喜三郎の修業 (11) 易者の予言

投稿:2020年04月20日

喜三郎(霊界物語の中では「喜楽」)は松岡天使の命令により、一人で大阪へ出向き、宣教することになりました。具体的な月日は不明ですが、明治31年(1898年)の旧3月のことです。

およそ2週間の大阪滞在中に体験した色々なエピソードが第37巻の第13~14章に書いてあります。

   ☆   ☆   ☆

●人力車に乗ったらぼったくられた
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3713#a025

大阪で喜三郎は人力車に乗り、車夫に「空心町(くうしんまち)の斎藤佐一という餅屋」へ行ってくれと行き先を告げました。
斎藤佐一は穴太の喜三郎の自宅の隣りに住んでいた人で、今は大阪で餅屋を出していたのです。そこを訪ねようと思い、地理がよく分からないため人力車に乗ったのです。
しかし人力車は町中を一回りした挙げ句、乗った場所の近くで喜三郎を降ろして、料金を請求しました。
目的地は乗った場所の近くだったんですが、喜三郎が田舎者で大阪の地理に疎いと見てとった車夫は、遠回りして高い料金を請求したのでした。

今でもよその国では、外人旅行客を相手にぼったくるタクシードライバーがいるようですが、日本にも昔はいたのです。

●旅館に有り金のほとんどを巻き上げられた
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3713#a105

喜三郎は同郷の斎藤佐一の餅屋に寄った後、斎藤に紹介された旅館に入りました。
この「玉屋」という旅館に二週間ほど滞在しながら、宣教のため町に出かけていたのですが、番頭が「お金を盗まれると大変だから私が預かる」と言うので持っているお金を預けました。

喜三郎は旅費として50円を調達して大阪に来ました。
そのうちの40円を番頭に預けたのです。
すると二週間後に、預けていた40円のうち39円20銭を宿泊料として請求されました。
一泊2円80銭になる計算ですが、以前に田舎で泊まった時は一泊25銭だったので、高額な請求に驚きました。

仮に現代のビジネスホテルに置き換えると、地方だと一泊素泊まりで4000円くらいでしょうか。2円80銭だと、現代なら一泊4万5千円くらいの高級ホテルのような感覚だと思います。
喜三郎が田舎者で無智だと思い、番頭は大金を請求したのでした。

しかもこのお金は家屋敷を抵当に入れて借りたお金でした。
それを巻き上げられてしまったのです。
滞在費用が無くなってしまい、喜三郎は大阪を離れて帰郷する羽目になりました。

   ☆   ☆   ☆

この2つのエピソードは、特に宗教に関係があるわけではありませんが、田舎しか知らない喜三郎にとって、人間の欲望が渦巻く都会の恐ろしさを知る良い体験だったに違いありません。
郷里の穴太でも、荒んだ人々に色々と圧迫を受けて来たわけですが、「世界を救う」という使命を持っている以上は、もっと酷い世界の実情を知る必要があります。
その第一歩となる修業だったと思います。

しかし松岡天使はそんな体験をさせるためだけに、わざわざ大阪に行かせたわけではありません。
神の教えを宣伝するために行かせたのです。
しかしそれも上手く行かず成果を出せないまま、軍資金がなくなって帰郷する羽目になってしまったのです。

松岡天使が喜三郎を大阪に行かせた真の目的は、おそらく次のエピソードの中に顕れていると思います。

   ☆   ☆   ☆

●易者に未来を予言される
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3713#a191

帰郷する前に大阪に別れを告げるため、北区の天満天神(大阪天満宮)
http://www.tenjinsan.com/
に参拝したところ、境内で営業していた「小林 勇(こばやし いさむ)」という名の易者が、頼んでもいないのに喜三郎を占い出しました。そして
「大阪で神様の教えを宣伝するのは未だ時機が早い。一時も早く丹波に帰りなさい。そして十年ばかり修業を積んでから大阪で宣教すればきっと成功する」
と熱心に告げました。

そして易者は
「これから丹波に帰って十年間の艱難辛苦が訪れるが、これも神様のため、世の中のためだから辛抱しなさい」
と言います。

この易者の言葉を聞いて、喜三郎は高熊山修業の時に松岡天使から受けた教示(神示)を思い出しました。

『澆季(ぎょうき)末法に傾いた邪神の荒ぶ今の時に当たって、お前は至粋至純なる惟神の大道を研究し、身魂を清め、立派な宣伝使となって世界に向かい、神道のラッパを吹き立て、世界を覚醒せなくてはならぬぞよ。

今において惟神の大道を宣伝し、世界の目を醒ますものが無ければ、今日の社会を維持する事は出来ない。ひいては世界の破滅を招来する事は鏡にかけて見るようだ。

お前はこれから神の僕(しもべ)となって、暗黒世界の光となり、冷酷な社会の温味(ぬくみ)となり、腐りきった身魂を救い清める塩となり、身魂の病を癒やす薬ともなり(略)

この大任を完成せんとするは、なかなか容易な事業ではない。今後十年の間はその方は研究の時期である。その間に起こる所の艱難辛苦は非常なものだ。これを忍耐せなくては汝の使命を果たす事は出来ないぞ。

しばしば神の試しにも遭い、邪神の群に包囲され苦しむ事もあるであろう。
前途に当たって深い谷もあり、剣の山や、血の池地獄や、蛇の室(むろ)、蜂の室、暴風怒濤に苦しみ、一命の危うい事もしばしばあるであろう。(略)

さりながら少しも恐るるには及ばぬ。神様を力に誠を杖に猛進せよ。
いかなる災害に遭うとも決して退却してはならぬ。
何事もみな神の御経綸だと思え。
一時の失敗や艱難に出会うたために、神の道に遠ざかり心を変じてはならぬ。
五六七の神の御心を、生命の続く限り遵奉し、かつ世界へ拡充せよ。
神々は汝の身を照らし、汝の身辺に附き添うて、この使命を果たすべく守り玉うであろう。特に十年間は最も必要な修業時代だ』

http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3713#a247

この松岡天使から受けた教示と同じようなことを、大阪で易者から言われたのです。
喜三郎は思わず俯いて落涙しました。ふと顔を上げると、不思議なことに易者の姿は消え去り影も形もありません。
きっと彼は神の使者だったのでしょう。

松岡天使の教示は喜三郎の脳裏に深く刻まれていましたが、再度、易者に言われたことで、強く印象づけられたはずです。

高熊山修業からまだ二ヶ月ほどしか経っていませんが、これから大きな苦難に立ち向かわねばならないことを思い知らせ、それに挑むことを固く決意させるために、松岡天使は喜三郎を大阪に行かせたのではないかと思います。

「十年間」とありますが、実際にそれから十年間は役員信者に迫害されたり、京都で神主になる勉強をしたり、また教派神道の教会長をやったりして、修業・研鑽の時代でした。

十年後の明治41年(1908年)に「大日本修斎会」を設立し、初めて機関誌を出版し、大々的な宣教活動が始まるのです。

大阪で易者から言われたこの時、まだ喜三郎は(明治4年7月生まれとして)満年齢で26歳です。
エネルギーに満ち溢れている20~30歳代に、やりたいこともやれず、悶々とした毎日を送るというのは、とてもつらいことだったと思います。

30代の後半から、ようやくやりたいことがやれるようになって来たのです。
しかし大正10年(1921年)まではまだまだ仮の姿でして、あまりパッとしません。
王仁三郎がその正体を顕し、真価を発揮するのは大正10年の大本事件以降のことです。
年齢だと、50歳以降です。

私も振り返ってみると、ちょうどそのくらい年代(20代後半~30代前半)に、何をしたらいいのか分からず、出口の見えない真っ暗なトンネルの中を歩くような、悶々とした時期が十年間ありました。
あの時期は本当に苦しかったです。
平成15年(2003年)35歳の時に、霊界物語の電子化を開始して、ようやく少しずつ人生に光が見え始めたのです。
王仁三郎の人生に私の人生を重ね合わせるような畏れ多いことをする気はありませんが、私も今はもう50歳を超えています。
これから私も真価を発揮して五六七神政の御用に奉仕できるようになればと思います。

(続く)


この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2017年10月26日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック