喜三郎の修業 (17) 排除しない「言向け和す」の精神

投稿:2020年05月11日

喜三郎が初めて参綾して出口ナオに面会した時、高熊山修業の際に霊界で見た「幽庁の大王」の顔を思い出した…ということが霊界物語第1巻に書かれています。

幽庁の大王というのは、俗に言う閻魔大王のことで、その正体は艮の金神(国祖・国常立尊)です。
その顔と出口ナオの顔がよく似ていたというのです。

閻魔大王というと恐ろしい形相というイメージがあります。しかしそれは、心に後ろめたいことを抱えている人が見た場合に、そのように見えるのであって、誠の心を持っている人が見た場合には、温和で慈愛に満ちた容貌をしているというのです。

引用してみます。

…今までの恐ろしき形相は跡形もなく変わらせたまいて、また元の温和にして慈愛に富める、美(うる)わしき御面貌に返っておられた。
神諭に、

『因縁ありて、昔から鬼神(おにがみ)と言われた、艮の金神のそのままの御魂(みたま)であるから、改心のできた、誠の人民が前へ参りたら、結構な、いうに言われぬ、優しき神であれども、ちょっとでも、心に身欲(みよく)がありたり、慢神(まんしん)いたしたり、思惑がありたり、神に敵対心(てきたいごころ)のある人民が、そばへ出て参りたら、すぐに相好(そうごう)は変わりて、鬼か、大蛇(おろち)のようになる恐い身魂(みたま)であるぞよ』

と示されてあるのを初めて拝したときは、どうしても、今度の冥界にきたりて大王に対面したときの光景を、思い出さずにはおられなかった。

また教祖(注・出口ナオのこと)をはじめて拝顔したときに、その優美にして温和、かつ慈愛に富める御面貌を見て、大王の御顔を思い出さずにはおられなかった。

〔第1巻第7章「幽庁の審判」〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0107#a069

心の持ち方一つで、神の姿も、この世界の見え方も、違って来るのです。
この世は地獄だと思っている人には、ミロクの世は永遠に訪れません。

さて、この当時(明治31年)の大本は、金光教(こんこうきょう)の傘下にありました。

金光教は安政6年(1859年)に岡山県で誕生した新宗教で、やはり金神系です。
https://kotobank.jp/word/%E9%87%91%E5%85%89%E6%95%99-67177

出口ナオに艮の金神が懸かった明治25年(1892年)は、すでに開教してから33年経っており、それなりに教勢も拡大して、丹波地方にも教会がいくつか出来ていました。

ナオは神懸かりになったとはいえ、宗教に関して特別な知識も技術もありませんでしたから、神様を祭るにしてもどうしたらいいのか分からなかったでしょう。
それにそもそも現代のように信仰の自由だの、結社の自由だのが不十分な時代だったので、宗教活動をするにはどこか公認された教団の傘下に入らなくてはいけなかったのです。

出口ナオの三女・福島久子が、ナオより二年早く明治23年に神懸かりになっており、金光教に祈祷してもらったのをきっかけに、久子夫婦は金光教の信者になっていました。
そういう縁もあって、ナオは金光教の世話になったのです。

最初は、亀岡の金光教会から奥村という布教師が、次いで京都の教会から足立という布教師が綾部にやって来ました。

ナオの周りには病気直しなどで信者が集まって来ました。
当局の目が光っているため独立して活動は出来ず、それら金光教の布教師の下で宗教活動をしていたのですが、足立の方では、金光教の布教のためにナオを利用するだけで、その懸かっている神「艮の金神」のことは重視しませんでした。
ナオは艮の金神を世に出したいのですが、金光教の下で活動していたら、それは望めませんでした。
そこへ、この神を表に出す人と筆先で予言されていた人物が現れたのです。
それが上田喜三郎、後の出口王仁三郎です。

そういうわけなので、喜三郎は出口ナオが待望していた人だったのですが、しかしその周りの役員信者らにとっては、あまり望んでいない人でした。

年が若いし、よそ者ですし。
喜三郎が綾部に来る6年前から、出口ナオの周りで活動していた人たちにとっては、喜三郎は新参者です。新米の若造に活動の主導権を取られてはたまりません。

人が集まるところには様々な利権が発生します。
お金も得られるし、地位や名誉も得られます。
一度握った利権はなかなか手放せないことでしょう。

喜三郎が最初に参綾した時(明治31年10月8日)は、足立を始め幹部らに反対運動をされ、時期未だ至らずと、2~3日滞在しただけで綾部を去り、園部で宗教活動をしていました。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3721#a043

翌年、綾部からナオの使者がやって来て、喜三郎は大本入りする決心をし、綾部に移住したのです。(明治32年7月3日)
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3721#a230

喜三郎は金明会(きんめいかい)という団体を組織して、幽斎修業などに取り組み出しました。

しかしその時でもまだ足立らは喜三郎に反対し、妨害活動を続けていました。
やがて足立らは劣勢となり、足立の周りには信者が誰もいなくなってしまいました。信者は喜三郎の金明会の方に寄りつくようになったのです。

そうすると足立は我を折って「改心するから金明会に入れてくれ」と頭を下げてきました。
しかし金明会の役員会では、足立を入れないことに決めます。

…足立氏が尾を振って来たのは、心のうちから金明会へ心従しているのではない。老母や子供がたちまち糊口(ここう)に窮する(注・つまり生活に困る)ところから、一時の窮策として表面心従したと見せかけ、時機を見て金明会を転覆させ、喜楽先生を放り出す計略なる事は、今までの足立氏の行動に徴して明白だから、今度のいい機会を幸いに一切の関係を絶つ方が上分別だと、今まで同氏の熱心な教養をうけたものさえ、極力排斥を主張するようになって来た。

喜楽は足立氏の境遇を憐れみ、かつ、また今まで金光教を信じていた役員や信者の人情の浮薄冷酷なるに呆れ果て、

『(略)こんな薄情な人間のところへおってはとうてい駄目だ。自分さえここを立ち去ったならば足立氏親子の困難は除かれるだろう。世人の困難を救うべき神の取次(とりつぎ)が人を困らせてはならない』

と思ったから、四方氏を始め重なる役員に向かい、

上田『私がここへ来たために、足立氏親子が困難を来たすべき結果を生じたのだから、私は同氏に対して済まないから今日から帰ります。どうぞ足立氏と仲良うして神様の御用をして下さい』

と申し込んだ。
そこで数多の役員は大いに狼狽(ろうばい)し、鳩首(きゅうしゅ)謀議の結果、

『足立氏の処置については上田先生に一任しますから、ぜひとも教祖様のそばに居て、大本の宣伝に力を尽くして下され』
と異口同音に頼み込む。

そこで喜楽は足立氏を金明会の副会長に任じ、金明会の名のもとに仲良く神務に奉仕する事となった。
出口教祖も足立氏の身の上につき心ひそかに非常な心痛をしておられたが、喜楽の同情ある処置に対し、非常に安心をしたと云って感謝せられた。
足立氏は大変に喜び、役員信者も喜楽の赤誠(せきせい)に感じ、直ちに今までの態度を改め、教祖に次いで喜楽を師匠と尊敬し出した。

一時は大争乱が勃発しそうの模様のあった金光教対金明会も、ここに円満な解決が出来て、双方とも心持ちよく勇んで和合のうちに神様の御用に尽くす事を得たのである。

〔第37巻第21章 後半〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3721#a299

何と喜三郎は、自分を追い出そうとした足立を、立場が逆転したからといって追い出し返さずに、仲間に入れてしまったのです。

仕返しをせずに、排除しなかったのです。

これはまだ王仁三郎が三十歳前の時のエピソードですが、こんなところにも「言向け和す」の精神が顕れています。

足立はお金のため、生活のために宗教活動をしていたのですが、しかしそんな彼が開教間もない大本を支えて来たことも事実です。
そういう功労者を、敵対するからといって追い出さずに、手元に置いて仲間にしてしまうなんて、まさしく「言向け和す」です。

その喜三郎の慈愛に満ちた精神に他の人たちも感じ入って、それまでの態度を改め、対立が解消されて和合することが出来たのです。

そして喜三郎の株も上がり、ただの若造ではなく、尊敬される人物になったわけです。

しかしそれで、めでたしめでたしではありません。
それは一時的な平和に過ぎず、再び嵐が吹き荒れ出すのです。

(続く)


この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2017年11月16日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック