鏡「碁盤を買うた」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg350

(略)私には時間が大切である。碁(ご)を打って楽しむようなときは少しもない。ときに他の人の二~三時間が私にとっては二~三年に相当することがある。私には神様から仰せつかっている経綸というものがあるので、ほんの二~三時間ですからと他の人は言うが、その二~三時間の間に流星光底長蛇(りゅうせいこうていちょうだ)を逸(いっ)す(注・せっかくのチャンスを逃すの意)の悔いを招いて神様に申し訳のないことができると、私はほんとうに苦しい。

 そりゃ比較的ゆっくりした時間をたまに持つときもあるけれど……だから私はいつも思う。私の行動だけは、私の自由意志に任して欲しいと。

 皆さん方が好意をもって方々へ案内して下さるその誠心(まごころ)は全く嬉しいけれど、実のことを言えば、吉野の桜も、耶馬渓(やばけい)の勝(しょう)も私はいながらにして、霊眼で見ている方が楽なのである。それでもみんなは見たかろうと思って……。(略)

補足説明すると、地方に巡教に行くと、聖師様が見たかろうと思って信徒が景勝地に案内してくれるわけです。しかし神様の御用が忙しいし、他人が楽だと思う時が苦しいので、有り難迷惑だというわけです。

しかしせっかく案内してくれるというのだから、行けば信徒が喜ぶだろうと思って、苦しみながらも行ってしまうのでしょう。そんな王仁三郎の姿が目に浮かびます。


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